【完結】キアラの望みを叶えるために、全能の神が君臨するお話【挿絵有り】 作:ロウシ
1.
おいと、一緒に来るかい、センセぇ?
キアラがそう言われたのは、夜風が吹き抜ける寒い日のことであった。
海洋油田基地セラフィックス。
二〇一六年十二月のことであった。
北海を基点とするセラフィックスの冬は、ことさら冷たい世界となって現れていた。
風が寒いのではなく、漂うその空気が冷たいのであった。
そのため暖房器具はもちろんのこと、油田基地として稼働するための電力消費量もバカにならないレベルである。
甲板に出れば、口から吐く息が自然と白くなる。
室内にいてすら、夏や秋のそれとはまるで違う世界だと思い知る。
寒さは日を跨ぐごとに増しており、朝、目が覚めるたびに、新しい冬が訪れるようであった。
外の空気を浴びた状態で瞬きをする。
そのたびに、目の淵に溜まっている見えない水分が薄く凍りつき、きらきらと星屑のように砕けて、煌めいてさえいた。
「寒いのう、センセぇ」
礼拝堂の中。
今日の診療を終え、キアラがひと息入れた後、やはりタイミング良くゴウは現れた。
その身を震わせながら、礼拝堂の扉をきいきいと静かに開けた。
流石にタンクトップではない。
半袖ではあるのだが。
そりゃ寒いだろうと言う格好に従って、その大きな身体が縮こまっていた。
いつもは生命力をみなぎらせて熱を発している身体が、叱られた子供のように消沈している。
だからといって、ゴウに元気がないとか、そういうわけでも、そういう動きでもない。
もはや、そこに入ること自体が手慣れすぎて、日常のルーティンになってしまった故の、静かでごく自然な動きであった。
「あらあら。診察はもう、終わりですよ」
それを、キアラは冗談めかして迎え入れた。
ゴウはむむ、と下唇を尖らせて、
「そいつは困ったバイ。今日こそハラん調子が悪か気がすっけん、診てもらおうち思うたとやけどなァー」
困ったような顔ではあるが、紡ぐ言葉は情緒に溢れていた。
その雰囲気が、ぱあっとお茶目に輝いていく。
花開くようであった。
お互いに、ひと間を開けた。
そして、どちらともなく、ふふ、と笑みをこぼした。
釣られて、笑う。
ふふ、ふふふ。
へへ、へへへっ。
どちらも、ちょっと初々しく、照れくさそうであった。
「私の専門は精神ですよ。ですが、せっかくですので、内科に行きたいなら特別に紹介状を書いてあげましょう!」
「ちょ……んもー! センセぇも、大概いじのわるかヒトやねぇ。おいはここに来る理由を、来るたびに、いっしょうけんめいに考えちょるとばってん……」
「理由をつけて診療を受けに来るんじゃあ、本末転倒ですよ」
「ど正論やね。いやーマイったバイ」
あっさり負けを認めて頭を掻く。
言いながら、ずかずかと歩いて最前列の席に着いた。
すとん、とその身体が席に収まった。
そこに、すっとコーヒーの入ったカップが差し出される。
それを、ゴウはありがとうと、言葉と笑みを返しながら受け取る。
どういたしまして、とキアラは少し、得意げになって微笑む。
お互い、慣れたものだった。
もう、二年。
その日の出会い頭はずっと、こういうコミニュケートを取っていた。
「いやぁ、寒かねぇ、センセぇ」
呟くゴウは、鼻水を垂らしながら、ずずっとコーヒーを啜っている。
言うまでもなくホットコーヒーである。
キアラが淹れたての、二杯目の、濃いものを飲んでいた。
ミルクや砂糖は入れず、ブラックである。
黒い水面から湯気が沸き立つほど熱い。
対して、キアラのカップに揺らぐコーヒーはミルクと砂糖がたっぷり入っていた。
疲れた身体には糖分である。
ゴウは、気付けになるけん。とブラックにしていた。
