第10話 トンデモ本もびっくり……第十一章“塔の出現”
全世界に僅か数名の法華経
「高さ7,500Kmの塔が宙に浮くんでしょ?もうわかったよ!」
とか醒めたコトを言わないように。繰り返し茶化し続けてきたソレは、本章開巻僅か数行にサラッと書かれる出来事に過ぎず、その後も、これでもか、これでもか、と言わんばかりに、二千年前の法華経執筆者たちの正気を疑わざるを得ない、突き抜けたイマジネーションが炸裂しまくるのである。まさに本章こそが法華経のクライマックス、と言っても過言ではない。
連載第10話となる今回は、この第十一章“塔の出現”を、まずは書かれたままに、そのブッ飛び具合を楽しむことを目的とする。その上で、少しだけ真面目に、それら、何かヤバいアレをキメているかの如き表象の数々が、書き手にとって、また、読み手にとってどのような意味を持ち得るのか、を考察していきたい。これが今話の前半戦となる。
後半戦では、法華経二十七章の成立後に本章に後付けされたと見られる後半部分、妙法蓮華経
総じては、本章
*
そのとき、世尊のみ前において、大衆のつどう中央あたりの大地から高さ五百由旬、周囲もそれにふさわしい七宝づくりの塔が現れ出てきた。そして虚空に昇り、中空に安座した。
というワケで、序においても引いた上引用の一節から本章は始まる。
ちなみに底本では、ここに言う周囲もそれにふさわしいを二百五十由旬(約3,750Km)としている。この構造物が円筒形と仮定すると、その直径は約1,200Km。本州をほぼ覆い尽くす幅である。まぁ、以下見ていけばわかるように、本章の書き手はこうして示す数値が、実際に目の前に現れたらどのようになるのか、を考証したとは到底思えないので、具体的な値には深い意味はないのである。そもそも7,500Kmという高さは火星の直径を上回るのであるから。とにかく、とてつもないことが起こっているのだ、というのが書き手の言いたいことであろう。
聡明な読者は既にお気づきのことと思うが、この塔の出現は、前章となる第十章(第1話)の後半において唐突に論じられた
が、もちろん、法華経自身がそのようなことを馬鹿正直に語っているはずもないのであって、では彼ら自身はこの奇瑞中の奇瑞をどのように説明するのか、その辺りから読んでいくことにしよう。
最初のキッカケは、こうして出現する塔の中から声が発せられるところから始まる。
そのとき、その宝塔からこのような声が発せられた。「善きかな、善きかな、
声の主が何者であるかはともかく、この時点で塔の出現の目的が、ここまでに示された法華経の内容、より限定すれば、法華経第一期の論述、その真理性を証しするためであることがわかる。同時に、これを書いた法華経第二期の書き手の立場からすれば、このような手段以外に、自分たちが奉じる信念の真理性を主張する方法がなかった、あるいは、他に思いつかなかった、という事情もあるのだろう。
とまれ、この書き手は、前述したように第十章末で(彼ら主観から見て)形骸化した仏舎利塔信仰を否定しつつ、一方で、一般聴衆にとっては未だ仏舎利塔が権威の源として有効であることを理解した上で、この劇的な演出を選択したのであるから、その妥当性はともかくとして、なかなかに侮れない筆力の持ち主であることも見て取れる。
以降の流れはお約束パターンとなる。本章と第十二章のみに登場する
世尊よ、このような大宝塔がこの世に出現したのには、いかなる因、いかなる縁があるのでしょうか。また、世尊よ、いったいどなたがこの大宝塔の中からこのような大音声を発せられたのでしょうか。
火星より大きい何かが目前に浮かんでいる状態……というか、肉眼では何が起こっているかわからないと思う……においても「これは何だ?」と問わずに出現の“因縁”を問う大楽説菩薩は、既に十分悟っているのでもう釈迦に教えてもらうことなんかないんじゃねーの、と意地の悪いことを言いたくもなるが、それはともかく。この流れからも、書き手にとって塔の大きさ自体にはあまり意味がない、ということを知ることが出来る。
閑話休題。
釈迦……クドいが歴史上の釈迦ではなく、法華経教団の代弁者である……はこの問いに対し、東方千万億阿僧祇の国々を越えた彼方に、
釈迦によれば、この宝塔は、その多宝如来が入滅に際して自身の弟子たちに仏舎利塔として作らせたものらしい。エジプトのファラオすら霞んで見える遺命であるが、それはともかく、加えて多宝如来は以下のことを宣言して入滅したのだ、というのである。
十方のすべての世界にある仏国土において、この“妙なる教えの白蓮華の法門”が説かれるところには、私の全身を祀ったこの塔が出現するであろう。そして、おのおのの仏・世尊がこの法華経を説かれているとき、会衆の上の中空に静止するであろう。そして、この法華経を説いておられるそれらの仏・世尊たちに、私のこの全身を祀った塔の中から“善きかな”と唱え、讃えるであろう。
ゆえに、釈迦が今この場において法華経を説いているので、多宝如来は入滅に際して誓った言葉を守るべく、こうして出現したのである、と断言される。
マッチポンプもここまであからさまにやられると、呆れを超えて感動すら覚えるのであるが、法華経の書き手は、予言書を別途捏造して以って自分たちの主張を証しする、といった手間すらかけないのである。とにかく、あまりに大胆なプロットなので勢いに呑まれてしまいそうになるのだが、指摘するのも馬々鹿々しいが、これは究極の循環論法であり、その壮大さにおいては人類史上最大の循環論法である、とすら言えるかも知れない。
ここまで繰り返し見て来たように、それを語る(騙る?)釈迦の発言の聖性以外には確たる根拠を持たない前世譚、異世界譚が法華経の中では繰り返し用いられているのであって、本章に見えるコレもまた、その極端なバリエーションの一つでしかない。つまり、少なくとも書き手にとっては、主張する内容はともかくとして、さほど突飛な修辞ではないのである。
が、読み手・聞き手についての疑問は残る。妙法蓮華経を漢訳した
この程度で「そんな馬鹿な」と言っていたら、続きが読めないからである。
