出羽と越後の境界、朝日連峰の雄大な稜線に抱かれるように、その村はある。
最寄りの集落からですら、峻険な山道を十一時間。社会から孤立し、天地と和合し、時勢から超然たる人々の棲まう隠れ里――。
名を、三面村といった。

※拙ブログに同一内容の記事があります。


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神秘郷にて

 

 北日本に隠れ里は数あれど、三面村(みおもてむら)は特別だ。

 親不知の風波村や、存在自体不確かな霧中衆と異なって、その輪郭をはっきり地誌に刻印している。

 

 そう、三面村――。

 

 新潟県と山形県の県境を為す朝日連峰の懐深く、三面川の清流ながるるその側に、かつて存在した聚落だ。

 永らく他の地方と交通のなかった山人たちのこの村も、明治維新から立て続けに押し寄せた文明化の波には抗えない。きちりと行政区分に組み込まれ、定期的に収税官が派遣される仕組みもできた。

 

 ――その収税官の一行に。

 

 明治三十三年十月中旬、民俗学的好奇心の旺盛な(なにがし)なる人物が同行を願い出て受諾され、平家の落ち武者を祖に戴くとの伝説を持つこの隠れ里の実景を、巨細なく目に焼き付けている。

 

 この某は相馬御風――北陸の風と雪とが育んだ文豪のひとり――とも親交があり、彼の三面村に関する口述を、相馬は後に「落人の村」なる小稿にまとめ自らの著書『凡人浄土』に収録した。

 以下、これより記す内容も、大筋はこの『凡人浄土』に拠っている。

 

 

 

 某を加えた収税官一行は、まず「岩崩」という過去にどんな事件があったかあまりに容易に想像のつく小字(こあざ)に於いて一泊し、翌未明、未だ陽の昇らざる暁闇をついて出発した。

 

 岩崩から三面村までは七里半の距離がある。一里を4㎞に単純換算して考えると、実に30㎞の懸隔だ。しかもこの30㎞は、なだらかに整地された道路の30㎞を意味しない。

 

 山路(やまみち)なのだ。

 

 ときには藤蔓を頼りに断崖を攀じ登ることすら余儀なくされる過酷な道で、一行がこの行程を踏破するまでに十一時間を要したというから、出発の際には山の向こうに隠れていた太陽も、とうに天頂から傾いて空を茜に染めつつあったに違いない。

 

 未明に岩崩を発つわけだ。

 

 そうでもせねば、山中で夜を迎える危険性が看過できぬほど高くなる。すなわち、命の危機である。

 税とはこうまでして取り立てねばならぬものであるのかと、なにやら妙な感慨さえ抱いてしまう。

 しかもこの十一時間のあいだというもの、一行が遭遇した自分達以外の人間は、たった一人きりだったというのだから凄まじい。おまけにそのたった一人の人物も、三面村の住人ときては何をかいわんや。本当に「人も通わぬ山奥」だ。

 

 

 

 その人物を最初見たとき、某は、

 

(なんだ、あの馬鹿でかい猿は)

 

 てっきり昔話の猩々が神秘の帳を引き裂いてぬっと顔を出したと思い、てきめんに身体を硬直させた。

 装束はもとより、時々妙な叫び声を上げながら樹の枝を伝うようにしてみるみるうちに急斜面を駈け下りてくる有り様は、どう見ても怪物(けもの)であったのだ。

 

「三面村の住民は、みんなああです」

 

 同行者が教えてくれた。山の中を歩く際には、必ずああして吼えまくり叫び続けながらゆく。

 そうすることで淋しさの侵入を防いだり、あるいは遠い仲間同士で力を分かち合ったりできると信奉しているからだ。まるで狼の遠吠えや、鷹の鳴き声さながらに――。

 

(旧き野性の習慣だ)

 

 未だ三面村の屋根ひとつ見ぬ段階というに、早くも異境に入った心地がするではないか。

 

 やがて幾つめかの峠を越えると、にわかに視界が広くなり、三面村のたたずむ盆地の姿が現れた。

 

 このとき、村の構成は人家二十九戸に寺一戸。

 昭和六十年の記録では四十二戸、一五〇人となっているから、八十五年間のあいだにだいぶ栄えたことになる。

 

