【完結】キアラの望みを叶えるために、全能の神が君臨するお話【挿絵有り】 作:ロウシ
0.
夜闇に瞬く 星のごとく
降り立つ光刃 海を裂き、
眠る人心ざわめきたてて 星の
善意を閉ざし、悪意を見ては炯々と
祈り捧ぐは 人の歩みを、
漕ぎて手伝い、糸を紡ぎし
1.
美しい女性であること。
それは、人界にありてさまざまな罪と対面することであった。
殺生院キアラという女性は、生まれ育った環境からして尋常のそれではなかった。
物理的な環境からして、文明人の日常のそれではなかった。
幼き日に病に倒れ、しかしそれを放置された。
呼吸もままならぬ身体に対して肉親らが行った処置は、犬畜生へのそれである。
信仰と迷信を理由に、ただ布団に寝かされるだけであったのだ。
懸命に、身体の内から蝕んでくる熱と悪寒を訴えても、それは試練だと一蹴された。
むしろ、信者のひとりやふたりからは、神仏の与えたもうた試練に、これほど幼き頃に出会えて羨ましいとさえ、言われたことがあった。
かくて、幼くしてキアラは人に絶望しかけた。
人の
信仰は、人の目を曇らせるものだと知った。
盲信は、心の有り様を変質させると知った。
遠方高々と人を見下ろす神仏の情けは、苦しみにのたうつ少女ひとりを救わない。
救い難い愚か者たち。
それを、信仰するというだけで救うというならば、神仏とはこの世において、悪魔と変わりないものだと思った。
あるいは、そのままでは暗黒の徒と成り果てていたキアラを救ったのは、近代的な医学であった。
最も──そこから脱出するにあたり、キアラたちが並々ならぬ悲劇に見舞われたことは、言うまでもない。
だが、結果的に、彼女は地獄から逃げ切った。
彼女がそこに堕ちきらず、より広い世界へと旅立てたことは、大袈裟ではなくこの惑星にとっての吉兆であった。
それを救ってくれた医者に感謝と敬意を捧げ、また、自身も人を救うべく、殺生院キアラは医学の道を志した。
しかし、歳を取るにつれ、彼女は人の中に眠る、切っても切れない業と、再び顔を合わせることになる。
医学生の頃。
既に、悍ましいそれは、至る所でキアラに投げつけられた。
人の眼である。
人の、異性の、下劣な欲望である。
街を歩くとき、
バスに乗っているとき、
電車に乗っているとき、
買い物をしているとき、
学校に、研究室にいるときでさえ。
殺生院キアラは、人の群れの中にいるとき、常に睨めつくような視線と、預かり知らぬ羨望と嫉妬に晒されていた。
街ゆく彼女を、男たちが振り返る。
上から下まで、その髪の毛先に至るまでを、卑しい情熱を秘めた眼で舐め尽くすのである。
視線に孕まされた情熱は、またたく間に情欲へとすり替わり、男たちの肉体的な色欲のそれと結びついて、傍目に見えるほどにはっきりと、その色と形をそそり立たせた。
すれ違う男たちが、ことごとく惚けているのである。
よだれを垂らして、エサに迫る野良犬のように。
煩悩。
それだけしか考えられぬ顔で、迫ってくるのだ。
それは、おおよそ性への関心が芽生える年齢を超えた男であるならば、例外なくそうであった。
学校の先生でさえ、そうである。
どんなに頑固者を気取って、潔癖に振る舞おうとしても、キアラの一挙手一投足に欲望の視線を滲ませていた。
学会へ──つまり、社会に出てから、そのハラスメント的なアプローチは、加速度的に増大していく。
妻も子もいるであろう男が、自分に色目を使うシーンなど、何度も目撃してきていた。
時間を作れるからと、なぜ私の誘いを断るのだと、男が慌てふためくサマを何度も見てきた。
端正な顔立ちで、どんなに清潔感のある男でも、それは変わらない。
「私と寝なければ望みは通らない」と、命を預かる偉い医者が、平然と宣っていた。
逃れるように、しかしその実、追放された。
手に入らぬ美の結晶は、権威を振るうものにとっては途端に疎まれる対象となった。
彷徨い歩く諸外国。
しかし、外国人であっても変わらなかった。
どこで生まれ、どんな環境で生きてきた男であっても、男であるならばそうであった。
彼らと、年功序列や権威を笠にハラスメントを振りかざす酔っ払いの間に、なんの違いがあるのか?
