安定した定職を求めて   作:ごすろじ

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今回でディートフリートさんの出番は終了です。

少し主人公のイラストをアニメ調に修正しました、笑顔も素敵になったぞ。

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ふぅ…焦りました。

危うくこの娘に人殺しを許してしまう所でしたよ。

 

戦いも、血を流すのも、盗みも、詐欺も、恐喝も、犯罪も貴女がしたいと言うのであれば尊重しましょう。

 

私は別に善き人ではありませんし、その辺の許容範囲はかなり広いです。

生まれ変わってからは生きる為に善人から悪人まで様々な人を自分の都合だけで害してきました。

必要に迫られた面もありましたが、その事に対して罪の意識は抱いていません。

人殺しに罪悪感を持たない私は間違いなく悪人です…ですのでヤりたいのならどんな事でもオールOKです。

 

――ですが殺しはダメです。

 

こればかりは肯定も尊重も出来ません。

 

情緒も育ってない内から人生の経歴にキル数なんて項目作っちゃう人間は後々絶対後悔します。

 

殺したいなら私が代わりに殺してあげます。

 

出来れば人殺しなんてしたくありませんが、貴女にお願いされればきっと息を吸う様に実行出来てしまうと思うので…そういうことは私みたいなヒトデナシに押し付けて貰えると嬉しいです。

 

正直そんなに強くもありませんし、絶賛落ち着いた職もない私ですが…貴女が望むなら叶えてあげたい。

 

私の胸の中に感じるこの温もり…この娘はとても暖かいですね。

貴女は私の世界…。

 

灰色に褪せてしまっていた景色をまた一瞬で色づかせてくれました。

疲れだって吹き飛んで、また昔みたいに世界が輝いて見えるんです。

 

あぁ…駄目ですね…これは…。私、また依存しています。

 

生まれ変わって暫くは大丈夫だった筈なんです。

だからまた、こんな状態にならないように今度こそ安定した仕事に就こうとしたんですが…。

結局こんなザマです。

目先のお金に飛びついて同じレールを辿るなんて、自分で呆れる位学習出来てませんね。

 

貴女を初めて見た時…あの子かと思う程雰囲気がそっくりでしたが、貴女は貴女です。

全然違う生き物でした。

そもそも犬と人間を見間違う私の頭がおかしいですね。

 

でも不思議な程あの子と似てる所もあって…ほっとけません。

だから…申し訳ありません…やっぱり少し重ねて見てしまってます。

 

だから好きなだけ噛んだり、刺して…甘えてくれて構わないんですよ。

 

代わりに‥どうか貴女が私を必要としなくなるその日まで…見守らせて下さい。

 

 

 

あ…大佐、いえ忘れてませんよ。

今から声をかけるつもりでしたし…本当ですよ?

 

え、なんですか?

 

殺せ?

 

ディートフリート大佐が胸に抱いたこの娘を指さして私に命令してきます。

雰囲気からして、どうやら本気のようですが…

 

――巫山戯ないで下さい、その可愛い三つ編み引っこ抜かれたいんでしょうか。

後、殺気立たないでいただけますか?この娘が起きてしまうじゃありませんか。

 

 

はぁ…成る程…殺されそうになったと。

 

まぁまぁ、落ち着いて下さい大佐…ちょっとじゃれただけですよ。

誰も死んでません…子供がナイフ持って暴れ回って刺しちゃうなんて貧民街のスラムではよくある光景です。

 

私?…私は良いんですよ寧ろ嬉しいですから。

なんですかその変顔…はぁ、よく動く表情筋が羨ましいですよ大佐。

 

 

おやおや…お腹の血が止まりませんね。

この娘に殺意なんて欠片も無かったせいで結構抉れてしまっています。

 

何時もの戦場であれば軽症程度で済みましたが、これは流石に無視出来ません…治療しないと出血多量で死にますね。

 

殺すってことの意味もわからず相手を殺そうとすることができるこの娘は私の天敵かもしれません。

まぁそれでも、子供の筋力で私の天然コルセットを完全に貫くことは出来なかったみたいですが。

 