 盆地の真ン中にはかなり大きな河が貫流しており――おそらく三面川だろう――、その向こう側に三面村の家々が見えた。

 橋は架かっていない。

 代わりに、渡し舟がある。

 しかもその舟ときたらどうだろう。一本の丸太を刳りぬいて造られる独木舟で、いまどきアイヌの間でしかお目にかかれないと思われていた珍品との遭遇に、某は疲労も忘れて興奮した。

 

 時代的なのは、舟ばかりにとどまらない。

 その漕ぎ手たる渡し守まで、一行の姿を認めるや、ぱっとその前に平伏し、

 

「ようこそおいでくださりました」

 

 と、うやうやしく述べるのだ。

 明らかに身分制度の生きていた、江戸か戦国あたりのままで時間が凍結してしまっている。

 

 

 

 なにぶん独木舟のことだから、一度に大勢を運べない。

 

 

 

 一行は二人づつに分かれて順々に向こう岸に運んでもらった。

 

 その反復作業が終了し、再び一同揃ったときには村の隅々まで「来客」の報せが伝わっており、羽織袴をつけた五十いくばくかの男性を先頭にして、十人あまりの村人が出迎えのため態々渡し場までやって来ていた。

 この羽織袴の男性が、やはり当時に於ける三面村の村長格で、小池大炊之助(おおいのすけ)なる姓名である。

 

(古めかしい名だ)

 

 時代的なのは名ばかりでない。大炊之助は一行の前に進み出ると、流石に渡し守の如く平伏まではせなんだものの、それでも深々と頭を下げて、代官を迎える庄屋そのものの口ぶりで歓迎の意を長々と述べた。

 彼に付き従う十数名も、それに合わせて黙って頭を下げ続けている。

 

 大日本帝国に、まだこんな場所があったのか――。

 

 期待以上の異境・秘境・隔り世ぶりに胸を躍らせ、某はついに三面の本村へと乗り込んだ。

 

 

 

※  ※  ※

 

 

 

 案内された小池村長の邸宅で、一行は妙なことを求められた。村長はおもむろに宿帳のような帳面を持ち出して来て、

 

「是非、みなみなさまの御署名を」

 

 と頼むのである。

 

「村の記念にしたいンで」

 

 来訪者に対する習慣の一つだそうだ。

 某は快く頷いた。

 帳面をぺらぺらめくってみると、明治十四年に「山縣」なる姓の持ち主が訪れたのを皮切りに、計二十六人分の人名が記してあった。更にその二十六人の内わけを探ると、半数以上が収税官であるという。

 

(まさか、本当に来訪者がこれだけというわけでもあるまい)

 

 訪れはしたものの、署名を拒否した者とて少なからず居たに違いないと考えて、その旨を村長に訊ねてみると、

 

「いえ、本当にその方々で全部です」

 

 との答えが返ってきたから、某は息を忘れるほどに驚いた。

 

 三面村の住民が納めるべき税は、一旦この小池村長の下に集められ、それから改めて訪ねて来た収税官へと渡される。

 驚きの去らぬ某をよそにその手続きが進められ、特筆すべき大過もなしに完了すると、どうやら生真面目な性質らしい収税官はこの税がどのように役立てられるか、租税というものの基本概念に立返ってまであれこれ解説を加え始めた。

 が、某の見る限り、小池村長の面上には念仏を聞かされる農耕馬ほどの関心も浮かんでいない。

 

(気の毒に)

 

 彼はただ、税を出さなければ村と自分たちの身の上に何かとてつもなく恐ろしいことが降りかかってくるような、そういう漠然とした心持ちから制度に対して盲目的に服従しているだけだとしか思えなかった。

「民は由らしむべし、知らしむべからず」――。『論語』泰伯編のこの一節を原理として訓育された、封建時代の民衆の姿そのものである。

 

 

 

 めしの前に、風呂が出た。

 

 

 

 先に「邸宅」と書きはしたが、その言葉から連想される豪奢な造りは、この家のどこを探したところで発見できない。畳が敷かれている部屋など一室もなく、せいぜい板敷に蓆がかぶさっているだけである。

 

 廊下は暗い。目が痛くなるような闇によって常に満たされ、十月の冷気とも相俟って、亡霊が出ない方がむしろ不自然な雰囲気を演出している。

 

 そんなだから、いきおい風呂も原始的なものにならざるを得ない。巨岩に穴をぶち開けて、その穴の中へ釜を据え、沸かした湯を注ぎ入れただけのものだ。

 追い焚きなど、思いもよらぬ機能であろう。

 それでも十一時間に亘って山中を彷徨した体には、この風呂は何よりの恵みであった。

 

