法華経転読   作:wash I/O

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第12話 成仏マンネリズム ……第六章“予言”

 法華経転読(うたたよみ)シーズン2“お笑い篇”の3話目となる今回は、第六章“予言”(妙法蓮華経授記品(じゅきほん)第六)を取り上げる。

 

 予めお断りしておくと、前々回、前回のような劇的な笑いを本章に期待すると、裏切られることになる。笑いというものには、まったく想像もしていなかった可笑しなものが突如現れるがために笑ってしまうもの、と、十二分に承知しているものが当たり前にあるがために返って笑ってしまうもの、があろうかと思うが、本章のそれは後者である。トンデモ本好きの人であれば『餓狼の弾痕』的笑い、と表現すれば伝わるだろうか?

 

 さて。

 

 本章は、漢訳妙法蓮華経章題が示す通り、授記(じゅき)がおこなわれる章である。これは、それを与える側=仏陀からの言い方で、得る側=弟子の立場では受記(じゅき)という。その意味合い、および定型フォーマットについては既に第9話において論じた通りである。そういう次第なので、改めて説明すべきことは特にない。以下、ただひたすらに繰り返される授記を、あるがままに楽しんでいくことにしよう。

 

 

                    *

 

 

 そのとき、世尊(せそん)は、これらの詩句を説かれた後、すべての比丘衆(びくしゅう)に告げられた。「比丘たちよ、私はそなたたちに告げ知らせよう。私の弟子であるこの大迦葉(だいかしょう)比丘は……

 

 本章冒頭は上引用の通り。ほとんど前置きなしに本題へと入っていく。ちなみに、ここでこれらの詩句と言われているのは前章となる第五章“薬草”の末尾の偈のことになる。詳しくは同章を取り上げる際に論じたいが、これは第三章と同じく一乗真実三乗方便を譬喩で論じる章であり、特に本章との連続性はない。何が言いたいか、と言うと、本章の授記は本当に唐突に開始される、ということであり、第三章において受記に先立ちやたらと自己批判させられた舎利弗(しゃりほつ)が気の毒になるほどである。

 

 というのは半ば冗談で、厳密には第四章に、迦葉を含む本章で受記を得る四人の、舎利弗のそれに相当する告解的な発言が記録されているのであるが、その記事と授記の場面が随分離れているので、結果的に舎利弗だけが悪目立ちする構成になっている。

 

 では、本章の口火を切る大迦葉比丘、すなわち頭陀(ずだ)……托鉢行のことで要するに乞食の技……第一の迦葉に与えられた授記パラメータを見てみよう。

 

 名号:光明(こうみょう)如来

 国土:光明を得た(光徳(こうとく)

 劫名:大きな荘厳

 仏寿:十二中劫

 

 既に微妙に舎利弗に対するソレと被りつつある、という苦しげなスタートである、まだ先は長いのに……。

 

 以下、彼の仏国土となる光徳世界に関する装飾語句が続くが、例によって深い溝や山稜がなくとその平坦さが言われる一方で、糞尿等の不浄物もなくとあるのが目を惹く。光徳世界の生物は消化効率マックスで、不要物を体外に排出しないらしい。

 

 ここで()が挿入される。繰り返し述べていることであるが、法華経第一期(第二〜九章)はとにかく冗長である。ここに見える偈も、迦葉に対する授記の内容を繰り返すのみで、何か目新しいことが言われるワケではない。逆に、第一期に限って言えば、原法華経は偈のみで成り立つ暗唱歌のようなものだったのであって、これに敷衍説明する長行が後から整えられたのではないか、という仮説が真実味を帯びてもくるのであるが。

 

 閑話休題。

 

 続いて、本章で受記を得る他の三人、すなわち神通(じんつう)第一の大目犍連(だいもっけんれん)解空(げくう)第一の須菩提(しゅぼだい)、論議第一の大迦旃延(だいかせんねん)が、まばたきもせず、世尊を仰ぎ見ながら偈を述べる。

 

 おお、尊敬されるべき大雄者よ、釈種の王である世尊よ、私たちをあわれみ慈しんで、仏陀の声をお聞かせください。人々の中の最高に尊いお方よ、どうか私たちの堅固な深心をお知りになられて、あたかも甘露をそそぐように、記をお授けください。