人間である以上、普遍的に存在する性への欲求は、外界に接する時は誰もが建前を被り、誤魔化しているにすぎないのだと、キアラは身をもって知ってしまっていた。
いや、それは決してキアラだけが知る話ではない。
自慰行為を全くしたことがない人間など、去勢されているか、そもそもその欲求が欠けている、不完全な誕生を果たした存在であることなど、社会常識や秩序ある世界の人間ならば誰もが知るところである。
しかし、それを知っていることと、その原理で発生する劣情をダイレクトに向けられることでは、勝手が違う。
キアラがもし、あとほんの少しでも美しくなかったのならば。
男性というものに対して、もっと純然な敬意を持つことができたであろう。
男性というものに、自らの感じる苦諦への理解を求めただろう。
美しい女性であることは、男性に内在する最も醜い
しかし、現実は美麗秀句でできてはいない。
世間一般で言うところの、地獄のような環境に赴くたびに、社会性や文明的秩序が、欲望を糧に生じる醜さという暴力に対し、如何に無力であるかを思い知る。
紛争の多い地域で孤児院を兼ねた教会の、人々から信愛を集める敬虔な神父が児童売春に手を染め、挙句、それを斡旋する側になっている事例はあとを立たない。
それでも、キアラは。
「男」という人種の持つどうしようもなさを、それでも許容していた。
慈母の寛容で内外を包み込み許す、彼女の痛ましい自己犠牲の精神は、鋭いナイフの如く自身の心に抉り込み、善意を無意味なものだと嘲笑してほじりだす。
それでも彼らを「人間である」と、事あるごとに、自身に言い聞かせた。
つまるところ、殺生院キアラにとって男というものは、
ドラックに泥酔していようが──
聖職者であろうが──
ギャングであろうが──
どこで生まれ、どんな生き方をしていようが──
肌の色が違おうが──
歳老いて死の淵にあろうが──
キアラにとっては、平等であった。
平等に、『気持ち悪さ』を内包していた。
キアラから見る男たちは、
かと言って、キアラは同性へ救いを求めることは出来なかった。
キアラの隔絶した美貌は、それを許さなかった。
煮え立つ欲望は、女性からも向けられるからだ。
その中身が性欲か嫉妬かの違いはあるが、キアラが何かしらの成果を上げるたびに、「あいつは先生をたらし込んだのではないか」、「寝たのではないか」という噂が同輩の女性たちの間で、俄かに流れていた。
「私は先生とあの女がホテルに入るのを見た」などと事実無根の証言をするものまでいる始末である。
磨き抜かれた宝石として生まれたキアラは、事あるごとに、「あなたのように美人に生まれたら、どれだけイージーな人生だろうか」と皮肉を投げつけられた。
少しでも成功すれば同性に嫉妬され、少しでも失敗すれば、異性の劣情の的となった。
キアラはそれを、必ず、笑って誤魔化した。
いつしか、鏡を無意識に嫌悪するほどに、その姿は歪なものであった。
誰がこの不幸をわかってくれようか。
泣き腫らしたところで、選び抜かれた故の不運を、誰が肩代わりしてくれようか。
ざくり、
ざくりと、
殺生院キアラという人間は、それでも人を救いたいがために、心にナイフを突き立てて、慈愛の笑みを作り続けていた。
意識と無意識のさらに奥。
心の底蓋のさらに深部に、日一日と凝り固まり肥大する増悪に、それでも彼女は目を背けて、拒絶し続けていた。
人のために。
人のために働くこと自体を苦に思ったことはない。
だが、向けられた人の欲望と悪意はどうしようもなく痛く、重く、苦しいものであり、キアラという人間の底抜けの善性は、それを救えぬ自分に嫌気を持たせるのである。
自らに訪れるだろう、死の破壊力を恐れてはいない。
自らの心を傷つける、自らの刃は我慢できる。
だが、自らの増悪に身を任せ、自身を死を導くことは、断固として拒んでいた。
自死そのものが怖いわけではなかった。
安寧に横たわり腐り果てることも、恐ろしくはない。
