【完結】キアラの望みを叶えるために、全能の神が君臨するお話【挿絵有り】   作:ロウシ

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冬のミルク
第一話:冬のミルクは純粋すぎるから、狂いそうなほどの恋をした


 

0.

 

 

 異質な部屋であった。

 それは、セラフィックスの地下。

 海中と地上とをつなぐ点に位置する、空白にあった。

 壁を埋め尽くすのは大量の『棺』である。

 床から天井にかけて、膨大な数のそれが、ドーム状に形成されている。

 部屋のぴったり中央に、巨大な電算機があった。

 全ての『棺』から伸びるコードが、その巨大な電算機に繋がっていた。

 その電算機からは、地下に回路が伸びていた。

 そこを通るものは、電子化された命である。

 『棺』に入れられた若い命。

 彼らの意識体を擬似量子化させた情報そのものだ。

 特に、才気に溢れる者たちが多かった。

 若く、荒削りで、本来ならばいくつもの輝かしい未来ある者たちである。

 

 その才能、その情報。

 あるいは、その未来そのもの。

 それが、コード──回路を通して電算機に集められ、ひとつの力へと変換されて、地下に流れているのだ。

 

 それは、人の世の倫理からかけ離れた行いであった。

 多くの命を対価に行われる科学実験。

 この部屋で行われている実験は、たったひとつの目的のために、多くの見知らぬ人権と尊厳を踏み躙っていた。

 なぜなら、『棺』に入れられた者たちは、自分が死んでいることに──死にゆくことにすら、気づかないのだから。

 例え、自身の末路を予見できたとして、抵抗したとしても。

 鎮静剤を打ち込まれて『棺』に納められ、その命は使われていく。

 ここに運び込まれた時点で、彼らに選択権などなかった。

 

 神をも恐れぬ行為である。

 しかして、これを考えついたものは、これを決して蛮勇などとは思いもしないであろう。

 純粋な好奇心。

 科学に対するあくなき信仰。

 より良き未来に対する盲信。

 

 それが、決して人の世に遭いなれぬ狂気であろうことなど、とっくにわかっている。

 その類の狂気がなければ、今日の人類史が。

 そこに刻まれている文明開花の多くがなかったことが、事実であることにも気づいているだろう。

 自らの行いのおぞましさを十全に理解しつつ、必要とあれば躊躇わない。

 そういう『天才』が、人の世に限りない発展をもたらしているのもまた、事実である。

 

 とにかく、今日における無知啓蒙な人間の多くがあやかる、普遍的で奇跡のような、ありふれた超科学は、そのどれもが尊い犠牲を地獄の釜に薪としてくべられて、抽出された上澄みのものだということは間違いない。

 

 部屋の中に、三人の人影があった。

 二人の老いた男女と、若い女。 

 電算機の前で、それをいじくり回し、経過を観察する彼らこそ、人類に更なる恩恵をもたらさんと、神に弓引く大馬鹿者たちであった。

 

 今回はダメだった──

 次の被検体が必要だ──

 もっと頑丈なやつがいい──

 いや、今のは惜しかった──

 もう少し圧力をかけてみるか──?

 何人か同時にやるのはどうだろうか──?

 

 失われる命を前に、そんなことをしゃべっている。

 その口が紡ぐ言葉に彼らへの謝辞はない。

 しかし、愛はあった。

 不思議なことに、彼らは費やされる命に対して、しっかりと愛情を抱いていた。 

 自らの行いを外道のそれと知りながらも、それは愛ゆえの行いだと本気で思ってもいた。

 しかし、その口から紡がれる言葉。

 それはやはり、賭け事(ゲーム)に勤しむ程度の、軽いものでもあった。

 矛盾する言動。 

 ある意味では、最も人間らしいと言える生態である。

 

「──!」

 

 その中の、ひとり。

 サングラスをかけたファンキーな格好の老人が、最初にそれに気づいた。

 残る二人も、『それ』に気づいた。

 そして、機先を制すように、『それ』に声を投げた。

 

「おおお、おおおお! やっと、ここを見つけなさったか」

 

 ヒッヒッヒッと笑った。

 敬意と、嘲笑があった。

 

 言葉を受け取ったものは、闇であった。

 この部屋──セラフィックスの天体室のひと角に現れたものは、大きな闇であった。

 