「ここにおると、一年がはやかねぇ」
それに関しては、同意である。
もう、二年だ。
セラフィックスでの日々は、忙しくも充実していた。
下心はあれど、スタッフも患者も真っ当に接してくれる。
日々患者の数は増えていくし、投与分配する薬の量は増えている。
それでも、アルミロやゴウが目を光らせているおかげか、問題なくここまでこれていた。
彼らとお昼を共にする。
おやすみ時間に集まって、くだらないことをだべり合う。
にやぁ、先生。
誰かが話を振ってくる。
キアラがそれに、二、三ほど所感を述べると、けらけらと笑い声がする。
そういう流れが出来上がっていた。
次第に、スタッフたちの目からやましさや下劣の色が薄まっていった。
性のシンボルとしてではなく。
生まれついてしまった部分だけではなく。
殺生院キアラという、二十五年の人生で組み上がった、ひとりの人間を。
彼ら彼女たちは、見てくれるようになっていた。
それが、嬉しい。
そして、嬉しいことは、楽しいことは、時の歩みを早めるものだ。
「センセぇは」
と、ゴウが切り出した。
「いつまで、ここにおるとやろうね?」
キアラはうん、と頭を捻った。
考えたことがないことであった。
そもそもが、追い出されて追い立てられて、ようやく辿り着いたのが果てがこのセラフィックスである。
二〇一四年にここに降り立って以来、ここから出ること自体、考えたことがなかった。
とにかく、今は目の前の仕事に全力で取り組む。
ようやく腰を落ち着けられた、いるべき場所に報いる。
そういう姿勢で挑んだ二年間であった。
「ゴウさんは、どこかに行っちゃうんですか?」
おそらく、本人も意図しないほど、幼い言い方であった。
言葉の
ゴウは、キアラに向き直って、あっさりとうん、と頷いた。
えっ、と細長い指の隙間から、キアラの驚きがこぼれた。
思わず口から飛んでいった言葉だった。
それは、考えたこともない未来であった。
「おいは、
ここに骨ば埋める気はなかよ。
そげな物好きやなか。
カネはちーっとも貯まっとらんばってん、まぁそれはしょーんなかね。
くわばらくわばら。
おいは、まだ。
やりてぇことも、見たいもんも、たくさんあるけんね。
だから、来年にゃあ、ここを辞めようち思っとるとよ。
「やりたいこと、ですか……」
見たいもの、ですか。
例えば、どんなものなんですか?
「藻」
「……も?」
うん、それ。
と言った。
ゴウは、両手を前に出して、それを大きな動きで左右に広げた。
指先の動きが、視線を誘導するようにしなっている。
ゴウは、自身の脳内に広がる
「アメリカの、西海岸だか、東海岸だかにね、センセぇ。夜になると、光る藻が浮き上がる海があるち聞いたとよ」
月の光を食って、食い切れない光を外に出しとるんよね。
それが、海面ば覆い尽くすほどに広がるとよね。
日本の秋景色……蛍の光のように。
そいが、夜風に揺らされて、波に踊って、どんぶらこ、どんぶらこ。
空を見上げると、雲の隙間から星々が煌めいとる。
下を見ても、波打つ星の輝きが敷き詰められとる。
星の狭間に、夜に抱えられて、おいがおるんよ。
おいは、安っぽいホテルの、安っぽいベランダでそれば見ちょる。
手には、安っぽいにごり酒を、ヒビの入ったグラスに泳がせとる。
ホテルも、酒も、安もんでよか。
光り輝ける世界を肴に飲む酒は、安もんに限るけんね。
そいが、例え、舌を焼くほどマズくても。
舌を蕩かすほどウマくとも。
それはそれで風流たい。
その世界に、自分がおるち思うだけでよかとよ。
それ以外は、全て引き立て役。
そこでは、
その瞬間、おいは世界に必要な存在として、そこにおるんよ。
目ぇつぶってみんか、センセぇ。
見えるがか?
