「……行ってきまーす」
朝、学校へ行くために家を出て、扉に鍵をかける。
出かける挨拶に、返事は返ることはない。一人暮らしなのだから当たり前。それは承知であり、けれども声を上げているのはただの習慣のようなものだ。
僕の両親は、幼い頃に何かの事件に巻き込まれて行方不明となっているらしく、僕が高校生となった今もそれは変わらない。だから、今更それについて思うことも特に無いし、両親の顔だったりどんな人だったかという記憶はほとんど無い。
実は、僕自身もその事件に巻き込まれていたらしいのだが……まあ昔のことなのでそれも全然記憶にない。
そう――らしい、だ。
このことは全部、おばさ……もとい、
ヒーロー、ではないとは思う。ただ、事件に巻き込まれていた僕を助けてくれた人物。本人曰く、親族なのだそうだ。金銭面含め、今を特に不自由なく暮らせているのは、その人の支援も結構大きい。
海外を飛び回ることが多い生活? 仕事? らしく、最近は会っていないが、元気にしているだろうか。
そんなことを考えながら、自宅の鍵を鞄にしまい、歩き出そうと足を踏み出した時だった。
――むにゅっ。
足裏を、靴を通して伝わる、妙に柔らかい感触。確実に地面ではない。
その正体が何なのか、下を向いて確認する前に。
「あ~ん♡」
足元から、そんな悩まし気な声が耳に届く。
「…………」
体勢をそのままに無言で視線を落とせば、そこには人型の黒い物体。
頭には二本の触覚。人間でいう尻の部分は、異様に大きく突き出ている。
その少し上、つまりは背中にあたるところを、僕の右足が踏んでいた。
僕に踏まれたまま、その黒い物体は身を捩るようにもぞもぞと動く。大きさを度外視するならば、それこそ人間に捕まった蟻が、逃れようと抵抗するかのように。
「あ~ん……」
足を退かせば、数瞬前と言葉こそ同じでありながらも、物足りなさや残念そうな響きを含んだそれが再び足元から発せられる。
ふと視線を感じ、そちらに首を回せば。地面に伏したまま唯一外気に晒され剥き出しになっている紅潮した顔、期待に輝く瞳が、僕を見ていた。
ニコリ、と僕は微笑み、片足を持ち上げる。
途端、
そうして、僕は振り上げた足を――普通に地面に踏み出し、黒い物体を避けて歩き出す。
当然、相手にするわけないだろう。
さ、学校、学校。
「――もう、駄目じゃないのシュウちゃん! 蟻さんが地面にいたら、踏んであげないと!!」
「……いや、それは流石にどうなのさ」
「大丈夫、大抵は靴の凹みとか地面の窪みで死なないから! だから、思い切り踏まないと!」
「靴どころか、僕より大きいんだよなぁ」
僕の家の前の道を、そんな力説が響く。
まるで小学生でもするか――いや小学生ならそれはそれでバイオレンスチックだが――どうかといった、中身の無い会話。
言うまでもなく僕と、その幼馴染の神川ミリナだ。本日は、蟻の着ぐるみを纏っての登場である。
ちなみに、その着ぐるみはと言えば、僕の家の庭に置かれている。なんでも、予備はあるので僕に是非着て欲しいとのこと。……いや、持って帰ってください。
普段であれば、そんな馬鹿みたいな話を繰り広げ――もといぞんざいに相手にしながら、高校へと向かうのだが。
「――ハーイ、シュウヤ! グッドモーニングデース!!」
隣の家の前を差し掛かった時、そんな声が僕達の会話を中断させる。
ついこの前引っ越してきた、エレナさん。彼女が玄関から、こちらに手を振りながら近づいてきていた。
「あ、おはようございます、エレナさん」
隣人付き合いというのは、非常に大切だ。立ち止まり、挨拶を返す。
すると彼女は、近づいてきた勢いそのまま、ガバッと僕に抱き着いてきた。
オーゥ、アメリカーンデスネー。
「な、なんですか?」
「ンフーフ、挨拶のハグデース!」
少し濃い目の体臭、なによりそのダイナマイトボディーの感触に、ちょっとドギマギしてしまう。
まぁ、欧米ではよくある習慣らしいし、本人も言っている通り、ただの挨拶なのだろう。それにいくら高校生といえど、成人女性からすればまだ子供扱いか。決して僕が小さいから子供扱いなわけではない。絶対に。
……にしても、少し長い上に密着しすぎではないだろうか。
ハグって、もうちょっと軽めの印象があったんだが。
「――シュウちゃん、何してるの?」
そう感じ始めた時。冷ややかな声がすぐ側から発せられた。
刹那、僕に巻き付いていたエレナさんの腕が乱暴に取り払われ、身体が自由になる。
アーン、と零された切なげな喘ぎは、声こそ違えどついさっき聞いたような。
「……誰、この人?」
「最近隣に引っ越してきた――えーと、エレナさん」
取り敢えずミリナに彼女のことを紹介しようとして。
ふと、エレナという名前は挨拶の時に聞いたが、彼女の苗字を聞いていなかったことに気付く。
……あれ、そういえば、こっちは名乗ったっけ?