 蠢いている。

 心臓の脈動のようであった。

 生きているのだ。

 こちらを見ている。

 どういう表情かは窺えないが、敵意は感じない。

 闇が、人の形へと収束していく。

 それは、黒いモヤを纏ったヒトガタとなった。

 

 闇は、言った。

 

「なんだよ。俺のこと、気づいてたのか」

 

 少し、驚かしてやろうと思ってたのによ。

 

 不満気に語る闇に対し、老人は変わらずヒッヒッと笑っていた。  

 恐れのない声であった。

 闇の声は、部屋中にじわりと染み込んでいく。

 圧力のある声であった。

 耳から通るのではなく、脳髄に直接のしかかるようなそれであった。

 重い。

 質量のある声だ。

 しかし、この三人は微塵も動じない。

 目の前の闇。

 それが、そういう声を発する存在であることを、なんとなく察していたのだった。

 

「もちろん! ……と、いうより。常日頃からここの計器類と睨めっこしてるワシらには、気づくなという方が無理があるわい」

 

 セラフィックスの下層──あるいは、上層。

 ふらふらと施設内を彷徨うように、時たま現れる巨大な力。

 計器の針が一瞬で振り切れて、そしてデフォルトに戻る。

 それは、測りきれないほどの力の塊なのであった。

 その性質は不明。

 その特性は不明。

 なぜなら、何を打ち出してもなんの反応も帰ってこないからだ。

 

 力が測れない。

 それは、例えるならば海であった。 

 いや、もっとふさわしいものは、宇宙(ソラ)であろうか。

 人は、海や宇宙を見て、それが大きいとはわかる。

 それが海や宇宙であることはわかる。

 しかし、それを一望しただけでは、その大きさの詳細を、その深さの果てを知ることはできない。

 海が果たしてどんな成分から成り立っているのか。

 宇宙が一体どんな物質で構成されているのか。

 それがどこまで続いて、どこまで広がっているのか、なんの機械もコンピュータもない状態では、具体的なことは何ひとつわからないだろう。

 

 目の前の存在は、そういうものだった。

 

 この惑星に存在するには大きい。

 あまりにも大きすぎる力の塊だ。

 だというのに、精査のために打ち出した全ての要素が、ぶつかることなく力の塊をすり抜けていた。

 しかし、だからか。

 セラフィックスをコンピュータ上で三次元的に探査したならば、そこにぽっかりと『深淵』が存在していることがわかった。

 それが何かはわからないが、そこに何かがある。

 三人の天才は、天才故に気づき、そして黙っていた。

 これは、セラフィックスの所長であるヒデヤス・アジマにすら伝えていないことであった。

 伝えるべきではない。

 この奇跡を伝えることは、きっと面白くない。

 この三人の科学者たちは、ただものではなかった。

 

「それで……なんの御用でしょうか?」

 

 丸メガネの女性が尋ねた。

 死んだような声であった。

 目の下に大きな隈がある。

 身体はグラマラスで見るからに健康そうだが、その顔は、不安と不義と不眠と疲労と、人の身に起こりうる不健康さをまとめて塗り固めたようである。

 

「まてまて。俺が何者か、聞かないのかい?」

 

 闇は、少なくとも常識的な質問を返した。

 その声にはやはり敵意はない。

 むしろ、闇は知りたがっているような口ぶりである。

 好奇心──

 探究心──

 三人に向けられる、そういった類の心象が隠しきれていない。  

 

 つり目の老女がほっほっと笑った。 

 

「あらいやだこと。あたしたち、舐められてる?」

 

 一見して、やりとりがつながっていない言葉であった。

 だが、闇にはその繋がりがわかっていた。

 見誤るなよなぁ、と闇は言った。

 

「わかってるよ。アンタらが、俺が何者なのか、なんとなくアタリを付けてんのは」

 

 むしろ、と続ける。

 

「それぐらいしてもらわなきゃあ困る。この施設に集められた連中では、アンタら三人がアタマの良さトップスリーだろ?」

 

 俺の好奇心を刺激してくれてんだからよ、そのぐらいは予想しててくれなきゃあ、ついでとはいえ、ここに来た甲斐がねぇ。

 