といいますか大佐…早く銃を下げください。

身体が興奮して血が全身に巡り始めてます。それがそのまま出血量に繋がってしまうんですから、ちょっとは労ってください。

 

大佐が何か言ってますね…すっごくやつれていますけど、大丈夫なんでしょうか。

B級ホラーのゾンビみたいに目の窪みが浮いて見えますよ。

 

えぇ…私が大佐達を殺す…ふふ、面白いジョークです、思わず笑ってしまいましたよ大佐。

 

しかめっ面で言われると本気に聞こえますよ…超絶ブラック労働に文句一つ言わず従事してきたこの私に対して、そんな巫山戯たことを言ってしまえるとは…

 

――今のは流石にちょっとイラッときました。

 

…なんて一瞬考えてしまいましたが、ありがとうございます大佐様。

一体なにがあってこんな状況なのかまるで理解出来てませんが、怪我人を気づかって直ぐに銃を下ろしてくれる大佐は素敵ですよ。

それと、私がいない間にナニカするの止めて下さい。現状がわからず意味不明で混乱してます。

 

大方大佐から無理矢理触ろうとして噛みつかれたんでしょう。

このロリコン。

 

っと、こんなことしている場合ではありませんでした。今私の胸の中で微かに震えましたね。優先すべきはこの娘です。このままでは風邪引いてしまいます。

 

急いで濡れた身体を拭き取ってあげないといけません。

って、大佐がまだ何か言っておられますね…。

 

命令違反でこの娘ごと纏めて監禁ですか…え、船長室使ってもいい!?

ふふ、顔に似合わずツンデレですか大佐。

 

 

ということは…ライデンに着くまでこの娘の御世話が出来る。

最高ですね…しょうもな…たいく…大事な大佐様の護衛を離れることは心苦しいですが、大佐様の気遣い…遠慮なく受け取らせて頂きます!!

 

ほぉ…狭いですが個室はやはり快適です。

ソファーに寝かせて…服はビショビショですね。水気と血を拭き取って…取り敢えず乾くまでって…私の血でドロドロですね。これではもう着れません。

取り敢えず私の予備の服を羽織らせておきましょう。

 

ブカブカですが可愛いから…ヨシ!

 

大佐、ちょっと医療品使わせて頂きますね…。

 

治療するにしても、血生臭くなるといけないので船長室から外に出ます。

 

頑丈なだけが売りの私の身体でも死ぬ時は簡単に死にます。

ファンタジーな無敵さなんてありません、銃弾で肉は抉れますし、火災で火傷もします。

実際戦地をたらい回しされていた時は生傷が絶えませんでした、今も手に残った古傷の跡が沢山あります。

お陰でこういう傷の処置には慣れたものですよ。

 

ランプ…縫合用の糸…アルコールとガーゼ、後は包帯。

 

麻酔?大丈夫ですよ大佐、私の身体はそういう類のものを一切受け付けない代わりに痛覚がかなり鈍いみたいなんです。

 

つくづく戦闘向きな身体ですね。まぁ…痛みを感じない訳ではなくて普通にかなり痛いですが。

 

さて、やりますよ――

 

まず血を拭いて…消毒して…縫合して…痛ぅ゛~~~ッ…か、完了です。

後はガーゼを押し付け包帯を巻いて…終わり。

 

手早く処置を終わらせて立ち上がります。

あの娘が起きているかもしれませんし、急ぎましょう。

 

では大佐失礼します。備品を使わせて頂きありがとうございました。

大佐…あの、まだ何か?

 

私の目標ですか?

それは…勿論充実した衣食住、生活基盤を維持出来る安定したお仕事ですよ!

