紙上の人々・片影星羅   作:穢銀杏

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もし短所のみ見ば、世人はみな悪人なり。世の中がいやになるべし。材能ある人は、多く意地の悪きものなり。学問の出来る人に、心術の正しからざる者多く才のすぐれたる者は誠実なく、長所は即ち短所にして、人はさまざまなる者也。

(大町桂月)




才ある者よ

 

 脳髄の出来と品位の高下は必ずしも一致せぬ、いやいやむしろ、釣り合う方こそ珍しい。

 

 禍乱の因子(タネ)はいついつだとてそこ(・・)にある。才に恵まれ生まれ落ちると人間は、増上慢になりがちだ。あまりに容易く世界のすべてを見下して、「自分以外の誰も彼もが馬鹿に見えて仕方なくなる色眼鏡」を無自覚のまま装着(かけ)ちまう。周囲はむろん、本人にとっても不幸なことだ。

 

 なればこそ、脳髄の出来と品性と、それから身体能力までもが見事に一致した(おとこ)、嘉納治五郎は言ったのだろう、

 

 

「品性の伴はない才能は世に害をなす事が少なくないが、才能の伴はない品性は、よし大裨益をなす事がないにせよ、害を及ぼすことはないのである」

 

 

 と。

「一利を興すは一害を除くに若かず」にも、何処か通ずる訓戒だった。

 

 まあ、それはいい。

 

 品性を伴わぬ才能が世間を毒した例として、格好の人物を以下に引く。

 

 赤門の住人、東京帝国大学教授、横山又次郎である。

 

 本邦古生物学界への、彼の貢献は計り知れない。

 

 ナウマン博士の良き補佐役で、地質調査事業に纏わる基礎固めを全うし、また「恐竜」を筆頭に、古生物に関しての優れた和訳を数多遺した。かつて地球に跋扈した、それら巨獣の通俗的な紹介にも随分功を立てている。横山の働きなかりせば、怪獣王ゴジラとて誕生(うま)れていたかどうか怪しい。まさに偉業、不滅の、不朽の、絢爛たる名跡である。

 

 ところがだ。ひとたび視線を私生活へと移してみれば、こは如何に。腐敗と汚濁の沼である。

 

 

「牛込五軒町に住む帝国大学教授理学博士横山又次郎(44)は、大学時代より不品行此上なく、雇下婢を容れて妻となし子二人を生み、後余所の花に見替へて之を虐待せしかば、妻は嬰児を刺殺して自害せり」

 

 

 明治三十六年十月、日刊紙たる『日本』に掲載された記事だった。

 なんということであったろう。

 

 てめえから手を出した分際で、子供まで産ませておきながら、飽きたら途端に顧みず、余所の女に現を抜かし、空閨孤独を強いられて物に狂った女房は、とうとう子供を巻き添えに心中にまで至ったと。

 

 クズの所業としかいいようがない。どう見ても横山の所為だった。男としての責任感の欠如が招いた仕儀である。

 

「若気の至り」で寛恕され得る領域を完全に逸脱した事態。普通の神経の持ち主ならばここで当然の反省が起き、後を追って縊死するか、最低でも女遊びはキッパリ絶って身を慎もうとするだろう。

 

 が、横山は、そこがおかしい。

 もっとやった。

 記事は直後、こう(・・)続いている。

 

 

「洋行帰り以降は、ハイカラ一流の女色漁り、四谷の大谷木某の娘サダ子(32)を娶りて正妻としながら其病に罹りしを忌み、妻の妹リウ下女レンなどと通じ、終にサダ子を離縁せり」

 

 

 もはや呆れる以外ない。

 妻が病んだら夫はどうする、看病するだろ、常識的に考えて。

 

 それを貴様、放置どころか、その妹に桃色遊戯を挑むとは、いったいどういう料簡だ? 本当に人間か、人間の皮を被っただけの畜生か? 脳髄の冴えと引き換えに、人間性を悪魔にくれてやったのか?