自らの嫌悪に情を委ね、自身の死と生き様が美によって神格化されたそれが、他者を無為無償の死に導きかねないことが、何よりの恐怖だった。
2.梯子
二〇一六年の七月であった。
生ぬるい潮風が吹く午前のことであった。
先日の豪雨が寒暖差に舞い上げられて、深い霧のように世界に蔓延していた。
この日、セラフィックスに、アポイントのない補給船が立ち寄った。
甲板にスタッフがごった返している。
仕事の手を止めて、なんだなんだと駆け寄っていた。
補給船は黒々とした貨物船である。
傍目から見ると、それは間違いなかった。
船の外装がところどころ褪せて剥がれているものの、デッキに露出する長方形のコンテナの数々を見るに、だが。
船首右側に打ち付けられたネームプレートが、錆びついて読み取れない。
つまり、その実、不審船極まりなかった。
最初は偽装された海賊船であるかと、誰もが疑った。
通信士が電波を飛ばすよりも早く、それはセラフィックスに
接近に全く気づかなかった。
それは、霧の海の到来に紛れて存在していたようだった。
説明を求めるために、中央官制室に直に乗り込んできたアーノルド・ベックマンは、苛立ちと焦りを速やかに炸裂させた。
地団駄を踏むアーノルドに、通信士のスタッフは補給船が唐突に現れたことを正直に話した。
謎の補給船は、セラフィックスの感知をすり抜けて、一瞬で姿を現して接近した。
深い霧に包まれていたために目視での確認も取れなかったと説明した。
「ふざけるなっ! あれだけの大きさの船が、降って湧いたとでも言うのかあっ!?」
バカにするのも大概にしろ!
と叫んだ。
この無能どもめ!
と椅子を蹴り飛ばした。
その頃、セラフィックスの所長であるヒデヤス・アジマもまた、何人かのスタッフを引き連れて、彼らしくない表情を浮かべて現場に向かっていた。
小型の通信機から、中央官制室で処理した情報を受け取りながらの歩みである。
全く想定していない事態であった。
ヒデヤスが甲板に着いた時、既に補給船から何人かの船員がセラフィックスに降り立っていた。
彼らを囲むように、セラフィックスのスタッフたちがごった返している。
青ざめる光景であった。
望まぬ死に直面した遭難者のように、彼は喉を鳴らして覚悟を決め、神経を尖らせた。
「何をしている? これは、どういうことですか……」
言葉は落ち着いていた。
だが、歩調が速まっていた。
乱暴な歩幅で囲みを割りながら、ヒデヤスはようやく問題の中心部にたどり着く。
「こんにちわ」
補給船の船員たちは、戸惑うことなく挨拶を捧げて、頭を下げた。
いっそ能天気に感じるほどに、さわやかな空気であった。
自分達がここにあることに、なんの落ち度も感じていない振る舞いであった。
何者ですか。
一体、何があったのでしょうか。
というヒデヤスの当然の問いかけに、
「何……って、頼まれた品を届けにきただけですが……?」
「なんだと……?」
船員たちは、自身のその言葉と、ヒデヤスの険しい表情を見比べて、ようやく自分達が場違いな存在であることを認識したようだった。
船員の先頭に立つ男は、霧に浸かってびしょ濡れの雨ガッパの胸ポケットから黒い革製の名刺入れを取り出した。
手袋を嵌めているのに、滑らかな動きであった。
ヒデヤスは名刺に目を通す。
『運送会社 マーキュリー』
とシンプルで飾り気のない、明朝体で綴られた安っぽい名前が目についた。
だが、一応、いっぱしのものではある。
ちゃんと
漂う胡散臭さを吸い込んで、怪訝な表情で船員を見る。
もちろん、そんな話はヒデヤスは聞いていない。
通信士にアポイントの記録を訪ねるが、やはり、そんな連絡もデータもなかった。
「おかしいですね。あたしら、確かにこの積み荷を、海洋油田基地セラフィックスに向けて……って言われてきたんですけど……」
「……どうやら、手違いがあったようですね」
表向きは穏便に。
しかし、その胸中にはどす黒い感情が渦巻いている。
手違いだと?