ブラックはいけませんけど、働かなくていい訳でもありません。前世も今生も働き詰めだったせいか…逆に働いてないと落ち着かないんです。

 

後はあの娘についてですか?勿論初対面ですよ。ただ私の命も今も未来も夢も全部捧げてでも幸せにしてあげたいだけです。

 

大佐にもそういう人がいるようで安心しました。

 

よく考えれば大佐と世間話をするのは初めてでしたね。楽しかったです。

 

立ち去ろうとする私に大佐は再び引き止める様に声かけてきます。

ありがたいことに大佐はあの娘の引き渡し先を教えてくれました。

 

本当は私が御世話出来れば理想なんですけど…文なし家なしの私に子育てなど無理難題も良いところですからね。

 

武器として弟さんに引き渡すなんて言ってましたが……何も言いませんよ私は。

言い方はあれですが、行き先を伝えてくれるだけ大佐なりに私を気遣ってくれているのでしょう。

海軍であるディートフリート大佐に陸軍所属の私を自由に動かす権限は無いでしょうし…会いたければ自分でどうにかしろと言った所でしょうか。

 

勿論です、船を降りたら即効で陸軍省に駆け込み、私をあっちこっち飛ばしまくる中将様に物申して差し上げますよ。

 

 

☆☆☆

 

 

船上に殴打の音が絶えず鳴り響く中…ディートフリートは、何もすることが出来ずたた呆然と立ち尽くしていた。

 

目の前で殺害を命じた小娘相手に部下である船員達が蹂躙される様を見ていることしか出来なかった。

 

ここ数週間で起きた出来事のどれもがディートフリートという男の積み上げてきた人生の経験則に当てはまらない滅茶苦茶なものだった。

なにもかも未知で既知なことなど殆どなかった、ゆえに対応出来ない。

 

航海、戦闘の指揮、不測の事態に対応する確かな技術と柔軟性を持ち合わせるディートフリート。

しかし体格差、身長差の優位性をもろともせず殺しかける十歳程度の子供など知るはずがなかった。

 

こんなモノをあらかじめ予想して対応しろなど無理に決まっている。

ディートフリートはあまりにも理不尽な現実に唾を吐き捨てたい衝動に襲われた。

 

ライフル銃の弾丸を躱したかと思えば、荒波で揺られる船上を神業がかった体重移動で跳ね回る。

体格差は軽く二倍は違うだろう大男に対してどうして殴り掛かれる?恐怖はないのか?

突き出されたナイフの軌道を完全に見切るなど子供に出来ていい芸当ではなかった。

 

全て理解を超えていた、思考が完全にフリーズする。

眼の前の問題に対してどう対処すればいいかディートフリートには…まるで解らなかった。

 

だから少女が船員の一人からナイフを奪い走り出した時も何も出来なかった。

ただ、船内からアレイダが飛び出し少女と船員の間に身体を滑り込ませ刺される姿を見ていることしか出来なかった。

 

ディートフリートの耳に少女とアレイダのやり取りが一字一句が入ってくる。

網膜を通して映し出される、苦痛一つ漏らさず恍惚した表情で血を撒き散らすイカれた女の姿。

 

聞こえるもの、見えるもの、感じるもの…全てが理解の限界を超えていた。

 

猛烈な吐き気が襲ってくる、ディートフリートは今すぐにでも胃液を海にぶち撒けたい気分だった。

 

アレイダが少女を横抱きにし立ち上がると、ディートフリートの方を見て口を開いた。

 

「この娘…ちょっと興奮してしまったようですね、大丈夫でございましたか大佐様」

 

それは、まるでペットが粗相をしてしまった程度の気軽さだった。

 

(巫山戯るな…この惨状を見て、どうも思わないのか?)

 

その言い分は余りも…ディートフリートの物事の判断基準から掛け離れていた。

頭が正常に機能しない、ただ胸の内から溢れる防衛本能のままに声を荒げる。

 

「殺せ…今すぐそいつを此処で殺せッ゛!!」

 

(化け物の基準も道理も知ったことか、貴様がまだ俺の護衛であると言うのなら…命令に従えッ゛!!)

 

「そいつは俺の仲間を殺そうとした…命令だ、俺の護衛であるお前が殺せ」

 

しかしアレイダは何も答えない。

暗に無視すれば命令違反であることを仄めかしたにも拘わらず、アレイダの口から了承の言葉は出てこなかった。

 

「………」

 

彼女は少女の殺害命令から数秒置いて周囲を見渡すとは口を開いた。

 

「大佐様…御言葉を返すようでございますが、お見受けしたところ誰も死んでおりませんし、此処はどうか穏便にことを済ませて頂けませんか?」

 

口調は聞き慣れたおっとりとした落ち着いたものだった。

しかし、同時にその言葉がディートフリートのうなじ周辺に強烈な寒気を走らせた。

 

(――ッ゛!?な、なんだコレはッ!?)