 

 法華経が創作された当時の人々の感性に、上引用の章句がどのような印象を与え得たのかについては知る由もないが、現代の我々の感覚からすると、何だか嫌らしい阿りのように思えてしまうのは意地悪な見方に過ぎようか。かのオウム真理教ありし日、麻原教祖からホーリーネームとやらを得るべくこのように阿って、結果的に彼を不帰路へ堕ち込ませた人々も、このような次第だったのではないか、と剣呑なことを考えたくなる。

 

 これに続く偈中の譬喩もなかなか面白い。曰く、飢えた国から来た人がいて、食べ物を手に入れたのだが食べるのを待つように言われた、としましょう、と。我々(前述の三大弟子)にとって、受記を得られないのは、あたかも手の上に置かれたその食べ物を、食べてはならない、と言われたようなものであり、故にとっとと授記しやがれ……いや、実際にはもう少し丁寧な物言いにはなっているのであるが、趣意はこの通りである。

 

 このような餓鬼道真っ盛りの連中に、授記を与えて良いものだろうか?

 

 いや、もちろんこの譬喩は、それほどまでにこれらの三大弟子が受記を求めていることを強調する修辞なのであり、裏を返せば、それほどまでに法華経の示す一乗真実は素晴らしいものなのだ、というのが書き手の言いたいところなのであろうが、やはり法華経第一期の論者は、しばしば勢い余って不適切な含意をあちらこちらに撒き散らすきらいがある。

 

 そのような問題点に自覚がないのか、そもそも彼等の偈をちゃんと聴いていたのかも疑問なのではあるが、釈迦……念のために言うが、法華経教団を代弁するキャラクタであって、歴史上の釈迦その人ではない……は、既定路線に従って須菩提に授記を与える。

 

 名号:名声の相あるもの(名相如来)

 国土:宝を出生するもの(宝生)

 劫名:宝の光明(有宝)

 仏寿:十二中劫

 

 続く仏国土の描写は、迦葉に対するそれとほとんど同じで、糞尿の不浄物もなくとされるところまで共通である。釈迦の弟子たちは……いやいや、これも法華経教団の書き手の嗜好の反映と読むべきであるが……よほどウンコが嫌いなのか。

 

 次下では、再び釈迦の偈によって須菩提に対する授記が繰り返される。もうお気づきかと思うが、これがあと二人分ある、ということだ。法華経マニアを自認するボクですら、この下りは読み出すと途端に眠くなる。いや、ひょっとすると本章(を含む授記関連の章)は、法華経を繰り返し音読することを日々の生業としていたであろう法華経教団の人々が、小難しい(というか熟れていない)理屈をこねくり回す第五章までの朗唱を経た後、ウトウトしながら一息つくために書かれた可能性すらあるかも知れない。いや、これは冗談だが。

 

 須菩提への授記が終わるや否や、立て続けに大迦旃延に対する授記が始まる。思えば、前稿に示した“阿りの偈”が三大弟子の連名になっていたのは、銘々がいちいちに歓喜や共感を表明する下りを挿入する手間を省いたものだったことになる……が、いいのだろうか、それで?

 

 第三章における法華経中最初の授記例を通して論じたように、少なくとも舎利弗に対する授記の下りが含意する中で最も重要なものは、如来の方便力は衆生の歓喜を喚起すること、すなわち、教育者∞たる仏陀に自ら望んで成ることへの共感を広げること、であるようにしかボクには読めないのであるが、本章では、その肝心の部分が省略されて、どうでもいい定型フォーマットや「ウンコがない」などという粉飾語句が死守されていることになる。

 

 ここからも、法華経教団第一期の人々が、自分たちが主張しているセントラルドグマが図らずも含意していることに、存外無自覚であったことが知れるのであるが、それはさておき。

 

 名号:閻浮河の黄金の光(閻浮那提金光(えんぶなだいこんこう)如来)

 国土:(言及なし)

 劫名:(言及なし)

 仏寿:十二中劫

 

 如来の名がかなり苦し紛れになってきたせいか、国土と劫についてはその名に対する言及がなくなる。

 