 ひっひっ、とサングラスの老人が手を叩いて笑った。

 

「おぬし、根源接続者だろう?」

 

 違うね。

 と闇は言った。

 惜しいね、とも続けた。

 

「この世界では、全能に至るヤツのことを、そう言うのは知ってるがね」

 

 だがね、俺はそれじゃねぇ。

 

 闇ははっきりと言った。

 

 そうかそうか、とサングラスの老人は言った。

 悔しさのない口調である。 

 ただ、事実を事実として受け止めていた。

 その背後のつり目の老婆が聞く、

 

「じゃあ、抑止力? アラヤの守護者かしら?」

 

 闇は、かぶりを振った。

 違うよ、悪いけどね。

 俺はそもそもこの星の領分(スケール)に収まる存在じゃねぇんだな、これが。

 

 あらやだ、とつり目の老婆が口を尖らせた。

 ひっひっとサングラスの老人が笑う。

 

「どうやら、ここにいる全員、アテが外れておったらしい」

「……おまえら、もしかして俺の正体で賭けをやってやがったか?」

「その通りよ。ワシはおまえさんを根源接続者と睨んでおった。こっちの顔色の悪い方がガイヤの遣い、そっちのオババがアラヤの守護者……てな感じでのぉ。おまえさんの正体を予想して賭けとったが……まさか全員不正解。いやはやまさか、『超越存在(ビヨンダー)』とは思わなんだ」

 

 闇の形がぐらぐらと揺らいでいる。

 面白がっていた。

 

「大した胆力だな」

 

 闇の声は、惜しみない賞賛で溢れていた。

 

「その豪胆さ。笑っちまうな。ジイさんちょっと、面白すぎるぜ……ってあれあれ? なんだか俺のこと、やっぱりなんとなくわかってんじゃん」

 

 やっぱ、やるじゃん。

 すげぇなアンタら。

 

 こちらは小馬鹿にしたような言葉であったが、やはり確かな賛美もあった。

 三人はほほ、ふふ、と笑う。

 ころころと変わる闇の感情は、全て想定内の反応であった。

 

 それで、と闇が言う。

 

「ここにずらりと並べられた『棺』の壁はなんなんだい? いや、大体予想はついてるけどよ」

「ならば語るに及ぶまいて。『超越者(ビヨンダー)』よ、全能者の観点から、ワシらの行いを悪とするか?」

 

 ううん、

 と言う。

 

「別に……悪趣味だとは思うがね。人類のハッテンとコウフクのために犠牲を積み上げるのはよくあるこっちゃ。いちいち相手してられねぇよ」

「ほうほう。全知全能の神は、えてして善の神と書物にはあるが……」

「善の神の理不尽なんてヨブ記でとっくにやってるだろーに。神にとっての善が、必ずしも人にとっての善ではねーのよ。『神を疑うことなかれ』って言うじゃない? ……てかこの世界にもあるよね、ヨブ記?」

 

 神を疑うことなかれ。

 神を試すことなかれ。

 神の聳やかす試練は、ことごとくがおまえの愛と信仰をお試しになられているのだ。

 実に都合のいい言葉である。

 神のなすことは例え悪でも善になるのだ。

 なぜなら神は善のそれであり、全能なのだから。

 思考停止した言葉である。

 結論が先にあり、理論はそれに都合よく付随する。

 実に馬鹿げているが、実に都合がいい。

 神にとって。

 神を、人を従える言葉として、扱うものにとって。

 

 なるほど、と老人は手を叩く。

 言われてみれば、と頷いた。

 だいいち、と闇の姿をした神は言う。

 

 俺がここにいる理由は、『求められた』からだ。

 純粋な願いを受けて君臨した。  

 残念ながら、それは『棺』に沈む彼らの声じゃないよ。

 彼らの求めに応じるのはまた別の連中だからね。

 心の底からの、最期の言葉って意味では同じだが。

 とにかく、セラフィックスの建造目的やそれへの到達手段が非人道であろうが外道であろうが、俺の目的にはなんら関係ねぇ。

 それが例え、神の視座から見て過ちだとしても、人類が原種のためにと自ら行う過ちなら、その結果自滅しようが栄えようがてめぇでなんとかしなきゃあな。

 人種自己保存の法則を破るなら、セキニンってヤツは自分で持たなきゃね。

 

