本編のネタバレは何一つ含みません。タイトル以外の内容はありませんがご了承ください。

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七草にちかとたまたま街で出会って、ぼーっとしてたから彼女の靴の踵を踏んで謝って、そのあと彼女に心の中で悪態を吐かれたい。

 歩くときに空を見れる人は強い人だ、と言うのが僕の持論だった。通い慣れた道の風景を思い出した時に、視野が広い人はきっと素晴らしい人だ。進む意思のある人だ。反面、下ばかり見ている奴は何をやってもダメ。猫背でどこに行くのかも分からず惰性で歩いているだけの三流だ。……まあ、当然こんなのは自虐でしかないけれど。今日も地面ばかり見て歩いていることに気がついて、僕はため息をついた。吐く息が白く見えなくなった冬明けの小春日和では、その数を一つ一つ数えるのは難しい。逃げていった幸せがどのくらいあるのか可視化されないのは、それはそれで陰鬱だ。

 

 考えすぎだよ、とはよく言われるけれど。僕はむしろ人より何も考えていない方だと思う。みんなはもっと考えて、努力して、翔んで行って。考えるふりの得意な僕からしたら、そんなふうに見えるのだ。そもそもマルチタスクの苦手な僕が、イヤホンで音楽を聴きながら考え事なんてできるわけがない。ワイヤレスで垂れ流しのJ-Rockは、単純で悲観的な僕の思考を掬い上げてくれる。

 音楽は好きだった。ロックンロールだけが僕を救ってくれると思っていた。自分が好きなバンドの売上が顔の見分けもつかないバラエティアイドルなんかに負けている最近では、こんなものを聴いてるのは僕だけだと言う捻くれた優越もあった。だから今日も苦手な大通りの人混みを歩いて、ビルの9階にあるCDショップに向かっている。

 

 人混みを避けるのが昔から苦手だったな、と。俯いた僕の意識は回想に飛ぶ。イヤホンもしていなかった頃から、ぼんやりと歩いて何かにぶつかることが多かった。頭からぶつかったり、踵を踏んづけたり、急に立ち止まって後ろの人にぶつかられたり。そうやって人にぶつかるたびに、だんだんとただの通行人としての謝り方を覚えていった気がする。最近はそんなことも減ったな──と。

 

 がっ、と。右足爪先で一瞬硬い感触。回想から現実に引き戻され、回想が現実に現れる。やっちまった、そう気がついたらすぐさま頭を下げる。くどくならない浅さで、雑にならない速さで。

 

通行人A「すいません、失礼しました」

 

通行人B「……いえ、大丈夫です」

 

 頭を上げると、中学生か高校生くらいの女の子が無愛想にそう返答するところだった。踵を踏んでしまった靴は脱げてしまっていて、彼女は無言でそれを履き直す。そもそもサイズが少し大きかったのか、そのローファー(でいいのか? 靴の種類はよく分からない)は無造作な足の振りで彼女の靴に収まる。

 ……あまりじっと見るのも失礼か。僕は最後にもう一度だけ頭を下げて、その場を去る。

 

通行人A「……さっきの子、どっかで見た気がするな」

 

 歩き出した後で、そんなことを思う。知り合いだったら申し訳ないが、そもそも人の顔を覚えるのはあまり得意ではないし、見間違えというのも考えられる。特別引っかかることでもないか。深く考えずに、CDショップの前──クレープ屋に立ち寄る。良心価格のドカ盛りホイップを買って、その場で一口。甘いものを食べるだけで幸せになれたらいいのにな、と感じる。好きなものを好きにする瞬間は楽しいけれど、別に幸せではなくて。人生における苦楽の清算程度の意味しかない。いや、きっとそれで十分だけど。でも──残った紙ナプキンをゴミ箱に捨てる時に、自分が何を思っているのかすら、僕はわからなくて、考えるのが面倒になって、イヤホンをする。

 

 向かいのビルに入り、ちょうど到着したエレベーターに乗り込む。9階のボタンを押す。何度も何度も繰り返した動作。新しい逃避手段を手に入れる前の儀式。何も変わらない。変わっているのはエレベーターに貼られたアイドルのポスターくらい。「SHHis」とかいう最近流行りの本格流(笑)の二人組。緑の方はTVでよく見る、いわゆるバラドル。音楽よりチヤホヤされるのが好きそうで、流行りの曲しか聞かなそうな、苦手なタイプ。到着を知らせたエレベーターを降りながら、彼女の名前を思い出す。

 

 確か名前が──七草にちか。

 

さっきの子「──で、靴擦れしてるところをがっ! て踏まれたんですよー! ていうかピンポイントで踵を狙って踏むとか、あり得なくないですか!?」

 

ショップ店員A「あはは……にちかちゃんも大変だったね」

 

 二人の店員の会話が聞こえる。足を止め、そちらを向く。ポスターで、あるいはさっきの街角で見た顔と。「七草」の名札が目に映る。

 

 目が合う。七草にちかの顔が固まる。僕はちょっと小馬鹿にするような音のない笑いを一つ入れて、背を向ける。目当てにしていたバンドのアルバムは、すぐそばに作られた特設コーナーに置いてあった。目立つように手書きのポップが作られている。僕はCDを手に取って確認した後、ポップを眺める。

 

 そのポップの右端に、小さな店員の署名を見つける。

 

 は、と、息を吐く。ワイヤレスイヤホンの充電が切れていたことに、僕はそこで初めて気がついた。


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