世尊よ、私たちは世尊の神通力によって、この多宝如来の尊いおん身を見たてまつりたいと願います。
文字通り読む限りにおいて、多宝如来は入滅済の仏陀であるのだから、ここでいわれる多宝如来の尊いおん身は、要するに遠い過去に死んだ仏様の遺体、ということに他ならないのであって、個人的には「やめとけ」と忠告したいところであるが、大楽説菩薩は上引用のように釈迦に願い出る。
対する釈迦……クドいが釈迦本人ではなく、法華経教団を代弁するキャラクタである……は、前稿に示した循環論法を更に拡大する。曰く、多宝如来は以下に示すような深遠で重要な誓願を立てていると言う。
他の仏国土において、諸仏・世尊がこの法華経を説かれるとき、私の全身の塔はその法華経を聴聞するために、如来たちのお側近くに往詣するであろう。また、それら諸仏・世尊が私の全身を開いて四衆に示そうと欲せられるときには、
いささか冗長ではあるが、この超弩級のスケール感を共に味わいたく、敢えてこの釈迦の言う“多宝如来の誓願”をそのまま引いてみた。ここで言われる十方は既に説明した三千大千世界の同義語であると考えてよい。つまり、多宝如来は、無限の異世界のすべての仏陀をこの場に集合させるならば、塔を開いて我が身を示しても良い、と言っているのであって「いったいお前何様よ!?」とツッコミたくもなるのであるが、紛うことなく仏様なのである。
ところで、本章ではこの後、特に深堀りされることもなく流されてしまうのだが、上引用にはここまでの法華経に見られなかった仏陀観が加わっている。本身、分身、化作の語がそれに当たるが、これも文字通り読むと、三千大千世界それぞれに、互いに無関係な仏陀が存在するのではなく、それが具体的に何であるかはともかくとして、仏陀の本身がただひとつ存在し、三千大千世界それぞれにおいて衆生に法を説いている仏様……釈迦も多宝もそのうちの一人、ということになる……は本身から化作したところの分身である、ということが言いたいらしい。
考えようによっては、こちらの観念の方が塔の出現よりもよほどショッキングなもののように思わないでもないのだが、本当に本章においてはここでサラッと触れられるのみで流されてしまう。と言うか、以降の法華経の論述において、言及が皆無でこそないものの、この観念はさほど掘り下げられることなく終わってしまい、どちらかと言うとそこに血肉を与えたのは後の天台法華教学だったりする。有り体に言えば、これは本章の書き手が張ってはみたが回収するのを失念した伏線の類だ、とボクなどは理解しているのだが、それを割り引いても、やはり法華経第二期の書き手はかなりのキレ者である、ということだけ押さえて次へ進もう。
さて。
普通の感覚で考えると、三千大千世界の仏陀を一堂に会させるなどということは、不可能であることの遠回しな表現に思える。従って、大楽説菩薩が望む多宝如来との対面は叶わない、と考えるのが人情であるが、そのように考える人はまだ法華経の破天荒さをわかっていない、と申し上げざるを得ない。よくよく考えてみれば、冒頭に引いた大楽説菩薩の請願の中に、世尊の神通力によって、との、この時点では意味不明の前振りがちゃんとなされているのである。
しかも、この神通力とやらは、おそらく諸兄の想像の斜め上である。
そのとき、世尊は
白毫とは、仏陀の眉間に生えている、とされる白い毛のことである。奈良や鎌倉の大仏の額にあるポッチ、と言った方がわかりやすいだろうか。一条の光というのは、言葉通りに受け取れば、額からレーザー光線を放った、ということになる。しかも、その出力は尋常ではない。
その光が放たれたそのとき、東方におけるガンジス河の砂の数にも等しいほどの五百万億那由他の世界に安住しておられるすべての仏・世尊のお姿が照らし出された。
どれほどのレーザー出力がこの行為に必要なのか、を見積もる手段はないが、この瞬間、釈迦の周囲にいた人々を即死……というか蒸発?……させてお釣りの来るそれを下回ることは決してあるまい。要するに、宇宙の果てまで届く光線を発する、ということは、これはかの白毫がクェイサーになった、と言っているのと同じなのであるから、それを自身の眉間に擁する釈迦とて無事ではあるまい。塵は塵へと帰り……は旧約聖書か……法華経はここで幕を閉じる。
ワケない。
かくして、水晶づくりだったり、七宝による黄金の網だったりで飾られる仏国土が照らされるのであるが、律儀にも話は、
東南方においてもこのようであり、南方においても、南西方においても……
と続いていく。そもそも十方というのは、八方位に上下方向をを加えて十方なのであり、三千大千世界というのは、この十方向それぞれの方角の先に無数の異世界がある、という観念である。
……下の方においても、上方においてもこのようである。それは、東方に向かって世尊が眉間の白毫から光を放たれたときと同様であった。
とあるから、釈迦は東方のみならず、少なくとも十方向に件のレーザーを放ったことになる。宇宙級の大災害である。ひょっとすると、しばしば天空に観測されるガンマ線バーストは、どこか他の惑星で仏陀が法華経を説き、その説法が塔の出現の下りに至ったことを示しているのかも……なワケない。
呆れたことに、ここまでで、まだ本章のトンデモなさの半分にも至っていない。さも当たり前のように続く以下の叙述には恐怖すら覚えるのであるが、十方それぞれに恒河沙ほどあるそれぞれの仏国土の仏陀が「多宝如来の宝塔を拝礼すべく、娑婆世界の釈迦牟尼如来の元へいざ行かん」と発言する。これ、誰が見聞きしてんだよ、とツッコむ間もなく、
そのとき、かの諸仏・世尊はおのおのの侍者とともに、二人づれ、三人づれでこの娑婆世界に来詣されたのである。
と、やって来てしまう。このスケールにおいて、それぞれの如来に連れがいようがいまいがどーでもいいじゃん、とか思うのであるが、こういう妙なところの描写にこだわるのも、法華経の面白さである。どうも、その書き手の感性としては、十方の如来が時空を超越して一堂に会することよりも、仏陀が侍者を連れずに一人で出歩くことの方が、あり得ないこと、と認識されているらしい。