 

その言葉にはまるで首を斬りつける様な凶悪で濃密な幻覚が伴っていた。

ディートフリートは何度も何度も首を手で触り、首が繋がっていることを確認すると安堵の息を漏らした。

 

「子供の癇癪一つで騒ぎ立てるのは…大佐様の沽券を傷つけるだけでございますよ」

 

こんなもの詭弁ですらない、ただの脅しである。

 

(化け物がッ゛…死にたくなければ言う通りにしろとでも言いたいのか)

 

「なら、その血はなんだ…ソイツはお前も殺そうとしていた筈だぞ」

 

「大佐様それは誤解というものです。この娘はただ私に甘えてくれていただけなのです」

 

会話が成立しない上に、口から紡がれる言葉の一つ一つ、表情一つ一つがディートフリートにとって耐え難い程悍ましく気色悪い。

アレイダは母が娘を見るような、姉が妹を見るような、主人が飼い犬を見るような一般的な愛情を数倍…数十倍に練り上げた様な粘着質な笑みを浮かべ頬を赤らめていた。

 

もう何も考えたくないディートフリートは最終的に妥協した。

 

今、ディートフリートがしなければならない最善の行動、それは意味のない問答を繰り広げることではなく、アレイダから命の保障を引き出すことだ。

 

何時暴れだしても不思議ではない凶獣の口から言質を引き出す必要があった。

 

「……いいだろう、だが俺を含めて部下達に手を出さないとを此処で誓え」

 

アレイダは化け物ではあるが、言葉の通じる化け物だ。

ならば出された条件に従う義理程度は持ち合わせていても不思議ではない。

 

 

「……フフ、冗談を言う暇があるなら…銃を下ろしてくれませんか…大佐」

 

――嗤った。

今まで一切乱れなかった鼻につく程丁寧な口調が乱れ笑っていた。

そして、その笑みの中には明確に…ディートフリートに対する怒りの感情を滲ませていたのだ。

 

少女以外を写していなかった瞳に初めてディートフリートが写り込んでいた。

 

(―――ぁ―が――ッ゛!?)

 

全身の細胞が悲鳴を上げる。

膝がガクガクと小刻みに乱れ、視界はぐにゃぐにゃと溶けだし正常に認識出来なくなっていく、周りの船員達に異常が見られない所をみるにどうやらディートフリートにのみ、向けられているらしい。

 

 

口内がカラカラと乾き言葉が出ない、ディートフリートは未だ少女を警戒し銃口を向ける船員になんとかハンドサインを送り銃を下ろさせる。

 

「感謝致します、やはり大佐様はとてもお優しいですね…ご安心下さい、私が皆様に手を出すなど誓ってございません」

 

そして、消えた。

死へと強制的に向かわされていく絶望的恐怖も…瞳に写った自身の姿もなにもかも消えていた。

 

ディートフリートはこれ以上下手なことを喋れなかった。一体何処に地雷が眠っているかわかったものじゃない。

ならば後は…アレイダの関心を集める少女を利用する以外に方法はなかった。

地雷原を渡るように慎重に…言葉を選びながらディートフリートは口を開く。

 

「チッ…無駄口を叩くな、貴様が俺の命令に反したことは事実だ」

 

「それについては反論致しません…私は明らかに大佐様の御命令に反する言動を取っておりました」

 

「貴様が抱えるソレも、どんな理屈を捏ねようと俺の部下を殺そうとした事実に変わりはない」

 

「……それで、どうするおつもりですか?」

 

「…貴様達をライデン港に到着するまでの間監禁させて貰う…異論はないな?」

 

ディートフリートは決して下手に出てることなく、それでいてアレイダが喜んで納得するであろう提案をする。

あの胸に大事に抱えているモノを引き合いに出せば必ず頷く。その確信がディートフリートにはあった。態々化け物の内面を考慮してやる必要などない。

 

「ですが私達を監禁出来る個室というと…大佐様の…」

 

