ふたり、逃避行のお話です。

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足りないふたり

 ごうごう。冷たい夜の風が、寮の窓を叩いていた。まるで、彼女が行うこれからのことを非難するように。

 その少女は、ルームメイトの穏やかな寝息を確認したのち、静かに布団からするりと抜け出した。分厚い布に籠った熱が、小柄な彼女の存在であった熱そのものが、空隙を突いて漏れ出す。零れ出す。

 音を立てぬよう、上着に袖を通す。ベットの下に隠していたリュックサックを滑らせるように引き出して背負う。しゃか、と化学繊維の擦れる音が小さく部屋に木霊した。

 そして少女は窓に近づく。カーテンの内側に入り込み、クレセント錠に手をかけて窓をひらいた。ほんのわずか空いた隙間に風が流れ込み、ぴゅうと笛のような高い音を鳴らす。少女はどきりとした。風の震える音そのものに驚いたのではない。同室の者が目を覚まさぬか焦ったのだ。

 そうして窓は完全に開け放たれた。逡巡は一瞬。少女は部屋から飛び出した。

 彼女と入れ替わるようにして侵入してきた夜の空気が、ただ部屋に残った。

 包むべきもののない布団は、とうに温度を失っていた。

 

 

 △▲△

 

 

 紛れもなく、それはただの直感だった。

 ノートパソコンを叩く手を止める。寮の消灯時刻も過ぎた午後十一時頃、外の街灯以外に確かな明かりはない。そんな中でここトレーナー室だけは無機質的な光を放っているのだから、まるで誰もいない世界に唯一残されたような心地になる。

 ふと窓を覗くと、木の葉が風を受けてざわめいていた。僕の心も同じくして、ざわめきに包まれている。

 それは予感。虫の知らせ。形容しがたい不穏な気配とでも言えようか。

 僕はそんな根拠のない勘に突き動かされ、外に出ることを決意した。

 パソコンを閉じる。部屋の電気は……消さなくてもいいか。自販機で何か飲み物でも買ったらすぐに戻って作業を片付けよう。同じ理由で、部屋の鍵もかけなかった。後ろでドアが閉まる。

 すう、と息を吸いこむ。夜はやはり冷えるな。深呼吸をすればざわめきは鎮まるかと思ったのだが、この胸の違和感に、新鮮で冷たい空気は触れてくれない。換気がなされないみたいだ。肺の下半分に何か泥のようなものが詰まっている。

 外は静かで、周りの音といえば時折聞こえる虫の鳴き声ぐらいだというのに、何故こんなにもうるさく感じるのだろうか。

 街灯が僕の歩く影を石畳に落とす。前と後ろ、並び立つそれらに照らされて交錯している二つの影を、ぼんやりと見つめながら歩いた。歩みを進めるとその長さや交わる角度が変化して、だんだん片方は薄まっていく。そして新しい影がゆっくり生まれる。その繰り返し。

 影の輪廻が十数回行われると、立ち並ぶ自販機の前に到着した。ポケットから財布を取り出し、硬貨を入れる。特に飲みたい物を決めずにここまで来たことに気付いたので、一番安い缶コーヒーのボタンを押した。ぴ、がこん。

 またふらふらと歩き回り、目に入ったベンチに腰掛ける。プルタブを開けると、プシュと空気が漏れた。湯気のたつそれを一口流し込む。ああ、味がしない。

 思い出す。彼女のことを。自分が壊した、あの走りを。

 

 GIの大舞台の前に、タイシンは病院に運ばれた。ライバルの成長に焦燥感を煽られ、限界を理解せずに走ってしまったと。彼女は自分の責任だとしていたが、僕の監督不届きであることは明白だった。

 実際のところ、タイシンの体調はずっと前から芳しくなかったのだ。咳き込む姿を見ては、「大丈夫か?」と声をかけていたけれど、本当はその時点で無理にでも医者に連れていくべきだった。後悔を反芻する度に泥が積もる。

 幸いにしてその不調は、競技人生に影響の出るものではなかった。しかし、眼前の菊花賞は諦めなければならない。そう医者にも言われた。ダメなことは、分かっていた。分かっていたはず……なのに。

 

「お願い。トレーナー。走れなかったら、アタシ──」

「……なんにも、なくなっちゃうよ……!」

 