同様の発想によるのだと思うが、この十方の如来の来詣によって、娑婆世界が掃き清められる。仏陀をお迎えする世界が汚れていることはあり得ない、と言いたいのかも知れないが、瑠璃や七宝と黄金の網や曼陀羅華で世界が飾られるのはともかくとして、村や都や山々が消え去って平らになった、というのはちょっとやり過ぎである。
いや、白毫からのアレが真にガンマ線バーストであれば必然的な結果、というべきか。ともかく、言葉通りに読むと、このとき、法華経の座に集っていた者を除く地球上のすべての生き物が他の世界に移されたとあり、コレが絶滅を意味するのか、一時的に何処か安全な場所へテレポートされたことを意味するのかは定かでないが、呆れたことに法華経はアフターケアを欠いている。つまり、その後、この後始末を誰がどうしたのか、に関する説明が全章を通じて一切ない。
しかも、この期に及んで書き手が気にしているのは、眉間の一撃で滅んだ世界の行く末ではなく、十方×恒河沙×ニ〜三人の来詣者の収容先なのである。と言うのも、それぞれの如来は、ニ〜三人の供の者だけではなく、その権威を象徴する宝樹と獅子座を伴っているのであって、この宝樹の高さは五百由旬、とあるから、多宝如来の宝塔と同じである。これが十方×恒河沙だけ立ち並ぶのであるから、もうコレは大混雑どころの話ではなく、地球のウニ化なのである。なのであるが、
(世尊は)かの来集された如来の分身のお方たちのために、安座される空間を作り出された。すなわち、八方のすべての方向に、二百万億那由他の仏国土が、すべて瑠璃でつくられ、七宝と黄金の網でおおわれ、小鈴をつけた網によって飾られ、曼陀羅や大曼仏羅の華がまき敷かれ、天界の日除けがあまねく張りめぐらされ、天界の花環が懸けられ、天界の香と香料が燻ぜられた。
といった無茶な手段で解決される。そんなことが出来るのなら、僅か数行前、この娑婆世界を壊滅的に掃き清める必要はなかったのではないか、不必要な破滅をもたらす彼らは、むしろ仏陀ではなく魔王の類ではないのか、と、疑問は限りなく浮かんでくるが、むしろ書き手の関心は、空間を作り出すなどというグレッグ・イーガン的な超々常SF現象にではなく、作り出された空間をどのように飾るか、という主婦的な発想に注がれていることを、上引用から読み取ることが出来る。
何なんだコレは?
しかし!トンデモ話はまだまだ続くのである。
かくして、多宝如来の宝塔を開く条件が満たされた……ともかく、満たされたのである。最早、我々凡俗の頭脳では何が何やらわからない事態に至っているのであるが、とにかくそういうことなのだ、としておこう。
釈迦……もう、彼が何者であるかもよくわからない……はおもむろに立ち上がり、虚空の中にお立ちになられて、大宝塔の中央を右手の指で開かれる。それが高さ7,500Km、周囲3,750Kmのどの辺りなのか、同じく神通力を備えておいでであろう十方×恒河沙の如来たちはともかく、元から法華経の座に同席していた連中は、どうやってその様子を見ているのだろう、とか、疑問は尽きないのであるが、とにかく釈迦が宝塔を開く。
すると、実に、かの大宝塔が開かれるやいなや、そのときそこに、世尊・多宝如来・応供・正等覚者が
……これは要するに、宝塔を開いてみたら、
ミイラが座禅を組んでた
ということになる。
しかもこのミイラ……もとい、多宝如来は、再び釈迦が法華経を説いたことを褒め称えた後に、その獅子座の半座を分けすすめられとあるから、ここでいう獅子座がどのような構造物であるのかはよくわからないのではあるが、つまり、半ケツして釈迦を隣に座らせた、ということである。
無限に広がる平面に、三千大千世界から参集した諸々の如来を擁する高さ7,500Kmの宝樹が立ち並び、その中央に同じ高さの大宝塔が宙に浮き、その何処であるかはわからないが、開かれた扉の内部で獅子座に半ケツし合う釈迦と干乾びた多宝如来……なんともシュールな光景である。
なんともシュールな光景なのではあるが、天台教学ではこれを恭しく“
受容するのか?コレを!
ここに至って、この様子を、何処からかはよくわからないが見上げていた四衆から私たちも今また、如来の神通力によって虚空に昇りたいとの声が上がる。これを受けて、釈迦は、これまた具体的に何をどうしたのかはよくわからないが、法華経の座に同席した全員を虚空の中空に移し置く。
ここまで特に触れずに来たが、法華経の説法は設定上は
天台法華教学において法華経本門の要とされる
比較するのも可笑しな話ではあるが、これと比べるとキリスト教のセントラルドグマ、すなわち、イエスは三位一体の神であり、十字架上で全人類の罪を贖って死んだ後に復活した、の方が、まだ、信じやすい。と言うのも、三位一体云々は究極的には我々が彼をどのように認識するか、だけの話であるし、死からの復活も、彼一人に限ったことであれば、如何様にも合理化できるからである。
対して、法華経本章のコレは、いくらなんでもちょっとやり過ぎである。
もちろん、現代の我々はこれを振り返って、第十章からの前振りも含めて、法華経の書き手が自身の信じるところの真理を最強調した結果生まれた修辞である、と理解することは出来る。しかし、ボクの思うところ、それは善意に解釈し過ぎのようにも思う。
法華経はその前半部において、仏陀は方便の力で以って衆生を導くのだ、と繰り返し繰り返し述べていて、かつ、そこに示される喩え話を、例外なく自らの言葉で“譬喩”であると明言している。つまり、それを書いている彼らは、そこに書かれた喩え話が、含意される如来の密意はともかく、話自体としては“偽”であることに自覚があるし、そのことを隠していない。
これは、前述したキリスト教のケースにおいても本質的には同じことが言えて、逆にパウロをはじめとする新約聖書の書記者たちは本気でイエスが死から復活したと信じていたのであり、その信じている内容が現代の我々から見ればいささか荒唐無稽に感じられるのみなのであって、彼ら自身に新約聖書の読者を騙そうというつもりはないのである。
