それはそれとして、拙稿の表題は“てんどく”ではなく“うたたよみ”と読むことにしたい。そんな日本語はないのであるが、
“
本稿はその序として、法華経について概説する。もっとも、以下はボク個人の理解の備忘録なのであって、今から述べることも、あくまでも「ボクはこのような理解を前提としてこの連載を書いていきますよ」という宣言に過ぎないこと、を了されたい。
さて。
法華経は紀元1~2世紀頃にインドで書かれたものらしい。作者はわからないが、体裁上は
そのとき、
由旬というのは古代インド語“ヨージャナ”の音写で、旅行レベルで用いられる長さの単位であり、一説には約15Kmとされる。つまり高さ7,500Km、宇宙空間にまで届く高さの宝塔が地面から突如湧き出してきて、しかも空中に静止した、というのであるから、信仰としてどのように解釈するかはともかく、これを字義通りの歴史的事実であると考えるのは、ちょっと頭がどうかしていると言わざるを得ない。
一方で、少なくとも我が国の歴史においてはこの法華経が、仏典中最高のものとして尊崇を集めてきたこともまた事実である。これは単に天台宗、日蓮宗がそうであるのみならず、読者諸兄もそうとは知らないだけで、実は法華経由来の観念を多く無意識のうちに受容していたりもするのであるが、その詳細は追々触れていくことにしよう。
言わんとするところは、法華経そのものは、概ね1~2世紀頃に書かれたものであろう、という他は、どこの誰が書いたものかわからないし、その内容についても到底この世の客観的真実について述べたものとはまったく見做せない代物である。
が、一方で、現代の我々の思考様式にも深く関わるほどに我が国の文化の根底に深く染み込んでいる経典でもある、ということである。この法華経を、与太話であるとわかった上で、なぜその与太話が大きな影響力を持ち得たのか、そこにはどのような意味があるのか、について、ボクも与太話をする、というのが本稿の趣向である。
さて、上掲の法華経引用は現代文で示した。その出所、すなわち本稿で使用する底本を紹介しておくことにする。『現代語訳法華経<上・下巻>』(中村瑞隆著,春秋社,1995-1998)である。本稿中、特に断わりなく引用されている部分はすべて同書からのものとご承知おき頂きたい。
法華経……インドにおけるサンスクリット語原典の名前をそのまま呼べば“サッダルマ・プンダリーカ・スートラ”になるのだが……の訳本としては、古来、4世紀の訳聖、
本連載でも必要に応じて……主に漢文の方が格好いいから、という理由で……妙法蓮華経を引くつもりではあるが、原則としてはわかりやすさを優先し中村師の訳文を用いることにする。なお、師の訳文は妙法蓮華経からの重訳ではなく、二種のサンスクリット語写本を底本としつつ、妙法蓮華経を含む複数の訳本・原語写本とも比較検討して訳出されたものになっている。
これでどんなことが起きるか、というと、たとえば、法華経一部八巻二十八品、と先に書いたが、これは妙法蓮華経が一般に八巻の巻物として製本され、二十八章から成っていたことに由来する言葉である。一方で、サンスクリット語原典に遡ると法華経は二十七章構成であり、漢訳妙法蓮華経では上に引用した章句で始まる第十一章を、二つの品に分割していることがわかったりするのである。厳密に言うと事情はもう少し複雑なのだが、これについては追々触れていこう。
妙法蓮華経の内容については、一部羅什の意訳の限度を明らかに超えていると思われる挿句……方便品第二の十如是などがよく知られる……を除けば、その内容が原典から大きく逸脱しているという指摘はないので、決して妙法蓮華経を疑って中村師訳を採るとするワケではない。
むしろ、中村師は日蓮宗の僧侶であり、かつ立正大学々長を務めた御仁であらせられるから、むしろこちらの訳の方が日蓮教学に由来する逆汚染を受けているかも知れない点は考慮すべきではあるが、入手以来幾度となく本書を通読したボク個人の心象としては、まったく正確無比であると阿るつもりは毛頭ないが、中村師は非常に誠実な訳を提供してくださっていると判じている次第である。
なお、原典直訳の法華経には他数種があり、中には完全に学問畑の方の手になるものもあるから、そちらの方がボクのような読み方をするものには相応しいのではないか、という指摘もあるかも知れないが、ボク個人が本書に思い入れが深い、という理由でこれを却下する。というのも、手元の上下二巻は、妻が一緒に暮らし始めて最初の誕生日にプレゼントしてくれたものなのだ、と唐突に惚気。
そんな感じで、次稿から第1話として、法華経のとある章の精読に入っていく。各章はそれほど長くないし、かつ、これは法華経に限った話ではないが、仏典というのは散文の論述部分に続いて、ほぼ同趣旨の韻文が繰り返される構成を採ることが多く、実質的な長さは更に短くなるものである。とは言え、釈迦の時代まで遡ることはないにせよ、ざっくり二千年前に書かれた文章であるから、我々の日常的な常識からは俄かに理解し難い語句や修辞が多いことも事実であり、精読には章毎にそれなりの文字数を要することとなろう。
また、法華経の章の中には、日蓮マニア・法華経マニアを自認するボクですら眠気を禁じえない冗長な章が含まれていたりもする……特に六章から九章(授記品第六~授学無学人記品第九)の退屈さ加減は呆れるばかりである……ので、読了にはそれなりの覚悟を要する。ダレないように適度にくすぐりを入れていくので、それをお楽しみいただきつつ……どちらかと言えばそちらが筆者自身目的であるような気がしないでもないが……お付き合いいただければ幸いである。
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本稿は、2015年12月から2016年8月にかけて、当時運用していた拙Weblogに同表題にて連載していたものを再編集したものとなる。当該Weblogが今夏サービス終了となるのを受け、そのまま散逸させるのも惜しいように手前味噌ながら思われたので、ある程度使い慣れたこちら(ハーメルン)に移植しておくことを思いついた。
明らかにこれは“小説”ではないが、『法華経』という二千年前に書かれたおそらくは人類最古級“SF小説”の二次創作、ではあると思うので、そのように理解してもらってご寛恕いただきたい。