 こんな奴には、

 

 

 ――妻妾並んで一屋に住まば、金殿玉楼も亦畜生小屋なり。

 

 

 福澤諭吉の金言を、百万遍でも書きとらせるべきなのだ。

 

 蓄積された歪みはやがて、当然の結末を惹起する。

 

 横山自身が血を流す日がついに来た。明治三十六年九月二十九日に於ける黄昏時のことである。

 その有り様を、再三『日本』に窺おう。

 

 

「サダ子は夫の家を出でて後下宿屋、或は他家に奉公し、只管謹みて覆水盆に回らんことを期望して居たりしが、博士は之を顧みざるのみならず、更に二妾を納れて之を寵し、あらゆる乱行底止する所を知らざるにぞ、流石のサダ子竟に忍びず、去二十九日の黄昏博士が大学よりの帰路を森川町の往来に要し、ナイフを飛ばして左肩部を傷けしが、博士がヘコタレ腰になりて鼠の如く逃げ去り、すぐ様警察署に駈け込み願を為せしため志を得ず、再昨日検事局送りとなれり」

 

 

 ナイフ片手に帰路を待ち伏せ襲いかかりはしたものの、肩口を浅く裂いたのみ。

 暗くて狙いがつけられなんだか、女に迷いがあったのか、それとも男の悪運が異様に強靭だったのか。

 

 いずれにせよ、だ。――あわれサダ子は日本のジーン・ロレットになり損ねたようである。

 

 ただまあ、しかし、この椿事により報道の目が横山博士の上に向き、二十年来の不行跡、爛れきった私生活が暴かれたというわけだから、あながち無為でもないだろう。

 

 横山又次郎の心臓が脈動するのを止めたのは、これより更に四十年弱、昭和十七年まで待たねばならない。

 

 憎まれっ子世に憚るとは、やはり真であるようだ。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 大正十四年である、東大生が鉄道自殺をやらかした。

 

 季節は盛夏、空の青さは嫌味なまでに濃く、深く。雲が層々と峰をなす、とても暑い日であった。

 

 苛烈な太陽光線が、散乱した血や臓物に容赦なく浴びせかけられる。湿度の高さも相俟って、たちまち蒸されるヒトの残骸。鉄路の上の悪臭は、形容不能な物凄さであったろう。清掃員の労苦たるや知るべしだ。

 

 懐からは案の定、遺書と思しき封筒が。

 

 そこまでは、まあ、珍しくない、予定調和といっていい。毎月何件かは起きる、典型的な鉄道往生の域を出ぬ。

 

 しかし、しかしだ。動機を探る目的で遺書を開いた時点から、にわかに流れが変化(かわ)りだす。

 

(なんじゃ、こりゃ)

 

 担当官は眼を剥いた。

 読めない。

 少なくとも即座には。

 全文、英語なのである。

 

 紙幅は数字とアルファベットでまんべんなく(うず)められ、仮名も漢字も一字たりとて、金輪際含まれぬ。

 

 意味を正確に把握(つか)むには、辞書を片手に慣用句やらニュアンス等に気を遣いつつ、じっくり訳してゆく以外にないだろう。さもなくば、専門家に頼むかだ。

 

 凄惨な現場を数多踏み、「死」には慣れっこな刑事さえ、

 

「……最近の若い連中は」

 

 何を考えているのやら、まったくさっぱり理解(わか)らない――と、定型句に逃げ込むしかないほどに、これは異様な遺書だった。

 

 実際問題、どんな意図が働いて、斯くの如きが出来たのか。

 

 末期の言葉、掛け値なし最終の意思表明に、祖国の言葉にあらずして、外国語を使うとは――。

 

 最後の、最後の、最後まで、自分の語学能力を、頭の良さをアピールしつつ逝きたいとでも画策したか? つまりはある種の虚栄心。インテリとしての性癖、本能。「知識階級は多少響きの美しい言葉を好みすぎ、また自分でそれに酔う傾きがある」と小泉信三も指摘している。その亜種と看做して可だろうか? いや、しかし……。

 

 どうにもなんだかしっくり来ない、隔靴掻痒のもどかしさを振り切れぬ。偏差値に差がありすぎて、共感作用がおっついてない印象だ。筆者のIQ程度では、このあたりが関の山、想像可能範囲の(きわ)にぶち当たったようである。

 

 

 奇遇にも、と言うべきか。

 

 

 まさにこの年、東京帝大法学部では選抜試験の設問に、よりにもよって

 

 ――『共産党宣言』の独文和訳を行え。

 

 という、とんでもない課題を出して政府の度肝を抜いている。

 

 当時の文相、恭堂岡田良平は、報告を受け危うく椅子からずり落ちかけたということだ。

 

 無理もない。小学生が校庭で不発弾を掘り出すよりも遥かに危険な事態であった。さて、それを受け、「責任者の措置を如何にすべきかにつき省内に緊急会議を開いたが、却って此際事をあらだてゝおもてむきとしては反響する所も多かるべく如何なる重大なる結果を招来せんとも測られないと言ふ所から今回の件は単に今後斯る失態を繰返さぬようとの警告を発しあいまいの中に葬り去ったのである」とは、『読売新聞』の報じたところ。目も眩むような事なかれ主義の発露といって良いだろう。