「あらいやだわ。神さまってもっと、なんだかんだで人間には優しいものだと思ってたのに、イメージ崩れるわねぇ」

「そーいう強い人間原理に偏りがちなのはイマドキの御用学者の自惚れだわな。それに、今の時代。神の世も多様性の流行りだよ。いまどき画一的な、こう……道徳と正義第一主義の、一神教なんざ流行らんさ」

「……世知辛いですね、なんか……」

「まぁ多面的な宗教と科学は血と屍の歴史だからのぅ。自分と違うものと殺し合うのは人の性よ。ワシらが言えた義理ではないが」

 

 まぁまぁ、と神は言った。

 とにかく、と言葉を紡ぐ。

 

「ここに寄ったのは、単に俺の好奇心だよ。俺は秘密ってヤツが嫌いなんだ。アイツら嘘つきだからな。俺はここでのことを外にバラしたりしないし、実験を止める気なんてさらさらないからそこんとこよろしく」

 

 そう言うだけ言った。

 老人がたまらず笑い出した。

 楽しくて楽しくて仕方がないといったふうに、手を叩いて笑った。

 楽しそうだね、と神は言った。

 そりゃそうだ、と老人は言った。

 

「いやいやいやいや! 缶詰作業が楽しくも飽きていたところで、宇宙の果ての、その向こうからお客様がやってくるとは! なんという僥倖よ!! 魔術の世界では宇宙や深海を探れてせいぜい。その向こうの『超越者』の存在と同じ世界に立っているなどと、全く役得極まりないではないか!」

 

 老いた身の内が若返るようじゃ!

 好奇心がむりむりと沸いてでるわい!

 

「情熱に身を焼くのは結構だがよ」

 

 と神は言った。

 

「あんまり期待しねぇでくれよ。あくまで俺の目的に、アンタらの身の安全なんてモンは、勘定に入ってねぇからな」

 

 

1.

 

 

「私って、魅力ないんでしょうか?」

「なんですって?」

 

 カウンセリングを受けにきたマーブル女史は、困惑した。

 診察を受けてすぐに、セラピスト──殺生院キアラの様子が明らかにおかしかったことに気づいた。

 ため息が多い。

 どことなく雰囲気が落ち込んでいる。

 眉が八の字に垂れ下がって、瞼も伏し目がちであった。

 つまるところ、元気がなかった。

 だから、さりげなく、聞いてみたのだ。

 なにかあったんですか? と。

 

 そして、返ってきたのが冒頭のセリフである。

 

 何を言ってんだこの人?

 ──と、マーブル女史はまず思った。

 まじまじと、改めてキアラをその上から下まで眺める。

 

 大人びた、落ち着きのある空気の美人である。

 目鼻立ちは均整のとれたすっと高く、しなやかなカタチをしている。

 大きな瞳はキラキラと、宝石を散りばめたように人の目を惹きつける。

 憂いを帯びた表情すら美しいと目が惹かれる。

 フェロモンでも出ているのか鼻がむずむずする。

 首から下へ視線を落とす。

 実にグラマラスな身体である。

 出るところがしっかり出ている。

 締まるところがしっかりと締まっている。

 それでいて、身長が高いためにデッサンが崩れていると言うことはなく、バランスが良い。

 足が長い。 

 東洋人にありがちな胴長短足とは無縁のモデル体型だ。

 控えめに言って、シルエットが美しい。

 

 おいどういうことだ? 

 魅力しかないぞこの人!?

 女としての頂点捕食者がなんかですか!?

 

 と心の中で怒鳴り上げつつ、それを表に出さず、深呼吸をひとつ。

 

「とりあえず、どう言うことなのか説明していただけませんか?」

「……じ、実はですね」

 

 そうして、先日あったことを、ついつい話してしまっていた。

 話を聴きながら、やれやれ、これじゃあどっちがカウンセリングしてんだか……とマーブル女史は思った。

 

 

2.

 

 

「……と言うことなんです」

 

 なるほど! 惚気か!!

 イヤミか貴様ッッ!!

 とマーブル女史は怒鳴った。

 というか突っ込んだ。

 心の中で。

 

 キアラは頬をほんのりと赤めて、頷くように顔を俯かせて、頬に両手指を添えて、視線を泳がせていた。

 

 乙女か!!