あり得るはずがない。
どこから意見していいものか、迷ってしまうほどにおかしいことだらけだ。
そもそも一端の運送業者が、豪雨の次の日に、まだ霧深く湿度の高い海の中に、わざわざ船を出すものか。
仮に、出港の予定をその通りに行うとしても、前もって電話一本届け先に通しておくのが普通だろう。
「失礼ですが」
と、
「依頼主はどなたでしょうか?」
「え? ……あたしらは、セラフィックスさんからご依頼いただいたと聞いておりますが、はい……」
船員は、部下に積み荷のリストを持って来させた。
バインダーに挟まれた紙という、アナログなものだった。
インクの細く、手書きの小さな文字が、まるで蟻の行列の如くびっしりと足並みを揃えて、計十ページにも及び荷物の名称が掲載されていた。
わざわざ手持ちせねばならないことに、やや鬱陶しさを思いながらも、ヒデヤスはそれにも目を通す。
暗号らしきものは見当たらない。
魔力の残滓らしきものは見当たらない。
万が一の可能性、カルデアからの秘密文書の類でもなさそうだった。
訳がわからない。
本当に、ただ間違えただけなのか?
連絡の不手際?
改めて、船員たちに目を向ける。
誰も彼もが、洗脳されている様子でもない。
自意識や感情が抜け落ちている様子もない。
ヒデヤスの鋭い目つきに、この場の不自然さに、困惑の表情を浮かべていた。
仕事にミスを発見してしまった、だから会社に怒られる。
そういう、誰もが持ちうる未来への不安を、ただ普通に発露しているだけだった。
──と、
「すみません、所長。彼らに依頼したのは、私なんです」
人垣をかき分けて、ヒデヤスの隣に歩み寄ったのは、副所長のアルミロであった。
ヒデヤスがじろりと睨むと、申し訳なさそうに視線を落とした。
「どういうことだね? アルミロ」
戸惑いよりも、怒りが先んじている声であった。
それに怖気付きながらも、アルミロは粛々と説明を始めた。
「去年ごろにありました、空調、冷暖房設備の不調を覚えていますか?」
もちろんだ。
とアルミロは言う。
結局、設備の入れ替えまで含めると、まる五日、セラフィックス全体の冷暖房と空調がダメになってしまった事故だ。
それがどうした?
と続けた。
「あの時、セラフィックスに貯蓄していた冷蔵、冷凍保存の食糧の大半を、捨てざるを得ませんでした」
それは、初耳であった。
「あれから約一年……つまり、定期的な補給物資の量を、ほぼ変えずに行なっている現状、やりくりだけではスタッフ全員に、満足に食事や娯楽が行き渡らない計算になっていたんです」
「…………」
財源、資材。
早い話、表向きの体裁を整えるための数字的な管理は、アルミロにほぼ一任していた。
ヒデヤスが関わって管理していたのは、いわゆるセラフィックスの裏の体裁である。
そして、魔術業界からすれば。
アニムスフィアの思惑からすれば。
セラフィックスはあくまで隠れ蓑に過ぎないため、表向きには問題さえなければそれで良かったのだ。
出る杭は、打つのではなく駆除する。
臭いものには蓋をするのではなく、壺ごと葬らねばならない。
起きてしまえば、そうせざるを得ない。
だから、ヒデヤスの表の姿に対する方針は、問題を起こしかねない挑戦的な言動全般には消極的な対応を取り続け、問題を発生させないための労力は惜しまなかった。
腕はいいが──それ故に、世界各地で疎まれているセラピストをわざわざ招集したのも、そのためであった。
その上で、何か問題が起きた時に、スケープゴートにしても問題の少なく、疑念を持たれにくい癇癪持ちのベックマンに地位と権威を与えて側に置いているのだ。
「そういう不満が、ずっと、私の元に殺到しておりまして……」
「…………」
アルミロの発言に不審な点はない。
彼は慎重で、実直で、計算ができる男だ。
そして、いらぬ悩みを裡に溜め込んでしまう男でもある。
ヒデヤスに、この瞬間までそのことを伝えられなかったのも、アルミロの性格を鑑みればそれほど不自然なことではなかった。
仮に伝えられていたとしても、ヒデヤスならば「そういうことは、キミに任せる。そのためにキミを雇っているのだ」と放り投げていただろう。
そういう事例をヒデヤス自身がいくつか積み上げている手前、アルミロがヒデヤスの対応のワンパターンさに辟易して、つい言葉が出なかったことは、メンタルの状態を考えれば、人間としてはままにありうることだろう。
そう言った感情や思惑を飲み込んで、ヒデヤスは、
「つまり、これは問題がないということかね?」
と尋ねた。
スタッフたち、
アルミロは深く頷いた。
それは、謝辞を含めた頭の下げ方であった。
ふぅ、とヒデヤスは息を吐いた。
細く、鋭いそれであった。
「サインはキミがしてくれ、私は仕事に戻る。後のことは任せたよ」
比較的穏やかな口調で、ヒデヤスは歩き去った。
それまで、ただならぬ空気を読んで立ち止まっていた船員たちが、ようやく動き出した。
「それじゃ、積み荷を移しますので、少々お時間と場所を、いただきますね」
3.