 風呂から上がると、ムジナの毛皮の敷物の上に座らされ、薄暗い行燈の灯影のもと、特別に整えられた夕餉をとった。

 

 その後は、はや寝るだけのことである。電燈など影も形もない以上、数百年来変わらぬままに、夜は人間の棲み処でないのだ。寝てやり過ごすに如くはない。

 潜り込んだ布団というのも、やはり来客用に特別に用意された代物で、村人たちは一様に、藁の山に潜り込んで寝ているという。

 

 

 

 一旦閉じた某の意識は、翌早朝、門口で頻りに吹き鳴らされる法螺貝の音で急浮上させられる運びとなった。

 

 

 

 この村では法螺貝が朝の鐘の代わりなのかと思いきや、村長に聞くとそうではない。人足を呼び集めるために鳴らすのだという。

 

(まるで戦国の世の陣触れだ)

 

 そんな問答をしている間にも村の方から百姓姿の男たちがやって来て、土間にしゃがんで命が下されるのを待っている。

 

「大儀だのう」

 

 その男どもの頭上に村長はゆったりと声をかけ、

 

「町の方から旦那様が御座らしたで、何某(なにぼう)、お前は山へ行って芋を掘ってこい。何兵衛、お前は川へ行ってヤマメでも」

 

 といった具合に、次々指示を飛ばしていった。

 男たちが、

 

「へい、かしこまりやした」

 

 と答える動作まで含め、見事に型通りであることに感心するやら、小池村長の指示という指示がことごとく、自分達をもてなす目的であることに気恥ずかしさを覚えるやらで、某はまったく身の置き所に困ってしまった。

 

 

 

 朝めしを済ませると、某のみは一行と離れ、村唯一の寺を視察に向った。案内人には、なんと村長である小池大炊之助自身が立ってくれた。

 村から若干距離のある、山際の小高いところに建てられたこの禅寺は、同時に村唯一の教育機関でもある。

 明治三十三年に於いてなお、三面村では寺子屋が現役だったのだ。

 

 坊主と教師の二役を兼ねる人物は、みたところ四十年配ぐらいの、牛のように無口で挙動ののろい(・・・)男性だった。村の子供たちは男女の別なく、一人残らずこの()から読み書き算術を習うという。その説明も、ほとんど大炊之助がした。

 

 更に話を聞き続けると、彼は三面の出身ではないらしい。

 

 もともと信州松本の産であったが、十三年前、風の噂に三面なる異風な村の存在を聞きつけ、興味を起こし、好奇心の導くままに獣道を踏んでやって来た。

 で、やはり小池村長の家に厄介になり、十日過ぎ、二十日過ぎするうちに次第に離れがたい魅力をこの村に対して覚えてしまい、ついにこうして村の一員になったのだと――小池は誇らしげに語ってくれた。

 

(本当かな?)

 

 が、某には到底、その話を鵜呑みにする気にはなれなかった。

 自分自身の経歴を談じているにも拘らず、男は相変わらず口を開こうとしないのである。

 語りは総て、小池頼みだ。

 某がたまに水を向けても、至極簡単な返答以外決して声を出そうとしない。多言を慎む、そのあまりにもな頑なさから、某は彼の背後に計り知れない秘密の雲の渦巻きを予感せずにはいられなかった。

 

(迂闊に喋りを重ねれば、ふとしたはずみで本当の(・・・)生国の訛りが出て、何処の何者であるか露見しないとも限らない。それを警戒しての魂胆か)

 

 この年代なら維新回転の風雲には間に合わずとも、征韓論以後立て続けに起こった明治初期の動乱にならば、或いは際会したやもしれぬ。

 

 落人伝説を受け継ぐ村が、新時代の落人を受け入れ、匿い、教師役に据えてやる――。

 

 伝奇作家垂涎の構図であろう。ちょっと飛躍が過ぎる想像かもしれないが、あながち有り得ないとも言い切れないのがこの時代の特色だった。

 

 

 

 寺の壁を突き抜けて、背後の山から不特定多数の人間の叫び声が聞こえて来たのはちょうどその時のことである。

 

 

 

(!? ――、?!!?)