まあ、彼女が僕の名前を知っているということは、無意識に名乗ったのだろう。
そんなことを僕が考えていると。
「いい大人が、往来でみっともなくないですか?」
さっきまでのパッパラパーな態度はどこへやら、非難するようにミリナが言う。
お前もさっき似たようなことしてたろうが、というツッコミは無しかな? ……無し? あ、さいで。
「ノンノン! ワタシタチのカントリーでは、当たり前のことヨ!」
「…………」
「それでええと、アナタは――ああ、シュウヤの幼馴染ちゃんデースネ! アナタにも、挨拶デース!」
明らかに喧嘩腰のミリナに、エレナさんは僕にやったように、ギューっとハグをする。
ほら、やっぱりただの挨拶だ。僕が小さいからって訳じゃない。
というか、多分僕の時より顔の距離が近いな。やっぱり、同性同士の方が気安いのだろう。
……しかし、ミリナが幼馴染ということまで知っているとは。
凄いな、どうやら僕はそんなことまで無意識に言っていたらしい。
「――っ!? なっ、シュウちゃん! この人とどんな関係なのっ!?」
ハグに驚いたのか、ミリナは慌てたようにエレナさんと距離をとり、僕にそんなことを聞いてくる。
いや、どんな関係って言われても……。
「……いいとろろをくれた、お隣さん?」
「オゥ、あの時は眼福デシタ……」
今のところ接点らしき接点もなく、引っ越しの挨拶の時のことぐらいしか言いようがない。
あ、それで思い出したけど。
「そういえば、鼻血は大丈――」
「オー、そういえば、とろろは足りましたカ?」
「え、ああ、足りてます。むしろ貰いすぎな位ですよ。それで、鼻血――」
「オー、それはヨカッタネ! お口に合いましたカ?」
「あ、はい、とても美味しかったです。あの、鼻――」
「オー、嬉しいネ! あのとろろは、ワタシもお気に入りなのデース!」
「……体調は大丈夫でしたか?」
「心配してくれるなんて、感激ネ! けれど、つわりを気にするのは、まだ早いヨー! 元気一杯なので、とろろはいつでもウェルカムデース!!」
「……??」
早口の上に片言交じりだったものだからよく聞き取れなかったが、まあこの感じだともう大丈夫なのだろう。鼻血を噴いて帰っていったものだから心配していたけど、あれは一時的なものだったに違いない。
だが、元気溌剌としていたエレナさんは、次の瞬間。
「……そ、それでデスネー? シュウヤ、ワタシに何か言うことはありませんカ?」
なぜかモジモジとし始め、照れたように顔を逸らし、しかし時折チラチラと横目で僕の様子を伺うように見てきた。
言うこと。……言うこと?
はて、一体なんのことだろうと首を傾げる。しかし、いくらそうしたところで思いつかず。
だが、そんな僕を見て、エレナさんは頬を染めつつも口を尖らせるばかりでそれ以上何も言わない。
「……シ、シュウちゃん、早くしないと学校に遅れちゃうよっ!」
そんな時、横から慌てたようにミリナが口を挟んできた。
学校……そうか、分かった。
その一言で、僕はポンッ、と手を打つ。
「行ってきます!」
きっと、そういうことだろう。行ってきますの挨拶。ご近所さんで年上の知り合いに言うことといったら、これしかない。
グイグイ、とミリナに背を押されながら、僕は笑顔でエレナさんに言う。
「も、勿論デース! ……What?」
変わった送りの言葉だなーと思いつつ、まあ文化の違いもあるからとさして気にせず僕は歩く。
とはいえ、そんなにギリギリに登校しているわけじゃないから、数分立ち話をしたところで遅刻にはならないんだけどね。
「朝のお見送り……ンーッ! これはこれで最高ネ!! Oh,Yes!!」
何やら後ろが盛り上がっている。超盛り上がっている。
歩きながら振り返れば、両頬に手を添えて、エレナさんがぶんぶんと頭を振っていた。彼女の綺麗な金色の長髪も激しい動きに合わせて揺れている。
いや、元気すぎるでしょ。
そんな風に暫しエレナさんを眺めていた僕だったが。ふと、誰かに見られているような気がしてキョロキョロと首を振る。
「ん、あれは……」
かなり先――エレナさんとは逆に位置するもう一方のお隣さんの、その家の前に。
塀に半身を隠すようにしてこちらを見る、お隣さんその2――立華さんがいた。
はて、何をしているんだろうか?