対して、本章およびここから派生する伏線が回収される第十四〜五章の書き手は、明らかに自分が書いていることが“偽”であることを知りつつ、文面上はそれをまったく示していない。要するにこれは人類史上でも最古の部類となるSF小説なのである。なのであるが、それを、釈迦の名を騙るという修辞上の問題はあるにせよ、方便としての譬喩に自覚的な法華経第一期の文面に連続させて登場させているところに、ボクとしては書き手の誠意を疑わざるを得ないのである。
が。
これで終わらないのが法華経の面白いところでもあるのだ。と言うのも、上に指摘したようなことを、どうも本章の書き手はわかってやっているようなのである。これについては追って論じることとしたい。
とまれ、かくして虚空会がここに始まるのであるが、その冒頭の釈迦の第一声、すなわち、釈迦がその神通力で以って四衆を虚空の中空へ移し置いた直後の台詞は、注目に値することを言っている。
比丘たちよ、そなたたちのなかで、この娑婆世界において、妙法蓮華経を説くことに努め励むことができるものはだれか。如来が現前にいます今こそが、まさにそのときなのである。比丘たちよ、如来はこの妙法蓮華経を委ねて、入滅することを願っているのである。
読者諸兄に共感していただけるかどうか定かではないが、この場面は
つまり、ここまで繰り広げられた超時空的な奇瑞の数々は、つきつめれば、今この物語を読んだり聞いたりしている人に「汝は釈迦を、法華経を後継するや否や」と問うためだけに引き起こされたのだ、とするのが本章の白眉なのであって、自覚的にやっているのだとすると、本章の書き手は本当にキレッ切れの怖い人なのである。無自覚なのだとすれば、ヨハネ黙示録の作者などでは足元にも及ばない真の狂人である。究極的には、その良し悪しはともかく、後世の法華経信仰者を揺り動かした熱量は、ここに帰結するのではないか、とすら思う。
これに比較すると、前々話(第8話)に見た、同じく異世界から来詣する
この噛み合わなさは何なのか。その答えは、前述した「わかってやっている」問題も含めて、次下へ続く
天台法華教学において“
そのまま引くには冗長なので趣意抜粋するが、六難九易とは、六つの難事と九つの易事、の意であり、例示される九つの易しいことと比べれば、六つのそれは困難であり、ゆえに挑む価値がある、とする譬喩になっている。まず、易しい方の九つを挙げてみよう。
・恒河沙ほどの数の経典を説示すること。
・手で
・三千大千世界を足の指先で突き動かし、数億の国土の彼方に蹴り飛ばすこと。
・世界の最上部……これが“有頂天”という語の原義である……に立って数千の経典を説くこと。
・虚空界のすべてを拳の中に握り収めて遊び歩くこと。
・大地のすべてを足の爪の上に置き、そのまま梵天の世界まで歩いていくこと。
・世界を焼き尽くす劫火の中を、枯れ草を背負って焼かれることなく歩くこと。
・八万四千の法蔵を護持し、数千万の命あるものにそれを説示し、神通力を身につけさせること。
・恒河沙ほどの数の人々に神通力を与え、阿羅漢の位を得させること。
互いに内容が被っているっぽいものがあるのはご愛嬌として、以上の通りとなる。「え、これって難しい方じゃないの?」とか言わないように。何せ、これをおっしゃっているのは眉間からガンマ線バーストを放って三千大千世界を焼き払うお釈迦様(いや、そんなことはしてない)なのであるから、このくらい朝飯前なのである、などという冗談はさておき。これらが、六難九易の九易の方になる。
では、これらに比して難しいとされる六つとは何なのか。もう、聡明な読者諸兄にはおわかりのことと思うが。
・仏陀が入滅した後に、法華経を護持し、説き示すこと。
・仏陀が入滅した後に、法華経を受持し、書写すること。
・仏陀が入滅した後に、しばらくの間だけでも法華経を読むこと。
・仏陀が入滅した後に、ただ一人に対してのみでも法華経を聞かせること。
・法華経を深く信じる心を生じるか、あるいは、繰り返して講説すること。
・仏陀が入滅した後に、法華経を護持すること。
やはり部分的に重複が見られるが、以上が六つの難しいこと、となる。
総じては、偈の直前になされた釈迦の隠居宣言に見られる「汝は釈迦を、法華経を後継するや否や」の問い掛けを受けて、その困難さをこれでもかと強調して挑戦者となる聞き手を煽っている修辞、ということになる。
そして、六つの中でも唯一「仏陀が入滅した後に」の挿句を伴わないもの、すなわち「法華経を深く信じる心を生じるか、あるいは、繰り返して講説すること」が、他五つに通底する根本的な難しさであることは一目瞭然であるから、要するに、本章の書き手には、
本章内容が信じ難い、との自覚がちゃんとあった
のである。その自覚がありながら、六難九易の譬喩で以って、読み手・聞き手を煽っているのである。コレはちょっと背筋が寒くなるほどの確信犯、と言わざるを得ない。しかも、ついつい忘れそうになるが、これを書いたのは二千年前の人なのであって、かつ、この奇っ怪な書物は『水滸伝』や『封神演義』がそうであるように、摩訶不思議な小説として読まれてきたのではなく、少なからぬ人々の信仰の根幹として読み継がれてきたものなのであり、さらに我が国に限って言えば、これを教条的に真理であると奉じる人々が政権与党にまで加わっているのであるから、もうコレは笑うしかないのである、いや笑いごとじゃねーな*1。
結局のところ、何がトンデモないかというと、もちろん本章“塔の出現”の内容がトンデモないのは言うまでもないが、コレを含む法華経が、奇想天外小説としてではなく、信仰対象として一定数の人々に今日に至るまで支持され続けてきた、ということがトンデモないのである。
そして、敢えてボクがここで“トンデモ”という表現を多用していることに通じるのであるが、こういう物語を真理として信じて来た人々をトンデモない連中だ、と切断操作して言っているのではないのだ。
