義理と人情、痩我慢。
(俗謡)
社史を紐解けば大抵どこの企業でも創業間もない時分には、針山の上で火の車を廻すが如き苛酷な遣り繰り算段を経ているものであるのだが。──日本赤十字社という知らぬ者なき医療団体の上にさえ、およそその種の「苦労話」は見出せる。
日赤前史を語るに当たって外せないのが石黒
曰く、
「何分創業間もない事であるから、赤十字の真髄が一般国民に判らないのである、故に其の趣旨を徹底させる為に、市内は申すに及ばず地方にまで出張して演説をやったが、政府を攻撃すると云ふ様な活気のある演説ではなく主に精神教育であるから佳境に入る頃は、聴衆に居睡りが出て困った、其処で幻燈を以て眼を醒ます事を考へ、自分は演説をやる、妻は幻燈の絵を挿し変へると云ふ始末、今考へれば随分骨が折れたものであった」
日本赤十字の開幕は実に明治二十年、大同団結運動やら何やらで「自由民権」の掛け声がまたぞろ無暗に
当時の「自由主義者」というのはフランス革命史を読んでいたずらに血を熱くして、薩長による藩閥政府をブルボン王家の虐政に擬し、これを倒す為ならば暗殺上等・暴動煽動バッチ来いというような、俗にいわゆる「胡乱の輩」がかなりの比率で混入している段階である。
演説とは要するに興奮剤を兼ねたモノ、政府に石を投げつけて、敢えて怖じ憚らぬよう仕立て上げるを本義としていた時代空気で、そういうところへ人命尊重・奉仕博愛の大旆を担ぎ込まねばならぬのだから、逆風は推して知るべしだ。
石黒忠悳、更に続けて、
「それから橋本君と共に病院の設立を思ひ立ったが金がない、四苦八苦の思ひで陸軍省に泣き付き今の飯田町停車場構内の当時陸軍省の所有地であった三千坪を貰った、それから兵営の古材木を貰って病院を建てたが、その総建築の費用一万五千円であった、すると社では半分しか金がない、これには困って
とんだ「寄附」もあったもの。
強制力が働くならばそれはもう、「寄附」でもなんでもないだろう。語義矛盾もいいとこだ。所詮、背に腹は代えられぬ、渇すれば盗泉の水をも飲むし、餓うれば楽園の禁果も喫す。
石黒とて、綺麗事ばかりで世を渡って来た男ではない。
大義親を滅す、正しいと信じる目的の為には小事に拘泥せぬあたり、マキャベリストの片鱗が見えて、
「其後、英照皇太后の行啓を仰ぎ、赤十字社の趣旨を上奏する、故伊藤公に泣き付いて宮内省から今の病院の敷地と十万円の御下賜金を頂く、初めて今の病院が出来たのだ」
戦前、日本赤十字社の規則の中に、
──病院は、皇室仁慈の旨を体し貧困患者を施療し、且つ一般患者を治療す。
この一条が含まれていたのも至極当然、むべなるかなであったろう。
石黒忠悳が貴族院勅撰議員にえらばれたのは、明治三十五年のはなし。時あたかも第一次桂内閣が日本国の舵取りを担当していた頃である。
しかしながらこの選任は、べつに石黒本人が
推薦者は別にいた。
時の内閣総理大臣、桂太郎その人が、どうも強力に後押しをしたようだった。
そういう事情は、当たり前だが、任命の内示と
(あいつめ。……)
と、この五十男はそのとき咄嗟になにごとかを思ったらしい。
やがて奏薦の礼を言うため、桂のもとに出向いた際の情景こそ妙だった。
片や「座談の名手」の口達者、片や「ニコポン宰相」の鷹揚たる大長者。通り一遍の会話に終わるわけがない。先手は石黒からだった。あいさつもそこそこに、彼は
「聞くところによれば勅撰議員にならむと希望運動する輩が百人もある中から貴閣下に対しては自ら一度も希望せぬ此老人を召出さるゝ、殊更新聞紙の候補者の中にも嘗て名を見ぬ拙者が召出さるゝとは最も光栄の至りである、此上は貴族院議員たるの本分は及ばずながら盡す心得であるが、一も二もなく所謂御用筋の御誂向には応ずる訳には参らぬ、或事項によりては自分の信ずる所を守る為には貴桂内閣に反対する事もあらう、今日新任の御礼を申述ぶると共に慎で此一言は申述べ置く」
言辞こそ丁重なれど要するに、
──俺をイエスマンにできるなんて思うんじゃねえ。
と釘を刺したわけである。
礼にかこつけた、半ば挑発に近かろう。
気短な者なら、もうこの時点で眼をいからせて、
──表に出ろ。
と立ち上がっても何ら不思議でないはずだ。
が、これを受け、対する桂の反応は、怒るどころか少しも不快な色もなく、むしろ
「三十年の交ある貴君の事は不敏なりといへども太郎は熟知して居る、決して味方の軍勢を増加しようといふ考へでは貴君を奏薦はせぬ、但し拙者の遣口に善くないと思はれた事があったら、表門から攻撃する其前に一度は膝詰で友情として告げられ度いと希ふ」
──この末の一言が流石桂だ。
と、石黒は後にニコポンの
実際問題、この両名の遣り取りは、将棋に擬すれば名人同士の伯仲した指し合いを観戦している如しであって、興趣が尽きることがない。
沈没する船の中。日本人は笑顔で酒を酌み交わし、大いに埒を明けていた。
明治三十三年十一月五日の深夜、北緯五十度を上回る、冷え冷えとした北太平洋での一幕である。