「カンパンに、ドライフルーツ。鯖の缶詰に……ハードカバーの本?」
荷物の量は膨大であった。
仕方ないので、非番のスタッフまで駆り出して、整理整頓が始まった。
さながら大家族の引越しのそれである。
甲板上は、ちょっとした民族大移動に匹敵するてんやわんやぶりであった。
荷物をおろした運送会社はたちまち霧の海に姿を消した。
そういう意図があるかはわからないが、いっそほれぼれするような逃げっぷりであった。
ちょうど、その姿が溶けいってから、霧が晴れ始めたことは、なんの天啓であろうか。
コンテナから掘り出すように荷物をかき出して、大雑把に区分していく。
その大半が、長期保存に適した非常食糧と、医薬品の類であった。
どちらも、そう簡単には運搬にあずかれないものである。
聡いものなら気づいただろう。
これだけの量を取り寄せているのだから、アルミロが回した手の数と、下げ続けた頭の時間は計り知れない。
だが、それが何を意味するのかまでを理解するのは、セラフィックスにおいてはただひとりだけであった。
「この本は……あれ、アレク、アレクセ? アレクサンド……ダムス?
「最初の本は『デュマ』ばい。後者はその通りおもちゃやけん。両方とも、おいが注文したやつタイね」
ガサゴソと包みを漁る男の背後から、ゴウは話しかけた。
男が読めず、つまらんと投げ捨てた本を手に取って、その表紙をはたいている。
「もうすぐ七夕やけん、笹でん飾ろち思うてね」
「タナバタ? なんだいそりゃあ?」
「あー、そっか。知らんタイね、そりゃあ」
天の河の端々に別れた天に住まう男女が、その日だけは会えるとよ。
言いながら、天井に人差し指を向けて、くるくると回した。
男はクエスチョンマークを浮かべていた。
「ニホンのおとぎ話かよ」
「そげなんよ。にゃあセンセぇ」
「あの、いや、それより言いたいことが……ええ。ええ、まぁそうですけど」
ゴウが同意を投げかけた方に、キアラの姿があった。
というか、彼らが品々を開けている場所が、礼拝堂の前の広場である。
スペースがなかった。
とあっさり言い訳をされて、断る間も無くあれよあれよと男たちが包みを抱えて漁りながらたむろしていた。
普段からキツい労働に従事する男たちにとって、量があるとはいえ袋開けの整理整頓など楽ちんな仕事であった。
「そいで、笹に願いを書いた短冊ば引っ掛けて飾ると、願いが叶うち願掛けがあるとよ」
「なんで男女が再会すると、願いが叶うんだよ?」
「織姫サマと彦星サマが、願い叶うた果てが、一年に一回の再会やけんね。そいがタナバタやけんよ。その奇蹟にあやかろうちゅうこつタイ」
一年も離れてるのに、愛し合ってんのか!?
その、オリヒメとヒコボシって二人は?