トンデモ、というのは、ある意味において人類の脳が種として抱え込んでいるセキュリティホールなのであって、条件さえ揃えば誰にだって発動するのである。天台大師も最澄も日蓮も、我々凡人と比較すれば、足元にも及ばぬ碩学であったことは疑いようもないのであり、その彼等をして心を捉えた法華経は、その書き手こそ天晴と讃えられようとも、捉えられた人々を笑うものではない。
「リバースカードオープン、六難九易ッ!!その効果により、一定の知性を有し過剰気味な自負を抱えるプレイヤーはコレを信じずにはいられない!!」
今、こうして種明かししつつ述べているから、あなた自身はこのトラップを回避することが出来るかも知れない。が、コレを他人事として笑う人は、断言しても良いが、明日には見た目こそ異なるが本質的には同種の地雷を踏み抜くのである。
一方で、ボク自身は必ずしもこの地雷を踏むことを絶対悪とは見做していないことも付言しておくべきだろう。セキュルティホールは、ときにチートとしても利用可能なのであって、法華経に限らず、こういった宗教的物語に心酔することで何がしかの有益なエネルギーが取り出せるのであれば、それはそれで結構なことだとも思っている。当の本人が自覚的にそれを運用する限りにおいて、という断りがつくが。
さぁ、例によって例の如く、どこまで本気でどこからが冗談なのかよくわからない展開になってきたが、本章はまだまだ続く。いや、実はここで終わりなのだが、まだ続くのである。そして、ここからがまったく別の意味でこれまたトンデモないのであり、これは笑ってもいい方のトンデモなさなのであるが、もうコレを読まされてる人にとっては何がなんだかワケわからんだろうな。
*
法華経第十一章“塔の出現”の内容を、ここで一旦整理してみよう。
・唐突に塔が出現して宙に浮かぶ。
・三千大千世界から如来が集結する。
・塔の中から多宝如来が姿を現す。
・釈迦が隠居を宣言し後継者を募る。
・偈で以って六難九易が示される。
さて、本来の本章はここで終わっていた、らしい。続くのは既に転読した第十ニ章“よく耐え忍ぶ”(第4話)である。この第十ニ章もいささか不可解な内容を含むことは既に論じた通りであるが、本章における釈迦の隠居宣言、続く六難九易の煽りを受けて奮起した諸菩薩が滅後の布教を誓願する、という流れになっていることがわかる。二千年前に書かれたにしては、よく出来た物語である。
が、今日我々が目にする法華経第十一章はまだしばらく続くのであり、妙法蓮華経はこれを別章に分けて、
さらに、この提婆達多品第十二は、鳩摩羅什が訳出した時点(5世紀初頭)の妙法蓮華経にはなかった。つまり、当初は妙法蓮華経も二十七品だったのである。ここに提婆達多品第十二が加わったのは隋代、すなわち天台大師の登場(6世紀後半)に前後してのことで、7世紀初頭に
一方で、
さて。
この加筆者が何者であれ、その意図は、内容から明白である。結論を先に示せば、第十九章(第5話)に見える逆縁の成仏、および、第十ニ章に見える女人成仏……この二つの成仏に対して理論的背景を与えるべく、この加筆がおこなわれたことは間違いない。詳細な経緯を知ることは出来ないが、おそらくは、法華経全二十七章が成立してしばらく経った頃に「悪人成仏、女人成仏などあり得ないのではないか?」との古い議論の蒸し返しが起こり、ボトムアップかトップダウンかは知る由もないが「失われていた後半部写本が発見されました」的な体裁で以って応急のパッチ当てがおこなわれたのであろう。
そもそも法華経自身がそういった行為の繰り返しによって成立したものであるから、このこと自身は非難されることではない。問題視すべきは、この加筆が冒頭に述べた第十一章から第十二章にかけて綿密に計算された伏線を仏陀……もとい、ブッた斬って台無しにしている、という点だ。要するに、この加筆をした連中は、トンデモないことに、本章、ひいては法華経が読めていないのである。
*
といったことを前提に、本章後半を読み進めてみよう。
件の偈が終わると、釈迦……ここでは法華経への加筆者を代弁するキャラクタである……は唐突に自身の過去世の因縁話を始める。これが、たとえば彼にとっての先代の仏陀から彼に対しての継承の物語であったりすれば、まだ、“原第十一章”とのつながりも維持されようと言うものであるが、そういうことはまったくない。ともかくは、彼の言い分に耳を傾けてみよう。
彼はどこかの王様であったらしい。自身修行をし、また仏法のために財宝を施すことを一切惜しまなかったそうだ。まぁ、前世の話だから何とでも言えるわな、と茶化すのは止めて続けると、ともかく彼はそのようであったが“妙なる教えの白蓮華の経”には出会うことが出来ず、常にそれを求め続けていたのだという。そこへ、一人の仙人*2が現れてこう言う。
大王よ、“妙法蓮華”と名づける最勝の法を説く経典があります。もしあなたが私の下僕となることに同意されるならば、そのとき、私はその法をあなたに述べ説いてあげましょう。
見るからに胡散臭い申し出であるが、どこぞの王様であった釈迦は喜び勇んで千年もの間、この仙人の下で草、薪、水、球根、根、果実などを採り集める下僕の仕事をし、家令までも努め、ときには寝入っている仙人の臥床の脚をゆるぎなく支えることまでしたそうである。ここまで語って、まったく同内容の偈が挿入される。とにかく、どこぞの王様であった釈迦は、法華経を聞くために千年間喜んで下僕をやったのだ、と。
で。
比丘たちよ、そなたたちはこのことをどのように思うであろうか。そのとき、その場合のかの国王であったのは、だれか他の人であると考えるならば、決してそのように見るべきでない。そのときその場合の私こそがかの国王であったからである。
いつもの前世譚のパターンである。と言うか、アンタ、最初にコレ、自分の過去世の話だって言ってたじゃん、とか思うのであるが、まぁ、定型句に突っ込んでも詮無い話だ。先へ進もう。問題はこの次の部分である。
また、比丘たちよ、そのときその場合のかの仙人であったのはだれか他の人であるのだろうか。決してそのように見るべきではない。この
???