「船長室だ、文句でもあるのか」

 

「いえ、謹んで…処罰を受けさせて頂きます。」

 

(よし、想定通りだ…)

 

内心柄にもなくガッツポーズを決めたい気分だった。

何故ならこれで朝昼晩常に背後に張り付いていたストーカー共と距離を取ることが出来るのだから。

 

 

アレイダは早足に船内に入り、自身の所有物であるバッグをロッカーから取り出すと、急いで船長室へと向かう。

探る様に辺りを見渡した後、部屋に備え付けられたソファーの上に優しく抱えた少女を寝かせていた。

 

(腹立たしいしいが、コイツらから開放されるのなら止む無しか…)

 

「あの、大佐様…」

 

なにやら伺うような口調の声が聞こえてくる。

ディートフリートがアレイダの方を見れば、そこにはタオルを片手にズブ濡れの服を着た少女に手をかける姿があった。

彼は盛大に眉を顰めた後、溜息と共にアレイダ達に背を向けた。

 

(化け物共の裸体など此方から願い下げだ)

 

腕を組み苛立った様子で指先をトントンと弾ませる彼の背後からはタオルの擦れる音が聞こえてくる。

 

「感謝します大佐様、もう振り向いて頂いても大丈夫でございますよ」

 

再度視界を正面に戻せば陸軍に支給される軍服を着た…いや、ぐるぐると簀巻きにされた少女がいた。

心地よさそうに寝息を立てている所を見るになかなかに快適なのだろう。

 

「申し訳ありません大佐様…少々船の備品を使用する許可を頂けないでしょうか?」

 

起きることなく寝息を漏らす少女を確認したアレイダは、立ち上がりディートフリートの元へ近寄ると血に塗れた軍服を摘み、医療品の使用許可を求めた。

 

(この女の化け物具合を見るに拒否した所で死ぬとは到底思えん。だが、このままいけば後数日で全て終わる…浅い望みに掛ける意味もないか…)

 

「許可してやる、ついて来い」

 

 

ディートフリートは医療品が備蓄された棚の鍵を開けると、アレイダにさっさと取れと言わんばかりに雑な手振りで促す。

彼女が取り出した物はランプ、アルコール、縫合糸、ガーゼ、包帯の五種類。

 

「おい…針と麻酔はどうした、まさか麻酔無しで縫うつもりか」

 

ディートフリートは呆れたように医療用の針、局所麻酔と注射器を指差しアレイダへと嫌味混じりの注意をする。

 

麻酔が無ければ激痛により傷口を縫うことなど出来はしない。実行したとしても人間の防衛本能が許しはしないだろう。そんなもの誰もが当たり前に持つ一般常識だ。

だからディートフリートも面倒だと思いながらも最低限の注意は口にする。

 

しかし、彼はアレイダという女の化け物具合を見くびっていた。

 

「お気遣い感謝します…ですが、私の身体にその手の薬の効果は期待できません」

 

その言葉にディートフリートはアレイダと初めて会った日のことを思い出した。

確か人一人を容易く死に至らしめる猛毒を一息で飲み干し平然としていた筈だと…。

 

(麻酔も一種の毒だ…この女に効く筈もないか)

 

だったらどうするつもりか。

ディートフリートがその質問を投げかける前にアレイダは行動を開始した。

 

ランプにアルコールを注ぎ火を灯すと、軍服を脱ぎ捨て患部にアルコールを注ぎ消毒を施した後、血をタオルで入念に拭き取っていく。

 

(醜いな…射創、火傷、縫合の後、一体どれだけある)

 

アレイダの上半身、そこには夥しい程の戦闘による爪痕が深く刻まれていた。

それは傷痍軍人など見慣れたディートフリートをしても思わず目を背ける程酷いものであった。

患部を消毒し血を拭い終わると、アレイダの腹には肉が大きく抉れた縦穴が五つ姿を現す。

 

(内蔵までは達していないようだが…麻酔なしでの治療は不可能だ)

 

「それでは手早く治療してしまいますので、少々お待ち頂けますか大佐様」

 

