実に家康は徳の人と云ふことは出来ぬであらうけれど、たしかに智の人であったと思ふ。
(大隈重信)
人を殺ったら
腕に覚えのある技師にとり、
天下泰平、江戸徳川の世に於いて、異常な速度で発達を遂げ来たった観念である。
山の
そもそも鉱夫全般が幕府から特権を受けているのだ。
「山師金掘師、人を殺し山内に駆込むとも留置き、仔細を改め何事も山師金掘師の筋明白立候はゞ留置相働かせ可申事」。──たとえ人殺しであろうとも、事情を
歴史に名高い『山例五十三箇条』の一節である。
起草者は、初代将軍・神君徳川家康公とされている。
権現様みずからが「斯くあれかし」と定め置かれた掟な以上、その権威は絶対だ。叛逆はおろか異を唱えることすらも、ほとんど慮外の沙汰である。
ただ、この
「君父の讐を復するは、皆臣子の至情に出づるものにして、苟も其志を遂ぐる為めには、婦人の力を假ると雖も恥辱となすに足らず」。──これまた家康公の御言葉として今日に伝わるものであり、
「君親の仇は弓銃を用ひて之を殺すも卑怯にあらず」。──こちらは我らが甲斐の英雄、武田信玄公の言。
君父の
それほどまでの特例を態々設けることにより、親や主君が如何に貴い存在か、人々をして暗に悟らしめんとする。下剋上の発生を、ごくさりげなく心理的、倫理の面から抑止する。類い稀なる食わせ者、狸おやじな彼らのことだ、そうした狙いがきっとあったに違いない。
「きのと うし」「ひのえ とら」「ひのと う」「つちのえ たつ」「つちのと み」――。
あるいは漢字で、あるいは仮名で。カレンダーの数字のそばに、小さく書かれた幾文字か。
古き時代の暦の名残り。十干十二支の組み合わせは、実に多くの迷信を生んだ。
就中、有名なのは
丙午の年に生まれた女は男を喰い殺すサガを持ち、庚申の夜に仕込まれた子は、やがて泥棒に育つというのだ。避けるべき日、不吉な符合というわけである。
現代でこそ一笑に付すべき愚論だが、夜の闇がなお深かった江戸時代、人々はそう簡単に畏れの念を振りほどけない。俗信に生活を束縛される大衆は、想像以上に多かった。
だからこういう川柳が発生もする。
庚申の夜に寄り集まって酒を呑んだり雑談したり、あるいは念仏を唱えたりする。一晩中、東の空が白みだすまで一睡もせずそれを続ける。――「庚申講」の風習である。
ひょっとするとこれとても、不祥の子を作らせまいとの配慮から考案・維持され来ったものではないか。つまりは相互監視のためのもの。そう推測する向きもある。
あながち根も葉もない理屈ではない。
禍は未萌に摘むがよし。
いつの時代も、予防に勝る対策はないのだ。
「人間は生きて行くためには、何とかして運命の軛を取り去らうとする心がある。或は運命に歎願し、或は運命に媚び、或は運命を欺いて、幸福を得やうとする、運命を二元的に見、神と悪魔とにする時には、神に向っては加持祈祷を以って歎願し、悪魔に向っては調伏しやうとする」
生方敏郎が『謎の人生』で説いたところが、なんとはなしに思い出された。
けれどもやっぱり愛のリビドーは強烈と見え、
禁忌と知りつつ、我慢しきれなかった奴らを揶揄するこんな句まで存在するから面白い。
これなどは旦那の我慢がぶっちぎれたが、女房は然らず、信仰を盾に拒まれたため、そのあたりの色街へ憂さを晴らしに出向いた結果、みごと梅毒に感染し、一生ものの手傷を負った馬鹿野郎をあげつらったものだろう。
不運にもほどがあるとしか言いようがない。
十七文字の背後には、実に広大な景色・事情が横たわっているわけである。
「入浴の際、殊に貧血衰弱者は、凡そ盃半杯の醤油に、番茶五六勺を注ぐか、又は生鶏卵一個を割りて、稍々多目に醤油を入れたるものを飲みて入浴すれば浴後疲労を覚えず」
陸軍軍医にして栄養学にも造詣深き明治人、石塚左玄の案出せし養生法だ。
つい先日(※令和五年六月中旬)、サウナで汗を流した後に池に入って溺死した、二十代男性のニュースを聞いて反射的に想起した。
いったい日本人というのは風呂好きな民族だけあって、それに因んだ健康術の探求も、相当古く且つ多い。
有名どころでは、曲直瀬道三の教えにもある。
「日本人は湯あみ再々してよし、然れども毎日垢をかくべからず。夫れは月の中五六度なるべし」
湯に浸かってもボディソープは用いない、肌を強く擦っては駄目との「やり方」は、今日に於いても一部で行われているが、道三はその鼻祖でもあるか。
「折々庭中にて地団太を踏むべし。是も腰にて踏むべし。或は前後左右へ一二尺づつ飛びならふべし」
これも曲直瀬道三の説。
風呂とはべつに関わりのない、脱線する話だが、足踏み健康法の価値に気付いているのが面白い。
徳川家康も青竹踏みをやっていたと聞き及ぶし、戦国人の智慧というのも、どうして馬鹿にならないものだ。
「暑月の外、五日に一度
今度は貝原益軒である。
曲直瀬道三と異なって、入浴自体を慎むよう勧告している。
皮膚へのダメージ云々よりも、湯あたり乃至湯疲れを警戒したのではないか。そんな気配が、筆致にどうも濃く見える。
「夏日炎天に水を桶に入れて温め、湯になりたるに浴すべからず、俄に中暑す」
原南陽の奨めであった。
前二者に比すれば世間的な知名度は落ちるが、紛れもなく名医たるを失わぬ。
敢えて言われるまでもなく、そんな真似する奴ァない――と考えるのは、科学文明に囲まれ育った近代人の傲慢だろうか。
ガス無き時代、風呂を焚くのも一苦労だったのはまあ
手間を省きたがるのはごく自然な人情だ。太陽光の湯沸かし利用を思いついた横着者が、たぶん、相当、居たのであろう。
しかも結構な割合で不幸な事態に陥った。
風呂はやっぱり陽ではなく、火で立てるのが吉らしい。失敗から学んだわけだ。知見とは、犠牲を糧に進むもの。基本中の基本であろう。
原南陽の墨痕に、ある種凄味が宿るのは、そのあたりの機微につき、よくよく通じていたからか。
「飢人に食を与ふるに、先づ赤土を水に掻き立てたる上水を、半杯ほどか、厚朴を煎じたるを一杯ほど飲ませたる後にすべし、此二法を行はずして食せしむる時は、直ちに死す」
前時代より人文遥かに発達すれど、江戸はまだまだ命の軽い時期だった。