藪から棒に何やねん、な展開である。というか、法華経だけを読んでいる人からすると、まったく以って意味不明の論述である。もちろん、法華経全章を通じて彼の名が現れるのはこれが最初であるし、その出番はまもなく終わる。と言うか、本人は(前世であるとされた仙人を除けば)登場しない。何故なら、設定上、歴史上の釈迦が法華経を説いたとされる時点において、既に提婆達多は故人であったからである。
知らない人のために補足しておくと、提婆達多は、一般には釈迦の同時代人であり、かつ、釈迦の率いた教団の乗っ取りを試みて、その悪行のゆえに地獄に堕ちた、とされる人である。昭和に限って言えば、何故かこの人がレインボーマンの師匠*3、ということになっている。まぁ、そんなことはどうでもいい。
とにかく、この釈迦の言い分としては、過去世の仙人=提婆達多が彼に法華経を求めての千年の下僕生活を強いたがゆえに、その徳によって今日の私があるのだ、ということらしい。なお、結局、かの仙人が“妙法蓮華”なる経典を説いたのか、あるいは、それは王様を下僕にするための嘘だったのか、本章の文面からは判然としない。大いなる寛大さを学んだとあるので、おそらく意図されているのは後者だろうと思う。
え〜っと、読者諸兄はこの物語の意味が理解できるだろうか。正直なところ、かく言うボクにとっても意味不明である。さらに意味不明なことに、続いて釈迦はかの提婆達多に授記を与えるのである。いちおうお約束なので、彼にユニークなパラメータを示しておくことにする。これを定型パターンに代入さえすれば、詳細は読むに及ばない。
名号:天王如来
国土:天への階段(天道)
劫名:(言及なし)
仏寿:二十中劫
最後に、善男子・善女人が本章の内容を信じるのであれば、
実に謎の多い下りである。いや、意味内容は明瞭なのだ。そして、天台教学が言うように、この下りが悪人成仏の理論背景、すなわち、提婆達多およびその前世とされる仙人のような悪人であっても、仏陀の成道に必要とされる修行の過程に結果的に参与することにより、最終的には如来へ至るのである、になっていることはわかる。
が。
何故にコレが、よりによって第十一章のこの位置に挿入されたのかがさっぱりわからないのである。しかも、この物語には法華経中の他の物語に比して、学ぶべきところが一切ない。本連載で読み解いてきたように、荒唐無稽であったり現代の価値観とは不適合であったりはするものの、多くの法華経の物語には、何かしら我々にも訴えかけるものがあった。一方で、この提婆達多に関する物語は、不可知の前世と不可知の未来世を理屈抜きに結びつけたものであって、実のところ何も言っていないに等しい。
これは何を意味するのであろうか。ここでは結論を急がず、続くもう一つの物語を読み解いてから再びこの問題に取り組むこととしたい。そしてそのもう一つの物語が、これまたまったく異なる意味合いにおいてトンデモないことこの上ないのである。
*
トンデモ尽くしの第十一章であるが、その最末尾を飾るところの、後世において“
するとそのとき、下方にある多宝如来の仏国土から“
はぃ?
この加筆者は、本章前半の含意を理解していないどころか、何を思ってかブチ壊そうとしている。登場間もない多宝如来にいきなりの帰国を促すとは何事ぞ。というか、彼の宝塔を開くためにどれだけトンデモないことが起こったか忘れたとでも言うのだろうか。しかも、対する釈迦の足止めの何と脈絡もなく強引なことよ。東方とされていたはずの多宝如来の仏国土を下方と間違えていることすらどうでもよくなってくる。あるいは同名の別人なのだろうか?
で、言われた文殊菩薩が車輪の大きさほどの千の花弁をもつ蓮華に座り、多くの菩薩に取り巻かれ、尊敬されて、大海の中にある海の龍王の宮殿から上空に昇り、空中を通り、霊鷲山におられる世尊のみ前に来詣する。
待て待て!
演出としては面白い、それは認めよう。さしずめ「手札から文殊菩薩、召喚ッ!!」(CV:津田健次郎で……)といったところか。なんかもう、釈迦の台詞が全部海馬社長の声で聴こえてきてしまいそうだが、そういうわかる人にしかわからない強引なボケはさておき。
法華経の舞台はつい今しがた霊山会から虚空会に移ったのではなかったか。そもそも、文殊菩薩は本章以前には序章にのみ登場(十三章以降にもしばしば出番がある)するのであるが、辻褄合わせで序章に名前のみ示される諸菩薩とは異なり、彼には序章において弥勒菩薩と対話する、という役回りがあるのだ。ということは、文字通り読む限りにおいて、彼は序章でチョイ役を務めた後、第ニ〜十章のどこかの時点でこともあろうに師たる釈迦の説法から抜け出して、今この瞬間呼び戻されたことになる。
何してたんだ文殊菩薩!?
もうツッコミどころ満載でどうしてくれようか、なのだが、物語は(当然のことながら)何事もなかったかのように淡々と進んでいく。
智積菩薩……実は“智積”の名は第七章にもまったく異なる文脈上に登場するのだが、これは同名の他人であろう、っつーか、コレを書き加えたヤツはちゃんと法華経を読んでいないのだ……は文殊菩薩に「龍宮でどれほどの衆生を導きましたか」と唐突に尋ねる。対する文殊菩薩は「数え切れません、ご覧に入れましょう」と答える。刹那、数千の蓮華が海の中から上空に涌きいでて、それらの蓮華には数千の菩薩が安座して現れる。どうやら文殊菩薩には菩薩トークンを特殊召喚する能力があるらしい(え、もうこのボケは飽きた?)。
で。
智積菩薩は偈で以って「どうやったんですか」と尋ねる。っつーか、コレ、偈にする必要があるのだろうか。おそらくこの加筆者は、聖なるお方に対する問い掛けはすべて韻文でおこなうべきである、という思い違いをしているのだろう。そのような疑念も、法華経の根幹を揺るがす文殊菩薩の返答の前にはかき消されてしまう。
私は大海の中において『妙法蓮華』という経典を説き示したのであって、他の経典を説いたのではありません。
おいコラ、ちょっと待て!
法華経を説くのは勝手だ、大変結構なことではないか。しかし、である。よりによって、多宝如来がこの“妙なる教えの白蓮華の法門”が説かれるところには、私の全身を祀ったこの塔が出現するであろうと語った本章においてソレを言うか。言葉通りに受け取れば、釈迦が霊鷲山で法華経を説くその裏で、文殊菩薩が法華経を説いたという大海の中(龍宮)にも宝塔が出現していたことになるが、本当にそれでいいのか?