 

 と再び突っ込んだ。

 

 いや、まあわかりますけどね。

 そういうの、嬉しくてしょうがないの、わかりますけどね!?

 

「で……で、先生は、何が不満なんですか?」

 

 思わず呼気が強くなった。

 

「わ、私はどうやら、彼に女性として見られていないようでして……」

 

 たどたどしく言葉を紡ぐ。

 恋に恋する少女そのものである。

 その仕草が妙に愛らしい。

 ギャップ萌えってやつだろうか。

 なんだかちょっと、いじめたくなるぐらい可愛らしい。

 

 ……いやいや、私にそんな趣味はないですよと、マーブルは自身に相槌を打つ。

 

「その、あの。性的不能とか、そーいうアレでは?」

「そういうのとは、違う気がするんです」

「それは、先生のセラピストとしての勘ですか?」

「……はい。恥ずかしながら……」

 

 うん、難題だ。

 正直女性の自分ですらちょっとクラッとくる彼女の色気を全く意に解さないのは、もう枯れ果てているがそもそも欲求がないとしか思えないのだが。

 彼女自身の勘が、それは違うと言うなら仕方ない本当に仕方がない。

 殺生院キアラはセラフィックスに勤めるほどのセラピストなのだから、その手の心理的閉塞による性障害なども扱った事はあるだろうし。

 

「あの人の好みとか、聞いたことないんですか?」

「ええ……実は、その……」

 

 彼は、思ったよりも多くを語らない。

 特に、自分のことを。

 彼の口からキアラへと紡がれるのは、セラフィックスのスタッフが上から下まで、いかにキアラを愛しているのか。

 キアラの存在がどれほどの人を助けているのか。

 ()()()()()()()()の、キアラの女性的な魅力を、事細かに並べてみせる。

 そればかりである。

 キアラが好きなものを聞いても『全部』と答える。

 趣味を聞いても、『全部』と答える。

 笑顔で、子供のように。

 より深く問い詰めてみようとしても、全部は全部ばい。

 と軽く躱されてしまう。

 

「ん〜! 怪しいですねぇ」

「そう、ですよね。私もそう思います」

 

 だが、それは仕方ないとも思っていた。

 セラフィックスの下層階級、労働階級。

 セラフィックスのピラミッドの中でも、最下層に位置する彼らは、スネに傷持ちも珍しくない。

 キアラのカウンセリングにかかるスタッフの中にも、かつてやましいことをしていたものがいたりするし、いわゆる荒くれの中には人の道に反する行いで生計を立てていたものも多かった。

 彼も、あるいはそういう類なのだろう。

 目をたてに横断する痛々しい三本の爪傷などは、彼のここまでの人生の壮絶さを象徴しているようだった。

 

「つまり、要するに!」

 

 マーブル女史は、肩をいからせて両拳を握り、自身の胸の前で震わせた。

 

「先生がとにかく思い切りアタックしてみればいいんですよ!!」

 

 ふんすふんすと鼻息は荒く。

 キアラの顔の正面にその顔を突き出して言った。

 目が輝いていた。

 好奇心と、少しばかりの加虐心が浮かんでいた。

 

「いや、私は、その……は……」

 

 は?

 

「そういうのは、恥ずかしい……です」

 

 彼を、困らせてしまうかもしれませんし……

 

 かぁーっ!

 なんねこのいやしかヒトは!!?

 普段はあんなに大人びているのに、愛恋にはヘロヘロですかこんにゃろー!

 恋に恋する乙女モード実装済みとかアリですかこのやろー!

 可愛いからアリです本当にありがとうございます!!

 大事なことなので恋に〜のくだりは二回言いましたよ、ええ!

 

 と、胸中でゴウの方言に染まりつつ、マーブル女史は本日何度目かのツッコミをぶちかました。

 

「とにかく! 恥ずかしくても聞くんです!! ぶっちゃけ私のこと好き? って!!」

「お、落ち着いてください、マーブルさん!」

 

 女子たちはかしましく。

 そして、たくましかった。

 

 

3.