 僕は、止めることができなかった。

 ぐらついた心のまま迎えたその日。菊の花は散った。

 その後、いつも通り彼女はトレーニングをしてくれたのだが、それは形だけのもので、色は抜け落ちていた。なんにもなくなっちゃったタイシンは、気力はおろか、かの鬼脚さえ失ったのだ。全て僕の責任だった。

 

 また一口飲む。奥歯を噛み締めた。黒いため息が漏れる。

 あれから数週、僕への風当たりは強くなった。ネットでの誹謗中傷はまだマシで、ポストを開ければ殺害予告が、なんてことも何度かあった。増やした仕事で短くなった睡眠時間でさえ、まともに眠ることができない日が続いた。しかしそれは当然の報いで、彼女を壊した罪を償うには全く足りないのだ。

 これまではタイシンのことを考えると次々に浮かんでいたトレーニングメニューも、今ではパソコンに打ち込んでは消してを繰り返すだけになった。そこあるのは焦燥のみだった。

 とっくに温くなった泥水を呷った。缶を握り潰そうとするが、どうにも力が入らない。

 近くのゴミ箱に缶を捨て、トレーナー室へ帰ろうとする、が。足が向かない。消さなかった部屋の電気が、やけに遠くに感じられる。

 直感。

 気付けば僕の体は、トレーナー室の真逆へと向いていた。意識の外で歩みが進められる。影が生まれて死んでいく。

 

 何かに引き寄せられるように歩いて少しすると、闇から小さな人影が浮かんできた。それは、感じた引力の正体。

 巡り合わせだとか、結びだとか、そんな言葉が浮かぶ。

 ああ、この為に僕は外に出たのだな、と強く実感した。

 その影は紛れもなく、ナリタタイシンのものだった。

 ざわめきが胎動し、形のあるものに変化し始める。喉の奥につっかえているそれは、気を抜くとえずいて吐き出してしまいそうだ。数週の間ずっと感じていた焦りが、ここで加速する。

 

「……タイシン。なんで、ここに」

「やっぱり、いたね」

「やっぱり?」

「なんとなく、アンタがここに居ると思ったんだ」

「なんでこんな時間に外にいるんだ」

「アタシ、もう走らない。もうトレセンには戻らないから」

「っ、戻りなさい」

 

 叱らなければ。僕には彼女を帰す責任がある。

 

「怒ってるの?」

「当然だ。もう消灯時刻なんてとっくに過ぎてる。しかも一人で、危ないだろう。だからはやく、帰り……」

「嘘つき」

 

 嘘? なにが、嘘なんだ。彼女の仄暗い瞳は、僕を捉えて離さなかった。見透かされている気がする。いや、なにをだ。なにを見透かされている?

 分からない。

 

「本当は怒ってないことぐらい、アタシにも分かるよ」

「だってアンタ、アタシが走らないって言ったことは、なんにも止めないじゃん」

 

「……っ!」

 

 後ずさる。夜風がそよいで、前の方から流れてきた。二人の髪が揺れる。それに乗せられた彼女の甘い匂いが僕の全身を包む。

 その匂いに思わず、目眩がした。ぐらりと視界が歪んで、僕は両膝をついた。

 タイシンがゆっくりと近づいてくる。

 

「ねえ、アタシもう、疲れちゃったんだ」

 ダメだ。

「なんの為なのか分からないまま走るのも」

 来るな。やめてくれ。

「アンタの悪口とか、それで疲れたアンタを見るのも」

 甘ったるい声が僕に触れて、とけて、染みていく。

 彼女はまた一歩近づく。街灯に照らされ、可憐な顔が浮かび上がる。その瞳は濁っていて、ひどく蠱惑的で。

「思ったんだ、アンタが居ればそれでいいって。アンタが居ないと、アタシはダメなんだって」

 

 そんな目で、僕を見ないで。

 

 立ち上がろうとする。足に力が入らない。タイシンはもう目の前にいる。彼女の顔を見上げる形になる。

 頭の後ろに彼女の腕が回った。抱きしめられた、と理解する。顔が彼女の胸に収まっている。僕の胸を満たして、思考を奪う甘い匂い。肺の泥が融けていく。あたたかい。安らぎを感じてしまう。心が揺らいでしまう。