 

 あの赤門の内側で、どんな人材を育てようとしていたのやら。

 

 得体の知れぬ場所だった。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 その少年は四歳で光を失った。

 

 両眼失明という過酷な現実。あまりにも巨大な運命の重石が、小さなその背にいきなり落っこちて来たわけである。

 

 もしも筆者(わたし)が同じ境遇に置かれたならばどうだろう、果たして耐えることができただろうか。いや、考えるまでもない。とてものこと不可能だ。

 我が読書熱はこのころ既に旺盛で、暇さえあれば『日本昔話』とか、『ドラえもん』の単行本を紐解いていたがためである。甚だしきは飯時もこれを手放さず、ためにぽろぽろおっこぼれる(・・・・・・)米粒により頁と頁とがくっついて、そのことでよくお叱りを頂戴したものだった。

 

 その楽しみの一切が、ある日突然奪われる。

 無理だ。

 立ち直れない。

 悲嘆と絶望に取り憑かれたまま、半分死人の面持ちで、暗澹たる日常を送るばかりになるだろう。

 

 ところが彼――今井新太郎は挫けなかった。

 

 ショックはショックであったろうが、すぐに己を取り戻し、鎖された闇の底でなお、

 

 ――斯くなる上は、当代の塙保己一になってやる。

 

 と、万丈の気を吐くだけの負けじ魂を持っていた。

 前向き、といっていいのか。とにもかくにもこの姿勢にはむしろ周囲が面食らい、

 

 ――今はそんな時代じゃあない。

 

 本来ならば新太郎を励ますべき彼らの方が、たしなめる側に廻る始末。

 

「それよりも諸芸を身につけよ」

 

 そう説諭したのは祖母だった。

 なるほど確かに日本国には古来より、琵琶法師だのなんだのと、盲目の楽器演奏者の伝統がある。

 

 幸い近くに、山田流箏曲を伝える渥美清春なる女性が居る。

 ここに新太郎は弟子入りをした。

 

 ところがめぐり合わせというのは奇妙なものだ。この清春の夫が漢学者だった。お蔭で新太郎は稽古の合間、わずかな時間を捻出しては彼の講義を聴きたがり、齢十五を迎えるころには何処へ出しても恥ずかしくない一流の教養を身に着けていた。

 

 が、箏曲の方は「一流」どころの騒ぎではない。

 どう控えめに表現しても、百万に一人の天才だった。

 

「もはや教えられることがない」

 

 私の持っている何もかも、すべてお前に与えてしまった――師匠清春が音を上げたのは、やはり新太郎十五歳の折。

 

「この上はもう、東京しかない」

 

 帝都で広くお前を試せ、人間(ひと)の坩堝で、衆に揉まれて、お前の器量(うつわ)の底知れなさを。――恩師のすすめに、新太郎は従った。

 

 彼女の手引きで、当時山田流随一の名人とも称された山勢松韻の門下に入り、腕にますます磨きをかける。二年後にはもう、號を授かる運びとなった。

 

 その號こそは、すなわち「慶松」。卑しからぬ人品と、神がかり的な演奏技術で日本の上下を魅了した、国民的箏曲家はこのようにして誕生(うま)れ出た。

 

 まさに竜が雲をつかんで天へと駈け上がるが如し。「盲目の天才」と讃えられるのも納得である。ところが慶松本人は、この呼ばれ方が厭で厭で仕方なかったそうである。囃される都度、耳を洗浄したくなる不快感であったとか。

 

 

「天才は撓まざる努力の結果で生れ乍らの天才はあり得ない。磨かずして世に出るのは天才でなくして、単なる器用に過ぎない」

 

 

 それが彼の信念であり、周囲にもよく説いて聞かせたところであった。

 

 やはり天才は天才と呼ばれるのを嫌うのか。

 それとも昔日の漢学修業が、謙遜の重要性を彼の頭脳に刻み込んだか。

 

 どちらでもいい。

 

 どちらだろうと、慶松今井新太郎がみごとな男であることに、いささかの変わりもありはしない。

 

 慶松はまた、御前演奏も多々やった。

 

 明治・大正・昭和を生きた慶松は、三代すべての至尊に対し弦を弾いて音色を捧げた。

 

 その回数は、都合三十になんなんとせんばかりであったということだ。

 





生まれつきのバカが責めるに値しないのと同じ意味において、生まれつきの天才もまた賞讃に値しないであらう。

(上野陽一)

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