 

 

 心が削られていくようだった。

 

 晴れぬ気持ちが積もり行き、拭いきれぬ不信感だけが日々かさを増すのは、日差しの届かぬ部屋に、ずっとこもっているからだろうか?

 人も、陽の光なしでは生きていけないと言うが、彼はそれを、改めて実感していた。

 

 セラフィックスの副所長。

 アルミロの顔色は今日も優れない。

 最近は肌の艶がすっかりこけ落ちて、髪先がガサついてきている。

 原因は、不眠と疲労だけではない。

 肉体的な不摂生が理由ではない。

 

 アルミロは、一般公募からその事務能力と人事能力を買われた男だった。

 彼は魔術師ではない。

 だが、秘匿を良しとする口の堅い性格を買われて副所長にまで任命された彼は、その実、セラフィックスで行われている実験に対して強い嫌悪感を抱いていた。

 しかし、それを、その感情を、所長でもあるヒデヤスやマリスビリーたちに吐き出せなかった。

 吐き出すことは許されなかった。

 命を取られることになるからだ。

 あの、掃除屋に。

 我々を常に監視する、あの殺し屋に。

 

 だから、みて見ぬふりをしていた。

 日々使い潰されては、補填として派遣される実験体を。

 みな、子供であった。

 前途有望な青少年、少女たち。

 それを、使い捨てにする。

 

 セラフィックスの業務は、どこを向いても重労働であった。

 事務員から労働員まで、誰ひとりとして楽な思いはしていないだろう。

 キツい仕事に反して、給料は安い。

 国連の目の届かない海の上。

 孤立した世界だからこそ行える法外な措置。

 だが、このセラフィックスにおいて、真に過酷な運命を──そうと知らずに──背負っているのは、訳もわからず使い潰される彼らであることは間違いなかった。

 

 死体が増えていく。

 それを、始末するための予算がかさんだ。

 海の孤島とはいえ人の生活帯である。

 誰も知らぬ真空の実験室とはいえ、その秘匿性はセラフィックスの地図を分解して組み立てれば、賢いものならすぐに気づきうるほど脆弱だ。

 犠牲になる彼らも、多くはワケ有りの履歴書を持っているが、そうでないものも当然いる。

 遺族への言い訳を考えるのがまた、苦しかった。

 あげく、あの狂った三人は、死体をそのままコフィンに入れっぱなしにして、すり潰すまで使おうと言い出している。

 処理に困らぬよう、一石二鳥だからと、笑っていた。

 

 精神は生きているから、

 肉体は死んでいてもまだ使えるから、

 ここでただ死なせれば犠牲が無駄になるから……

 

 さまざまな理由をつらつらと語る、その口が愉悦に歪んでいたことは忘れられない。

 また、それを。

 二つ返事で了承した、ヒデヤスの冷淡さが忘れられなかった。

 

 ひとつ、心安らぐ事情があるとすれば、それはつい先日赴任してきたセラピストの存在であった。

 

 セラフィックスのスタッフのメンタルケアを行う彼女は、美しい心とそれに見合う美貌を持っていた。

 柔和で、大人びていて、寛容で。

 その声が、その仕草が、スタッフたちの乾き切った心に水を注ぐのだ。

 懸命に働き、人当たりがいい。

 

 殺生院キアラ──彼女を嫌うものなど、いようハズもない。

 

 その彼女が、最近ある男に熱を上げていると、噂があった。

 アルミロは何をバカなと切って捨てた。

 彼女は慈母のごとき優しさと温もりを持っている。

 それを、人に分け与える能力がある。

 だから、たまたまその現場を見た誰かが、勘違いをしただけだろう。

 

 そう思っていた。

 

 しかし、セラピストの様子見にとキアラに会いに行った彼は、自分の考えが間違っていることに、すぐに気づくのだった。

 

 ちゃんとノックをして訪ねると、部屋の中からドタバタと慌ただしい音がした。

 それからひと間、ふた間をあけて、キアラは自室からでて礼拝堂でアルミロと話をする。

 

 キアラの傍から見える部屋。

 机の上に、いくつかの雑誌が見えた。

 キアラが、その顔に、ほんのうっすらと化粧をしているのがわかった。

 

 

 それは二千十五年。

 季節感のないセラフィックスでは分からないことである。

 

 日本で言う、季節は春の出来事であった。

 

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