紙上の人々・片影星羅   作:穢銀杏

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寒さは工夫を通してより賢い人間をつくる。

(グリフィス・テイラー)




試され、そして活きるのか

 

 篤農家という単語自体が死語となりつつある現下、藤田市五郎の姓名を記憶している日本人が果たしてどれほどあるだろう。

 

 北海道の農業を開拓したひとりだが、屯田兵ではないようだ。

 それよりもずっと根が深い。

 淵源は実に十八世紀、寛政元年時点にまで遡り得る。

 

 徳川将軍は十一代目、家斉が治めるご時世で。――八五郎という人が、どうした事情に由るものか、盛岡藩領二戸郡から態々この地(渡島)にやって来て、荒れ地に鍬を打ち込んだ。

 

 以来由蔵、市五郎と、三代続けて土を掻く、「農」の家系を織りなして――。これだけ由緒を重ねれば、もはや地生えといっていい。

 

 さて、藤田市五郎。

 

 篤農家、開拓者なりと先述したが、具体的にはどんな仕事をやったのか。

 肝心要のその点は、本人の口吻をそのまま引こう。

 

 

「…二十歳の頃から親父に代って村の会合等に出てをりました、其頃の事ですが函館へ盛に毛唐の船が入ってきますが生憎函館には西洋野菜がない為毛唐も困るとゝもに食料を横浜あたりの農家に供給させる有様だったので、私は之は函館近郷で西洋野菜を植る必要があると思ひ早速札幌農学校の南博士の添書を貰ひ東京駒場農大に行き西洋蔬菜栽培の指導をうけ帰村後西洋野菜栽培を行ひました。初めは随分苦労しましたがお蔭で今日では大野村の西洋野菜は頭角をあらはしてをるわけです」

 

 

 この回顧談をやったとき、市五郎はとうに還暦過ぎた身で、時代は昭和に移っていたが、それでも未だ外国人を「毛唐」と呼んでいるあたり、意識の固着が窺える。

 

「三つ子の魂百まで」は(まこと)なりということだ。

 

 なお、無用であるやもしれないが、一応補注しておくと――。

 

 市五郎に添書を与えた「南博士」は後の北大総長である南鷹次郎その人であり。

 市五郎が学んだという「東京駒場農大」はやがて東京大学農学部へと派生する、駒場農学校のことだろう。

 

 彼が上京した頃は、ちょうど同種の学校と合併を繰り返していただけに、名前が、こう、ごっちゃになって、混線した状態のまま記憶されたに違いない。

 

 日本で最初にゾウの解剖をやった人、田中宏教授とも、あるいは面識があっただろうか?

 

 そこまでは流石に知りようがない。

 ただ、飢饉の話は詳しくやってくれている。

 

 市五郎の(かた)りによれば、北海道渡島地方に大凶作は六回あった。

 明治二年と三年と、三十五年、三十八年、三十九年。そして大正二年にまたも、都合六度というわけだ。

 

 

「…一番悲惨だったのは明治三十五年でせう、農家は食料にさへ困った程で静かな夜に入ると遠近から力のない杵のうつ音が耳に聞こえてきた、それはわらびやその山に茂る食用雑草を臼でつく音で食物は澱粉でくづを作って食べるといふ有様だった、幸ひこの年は函樽線開通工事が起されたゝめ思はぬ仕事に農民がありつけて糧を他から求める資ができました。三十八年は前年の苦しみから相当準備もできた様でした」

 

 

 藤田市五郎はまた、西洋野菜の先駆の他にも、旧態依然の半ば化石化しかかった脳細胞しか持ってない百姓どもを説きまわり、大野村に備荒積立金を実施せしめた男としても名が高い。

 

 どこどこまでも功労者。彼の場合、「身を粉にして」がまったく比喩ではなかっただろう。

 

 よく働いた人だった。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 試される大地だけではないか、わが豊葦原瑞穂国で、一角獣が棲息するとまことしやかに語り継がれてきた土地は――。

 

 文献上に確認できる。

 

 萬延元年、西暦にして1860年、函館から江戸へと飛んだ一通の書。栗本鋤雲が旧知に宛てて書き送った手紙の中に、該当する部位がある。

 曰く、

 

 