おいの、想うちょる世界が。
「…………」
キアラは目を閉じて、思い描く。
ふわりと、それが瞼の裏に浮かんでくる。
光の海。
光の粒が、海面に寄り添って、波に揺らいでいる。
幻想的な光景であった。
なぜか、それは、いやにリアルに思い描けた。
それを見る自分がいた。
自分の目が、空にあった。
空から、
想像上の景色ではある。
しかし、そこに立つ自身の息遣いすら感じられた。
暖かい波風が、頬を撫でる優しさを感じられた。
つい、うっとりとしてしまうような心地であった。
だけど、
「きっと、綺麗なんでしょうね」
ようやく吐き出せた言葉に、複雑な感情が混ざっていた。
目を開いて、細めて、困ったように笑ってしまった。
そういう世界を夢見ることは、もう何年もないことだった。
人のために生きていくために。
ある意味で、殺生院キアラのここまで歩んだ二十五年は、人を許し、人を人であると認めるための人生であった。
ある意味でがむしゃらになって、前だけを見続けていた。
余計なものを見ないように。
余計なことを考えぬように。
立ち止まれば、夢とロマンスに足を絡め取られれば、きっと、自分の中で今も這いずって離れない自身の過去が追いすがり、ヒトに失望してしまうと恐れていた。
だからこそ、いつまでもいつまでも、童話の世界のような、甘ったるくも切ないロマンスに恋焦がれている。
切り離せない渇望が、彼女にはあった。
この生き方をしている限り、手に入らないと知るからこそ、人並みの愛と欲望に身を投げ入れてみたかった。
だから、
「そやね。おいと、一緒に来るかい、センセぇ?」
その言葉は、鳴り止まぬ歓声のごとく、キアラの心に飛来した。
どきりと、心臓が高鳴った。
それは、考えたこともない未来であった。
「えっ、えっ……?」
言葉が出てこない。
言葉が出てこない。
困ってしまっていた。
ずるい。
欲しい言葉を、
欲しい言葉であった。
それは、キアラが人生をかけて、一番欲しかった言葉に値するものだった。
幼い頃の自分。
苦しみの中にあった。
助けて欲しかった。
外に、連れ出して欲しかった。
誰もが、私に言葉だけを与えた。
だけど、私が欲しかったのは、言葉じゃない。
私を崇める言葉はいらない。
私を憐れむ言葉はいらない。
私を励ます言葉はいらない。
私が欲しかったものは、私の手をとって、力強く、「さあ出かけよう」と手を引いてくれる人だったのだから。
私の世界を砕ききって、泡と消える私の輪郭を、それでも縁取るような、強い人だったのだから。
「センセぇも、女でひとつ。これまで色々と、ままならんことも多かったやろうて」
ばってん、おいがおると、違うぞ。
大きくて、強そうで……実際強うて、表に向こう傷のある男が、後ろで睨みば効かせちょる。
そいは、でかかぞ。
それまでセンセぇが「女だから」で通らんかったことが、いくつかは通るようになるぞ。
間違いなく。
そんで、おいは、楽しか。
センセぇの言葉は楽しか。
たまにおっかないとこが楽しか。
思うたことを、よかれと思うたらどんどんやり出すとこが見てて楽しか。
意外と遠慮んなかこつ言うてくるんが楽しか。
たまに、上の空になっちょるんが見とって微笑ましか。
真剣な目がカッコよか。
センセぇの淹れてくれるコーヒーばいつでん飲めるんは、よかことじゃ。
なんじゃ、メリットしかなかのう。
お互いwin-winの関係ばい。
いや、おいが貰いすぎかな?
でも、その分。
センセぇが足りんとこがあるんやったら、おいが勇んで出ていっちゃる。
崖が深すぎて向こう岸に跳べん言うなら、おいが抱えて跳んでっちゃる。
そんぐらいは、しちゃあよ。
どげんやセンセぇ。
おいと一緒に、世界ば回らんか?
「…………」
センセぇ?
「………………もう!」
吐き出されたものは、強い怒りを孕んだ言葉であった。
予想外の反応に、ゴウはふお!? と片眉を吊り上げた。
しかして、しゅんとうなだれたキアラの顔は、口を尖らせていた。
「せ、センセぇ? おいは、もしかして……いらんこつば言うたかや?」
ううん、と、言葉ではなく、伝えてきた。
違うんです。
やはり、言葉ではなかった。
顔を上げた。
笑っていた。
心から。
慈母の笑みではなかった。
ごまかしの喜びでもなかった。
ただ、心のままに、その顔を作っていた。
海洋油田基地セラフィックス。
二〇一六年十二月二十九日。
寒い日のことであった。
月明かりが、見えない日のことであった。
2.