そう言ってアレイダは手慣れた手つきで針へと縫合糸を結びつける。

しかしその針が問題であった、なにせその針は治療用でもなんでもない――

 

(釣り針だと…ッ)

 

そう…釣り針だった、しかも通常の縫合に使う針の二、三倍ぶっとい代物である。

針の返しは削いであるようだが頭がおかしいとしか言いようがない。

 

釣り針をアルコールで消毒し、ランプで炙り滅菌処理を施す。

 

わなわな震えるディートフリートを他所にアレイダは治療を開始する。

タオルを口に噛み締め、苦痛に顔を歪ませながらも数分程度で一つの傷口を縫い上げていく。

 

(痛覚が無い訳ではない…)

 

むせ変える鉄の臭いが周囲に漂い始める、治療の為に身体を縫い上げる針が更に身体を傷つけ、糸を通した穴から新しい血が漏れ出し滴り落ちていた。

 

「―――ッ゛ぅ゛!!」

 

ドクドクと溢れ出るマグマの様に熱い鮮血。

まるでアレイダが感じている痛みを体現するように噴き出し、止まらない。しかし彼女の手は施術中一切止まることはなかった。

 

そうして刺し傷は全てテンポよく縫い合わされていく…数十分後、腹部に出来上がった大穴は全て綺麗に縫い合わされ、施術の際に発生した流血の処置も終え無事に治療は完了した。

 

腹部を覆うようにガーゼを軽く押し当て、胴体を包帯を巻き上げると、血濡れの軍服を羽織り直しアレイダは何事もなかったかのように立ち上がる。

 

「お待たせ致しました大佐様」

 

立ち上がったアレイダはテキパキと血を拭ったタオルや使用済みの医療品を処理していく、その動作は自然体で、とても五つの刺傷を縫い合わせた後だとは思えなかった。

 

「それでは…戻りましょうか」

 

もう用は済んだとばかりに立ち去ろうとする彼女をディートフリートは呼び止めた。

 

「貴様…そうまで身をすり減らし、血反吐を吐いた先に一体何を望んでいる」

 

「誰しも現状をより良くするべく勝利や栄光を願い生きている。そのために研鑽と努力を積み上げる。そうしてまで手にしたいものがあるからだ…それを、貴様は何だ…まるで理解が出来ん。何を欲しがってそんなザマになる」

 

「目的は殺しか…?殺して、殺し尽くして、その先はなんだ?戦争が終結した後もまだ殺すつもりか」

 

矢継ぎ早に飛ばされる彼の問い詰めるような質問の数々にアレイダは振り返り口を開く。

 

「大佐様、私の願いなど些細なものでございます」

 

「ただ自身の居場所を得たかっただけ…誰だって安心出来る自分だけの居場所というものを求めるものでございましょう?」

 

「……」

 

ディートフリートは何も答えない、拍子抜けする程平凡な願いだった。

そんなもの望まずとも持ち得ている人間がほとんどだ。多くは家族、余程劣悪な両親の元で育てられない限り子は親に拠り所を見出し、そして平凡に要領よく生きれば学校や職場、自身の存在を肯定してくれるコミュニティーなど幾らでも築けるはずだ。

 

少なくとも全身を傷まみれにし、数多の死体の山を築いた上に望むものとしては到底似つかわしくなかった。

まだ殺し自体が目的と言われた方が納得というものだ。

 

「私はそれがないと駄目になってしまうのです。過剰でも不足でもいけません…弱い私は恐怖で震えてしまうのです。ですので私が求めるものは一つだけ、安心出来る居場所。それさえあれば何も不満はありません」

 

しかし、切実に語る言葉には確かな真実があった。

ディートフリートにはアレイダが話す内容が一ミリも分からない、ただ無感情に殺しを愉しむ化け物でなく、その行動には一定の意味があることだけは辛うじて理解出来た。

 

「…なら、あの子供はなんだ。何の関係もない、何にも興味を示さない貴様が何故そうまでする」

 

アレイダの腹部を指差し、最も疑問であったことを聞く。

言葉も介さない獣をなだめる為だけに無抵抗で腹を刺し貫かれるなど狂気の沙汰である。

それが敵意を向けた相手を躊躇なく始末する機械が如き冷徹な女なら尚の事。

少女が彼女の不鮮明な目的に関わりがあるとは到底思えなかった。

 