そう思いつつ、試しに手を振ってみれば。彼女は小さく、ほんの小さくこちらに手を振り、さっとその身が塀の内側に引っ込んでいった。
「……シュウちゃんって、ああいう人がタイプだったの?」
「え、タイプ? まあ、そうといえばそうかもね」
ミリナに声をかけられて視線を前に戻し、適当に相槌を打つ。
羨ましいのは否定しない。だからといって、嫌いなわけじゃない。むしろ羨ましい分、特に大きい身長というのは憧れであり好きである。
もっとも、好きと言えば好きだが、そんなこだわりがあるわけではないけども。
すると、ミリナは真剣な顔で少し思案するようにした後。
「ハーイ! マイネームイズ、ミリナ・神川!」
「馬鹿じゃないの」
人通りもちらほらあり、突然の大声での自己紹介に、周囲の視線が僕達に集まってくる。
いや、流石に恥ずかしいんですけど。
とはいえ、狂っているのは元から承知の上、一緒にいると恥ずかしい行動をしてくるのも今に始まったことではないのだが。
少しばかり早足になる僕であったが、お構いなしにミリナはそれに着いてきて「ナイストゥミ―チュー!」だの「ハウアーユー?」だの英語を習いたての中学生かと言わんばかりに連発してくる。
そんなミリナに辟易する僕であったが、救いは現れた。
見慣れた背中に見慣れた茶髪。幼馴染のミノルだ。
普段は絶対に、絶対にそんなことしないのだが、僕はダッシュでミノルの前に回り込む。
それはあちらも同じ認識だったのか、ミノルは少しビクッとしながら足を止めた。
そこに、奴はやってくる。
「グッドモーニング! ミスターミノル!!」
ポカンとしてミリナを凝視するミノルの顔は、実にレアであり
それもそうだろう。幼馴染であり、知己であり、ハーフでもないただの日本人がいきなり、発音のいいとは言えない英語を引っ提げてやってきたのだから。
いつもであればミリナの挨拶など一顧だにもしないミノルであったが、今日に限っては困惑しつつ僕を見てくる。
だが、そうされても僕だって困る。
そのため、じっとミノルの目を見返すことしかできない。
……そっちの将来の伴侶なんだからなんとかしてください。
そんな懇願も込めて。
いや、確定したわけではないが、ゲームのハッピーエンドルート――正規ルートとなれば、この二人はくっつくのだ。
だから、間違っていないのだ。うん、誰が何と言おうと間違ってない。
あちらがじっと見つめれば、こちらもじっと見つめる。
ここは負けるわけにはいかない。負けたが最後、敗者が
数秒、数十秒が経っただろうか。
ミノルが、ついと僕から視線を逸らした。
よし、僕の勝ちだ。一瞬、そう思った。思ったのだが――。
「……っ!」
ねえ、何で赤くなってるわけ? 照れてるわけ? 僕をちらちら見てくるわけ?
ホモENDなんかこのゲームには無いんだよ! お前はさっさと、ミリナとくっついて僕を安心させろ!?
――――――――
「えー、では教科書を開いてください。今回から、平家物語を……」
結局あの後、通学路どころか学校に到着してからも、ミリナの暴走は留まることを知らなかった。
そのため、僕とミノルは最終手段を取ることにした。
早い話、実力行使である。二人で協力して、ミリナの口を押えにかかったのだ。
といっても、身長差で負けている僕では、屈んでくれない限りミリナの口には届かない。かといってミノルが手で口を塞ごうものなら、暴れに暴れる始末。
面倒臭いから、口で塞いでしまえ、と僕はミノルを煽った。それでついでに二人の関係を進めてくれればこっちに被害が出る可能性が少なくなるかもと思い、一石二鳥だ。
上手くいかなくとも、これで照れるなりして少しでもミノルがミリナを意識してくれれば万々歳だったのだが。
ミノルはそれを拒否した。それも一切躊躇することなく真顔で。
なんでも、初めてはとってあるとかなんとか。その際、潤んだ目でこちらを見ていたのが気になったが……え、まさか僕にじゃないよね?