ゴウは、いた。
神として。
対峙するものがいた。
それは、人間であった。
「要点は、話した通りだ」
鋭い声であった。
その目は、魔力を秘めていた。
怪しく光る宝石を、幾何学的に削っていった、黄金比の美しさを持っていた。
その目に射すくめられ、あるいは恐れたあまりか、人間は言葉もなく、こくこくと頷いた。
「何があっても、生き延びることだけを考えなさい」
キミは、特にそうだ。
危機を感じたら、逃げなさい。
暴力の前兆は臭いでわかる。
きっと感じる。
だから、それがわかったら。
真っ先に、何を置いても、キミは逃げなさい。
生き延びることが、キミの使命だ。
神の名と力をもって、命ずる。
この世界では、そう言えばいいのかな?
とにかく、キミは、二〇一七年から二〇三〇年まで、生き延びることだけを考えなさい。
アルミロは、小型の食糧保管庫をいくつも備えたね。
食糧も医薬品も、娯楽道具ですら大量に仕入れたね。
自身の人脈を隅々まで行き届かせたね。
だから、想定より──本来のそれより酷いことにはならないだろう。
極めて賢い判断だ。
極めて勇猛な行動だ。
だが、悲しいかな。
彼は凡夫だ。
それはキミも知るところだろう?
魔術師の世界においても凡夫も凡夫。
いかんせん、見積もりが甘い。
時層のズレたセラフィックスは、二〇三〇年まで
都合十七年、孤立した世界で暴力の蔓延を抑えるには、彼の用意した蓄えでは到底足りまい。
ましてや、彼女の信仰の拡大は抑えられまい。
……まあ、時間層そのものがズレることなど、定命の者に想定しろと言う方が、酷ではあるが、ね。
極論だが、俺がこのセラフィックスの中で、この天変地異から生き延びなければならないのは
だから、キミに対しては事件のほぼ全容を教えた。
解決までの展開を分解して、そこにあるひとりひとりを考察するならば、MVPはキミに違いない。
にもかかわらず、キミは事件に関わることなく死んでしまう。
それは、些かアンフェアと言うものだろう。
もちろん、事件中に、俺がキミを護ることはない。
事件中は、俺はただのひとりを除いて、誰ひとり助けるつもりはない。
残酷な未来だ。
俺は、それを一切気兼ねなく話している。
冷酷非道な行いだと、我ながらに思うよ。
この話を最初にした時の、金魚のように口をパクパクさせて茫然自失するキミの顔は、正直、面白かったと思っている。
だが、キミは俺の力を理解した。
その顔を見るに、覚悟も決まっているようだ。
だから、俺は安心して明日を迎えられる。
そうだな……それに報いるぐらいは、してもいいかもしれないな。
0-二千十七
その男は、時間の外側にいた。
ある起点から派生する
道中、いくつかの時間点で同時に、いかつい顔の年配の男に何者かと問い詰められ、いらぬ問答をするハメになった。
聞くところによると、彼はこの次元層に居並ぶ並行宇宙を管理監督する調停者のようなものであるらしく、『彼』とは似たような立場の苦労話に花を咲かせてしまい、ついついどの時間点でも予定より長居をしてしまっていた。
降りるべき世界と時間の面を定めた。
漂白された地球。
そこに存在する、重なり合う虚構の領域。
『彼』にとっては、正数か虚数かの違いは、等しくただ世界を構成する一面に過ぎない。
自分という個の存在に対し、世界が一点に引き絞られていく。
その途中、隣り合う時間層から、それを感じる。
『深淵』があった。
それは、『彼』にはよく知る、『深淵』であった。
この世界にはないハズのものであった。
驚愕と同時に、不安が押し寄せた。
恐る恐る、世界を時間層ごとに分解して俯瞰する。
それを認識して、やっぱり、と頭に手を当てて、『彼』は唸った。
川のように伸びた時間流の過去から未来にかけて、あるポイントに跨って『深淵』が根付いていた。
それは、『彼』には無視できない事象であった。
『彼』は一旦踵を返して、先ほどの老人の元へ飛んだ。
降り立つべき世界の前に、確認すべきことができたと、その旨を伝え、しぶしぶながら承認をもらい、その世界と特異的時間点に向けて着陸すべく、降りていく。
その途中で、三つの霊子体と、『彼』はぶつかった。
交通事故ならぬ、霊体事故であった。
『彼』の太い体に弾き飛ばされたのは、狐耳の少女(?)の形をしていた。
頭頂部を抑える感じに揺らぐ、霊子の塊を見据えながら。
『彼』は、とてつもなく嫌な予感を感じざるを得なかった。