ぐりっと目を丸くする男に、おう、とゴウは頷く。
はぁーっと口を開けて、話を聞いていた男たちは感心していた。
「すげぇな、純愛じゃん」
「全くだぜ。一年離れてりゃあ、よそのオンナに目移りするだろフツー」
「それはてめぇの脳みそがチンとシリでしかモノを考えられねぇ猿だからだろうが」
「まてよ。オンナの方だって、ヒロイズムに酔いしれてヨソサマの棒に夢中になるだろ」
「
「全くだぜ、刺身の
「ツマっ……だとてめぇ!? やんのか!!」
「上等だよあーっ!!」
下品な話に笑いながら荷物そっちのけで取っ組み合いを始める男たちを、ゲラゲラと周りの男たちが囃し立てる。
キアラがはぁーっと握った拳に息を吹きかけた。
仰々しく行われたそれに視線が集まり、男たちが全員、ぴたりと動きを止めた。
「や、やだなぁ先生。喧嘩なんて、な。す、するわけないじゃない……」
「そ、そうそう。わ、悪かったな。チンとパイでしかモノを語れない摩羅野郎とか言って……」
「さっきより酷くなってんじゃねーかえーっ!? んだてめぇっ!? あっ、いや先生、俺たち仲良しだからさ、ホラ……」
恐々とした態度であった。
全員、過去にゴウがいない時に礼拝堂内で酒盛りを始めて、あげくセクハラを働いたことでキアラの謎拳法にブチのめされた過去があった。
その様子を、ゴウだけが腹を抱えて転げるほど笑って見ていた。
「すまんねぇ、センセぇ。アホばっかりで」
「いいえ、ゴウさんが謝ることじゃないですよ。それに、みなさん今は大変素直で助かります」
「なぁ良かったばい」
じとり、とゴウを見る。
この人も、もう少しアホだったらいいのに、とちょっと思っていた。
「そうやん。センセぇも、なんか願い、書きんしゃいよ」
「えっ? わ、私が……ですか?」
「なんでそげに驚くかね? なんか悪いこつ言うたかい?」
書くだけタダばい。
別にセンセぇ、宗教上の理由で、そういうのダメっちゅうこっちゃなかろうもん。
「いや、その……」
「願いを知られるのが、恥ずかしかが?」
「……」
無言は、是である。
ゴウは沈むように、にこりと笑った。
「おい、ゴウ! 短冊、結構入ってるからおまえにも分けてやるよ」
「なん言よるがか、あまりもクソも、それはもともと俺んタイ!」
「そうだったっけ?」
「きさんこら、しぇからしか真似ばすんな!」
男たちの喧騒に飛び込んでいく。
キアラはその様子を、ふふ、と笑って見ていた。
4.
整理整頓に、丸一日かかったが、アルミロはおおむね満足していた。
自室で、胸を撫で下ろして、コーヒーにミルクと砂糖をたっぷり入れて、飲んでいる。
机の上の電灯だけをつけて、自分の世界に浸り、自分の行いの正当性を問いただす。
誰にも尋ねられないから、自らで納得するしかない。
不安で、今日も眠れないだろうか?
恐怖が、身体を内側からボロボロにする音が四六時中聞こえている。
だが、それでもやらなければ。
あの日以来、そう思って、ここにいる。
電灯が、ぱちぱちと点滅した。
瞬きの瞬間に合わせるように、刹那の深淵がアルミロの世界に訪れる。
男は、いた。
神である。
壁に背を預け、腕を組み、あの、畏怖を感じるほどに美しい視線がこちらを見ている。
「よくやったじゃねぇの」
その口が、十分な時間をかけて、ゆっくりと開いた。
言葉のひとつひとつが、砂糖を煮詰めたような、甘く胸焼けする匂いを漂わせている。
アルミロは、しかし息を呑んで、その眼光を真っ直ぐに射すくめた。
「ワルかったね。正直、愚直さが取り柄の……『いいヒト』ってだけな印象だったんだが……見誤ってたよ。あんな大胆な行動にでちまうとはな」
ヒデヤスへの言い訳も、自分の性格、奴の性格を十分考慮していた。
そして、駆け引きの場を作り出したこと。
大胆にも、セラフィックスの一般スタッフ全員を人質にすることで、ヒデヤスの追求を躱し、向こうから手を引かせるように仕向けた。
「背伸びしてるトコはあるにせよ、アンタは自分がどう頑張っても、突然自分以上になれないことを、ちゃんと理解しているらしい。類まれなる自制心だ、うらやましいぐらいだよ」
「ひとりでも、多くを救えるなら……私はなんだってやるよ。私に、できる範囲で」
神は、ふふ、と笑った。
最近、アルミロが頻繁に下層の労働者たちの元に訪れて、話をしているのを見ていた。
屈強な男たちに囲まれて、彼らの世界のことを理解しようと、歩み寄っていた。