驚くべきことに、この下りの書き手は、法華経全体どころか自身が加筆するところの本章すら読んでいない。この不可解な状況を合理的に説明する方法は一つしかない。つまり、この物語は、法華経テキストとはまったく別に独自に書かれた後に、その内容と加筆先の整合にまったく頓着しない脳天気な書写生の手によって本章に編入された、ということだ。
もうこの時点で支離滅裂なのであるが、今話においてコレを言うのが何回目かすらわからないのであるが、本当にトンデモないのはここからなのである。何がトンデモないかというと、今日の我が国のある特殊な性癖を有する人々のサブカルチャーは、実は本章に端を発していたのである。
智積菩薩がさらに問う。「法華経は深遠、微妙、精通しがたいものであるのに、本当に無上の覚りに至れた者がいるのですか」と。以下、コイツは“一句一偈なりとも受持するものは成仏する”という法華経をわかっていないようなので、ボクの判断で以って菩薩号を剥奪して智積とだけ呼ぶことにするが、これに文殊菩薩が答える下りからがいよいよである。彼が、無上の覚りに至った者を例示するのであるが……
善男子よ、いるのです。
まさかの幼女登場である。
しかも龍王の娘なのだから、ケモナー要素ありだ。
念のために言っておく。これは法華経第十一章“塔の出現”、妙法蓮華経で言えば提婆達多品第十二の内容であってボクの趣味ではない。いいな、ボクの趣味ぢゃないぞ、違うぞ(大切なことなので釈迦に倣って三唱してみました)。
閑話休題。
こともあろうに、智積は「信じられない」と言い出す。法華経で成仏することが信じられない?それをよりによって“六難九易”を説く本章で言うか?本当にコイツは多宝如来配下の菩薩なのだろうか?まぁ、ストーリー上の要請による汚れ役だ、と言ってしまえばそれまでだが、ここで健気にも件の幼女……もとい、龍王の娘が偈で以って訴える。
私の願う通りに正しい覚りを得ることについて、如来は私の証人であらせられます。私は人々を苦悩から解き放つ広大な教えを説き示しましょう。
ところがここで
良家の娘よ、女人は精進を捨てることなく、数百という多くの劫、数千という多くの劫の間、功徳を積み、六波羅蜜の行を完成したとしても、仏果を得た人はいません。
ハイ、もー舎利弗くんからも授記を剥奪します。嗚呼、どこまでもトンデモないな、この下りは。だが、真のトドメはこの後来るのだ。
龍王の娘は三千大千世界のすべての価に相当する一つの宝珠なるものを持っていて……もう、阿呆らしくて何だよソレ、とツッコむ気力も失せる……これを釈迦に献上する。するとどうしたことか!!
そのとき、娑竭羅龍王の娘は、すべての人々の面前で、舎利弗の目の前において、彼女の女性としての
よもやの男の娘である!
しかも、すべての人々の面前でって……
それってどんな羞恥プレイ?
っつーか、代わってくれ舎利弗ッ!
念のためにもう一度言っておく。これは法華経第十一章“塔の出現”、妙法蓮華経で言えば提婆達多品第十二の内容であってボクの趣味ではない。いいな、ボクの趣味ぢゃないぞ、本当に違うぞ。
そして呆れたことに、本章はここで唐突に終わってしまう。厳密には男身に変じた彼女(?)が成仏の相を示すのだが、そこで終わってしまう。マジわけわからん。
*
さて、冗談はこのくらいにして、以下、いったいぜんたい本章は何だったのか、に考察を加え、以って今話を終わりたいと思う。
ここまで見てきたように、本章は前半(原第十一章)と後半(提婆達多品第十二)で、書き手はもちろんのこと、書かれた時代や目的、意図、含意がまったく異なっている。そして、両者には対照的な捻れがある。
前半部は話の筋こそ二千年前に書かれたとは俄かに信じ難いほどブッ飛んでいるが、意図は明瞭である。根底には、仏舎利信仰を相対化するとともに、これを転じて自身の権威として取り込もうという綿密な計画性が伺えるのであり、字面上のブッ飛び具合は、要するに書いている間に楽しくなってきて筆が踊ったのだろう。一方で、これを六難九易の譬喩でクローズする構成は、結果的に絶妙な効果を生み出しているようにも思う。
対する後半部は、話の筋は極めて平凡で法華経の他の部分のパロディとも取れる演出である一方、字面があまりに稚拙である上、筆者が法華経に対して不勉強であることが透けて見え、何故後世のこの加筆者は、曲がりなりにも完成度の高い原本章にこのような悪文を追記したのか、何故そんなことがまかり通ったのか、その意図がわからなくなる。
これを整合する仮説としては、ボクは一つしか思い浮かばないのであって、それは、法華経第二期の時点で、法華経テキストの権威化が始まっていた、ということになる。第一期、すなわち第二〜九章の記述からは、いささか対立声聞衆に対する傲慢な態度という問題点はあるにせよ、いろいろな寓話を通して何とか相手を説得し、共感を勝ち取ろうとする姿勢を読み取ることが出来た。
対して第二期、特に本章から第十六章へかけての論述(詳細は追々見ていく)は、やたらと派手な演出を伴う書き手の信じる真理が、釈迦が語ったことである……厳密には、想定される法華経の座に同席したものの証言である、が正しい……ということだけを権威の源泉として断言され続ける、という独善的な姿勢が垣間見える。これは、第三期にも受け継がれ、その中でも出色の出来の第十九章ですら、つきつめれば、書き手は釈迦の権威を騙って断言しているのみであり、読み手の共感に対する配慮はあまり感じられない。
以下、あくまでも私見であるが。
そもそもの法華経のセントラルドグマが極めて理想主義的であり、かつ、図らずも反知性主義的であることは繰り返し指摘してきた。第一期を通じてこの観念は陶冶され、第二期に冒頭となる第十章においては、彼等が、理念とそれを表現するテキストにこそ聖性が宿るのだ、という、かなり合理的なところにまで至っていたことを知ることができた。
が、既にその第十章において、法華経教団が、主にはその権威の不足から種々の批判を受けていたことが読み取れるのであり、また、そのことが彼等の内部に良くも悪くも自己陶酔的な心性を育みつつあったことも確認できる。その続章が本章であることは、実に示唆的だと言わざるを得ない。
