師範に届け物を頼まれた玄弥が、道中で思わぬハプニングに見舞われる、というささやかなエピソードです。

1 / 1
※本作は、原作・アニメ・出版社・その他関係者様とは一切関係がありません。


Fingers crossed

遠くから響き来るこだまのように

暗然として深い調和のなかに

夜の闇 昼の光のように果てしなく

五感のすべてが反響する

(ボードレール『悪の華』より「交感」)

 

 

 縁側で夜風に当たりながら、俺は昼間の出来事をぼんやり考えていた。庭の木々が風に靡いている。その騒めきにまだどこかあいつの気配を感じる。あれは幻だったのか?それとも夢…

 

 

 昼過ぎた頃、俺は師範の悲鳴嶼さんから蝶屋敷に届け物を頼まれた。手渡されたのはお金。胡蝶さんに渡して欲しい、と。くれぐれも無くさないようにと念を押された。

 

 

 ここから蝶屋敷へは少し距離があるが、湿原を通れば幾分近道になる。春の暖かな陽射しの下、幅狭い木道を黙々と歩いた。池塘の周りには菖蒲や立金花、水芭蕉がひっそりと咲いている。遠くに山々。上には青空がどこまでも広がっている。開放感に満ちた心地よい空間。

 

 目に映るのはこんなにも生き生きした世界なのに、気持ちは晴れないままだった。むしろ恨めしい。今の自分が荒んでどうしようもないってのに。とんだ皮肉じゃねぇか。

 

 全集中の呼吸法も習得できないし、剣技の才もない。どんなに努力してもちっとも成果なんか出やしない。散々「才覚がない」と言われて、ますます自己嫌悪だってのに。何としても強くなりたい、柱になりたいと思うのに、気持ちばかり先走ってしまう。そんな劣等感の塊みたいな自分に絶望して、癇癪を起こしまくり、叱られて泣いてばかりの日々…鬼喰いすりゃ自分を見失う。八方塞がりだ。一体どうすりゃいいんだよ。

 

 そんな鬱々とした考えに気を取られて歩いていた時、足元の木道の浮いた箇所に気づかなかった。派手に躓いて転んでしまう。

 

 「どわっ!!」

 

 あろうことか池塘に落ちて尻餅。頭が真っ白になった。暫くぽかーんとしていたが、我に返ってふらふら立ち上がる。

 

 「…ってぇ…」

 

 あぁ、カッコわりィ。でもそれどころじゃない。ポケットに入れていたぽち袋がなくなってる。やっべえ!あの中に悲鳴嶼さんの金が…。自分が尻餅ついた場所を手探りで探すと、なんとかぽち袋は見つかった。泥だらけだけど。「あぁ、良かった…危機一髪!」と胸を撫で下ろす。ところが、だ。綴じ目が全開。何だこのクソ展開は。当然中身はゼロ!チキショーにも程がある。

 

 膝まで浸かる沼の底に、消えた一円銀貨五枚を探しに探して、早三十分。全然見つからねぇ!見つかりっこないよな。あんな小さいモン…こんな沼の中じゃ。がむしゃらに動き回ってるうちに、どっかに流れたんだろう。

 日も落ちてきているし、もうどうやって謝ろうか考え始める。白目から怒涛のように涙を流す師範と、青筋立てた胡蝶さんの顔が浮かんで、死にそうになる。あれほど念を押されたのに。とんでもないことをしでかしちまったぞ俺は。

 

 そんなふうに大きなため息をついて、途方に暮れていた時だった。

 

 「探し物?」

 

 笛を吹くように澄んだ声が後ろでして、振り向くと自分と同じような年頃の隊士が立っている。見たこともないやつ。陽光に映える青みがかった銀髪に、透き通る白い肌。長い睫毛が縁取る切れ長の瞳に、通った鼻筋。薄い唇に微笑を湛えている。どこか大人びていて、この世ならざる空気を纏っていた。

 

 「いや、あの…金落としちまって。でも大丈夫っす!」

 

 情けなさにガシガシ頭を掻く。あ。俺、手泥だらけなんだった。チキショー。

 そいつは何も言わずに、木道を降りてこっちに…平然と膝丈まで泥に浸かりながら、腕まくりをして歩み寄ってくる。甘く、優しい香りが漂う。

 

 「ダメっすよ!服汚れちまいます!」

 

 「平気さ。いくら落としたの?」

 

 「えっと…一円銀貨五枚です」

 