「大佐様…貴方様にとって命よりも大事なモノはございますか?」

 

答えになっていない。

しかし彼は気紛れに答えることにした。

 

ディートフリートは考える。自身の命よりも大事な存在、そんなものがあるのかと自問する…が、案外簡単に見つかった。

それは誇りだ。戦場で自身が死の瀬戸際に立たされたとしても決して命乞いも諦めもしないだろう。

家族だ。絶縁同然の母…年々弱り小さくなっていく背中を見ていると胸が苦しくなる。そして弟…アイツが死にかけているのを想像すれば、不思議と自分を犠牲にしてでも助けるのだろうなと思う。

 

「色々想像なさっているようですね…大佐様が思うソレこそ私にとっての彼女なのです」

 

「あの子供と面識があったのか?」

 

成る程、過去どこかで面識があり、ディートフリートが考える様な大事な存在であったなら先程の行動の意味にも一考の余地が生まれる。

 

「いえ、初対面です」

 

だが、そんな考えはキッパリと否定される。

ようやく、この化け物に対し共感出来る何かを見出せそうだと思った瞬間にこれである。

 

ディートフリートは額に太い青筋を浮かべながら、苛立った様子でアレイダを睨みつける。

 

「貴様、巫山戯ているのか?」

 

どこの世界に血の繋がった家族と出会って間もない子供に同等の価値を見出す奴がいる。

ディートフリートの価値観で考えるのであれば、一切相容れない馬鹿げた考えだ。

どれ程初対面の印象が良くても、それが命を捧げるに値するなど絶対に起こり得ない。そんな戯言をほざく奴は詐欺師か狂いきった狂人くらいだろう。

 

「至って真面目です。大佐様に対し物申すことはあっても虚偽を口にすることは決してございません」

 

「それは貴様の命、欲したモノ、今ままで積み上げた全てよりも見ず知らずの子供を優先するということだ…本気で言っているのか?」

 

「勿論でございます、彼女からすれば一方的で迷惑かもしれませんが…この命を懸けて幸せにして差し上げたい。その為なら自身の過去、これからの全てを投げ捨てても構わない。そう出来ると信じております。こんなにも身勝手で自分本位で性根まで腐りきったどうしようもなく弱い私に彼女は生きる意義をくれたのです」

 

もうディートフリートはこの女を理解しようとすることを放棄した。

この女の思考は複雑怪奇、同じ人間のものとは思ってはいけない…そんなことはとうに分かっていた筈なのに、いざアレイダの口からその考えを聞かされ、改めてディートフリートは女が常人の理解が及ばない化け物なのだと再認識させられる。

 

しかし喜悦に濁った瞳を輝かせる女の言葉から大事なことはしっかりと理解出来た。

つまりあの少女を抱え続ける限り、この女が地獄の果てまで這いずり回ってでも来るということだ。

 

「だから刺さされても文句など無いと――もういい。狂人の戯言を聞く気はない。ライデンの港に降りた後二度と俺に近づくな。そして関わるな」

 

(…ギルベルト…先に謝っておく、すまない)

 

「あの子供は俺の弟であるギルベルトに引き渡す。武器としてだ。だから俺の手元から直ぐに離れると思っておけ」

 

アレイダにとっての特級の地雷である少女。

彼女の胸の内を占めるそのぶっ壊れた比重を知れたのなら、手元に置き続けるなどという愚行は犯さない。

敢えて彼女の逆鱗を煽る様にその行き先を告げる、これで彼女の興味はディートフリートから離れ…弟であるギルベルトの元へと向かう。

 

ディートフリートは内心弟に対し酷く申し訳ない気持ちを抱きつつも、胃潰瘍寸前の胃の痛みには逆らえなかった。

 

「……はい、畏まりました」

 

(引き渡す際に忠告程度はしておくか…どんな手を使ってでもギルベルトの部隊に潜り込もうとするだろうこの女のことを…)

 

 

☆☆☆

 

 