船の名前はエンプレス・オブ・ジャパン号。ヴィクトリアの港から、日本へ向けて太平洋航路を進むカナダ・メール社の豪華客船。それがふとした天意と人為――不運と不注意の重なりにより、洋上での衝突事故を起こしてしまい、事態は急変。その航程は、どうやら天国への直行便となりそうだった。
(なんということだ)
この船には、日本人も少なからず乗っている。
その中に、松波仁一郎の名もあった。
東京帝国大学教授、海軍大学教官にして海軍省の法律顧問を務める彼だ。洋上での衝突事故に関しては、並外れた知見を有する。
その知識が語るのだ、
(とても、助からぬ)
既に「詰み」の状況、と。
季節は既に冬近く、風の冷たさは骨を噛むという表現が、まったく誇張にあたらないほど酷烈である。海水温もまた然り。不用意に飛び込もうものならば、心臓がショックに耐えられず、急停止してとどのつまりは土左衛門と化す以外にないだろう。
(ならばこんな浮袋など、身に着けたところで何になる)
──どうせ死ぬなら、余計な窮屈はしたくない。
そう判断して救命胴衣に触れもせず、一歩一歩、確かな足取りで甲板に出た。
(ほう)
と、松波が感じ入ったのは、自分以外の日本人がことごとく、やはり普段着一丁のまま、泣きも喚きも怒りもせずに、恰も局外に居るかの如く、悠然と澄まし込んでいたことである。
会話に耳を澄ましてみれば、
「エライ事になったねえ」
「うん、とうとうやったなあ」
「君、浮袋はどうした」
「僕よりも君はどうした」
「そんなものを着けたってどうせ駄目だから止した」
「御同様だ」
と、まことに暢気なものだった。
(日本人は、どこか神経が鈍いんじゃないか)
我と我が身を棚に上げ、そう思わざるを得なかった。
邦人の松波にして既に然り。
況や西洋人に於いてをや。
この光景がどれほど奇異に感ぜられたか、想像するに難くない。
「西洋人はと見ると、英米仏独人等皆々浮袋をつけてソハソハして居る。然るに日本人丈が一ヶ所に寄合って、落ち着いて居るから西洋人等は我等を眇視して馬鹿と思ったらしい。日本人は馬鹿だね、今自分の船の沈むのが判らないのか、日本人は命が惜しくないのかと思ったらしい、さう思ったと見えて、冷静に談話を交換しつゝある我々を、或は不思議の眼を以って、或は憐憫の眼を以って又或は軽蔑の眼を以って眺めつゝデッキを往来し、乗組船員亦然りである」
共に死にゆく者同士という境遇が、心の隔壁を融かすのに大なる効果を発揮したろう。
思いもかけず運命共同体となった日本人らは急速に結合を強め合い、
「こんなところに立って居ても仕方ない、寒いばかりで、第一
誰かが言ったこの案に、そうだそうだとたちまち呼応、こぞって下の図書室に戻ってしまったから大変だ。
群集心理の恐ろしさを如実に示す、格好の例であるかもしれない。
「気の利いた者はバーへ行って、キュラソー、ベルモット、紅白の葡萄酒、其他の飲物を沢山持って来た。無論悉く無断で、然り而して全然ロハだ。何れも好きな酒をフンダンに呑む。死ぬ前だからサンザン飲やれといふ意識は多少あったかも知れぬが、マツゴの水なぞと思ふ、ケチ臭い心を持って居る者は一人もない。面白い身の上話を肴として飲るのだから酒は進む、酒は進むから話は益々面白くなる」
この
「松波さんは英国で、船舶の衝突法を研究し、軍艦商船衝突論を書いてヴィクトリア女王やドイツのカイザー・ヴィルヘルム、ロシアのニコライ皇帝に献上されたということですから、今ここでご自分が衝突で死ねば本望でしょう」
斯くの如き、とんでもない
「なんぼ衝突論を書いたからって、今衝突で死ぬのは本望じゃねえよ」
苦笑して答えるより他になかった。
「考えてもみろ、この松波、蛍雪の功を積みて学漸く成り、これから帰ってその蘊蓄の深いところを日本中に拡げようって場面だぜ。その間際に海底の藻屑となる運命は、まあ残念である、実は吾輩死にたくないのだ。――中村君、君はどうだね」
と、松波は素早く話を振った。
鉾先を転ぜられたのは、気象学者の中村精男。
後の中央気象台台長は厳かに頷き、
「僕も今死にたくはないのだ、実は本国の妻の病気がだんだん悪くなっている、生前せめて一目でも会いたいと言うので特にこの快速船ジャパン号を選んだのが悪かったね、大病の妻より僕の方が一足先に逝くことになるから皮肉だよ」
と、悲惨とも滑稽ともつかないことを喋り散らした。
結局、本音を叩いてみれば、誰も彼もが無念でたまらなかったのである。こんなものが人生の結末であって欲しくはなかったのだ。にも拘らず神や運命を呪詛したり、自己憐憫の涙に暮れる手合いというのがただの一人も
「死にたくない」感情を、「しかし到底、どうにもならぬ」と理性で抑えきったのだ。これが勇気でなくてなんであろうか。獣から最も離れた行いとして、賞讃さるべきではないか。
なお、エンプレス・オブ・ジャパン号の沈没は、船員たちの必死の働きの甲斐あって中途で停止。
「浸水は第三船艙の隔壁で
との報せがボーイによって齎されるや、一同盃を高々と揚げ、「先きとは違ふ意義の酒を飲んだ」ということである。