何か嫌な予感がしたので、試しに僕が塞いでみたのだ。勿論口ではなく、手で。ジャンプすれば、一瞬だけだが届く。
すると、あら不思議。ミリナは借りてきた猫のように大人しくなった。でも僕の手を舐めるのは止めて欲しい。
ともあれ解決策も見つかったので、それで行くことにした。どうやって常時塞ぐかというと、僕をミノルに抱えてもらってである。あまり取りたい方法ではないが、背に腹は代えられないというやつだ。
だから、クラスメート達――というよりクラスに入った時点では、ミリナの奇行は周知されていない。ただ、口を押えているのをガン見はされたが。
しかし昇降口でそんなことをやらかしたものだから、その場に居合わせた生徒には目撃されてしまっている。思えば、傍から見れば僕は女子生徒の口を無理矢理押えている男子生徒なわけだけど……大丈夫だよね? 変な噂になってないよね?
ともかく、そうなると授業中が休憩時間だ。
流石のミリナも、まさか授業中にやらかしはしないだろう。しないでください、お願いします。
「……では、神川さん。教科書を読んでください」
そんなことを考えていたら、古典の担当であるおじいちゃん先生が、よりにもよってミリナを指名した。
――っ!
緊張が、僕とミノルに走る。
無論、それは僕達二人にだけだ。おじいちゃん先生とクラスメート達にとっては、それはありふれたただの授業の一コマに過ぎないだろう。
「はい!」
どうやら、僕の願いは届いたらしい。
ミリナは普通に返事をして、教科書を手に立ち上がる。その普通の、何と素晴らしいことか。
僕とミノルは、安心してこっそり視線を合わす。
いかにポンコツといえど、流石に授業中はわきまえて――。
「
瞬間、空気が凍った。
おじいちゃん先生は呆気にとられたように教科書を取り落とし、クラスメートの視線はミリナに集中する。
パサッ、と落ちた教科書が乾いた音を立てる。
僕達は机に崩れ落ちた。
「
なーにがイェアだ、英語にできないなら最初からやるんじゃないよ。
「――ちょ、ちょっと待ってください、神川さん。今は英語の授業ではないのですが……」
我に返ったのか、おじいちゃん先生が眼鏡をずり落ちさせながら声を上げる。
元々物腰穏やかな先生だから、注意も控えめだ。いや、唖然としすぎていまいち現状を理解できていないというのが正しいのか。
「HAHAHA! 何を当たり前のこと言ってるんデスか、ティーチャー! そんなのオフコース!」
そんな先生を前に、ミリナは気にした様子もなく高々に笑い飛ばす。
ざわざわと、一拍遅れてざわつき出すクラスメート達。
嗚呼、僕達の苦労が……。
「え、えーと……わ、分かりました。神川さん、ありがとうございました」
分からないなりに、取り敢えず元凶を黙らせることを選択したようだ。流石は経験豊富なおじいちゃん先生、英断である。
センキュー! といって、着席するミリナ。ああ、もう滅茶苦茶だよ。
「で、では、次の部分を……蕪木君、お願いします」
おっと、ここで僕が来たか。
先生はなんとか落ち着いたものの、クラスメート達がまだざわついている。
ここは、僕がビシッと決めねば。
今まで確実にかけたことのないであろう情熱を胸に、僕は立ち上がる。
大丈夫、できる。僕にはきっとできる。
「沙羅双樹の――フラワーカラー!!」
…………。
「「「…………」」」
沈黙。
や、やってしまった。意識しすぎて、つられてしまった。
ざわつきを止めることには成功したが、逆に異様なくらいの静寂がクラスを包み込む。
「やっぱり、シュウちゃんは――これは新発見だわ!」
否、一人だけ目を輝かせてる馬鹿がいるが、それは除外だ。
さて、どうしてくれようか、この空気。
今すぐ何か起きてくれないかなー。
何でも、何でもいいんだ。校庭に隕石が落ちてくるとか、学校に悪の組織が攻めてくるとか。
こういう時なら、大歓迎なのに。
と、そんなことを妄想しながら立ち尽くしていると。
「――全員、大人しくするのであーる! この学校は、悪の組織である、我ら『非モテ最強軍』が占拠したのであーる!」
……あれ、僕何かやっちゃいました?
次も大体出来上がってるので、今日投稿予定です。
よろしくお願いします。