本章は、法華経教団が一発大逆転を狙った大芝居なのである。
原十一章に後続する第十二章が、教団外部に対してやたらと上から目線を振りまいているところから察するに、この試みは、少なくとも教団内部的には成功を収めたのではないか、と推察するのであるが、これは、本質的には、今日の夢見がちな小・中学生が友人たちと大法螺を吹きあって内輪で盛り上がる……困ったことに、子どもに限った話でもないよな……のと同じことなのであって、同時に自らをも危うくする諸刃の剣だ。
極端に戯画化すれば、本章公表以降、法華経教団は二種類の人間に分かれたはずである。一方は、小・中学生、あるいは現代のネット右左翼よろしく、扇動者から指し示された耳心地のよい“真理”を奉じ、以って自分たちこそが正しいのだと満足する人々であり、もう一方は、その扇動者自身の態度に学んで「言ったモン勝ちやん」と醒めた立ち位置を採る人々、である。
念のために申し添える。“戯画化すれば”と断ったように、これはわかりやすさを狙って単純化したものである。また、上に例示した二種類の人間像は、それぞれ絶対悪ではない。法華経教団に限らず、なんらかの組織的な運動……否、これはもっと普遍的に人間社会、と呼ぶべきかと思うが……これを維持継続していくためには、こういった人々、つまり扇動に乗る人も、醒めた目でそれを見る人も一定数は必要不可欠なのであって、もし、あなたが例示の二つの人間像に悪印象を抱いたのだとすれば、それは程度の問題なのであって、薬は量によっては毒になるものだ、という使い古された修辞に思いを致すべきである。
それはともかく、法華経第二期の人々は、自分たちの信じる真理の絶対化を求めるあまり、経典テキストの権威化、という、そもそも第一期の人々がそれに反発して自身の信念を産んだはずのところへ回帰してしまったのであって、本章前半部はその最も極端なケースであると言える。これは当然第三期にも受け継がれるのであるが、ボクの見るところ、例えば既に取り上げた第十九章、第二十四章あたりは、そのテキストの権威を“方便”として活用しつつ、何か新しい価値・思想を創出しようというところに踏み留まってはいたように思う。
が、第二十一章、第二十六章を通して見たように、テキスト権威化の反作用としての信仰の形骸化は、第三期の時点で既に始まっていたのであって、これらの章はそれを何とか食い止めるべく書かれたはずではあるが、書いた本人たちが既に形骸化の中に呑まれていて、結果的にそれを後押ししていたことも既に見た通りだ。本章後半部の後世の加筆部は、その延長線上にある。
つまりはこうだ。
形骸化した信仰を抱えた第三期以降の法華経教団は、法華経テキストが訴えるその信奉者の聖性に寄りかかるあまり、彼等が聖性の対局にあると見ていた悪人や女性の成仏を俄かには信じることが出来なくなっていた。が、その法華経自身には、女性の成仏、悪人の成仏が書き遺されている。この矛盾に解消の必要あり、と考えた人々が、俄かに信じ難い物語が連続する本章の末尾を加筆点として狙い定めたのは、ある意味において合理的であるように、ボクは思う。
一方で、所詮は形骸化した信仰集団の一員に過ぎないこの加筆者たちには、法華経第一〜ニ期、すなわちその草創期の人々が有していたような、胆力や熱量が欠落しており、また、第三期末以来の「とにかく書いてしまえばいい」的な惰性もあって、全体を俯瞰し得る現代の我々からすると「何じゃこりゃ?」としか形容のしようのないものがそこに生まれたのである。
以上が、ボクの仮定する……あくまでも仮定だ、と断っておく……本章のひっちゃかめっちゃかさの謎の真相なのであるが、ボクが可笑しさを指摘したいのは本章それ自身の話ではない。以上の推論を、基本的にボクは法華経テキストのみから導出したのであり、現代になって加わった新しい知見があってのことではないのであるからして、理屈の上では、天台大師や最澄や日蓮にも、ボクと同様に、本章のひっちゃかめっちゃかさを笑う機会はあったはずなのである。
が、実際には、彼等が書き遺したものを言葉通り受け取る限りにおいて……実は彼等自身も法華経の可笑しさには気づいていたが、その権威を自説を述べるのに利用したのだ、という解釈も出来なくはないがここでは捨て置く……彼等はこの七転八倒の本章もまた“教主釈尊の皆是真実の金言”と読んでいたことは明らかである。まぁ、それは百歩譲って時代的制約、として看過してもいいだろう。
しかしである。法華経テキストを読むという行為は彼等の専売特許では決してないのであって、かく言う浅学不才なボクですら妙法蓮華経白文を読めるのであるし、もちろん本連載は中村師の原典邦訳にも大いに助けられてのことではあるのだが、それにしても、そもそも法華経に味噌をつけること自体を目的とした、たとえば平田篤胤などは別として、自身法華経信仰者を自称する人々の中から、本章に見えるような法華経の問題点を直視し、欠点は欠点として受け止めよう、自分たちの言説でもってそこに含意された理念をより陶冶していこう、といった運動が、少なくとも一般市民に覚知され得るレベルにおいて為されていない、というのは、これは一体どうしたことなのか。
少なく見積もっても、我が国の人口の一割は自称法華経信仰者であるはずなのに、である。
もちろん、コレが無茶振りであることに自覚がないほどボクはお目出度くはないのであるが、それでもこの疑問を口に出さずにはいられない。そしてこのことは、何も法華経に限った話ではなく、大袈裟なことを言えば仏教以外のあらゆる宗教にも適用できる話であるように思う。
本連載は、この疑問に素人なりに斬り込みたくやっていることであって、決して宝塔品と遊戯王デュエルモンスターズを無理矢理結びつけて笑うためにやっているのではない……いや、しばしば自分が笑いを優先して脱線していることにはちゃんと自覚がある、諸兄がコレを笑えるか、については甚だ疑問ではあるが……のだ。っつーか、本章加筆者の無理矢理さを考えれば、ボクが同じコトをやって何が悪い、と開き直っておこう。
以上を以って、法華経第十一章“塔の出現”の