 まぁ、これも冗談半分で言っているのであって、そもそもこの如来の名号が苦し紛れに見えるのは、これが漢訳だからである。前稿に見た“光明”や“名相”といった名号がスッキリしているのは、たまたま表意文字である漢字に、原典サンスクリット語句が示す概念にうまく対応する字があったからに過ぎない。

 

 が、ではこの“閻浮那提金光”の名号がまったく苦し紛れではないのか、と問うと実はそうでもなくて(苦笑)、“閻浮那提”というのはヒマラヤ山脈の北方に措定された伝説的な河を示す固有名詞であり、当然、これに一字で対応する漢字は存在しないので、訳者は音写せざるを得なくなったのである。むしろ、法華経に限らぬ仏典に見える各種の名号に、普通名詞と固有名詞が無頓着に入り混じって用いられるのは何故なのか、の方が興味深いテーマではあるのだが、本筋ではないのでここでは捨て置く。

 

 それはともかくとして、大迦旃延への授記の粉飾部に、ちょっと見逃せない面白い部分がある。

 

 流石にもうウンコの話は出ないのであるが、代わって、大迦旃延あらため閻浮那提金光如来の入滅に際しては、七宝で飾られた宝塔が建立されるだろうということが言われる。つまりコレは、第十一章に登場する多宝如来のアレである。法華経成立史の観点からすると、本章が書かれた時点で第十一章の内容が計画されていたとは思えないので、伏線、というワケではない。逆に、法華経第二期の書き手は、ここに見える七宝の塔に着想を得て多宝如来の宝塔を創作した、というのは大いにあり得る。

 

 あり得るのだが。

 

 問題はその大きさなのである。本当に法華経を書いた連中のスケール感の不揃いには呆れるばかりなのであるが、ここで言われる閻浮那提金光如来の塔の大きさは、

 

 高さは千由旬、周囲は五百由旬

 

とあって、キッチリ多宝如来のそれの倍なのである。

 

 地球よりデカい。

 

 閻浮那提金光如来の仏国土の名前に言及がないのは前述した通りであるが、これは考え方によると、この娑婆世界の未来仏だから、と解釈することもできる。だとしたら、

 

 どこに建てるの、ソレ?

 

 仮に作ったとして、要する建材は地球の全質量にほぼ等しいと思うのだが、

 

 土葬するのと何が違うの?

 

 まぁ、茶化すのはこのくらいにして。

 

 第十一章の多宝如来の宝塔が「三千大千世界のいずこにおいても法華経が説かれたときは、そこへ出現してその正しさを証しする」という特別な役割を託されているからには、その唯一無二性が主張されるべきであって、その最も簡単な方法はあり得ない大きさを示すことなのであり、実際そうなっているのだが、遡って法華経を読んでいくと、本章の時点で多宝如来のそれよりも大きな塔が語られているワケで、とすると、途端に多宝如来の宝塔の唯一無二性が揺らぐのである。

 

 無論、ここで言っているのは、第十一章の塔がもっと高くないとおかしいだろ、という難癖ではない。言いたいのは、法華経の各期の書き手が、自分たちの拠って立つ先達の書き物をちゃんと読んでいないし理解もしていない、という批判であり、同時に、天台大師や日蓮といった後世の解釈者も、こういったことを見落としている、という批判である。

 

 まぁ、前話でもっとヒドい例を見た今となってはどーでもいい話、ではあるのだが。浄華宿王智如来の入滅後に同じような塔が建立されるとすれば、それが事実上の墳墓である以上、その大きさが浄華宿王智如来よりも小さくなることはないワケで……。

 

 閑話休題。最後に、大目犍連に対して授記が与えられる。

 

 名号:多摩羅樹の葉と栴檀の香り(多摩羅跋栴檀香(たまらばっせんだんこう)如来)

 国土:心を楽しませるもの(意楽(いらく)

 劫名:喜びに満ちた(喜満(きまん)

 仏寿:二十四中劫

 

 いよいよ如来の名号がエラいことになっている。それよりも、大目犍連だけ如来の寿命が倍になっているのは何故なんだろうか。章中には特に説明がない。

 

 以下、やはり偈でまったく同じ内容が繰り返され、そして唐突に本章は終わる。以って、法華経第六章“予言”の転読(うたたよみ)もまた唐突に終わる。

 

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