少女が目覚める、其処は柔らかいソファーの上で身体にはブカブカに布地を余らせたサイズ違いの服が着せられていた。

 

「……」

 

その目は半開きで寝惚けており、髪はあちこち跳ね上がっていた。

 

不思議そうに辺りを見渡し、眠りにつく前のことを思い出す。

骨を蝕む雨風の寒気、全身を燃やし尽くす熱い血の熱、しかしそれらは全て綺麗になくなっていた。

 

そしてあの、暖かい眼差しも消えていた。

そのことを理解した途端、少女は何故か身体がソワソワと落ち着かなくなる感覚に襲われる。

 

それは不安。頼る存在などいなかった少女が初めて感じた無償の愛と慈愛の感情が喪失したことによる不安が胸の内から押し寄せていた。

 

少女は身体に纏った緑の服をギュと抱き寄せる。その服から微かに香る覚えのある血の臭い。それに包まれていると…心が落ち着きとても安心出来た。

 

――バタン

 

不意に聞こえてくる扉の閉まる音。

少女は驚いた様に全身を少し揺らすと、服を頭からすっぽり覆い被さり身を縮め、音のした方を油断なく警戒し始める。

 

気配が迫り、伸ばされた手が肩に当たった瞬間

 

ー―ガブゥッ!

 

噛み千切る勢いで思いっきり噛みついた。

手からはギチギチ肉を磨り潰す嫌な音が聞こえ、赤紫の歯型が広がっていく。

 

「おやおや…貴女は相変わらず可愛いらしいですね」

 

それはとても穏やかな声だった。ただひたすら愛情に満ちた安心させる声。

最後に見た光景となにもかも変わらない…あるがままの少女を瞳に写し、優しく頭を撫でてくれた。

 

少女はゆっくりと手から口を離していく。ニコニコと笑みを浮かべる彼女の手には痛々しい歯型が残っていた。

 

それを見て少女は先程よりもっと胸が苦しくなる。

やってしまった。取り返しのつかないことをしてしまった…言葉に出来ない後悔、理解できない感情が少女の胸を締め上げ痛ませる。

 

知らず知らずの内に少女は下を向き…きつく瞼を閉じていた。

殴られ、蹴られると思っていた。芸を仕込まれるまでに経験してきた全てこそが少女の持ち得る判断基準だ。

彼女は飼い主ではない…しかし飼い主や大人に逆らえば決まって躾けが待っていた。食事だって丸一日抜かれた。

ならば同じ様に彼女からも何時硬い拳、冷たい靴底の感触が飛んできてもおかしくないと考えていた。

 

しかし何時まで経っても痛みは来ない。感じるのは頭を撫でる手の感触だけ。

ゆっくりと顔を上げる…そして目が合うと少女は胸が凄く軽くなった。

その瞳には許しがあった。庇護の対象に向ける何処までも甘やかすような深い愛情があった。

 

「優しい娘ですね…ほら私は痛くもなんともありません。その証拠にぎゅぅ~~っとしてしまいますよ。貴女さえいてくれれば…私は何時でも元気百倍でございます」

 

少女が苦しそうに腕や脚をバタつかせるのもお構いなしに全身を抱きしめる。

安らげる抱擁だった…数分、数十分と長い間ずっとそうしていた。

 

最初こそ驚いたように暴れていた少女もだんだんと落ち着いていき、落ち着ける匂いを纏う彼女の胸元にグリグリと鼻先を押し付けていた。

 

「貴女に名前をつけて差し上げたい、呼び合いたい。ですが私にそんな資格ありません…ですので、何時か貴女を表す名を得たのなら…どうか、名を呼び抱きしめさせて下さい」

 

 

☆☆☆

 

 

そして数日が経ち、船はライデン港へと無事到着する。

 

アレイダは少女との束の間の別れを惜しみながら陸軍省へと猛スピードで走り去っていき、ディートフリートは病院に駆け込み数日入院した後、少女を弟の元へと丁重に送り届けた。

 

 





無事お労しい兄上は病院に駆け込み治療を受けることが出来ました。
なお胃は既に爆発していた模様。

どうでもいいですが、アレイダさんは依存した相手を崇拝するタイプの変態です。

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