 

 言語として意味をなさない、しかし一種憑かれたような異様な迫力を感じさせる「叫び」の威力は、某の浪漫に富んだ想像をこなごなに打ち砕くには充分だった。急遽現実へと強制送還させられた某はあわれなまでに動揺し、腰を浮かせながら

 

 ――あれは何だ。

 

 と、宙に向かってあえぐように呼ばわった。

 その問いを、小池大炊之助村長が機敏に引き取り、

 

「あれは山で熊が獲れたので、猟に出ている者共がそのことを、山の神様に御告げ申してお礼を言っているのでございます」

 

 長者の風格そのものの落ち着きぶりで答えてくれた。

 その後の会話は、しぜん三面村の特徴的な熊猟へと流れていった。

 

 秋の収穫が済むと村中の屈強な男どもは徒党を組んで熊猟に出かける。彼らは山へ入る七日前から男女の関係を断ち、寺に籠って斎戒沐浴する。そうせぬ限り、つまり身の穢れを落とさぬままみだりに山へ踏み込めば、山神様の怒りを買うと信じているのだ。

 

 多くの「山の民」がそうであるように、三面村の人々も山を神聖な領域と認め、その清浄さを守るべく様々な努力を払っていたようである。

 

 とりわけ徹底している点は、狩猟目的で山へ踏み込んだが最後、何が起きようと絶対に人間の言葉でものを喋ってはならないという掟であろう。

 

 代わりに三面村の猟師たちは、「山言葉」なる特別の言語で用を弁ずる。

 言語ですら、俗界のモノは持ち込み禁止というわけだ。そういえば神道に於いても、浄闇の中では口を利いてはならないというシキタリがある。「清浄さ」に対する異様なまでのこの執念は、あるいはその流れを汲むものか。

 

「歌聖」柿本人麻呂を祀った人丸神社が「カキノモト火トマル」という語呂から転じて、いつしか火難除けの神様として崇められていた例をみよ。時の流れは思いもよらぬ彫琢を万事に対して施すものだ。

 

 

 

 三面村の熊猟は、主に落とし穴を用いて行われる。

 

 

 

 熊の通り道に仕掛けるか、仕掛けた場所に熊を追い込んでかから(・・・)せる(・・)といったふうなやり方だ。

 獲れた熊はそのまま山中で解体し、肉は猟師たちの食料にして皮と胆だけを里へ持ち帰る習慣(ならわし)である。ただ、その年はじめて獲れた熊だけは肉を村中の者で分け合い喰うのも、また掟の定めるところだ。

 

「いまの声がそうですよ」

 

 先刻某の臓腑を揺さぶった例の「叫び」は、その「初物」が獲れたことを報せるものだと、小池村長はさも嬉しそうに言うのであった。

 

 その日の夕めしの膳部には、特別の好意で訪客たる某たちにも熊肉を煮込んだ汁物が饗せられる運びとなった。

 喰ってみると、味はもとより、胃の腑の底からじんわりと熱があふれだし、指先まで浸潤してゆくのが感ぜられて得も言われぬほど快い。こりゃあいい、さだめし精がつくだろう、と某は大いに舌鼓を打った。

 

 

 

 一行が三面村を離れたのは翌朝である。

 

 

 

 払暁であるにも拘らず、出発に際して村長は例の法螺貝を遠慮会釈なく吹き鳴らし、それを聞きつけた村人たちがこぞって戸外へ走り出て、彼らを村端の渡し場まで見送った。

 外界から隔絶されたこの地に於いて、他所からの訪ね人が如何に貴重で珍しきものかよくわかる。

 

「どうぞ、また来てくださいな」

 

 そんな言葉が、村長をはじめ居並ぶ人々の口から次々に洩れた。某にとって、これほど人間の温かみというものを実感した瞬間はなかったろう。どんなに意固地な人間でも、ここまで丁重にもてなされれば胸奥を波打たせずにはいられまい。

 

 

 

 その三面村も、昭和六十年、奥三面ダム建設により地上から消えた。

 

 

 

 かつて村があったと思しき場所には、ダムによって新たに誕生した人造湖、あさひ湖が静かに天を仰いでいる。

 村人たちはそのほとんどが村山市に集団移転し、そこでの生活に溶け込んでいった。

 

 ところで、小池大炊之助村長が大事にしていた例の帳面は、その後どうなったのだろう。

 

 彼らの間でのみ意味が通じた「山言葉」の詳細と同じく、もはや確かめる術はない。

 

 





今はもう、日本中が神様の墓場なのである
(上海アリス幻樂団『伊弉諾物質』ブックレットより)


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