「駒ヶ岳麓あたり異獣出る大さ子牛の如く、額に一角あり、長さ尺余時あり鹿部川を遊泳す。…(中略)…川を下る時は額端一角分明見るべし、身を隠し迅疾矢の如し、猛勢迫るべからず」

 

 

 と。

 

 子牛ほどの大きさで、

 額に30㎝前後の角があり、

 脚は速く、地形地物に巧みに隠れ、とても追跡が及ばない。

 

 この特徴はどう見ても、ユニコーンのそれ(・・)である。当節、彼の地に赴任していたヨーロッパ諸国の人々も、同じ意見を抱いたようだ。こんな東の果てにまで、かの幻獣は跳梁するかと俄然色めきたっている。

 

 前年結ばれた条約で、函館は既に貿易港として開かれている。栗本鋤雲、やがて小栗上野介の盟友となるこの彼も、西洋人と接触すること、ずいぶん多次に及んだらしい。

 

 手紙の続きに、そのへんの機微が窺える。

 

 

「英のコンシル仏の文官(則ち僕の弟子)此の二人ワザワザ往きて見るなり、皆曰く犀なり、里人に聞けば山の主なり見る者隠して語るを欲せずと云ふ、試みに在住砲士吉良左馬之助(師直の子孫)差置きたり、運よく打殺さば検査し委細申述ぶべし」

 

 

 ちょっと風向きがおかしくなった。

 どうも北海道の一角獣は、ユニコーンみたくスラっとした体躯でなかったようだ。

 それよりこう、全体的にずんぐりむっくり、サイに近い姿形をしていたという。

 

 サイといえば、中央アフリカのサバンナあたりでキリンやシマウマなぞに紛れて草を食んでいるイメージがある。まず以って寒冷地には()わなそうな先入主だが、有り得るのだろうか、こんな北部に、野生のサイが居ることが?

 

 栗本鋤雲もその点疑問に思ったらしい。疑問を解消するために、執った手段が奇抜であった。高師直の子孫を名乗る砲術士を派遣した、首尾よく運べばくだんのヤツを撃ち殺し、詳しい調査が出来るであろう、今からとても愉しみだ――と。いったい何の判じ物かと突っ込みたくて堪らない。

 

 幸か不幸か、この探索は実を結ばずに終始した。

 

 

 人間の好奇心はとめどもない。それはときに爆発し、大音響を轟かせ、四方三里――空間的のみならず、時間的、後代にまで尾を引く椿事を巻き起こす。

 そういうことが、やはり幕末の北海道で起きている。

 

 

 一角獣とは全然なんの関係もない話だが、せっかくなので触れておこう。

 

 栗本鋤雲の手紙から、およそ五年後、慶應元年十月のこと。

 

 英国紳士がやらかした。渡島地方は森村で、アイヌの墳墓を掘り返し、遺骨を盗み出すというとんでもない真似をした。

 

 

「…為めにアイヌ部落に騒擾が起り、外交問題ともなり、その的確な証拠が得られたので、遂に馬の骨か何か不明な骨と賠償金を提供し、その責任者が箱館退去となって(ケリ)が付きましたが、実際の遺骸は其時大英博物館に送られた後だったさうであります。之はおそらくアイヌ人の骨格研究の最初の資料となったものでありませう」(昭和七年『北海道郷土史研究』より)

 

 

 この畜生ぶりはどうだろう。

 

 蒐集慾に憑かれるや、命の危険、弾丸さえも意に介さずに走り出す。倫理、道徳、人の道。悉皆無力だ、そんな甘っちょろい規範では止まらないし止まれない。如何にも当時の英国(らしさ)が躍如としていて、いっそ安心さえ兆す。

 

 まあ、被害者にしてみれば、ふざけるなの一言だろうが。

 

「露鷲英獅」呼ばわりもむべなるかなのザマだった。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

「黒船(きた)る」。

 その一報が、箱館を恐慌の坩堝に変えてしまった。

 

 安政元年のことである。

 この年の春、三月三日。神奈川の地で日米和親条約が締結された。

 

 全十二条に及ぶ内容のうち、第二条目にさっそく開港地の設定がある。下田は即日、そして箱館は一年後、米国に対し港を開く、と。以後、星条旗を掲げる船はこの二港にて、薪水・石炭・食糧その他必要物資の供給を受けることが可能になると。