 

「だから」

 言うな、言わないでおくれ。

「おねがい」

 だって僕は、それを聞いたら。

 

 

「逃げよう?」

 

 ──君と一緒に、堕ちてしまうから。

 

 

 

 △▲△

 

 

 

 静寂が支配する夜。駅のホームにアナウンスが鳴り響き、電車の到達を教えてくれた。黄色い線までお下がりください、と。

 周りを見れば、会社員とおぼしきスーツを着た人たちが数人、みな疲れた顔で俯き、スマホを覗き込んでいた。少数とはいえ見事なまでに揃っている異様な光景である故、どこかおぞましい。

 視線の先を僕の左手に滑らせる。そこには、タイシンの小さくて柔らかい手が包まれていた。先の缶コーヒーもかくやという暖かさである。

 彼女は今、その辺の店で適当に繕ったパーカーで耳を隠していた。もちろん、しっぽもだ。時折もぞもぞと布が蠢くのだが、注視しなければ分からない……はず。

 聞き馴染んだ駅の音楽が聞こえ、電車がやってきた。右から強い風が吹いて、肌を震わせる。僕の身体が少しでもタイシンの風よけになっていればいいのだが。

 到着した電車がプシューと音を立て、扉を開く。空気が抜ける音は、区間を走ってきた彼が脱力しているように思えた。皆疲れてんだな。

 

「……本当に、いいんだな」

「いいよ。アンタとなら」

 

 緊張が手を湿らせる。握られる力が強くなったので、言葉の代わりにこちらも力を込めた。

 息を吐いて足を踏み出し、一緒に乗り込んだ。ベルと共に扉が閉められ、僕らの元いた世界が閉ざされる。もう、戻れない。

 近くの席へ隣合って座り、同時に息をついた。

 終電が加速を始める。慣性が、僕をくいくいと後ろへ引っ張った。街の光が遠ざかっていく。

 

「ねぇ、アタシたち主人公みたいだね」

 窓を覗く彼女がそう呟いた。「夜の逃避行、ってやつだよ」

「ああ、確かにな。僕もそんな本を学生の時に読んだ」

「ふーん。今度貸してよ」

「実家にあるけど、取りに行けるかなあ」

「確かに」

 

 意外なまでに穏やかな会話だ。これでも僕は未成年を深夜に外へ連れ出した犯罪者なんだけどな。

 

 逃避行といえば、ということで僕らは終点で降りた。タイシンと僕以外に人は居らず、それがまた非日常を際立たせる。

 宿を探すため少し歩く。あの本の主人公たちはネットカフェで夜を明かしていたが、彼らは高校生で僕は大人。表面がベタついたメニュー表のある個室のソファではなく、立派なホテルのベッドで眠ることができるのだ。

 終点ということもあって駅前に建物は少なく、選択肢は片手の指ほどだったのだが、シンプルな外装のビジネスホテルを選ぶことにした。それ以外はまるでお城のように煌びやかで、とてもじゃないが入れない。

 チェックインを完了し、鍵を受け取る。一つの部屋しか取っていないのは、兄妹か何かに偽装して怪しまれないようにする為だ。……まぁ、いわゆる建前だ。お互いに。

 エレベーターが到着する。

 

「さっきはびっくりした。アンタのことだから部屋二つとると思ってた。」

「ちょっと迷ったんだけどね。今のタイシンを一人にはできないやと思ってさ」

「言うね。ま、本当に二つとってたら蹴ってたけど」

「おーこわ。危なかった」

 

 まったく思ってないじゃん。と彼女はくすくす笑う。久しく見ていなかった笑顔。僕がそれにどれほど救われることか。

 少し狭いエレベーターを抜けてドアをいくつか通り過ぎる。ルームキーに刻印された番号は……あった。

 鍵を開け、中へ入った。センサーが反応し、玄関の電気がつく。普段嗅ぐことの無い空気が新鮮で、ワクワクとした気持ちを掻き立てられる。それはタイシンも同じだったようで、さっさと靴をスリッパに履き替えては、電気のスイッチがどこに連動しているかをカチカチと確かめていた。遠征時ぐらいでしか見れない彼女の貴重な無邪気さである。