 そいつは水面に手を浸すと、どういうわけか静止した。暫く遠い目で(くう)を見つめる。そんで何かに反応したのか、右に五歩くらい進んで手を突っ込む。まさか、と思ったが、そこで僅かに金属の擦れる音がした。

 

 ーー嘘だろーー

 

 信じ難いほどの奇跡の予感に、俺はただ固まってしまった。目をまん丸くしたまま、固唾を飲んで行く末を見守る。そいつはさらに左に進んで、また静かに沼に手を入れた。

 

 チャリン…

 

 

 さすがに五枚全部なわけないよな、と思ったら。

 

 「これで五枚だね」

 

 ーマジかよ!ーー

 

 そいつは真っ白なハンカチーフを取り出して、銀貨を丁寧に拭きながら、こっちに戻ってきた。

 

 「どうぞ」

 

 差し出された泥だらけのハンカチーフの上に、銀貨が光っている。

 

 「あ、有難う…ございます」

 

 受け取りながら思わず泣きそうになる。

 

 「大したことないよ」

 

 「どうお礼をしたらいいか…」

 

 「礼には及ばないさ。それよりあなた、急いでるでしょう?」

 

 「え…あ、まぁ…」

 

 そいつは柔らかな笑みを浮かべて、じっと俺を見つめた。傾いた陽光で、そいつの琥珀の瞳がきらきらと輝く。深遠で、どこまでも見透かされるような眼差し。何でか心が洗われるような気がした。さっきまでの鬱屈した思いが嘘みたいに晴れていく。静謐な一時が流れた。

 

 「気をつけてね」

 

 そいつはそう言って、人差し指と中指を交差してみせた。

 

 「Fingers crossed」

 

 「?ふぃんがー?」

 

 「フィンガーズ・クロス。西欧のまじないで、『幸運がありますように』って意味さ。魔除けの効果もあるんだ」

 

 「へぇ!」

 

 なんかすげー宝物を授かったような気がして、俺は頬を紅潮させながら、真似して指を交差させた。

 そいつもまたふふっと笑って、やり返してくる。笑うと大人びていた顔が、あどけない表情に。

 

 

 

 ゲンヤ…ゲンヤ…

 

 鎹鴉の榛が俺を呼んでいるのが聞こえた。後ろを振り向くと、こっちに飛んでくるのが見える。あんまり遅いから探しに来たんだな…もう早く行かねぇと。俺はさっと榛に手を振って、正面に向き直った。

 

 「なぁ、あんた。名前…は…」

 

 

 

 

 

 

 そこにはもう、誰もいなかった。さっきまでいたのに、忽然と姿を消している。まるで最初からそこにいなかったかのように…池塘の水面だけがさざ波を立てていたんだ。

 

 

 

 

 その後泥だらけの格好で蝶屋敷に行ったら、そりゃあ驚かれた。皆の注目の的。何事かと奇異の目で見られる。頼むからこっち見ないでくれ!恥ずかしくて真っ赤な顔で俯きながら、やっとの思いで胡蝶さんにお金を渡す。「あらあらあら」とクスクス笑われて、「す…すみませんでした!」と一礼して、猛ダッシュで逃げ帰った。

 

 

 その晩。師範にフィンガーズ・クロスのことを訊いたが、当然知っているはずもなく。「帝釈天印と勘違いしているんじゃないか、南無」と。確かに似ているけど。「湿原を歩いていた時に煩悩にとらわれていた」だの、「修行が足りん」だの、散々な叱られようだった。でも不思議なことに、いつものように落ち込んだり気持ちが荒んだりしなかった。

 

 

 名前、聞いておくんだった…またいつか会えるかな。夜風に当たりながら、謎めいたあいつにまた想いを馳せる。このフィンガーズ・クロス、覚えておこう。あの煌めく眼差しと一緒に。

 人差し指と中指を交差させて…

 

 

 ーー汝に、幸あれーー

 




裏解説

1. 湿原のモデルは尾瀬ヶ原。
2. 謎の隊士が現れる場面のBGMは、ドビュッシーの《版画》の〈塔パゴダ〉。1889年のパリ万博でジャワのガムラン音楽に魅せられたドビュッシーが1903年に書いた曲で、印象主義的ピアノ技法を確立したことでも知られる。東洋風の五音階が用いられており、穏やかななかにも神秘的な異国情緒が感じられる音楽である。個人的にはPascal Rogéの演奏がオススメ。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。