「タバコを、吸わされたんだがね。私は元々好まないんだが、それがとてもキツいやつで
、咳き込むどころか吐くところだった」
「イヤになったかい?」
アルミロはかぶりを振った。
「あんなにキツいものを、中毒になるほど常用しなくてはならない……彼らの人生の余裕のなさが、なんだか虚しくてね……」
それを、まるで知らなった自分が申し訳なくてね。
滑稽でね、と言った。
「キミは、セラフィックスをひとつの世界だと言っていたな。私たちを、同じ世界に寄り添うコミュニティだと」
懺悔の言葉のようであった。
事実、そうなのだろう。
彼の前に立つのは、全能の神である。
神に対し、罪の告白をしているのだから。
これが懺悔でなくてなんだと言うのか。
「私は……この小さな世界ですら、同じ場所に立つ彼らを知らなかった」
「イヤになったかい?」
神は、同じことを、同じ口調と間を持って、聞いた。
アルミロは再び、かぶりを振った。
「『蠅の王』……」
それは、神と共に見た未来の情景を、神が例えた小説──あるいは映画のことであった。
「『蠅の王』の最後は、独裁者の少年も、それに付き従う少年たちも、秩序の世界に戻っていった……」
「ああ。そこを、痛烈な皮肉だと評する者が多いなぁ」
極限状況における、暴力の蔓延。
しかし、それはより強い秩序と暴力の到来によって、あっけなく崩壊する。
蝿の王のラストは、文明社会というものが、理性の作り出す秩序が、いかにメッキに過ぎないかを炙り出している。
だが、アルミロの言葉は、その先をいく。
「つまり、そういうことなのだろう? 限られた世界で権威主義にカサを借りた暴力は、ある側面から叩けば容易く壊れてしまうという……」
────ッッ!
神は、堪えきれずに、顔をふせて、背を丸めて、く、くく、く、と笑みをこぼした。
たまらない解釈であった。
そうくるか。
極めて楽観的で、希望的観測ではある。
だが、その見方も紛れもなく事実の側面だ。
コミュニティが作り出す暴力も、所詮は人の集まりが生み出すもの。
個々の集まりが、より楽な道を選択したが故の外道でしかない。
それぞれの個体が単一の目的のために生きる、『超固体』化現象とは似て非なるもの。
ならば、崩せる。
ならば、人の手でなんとかできないはずはない。
全く知らないならばともかく、アルミロは未来を少し知っている。
備えれば、蓄えれば、抵抗はできるはずだ。
「全く、大したやつだよ」
神に頼らぬ。
神を縋らぬ。
目の前にある全能に、決して供物を捧げぬ。
自分のできる力で、なんとかしようと足掻く様は、神にはどう見えているのか。
少なくとも、愉快ではあったのだろう。
心の底から、笑っているからだ。
「相手は、人の世の苦諦を鳥瞰させたサタンの囁きに耐えきれず、堕ちたとはいえカリスマもカリスマ。凡夫のアンタが太刀打ちできる相手じゃねぇぞ、あの女は」
それでも、と。
「私は、私にできる方法で、やるしかない……」
覚悟を秘めた言葉であった。
その単語ひとつひとつに、恐怖と使命を帯びていた。
神は、魔性をみなぎらせて、口角を釣り上げた。
──美しい。
不意にこぼれた言葉は、多大な熱がこもっていた。
ああ、やっぱり、俺。
ニンゲンってやつが、大好きだよ。
5.
みなが寝静まった頃、礼拝堂二階の個室で、キアラはゴソゴソと動いていた。
この時間は誰も、自分以外は礼拝堂に来るわけもないのに、扉を開けて注意深く、きょろきょろと周りを見渡した。
忍足で音もなく、歩いていく。
短冊は礼拝堂の玄関に飾られていた。
プラスチックで作られたおもちゃの笹であるために、水もいらないし腐らない。
それほど大きくもないので、花瓶に挿して、広がる葉に結ばれた色とりどりの短冊が、さながら花束のようであった。
そこに、ひとつ。
傍目には見えない場所に、ひとつ。
キアラは短冊を吊るした。
願いを込めたそれを。
──恋が、叶いますように
綺麗な文字であった。
その実、何度も書き直していた。
しかし、万が一バレると恥ずかしいので、名前は書かなかった。
飾り付けて、二歩下がる。
全体像を改めて見ると、なんだか、おもちゃの笹束が、愛おしく見えた。
こんなもので、願いが叶うはずはない。
そんなことは分かっている。
でも、彼女の心は弾んでいた。
海洋油田基地セラフィックス。
二〇一六年七月のことであった。