 遅れまいと僕もペラペラのスリッパに履き替え、奥へと進んだ。必要最低限のものだけが揃っている空間は無駄がなくて気持ちがいい。ベッドのわきに置かれた彼女のバッグの隣に、さて僕もと荷物を置こうとして、財布しか持っていないことに気付いた。あ、少しまずいかも? まぁいいか、ATMは使えるし。

 タイシンは電気ポットの横に備え付けられた個包装のお茶やコーヒーを物珍しげに見つめていた。それを横目に、僕はカーテンを開けてみる。窓から見えるのはポツポツとした灯りだった。決して綺麗な夜景ではないが確かに開放感があり、これはこれで趣があるというものだ。多分。

 二人で手を洗ったあと、交代でシャワーを浴びることになった。お湯を張るのは、こんな時間なのでやめておくことにした。ジャンケンの結果、僕が先に行くことになった。

 

 まだ完全にお湯に変わっていない温いシャワーを浴びながら、僕はため息をついた。

 本当に、これで良かったのか。大人として倫理にそぐわぬ行動であることことに変わりはない。

 ただ、どうしても。

 これが間違った選択だと思えないのだ。ウマ娘の本能から逃げてしまう程弱ってしまったタイシン。僕には目をつぶってやり過ごすなんて、出来る訳がなかった。僕が隣にいなければ、そんな念に捕われる。

 両肘を腿にのせて、まるで抱え込むようにして頭を洗った。その脳内では未だに、ぐるぐると思考が渦巻いている。

「大人として」

「彼女の、トレーナーとして」

 一見同じのようだがその実、真逆の意味を孕んでいる。それはどちらも正しく、どちらも間違っていた。

 僕はそんな問いに、無責任に答えを出せるほど大人でも子供でもなかった。

 体についた泡は、シャワーに流されていく。あまり彼女を待たせるわけにもいかない、はやくあがろう。バスタオルで水を拭き取ったのち、バスローブを身にまとった。

 ドアを開ける刹那、感じる違和感。

 空間全体がしん、と静まり返っている。こころなしか温度も下がっているようだ。何かおかしい。ベッドのある部屋へと走った。

 

 ──タイシンがいない。

 

「……あ、ああ」

 どうして。なんでいない。どこで間違った。焦るな。分かっている。焦るな。分かっている!

 拍動が急速にやかましくなる。頭に一気に血が流れて耳鳴りを覚えた。隣にいなければ。違う、傍にタイシンがいて欲しいんだ。衝動的に襲い来る自責。お前のせいで、彼女はまた居なくなった。うるさい、黙れ。タイシンはきっといるはずだ。

 数秒のうちに何度も自問自答が行われる。それに意味はない。

 どうすれば。どうする。動け。それほど広くない部屋を走り回った。どこにもいない。

 玄関へ急ぐ。途中足をぶつけたが、痛みは追いつかない。

 勢いよくドアを開けた、その先に。

 

「びっ……くりした。どうしたの」

 タイシンが、いた。

 

「あ、ああ……」

 情けない声と共にへなへなと膝から崩れ落ちる。これが安堵というものか、と心の底から理解した気がした。

「なに、ほんとどうしたの」

「タイシンが、いなくなったと思って……」

「ふふ、アタシはいるよ。ここに」

 そうやって彼女は僕の頭を撫でてくれた。

「どう、安心した?」

「ああ。ありがとう」

 彼女には僕が必要。そう思っていたが、実は逆だったようだ。僕には、タイシンしか残っていなかった。そんな単純なことに、今気が付いた。

 

 ユニットバスを僕が占領していたので、タイシンは部屋を出てホテル一階のトイレに向かっていたらしかった。少し考えれば分かったようなものだが、そこまで頭が回らなかったのはやはり焦りや依存によるものなのだろうな。

 タイシンがお風呂に入り、僕はテレビをつけた。時計の針が真上で重なる今の時刻では、やはり大した番組はやっていない。リモコンを数回押した後、諦観めいた気持ちで適当なニュースを見るくらいだった。

 夜逃げしたウマ娘とそのトレーナの速報は入っていない様子。その事にひとまず落ち着きを覚える。やっぱり、トレーナー室の電気は消せばよかった。鍵もかければよかった。そうすれば少しは発見が遅れるだろうに。まぁ、そうしたところで大して変わらないか。