 

 調印式が終わるなり、マシュー・ペリーはこういうことを言い出した。「条約の円滑な履行を期すべく、下田と箱館、この両港を実地調査せねばならない」。

 

 なるほど筋は通っている。

 幕府としては、頷くより他にない。

 江戸の松前藩邸に、直ちに報せが駈け込んだ。その藩邸から更にまた、国元めがけて急使が走る。

 

 藩の家老格、松前勘解由崇效(たかのり)が属僚どもを引き連れて箱館へと出張したのは、条約締結から半月以上を経過した、三月二十二日であった。

 

 如何にも時代的な情報伝達速度であろう。

 

 出張先で崇效は、ずいぶんせわしなく働いたらしい。

 

 とにかくアメリカ人という、この厄介極まりない客が住民と接触しないよう――どう考えても面倒事のタネになる――、

 街々の境に木戸を設け、

 小路という小路には囲いを築き、

 二十余丁もの板塀を、浜手海岸に巡らした。

 

 大掛かりな目隠しと言えなくもない、一連の作業に要した費用が、大枚ざっと二千両。

 

 少なからぬ出費であった。

 

 なお、この数字は函館市中央図書館初代館長・岡田健蔵の調査に基く。

 

 史料収集・整理・保護に敏であり、山積する文字の中から松前藩の抜け荷(密輸)の形跡(あと)まであぶり出した仁である。

 

 一定の信頼は置いていい。

 

 お触れの類も、次から次へと乱発された。

 

 どういうことが書かれていたか、これまた岡田健蔵の収集したところによると、

 

 

「アメリカ人は欲心が深く生れ付き気短かであるから、逆ってはならぬとか、殊の外婦人に目を掛けるとか、子供は可愛がるが若しや連れて行かれては不都合であるから、女子供は土蔵に囲まふとか、或は山の手近郷近在の縁家へ避難させよとか、酒は大の好物故に目に掛らぬ様にせよとか、牛、呉服、小間物等は隠せとか云ふ事等でした」

 

 

 ほとんど奈落の軍勢でも待ち受けるような騒ぎであった。

 実際、当時の人々にしてみれば、そんな気分だったろう。

 日が経つにつれ、御触書の内容はどんどん具体性を増してゆく。

 

 港は小舟の往来を禁じ、

 陸は馬の出入りを差し止め、

 戸や障子、特に海に面している部分には厳重な目張りを施させ、

 薬師山への参詣禁止、例え不幸があったとしても男手だけで夜陰密かに野辺送りせよと、実に細かい、そういう指示まで飛んでいる。

 

 どんな朴念仁であろうとも、なにか異常な、のっぴきならぬ重大事が進行中であるのだと、おのずと察しがついたろう。

 

 異常な緊張状態が市内全域を包んでいたに相違ない。

 

 そこへ黒船がやって来た。

 

 四月十五日巳の刻――だいたい午前十時ごろ。汐首岬に配置された人員が、彼方に船影を確認している。

 

 間を置かずして、市中の鐘という鐘が力いっぱい打ち鳴らされた。

 

 ぐわおーん、ぐわうおーん、と。

 

 底響きするあの音は、たとえ平時であろうとも人の臓腑をふるわせる、一種玄妙な作用を有す。況やガラス管並みに張り詰めきった精神の上に於いてをや。

 ひとたまりもなく砕け散るのが道理であろう。

 

 

「市内は急に騒々しくなり、近郷近在に引越すものやら戸締をするもの、役人は役場に詰切りで非常を警め、若しや見物などする不心得のものがあってはならぬと云ふので、辻権九郎と申す役人が早馬に乗って市内を縦横に駈け廻り、迂散と認めたものは片端から鞭で打据えたと云ふ事で、殆んど狂気の沙汰とも申すべきでありました」

 

 

 まさしく尻に着火でもされちまったかのような。

 

 時代の潮目は、スンナリとは越えられぬ。必ずこういう、阿鼻叫喚を伴ったすったもんだが展開される。

 

 それをこうして、泰平の世で、座布団に安穏と腰かけて、紙面を通じて垣間見る。なんという背徳感であるだろう。

 

 歴史趣味とは、もしかすると余程の悪趣味なのかもしれない。

 

 

 

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