 翌朝になって僕らの失踪に驚嘆する同僚の顔を思い浮かべてみるが、何とも思わない。ごめんね。僕らは身勝手を突き通すことにしたよ。

 がちゃんと音が聞こえた。風呂場のドアの音は響くよなぁ、とぼんやり考えながら振り向く。

「おかえり」

「ただいま」

 タイシンは僕と同じバスローブを着用しているが、僕と違って袖や裾が余っている。厚手のものだからか、より一層彼女の細さや薄さが表れていた。

「さ、乾杯しようぜ」

 僕は小さな冷蔵庫を開け、斜めに入れたジュースを取りだした。実は、部屋に入る前に買っておいたのである。

 コップに注ぎ、手渡す。

「かんぱーい」

「ん、かんぱい」

 後悔するのは、全部やりつくしてそれでもダメだった時でいい。たとえその先が地獄や奈落だとしても、手を繋いで一緒に歩くのがトレーナーの役目なんだ。そう自分に言い聞かせて、喉に絡みつくものをジュースで洗い流した。

 

 だらだらと二人で喋ったあと、電気を消した。今日はもう寝よう。それぞれのベッドに入る。

 ……何となく予想はしていたが、やはり眠れなかった。タイシンは寝たのだろうか。

 まぁいい、横になるだけでも休まるだろう。なんて考えていると、タイシンが僕のベッドに入ってきた。

「ちょ、タイシ……」

 慌てて制止しようと思って、躊躇した。その体が微かに震えていたのだ。

 当然か。彼女もまだ、迷いを振り切れたわけじゃなかったんだ。

「大丈夫だ、タイシン。大丈夫」

 丸くなった彼女の背中をさする。その横隔膜の動きが少し緩やかになると、タイシンは僕の右腕と手首をそれぞれ抱き締め、足で挟んだ。抱き枕のような形だ。

 普段なら太ももの感触やらに惑わされるのかもしれないが、何故か今はまっさらに心が凪いでいた。

 安心したのか、タイシンは眠りについた。僕も間近にある体温に当てられ、段々と微睡んできたようだ。触れ合う皮膚から、僕らの輪郭が曖昧になる。個の境界がとけた頃、僕の意識は黒に落ちた。

 

 

 △▲△

 

 

 温かさの中で目が覚めた。枕元にナツメ球の優しい灯りが見える。

「あれ、起きたのか?」

「……ぅ、ん」

 掠れた声で返事をした。トレーナーは既に起きていたようで、ベッドに腰掛けて片手でスマートフォンを操作していた。もう片方の手はアタシに繋がっている。

「起こしちゃったか、ごめんな。あと一時間ぐらいは寝てていいよ」

「いや、いい。」

 恐らく、興奮で眠りが浅かったのだろう。時計を見るとまだまだ早朝だったが、外の景色は夜と言って差し支えない。

 それにしても、どうしてトレーナーはこんな時間に起きているのだろう。

「あー、早くここも出た方がいいだろ?」

 そうだった、アタシたちは追われる身なんだ。思い出した途端に少し緊張して、鼓動が若干速くなる。酸素が脳に運ばれ、意識が段々はっきりしてきた。

「じゃあ、準備するから待ってて」

「おう」

 ベッドから起き上がり、スリッパを履いた。離した手から逃げる熱が惜しい。

 洗面所に行き、顔を洗う。そのまま寝癖も治してしまおう。ついでに歯を磨こうと、備え付けられた歯ブラシの包装を破いた。普段の遠征では自分のを持ってきていたので、アメニティを使うのは初めてだった。使い慣れたものとの差に違和感を感じる。安っぽいプラスチックの感触だが、文句は言ってられない。

 部屋に戻ると、トレーナーの服が変わっていた。アタシが色々している間にユニットバスで着替えたらしい。

 しかし、どこでその服を手に入れたんだ。アンタは確か手ぶらだったはず。

 タイシンも着替えておいで、と声をかけられた事でアタシの思考は終了し、同じくユニットバスで着替えることになった。ドアを閉め、バックからこれきりの服を出す。ささっと着替えて部屋へ向かった。

「それじゃ、いくか」

「うん」

 真っ暗な部屋にお別れを告げる。一晩ありがとう。

 ドアを背にして、アタシは昨日あけた残りのジュースを飲んだ。温くて甘ったるい。

 空になったペットボトルをゴミ箱に放り込んで、少し先でアタシを待つトレーナーを追いかけた。

 

 

 △▲△

 

 

 まだ星空の見える朝を二人並んで歩いていた。

 風はそれほど吹いていないが、やはり寒い。服の繊維を通り抜けて冷気が伝ってくる。細身だから、なお冷えやすいのだ。

 それにしても、なんだかお腹が減った。いつもの朝ごはんには早すぎる時間だけど、昨夜からの出来事を考えればお腹がすいて然るべきだと思う。

「ねぇ、おなかへった」

「あー、コンビニでもよろうか」

「アタシあそこがいい」

 そう言って、二十四時間営業のマクドナルドを指さした。

 店内に入ると、間の抜けた店員さんの声が聞こえた。きっと眠いのだろう。

 列に待つこともなく、トレーナーは注文を入れる。二人とも、朝マックのソーセージマフィンセットにした。ドリンクは何がいいか聞かれ、咄嗟にトレーナーと同じプレミアムローストコーヒーを頼んだ。

 やはりそれほど待つことはなく、商品が紙袋に入れられてトレーナーに渡された。アタシたちは外に出る。

 トレーナーが歩きながらマッシュポテトを食べ始めるので、アタシも真似をしてマッシュポテトから先に食べた。塩気がちょうど良くて美味しい。

 車も人もいない街に、ジャンクフードの匂いがとけていった。マフィンに口をつける。慣れていないおかげで上手く頬張れない。

「おいしいね」

「ああ、そうだな」

 コーヒーに口をつけたトレーナーに声をかけた。アタシの食べるのが遅いのか、もうマフィンやポテトは食べ終わっていた様子だ。

「ほら、こんな脂っこいもの、前は食べられなかったじゃん。気にせず食べれるし、嬉しいよ。本当、おいしい」

 そう言うと、トレーナーはいきなり立ち止まった。アタシはまだ、その事に気が付いていない。

「アスリートだったわけだし、まぁアタシの食が細いのもあるだろうけど……って、どうしたの」

 ここまで言葉を繋げて、ようやくアタシは気が付いた。その顔は下を向いていて、よく見えない。トレーナーの正面に回り込む。すると。

 ──トレーナーは、泣いていた。

「ご、ごめっ、ごめんな、っ……タイ、シン……」

 その弱々しい声にアタシは、ひどく動揺した。訳もわからず立ち尽くす。しかしトレーナーは数回呼吸をしてをして、ごめん、と再び歩き出した。

 どうして、何事も無かったようにするの。アタシの前なら、頑張らなくていいのに。弱い面だって見せていいのに。もっと、本当のアンタを見せて欲しいのに。全部全部愛していたいのに。

 もどかしい思いは言葉にならない。じわりと視界が揺らめいた。

 

 

 △▲△

 

 

 たたんたたん、と始発が二人を揺らす。

 アタシたちは、ドアに近い優先席に向かい合って座っていた。トレーナーは窓の外に浮かぶ星空を見ている。その瞳には宇宙が映っていて、瞬きと共に閉じられて。

 アタシとアンタは、この先どうせ一蓮托生。今アタシがまだまだ知らないアンタも、ゆっくり知っていけばいいと思うんだ。

 

 僕は、車窓の露にあの日タイシンが流した涙を思い出していた。流線形に、星の光が滲む。

 向かいの彼女を見つめる。その瞳には、何が映る?

 この旅は、どこへ向かっていくのか。まだ分からないが、今はただひたすらに、君と色んな世界が見たい。

 もっと君を知りたい。これから、ずっと。

 

 それで、アタシはもっとアンタを好きになる。水面をゆらゆら浮かぶように泳いで、依依とした息継ぎをする。そうして、二人の空気だけを交換していたい。アタシはもうそれでしか、きっと呼吸ができない。

 視界をアンタだけを塞いで、目を肥していたいのだ。

 もっと。ねぇ、おねがい。

 

 

 だって。

 

 だって僕は。

 だってアタシは。

 

 

 君が──

 

 アンタが──

 

 

 

 ──足りない。

 

 

 

 

                                 ―了―

 


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