法華経転読   作:wash I/O

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第14話 成仏マネタイズ……第二十五章“吉祥な荘厳王の往古の事”

 第10話以降、いろいろな意味で“おかしい”法華経の章を取り上げてきた。第14話となる今回取り上げる法華経第二十五章“吉祥な荘厳王の往古の事”(妙法蓮華経妙荘厳王本事品(みょうそうごんのうほんじほん)第二十七)も、そうしたおかしい章の一つなのだが、おかしいの意味が少し異なる。結論から言えば、“可笑(おか)しい”のではなく“可怪(おか)しい”のである。

 

 本章は、問答体を採る他の多くの章とは異なり、釈迦……歴史上の釈迦ではなく、法華経教団を代弁するキャラクタとしての釈迦である……が一方的にある物語を述べる形式になっている。決して長い章ではなく、また、物語の構造自体は単純明快なのだが、いったい本章の書き手は、この物語に託して何が言いたかったのだろう、と考え出すと“可怪しい“章、になる。

 

 そのような次第であるので、まずはザッと何が語られているのかを読み通した後に、その含意するところを検討する、という進め方をしてみたい。例によって粉飾語句があまりに多いので、逐一引用せずに大雑把にその意を押さえていくことを諒されよ。

 

 

                    *

 

 

 無量無辺不可思議の、数値で数えうる域を超えた劫の過去世に、ある如来がいたのだ、というところから物語が始まる。授記フォーマットに従って示せば、

 

 名号:雲雨音宿王華智(うんらいおんしゅくおうけち)如来

 国土:清浄な光によって荘厳された(光明荘厳(こうみょうそうごん)

 劫名:見る者を歓喜させる(喜見(きけん)

 

ということになろうか。雲雨音宿王華智とはまたご大層な名号であるが、特に含意があるものではないようだ。

 

 この如来が教化する世界に、漢訳章題にその名の現れる妙荘厳王(みょうしょうごんのう)という王様がいた。その妃に浄徳(じょうとく)がおり、王との間に二人の息子がいる。浄蔵(じょうぞう)浄眼(じょうげん)の二人の王子であり、この王子たちは神通力を得、智があり、福徳をそなえ、慧をもち、菩薩の行に精進していたとされる。

 

 以上で主な登場人物は出揃った。王様と妃と超能力に開眼済みの二人の王子。もう、それでハッピーエンドでいいじゃないか、という気もするのであるが……。

 

 さてそのとき。

 

 雲雨音宿王華智如来……いちいち書くのが面倒なので、以下“雲じぃ”と略記する……が法華経を説いたそうなのである。このようにサラッと書かれてしまうと、あぁそうですか、なのだが、よくよく考えてみると、そのときもやはり多宝如来の宝塔は出現したのだろうか、そもそもその雲じぃの説く法華経に、本章自身は含まれるのだろうか、等々と疑問は尽きない。いや、脱線は避けたいのでひとまず捨て置こう。

 

 浄蔵・浄眼は母、浄徳に「雲じぃの法華経を聴きにいきましょう」と誘う。が、母はいい顔をしない。曰く、妙荘厳王は婆羅門(ばらもん)たちを深く信じているので、妃や王子が雲じぃの説法を聴きにいくのを喜ばない、というのである。念のために補足しておくと、婆羅門とは、本来はインドのカースト制において最上位とされる祭祀階級の呼び名であるが、<仏教>においては、自身に属さない諸々の祭祀・哲学・習俗を十把一絡げにこう呼んでいたものである。つまり、雲じぃの立場から見たとき、浄徳・浄蔵・浄眼は仏教徒であり、妙荘厳王は外道(げどう)=異教徒だった、ということになろうか。

 

 これに対して二人の王子は言う。

 

 私たちは、この邪な見解を奉ずる家に生まれました。しかしながら、私たちは法王である仏陀の子です。

 

 一つ間違えると浄徳王妃の不貞が疑われる発言であるが、もちろんここで言っているのはそのような意味ではなく、比喩的な意味において「仏陀は一切衆生の親である」とされるところの逆を言ったものであろう。それにしても、自身が何か努力をしたワケでもなく、王子として生まれたがゆえに何不自由ない生活を保証されておきながら、この邪な見解を奉ずる家とはエラい物言いだが、いちいちツッコんでいるとキリがない。先へ進もう。

 

 そこで浄徳王妃は二人の息子に、父の前で何か神変の相を示し現わしてごらんなさいと勧める。仏弟子である二人の神通力を目の当たりにすれば、その師たる雲じぃの素晴らしさもまた妙荘厳王に理解されるだろう、と言うのである。

 

 で、二人は母の助言に従い父の前で、虚空に昇るや、横臥したり、虚空のあちこちを散歩したり、虚空の中にあって塵を払ったり、虚空の中において身体の下方からおびただしい水流を噴出したり、身体の上方から火炎を燃え上がらせたり……その他、巨大化したり、瞬間移動したり、と神通力を披露する。妙荘厳王はこれにいたく感じ入り、雲じぃに会いにいくと言い出す。尺の都合かもしれないが、存外イージーな展開である。

 

 母上よ、私たち二人は父上を無上の正しい覚りに教導いたしました。私たちは父上に教師の仕事を果たしました。それゆえに、いま、私たちをかの世尊のもとに行かせてください。私たちはかの世尊のみ前において出家いたしましょう。

 

 二人の王子は上引用の通り、出家すると言い出す。すると、母も共に出家すると言い出す。さらには、妙荘厳王までもが、一族郎党を引き連れて出家……それは最早、出家ではないのではなかろうか……する。う〜む、これは一国を支配する一族がその責務を放り出して隠遁するような話で、残された国は大混乱に陥るのではないか、と気懸かりになるのであるが、本章中にそれについての言及はない。

 

 かくして、妙荘厳王とその眷属は、八万四千年の間、『妙なる教えの白蓮華』という経を思惟し、修行し、完全に了解するために精進する。ちょっと時間かけ過ぎだろう、とか思うが、それはともかく。遂に、一切浄功徳荘厳(いっさいじょうくどくそうごん)と名づける三昧(さんまい)を会得した妙荘厳王は、雲じぃに以下引用のように告げるのだった。

 

 世尊よ、この私の二人の息子は私の師です。私は二人の息子の神通変化の力によって、あの大きな邪見から解き放たれ、如来の教えに安住せしめられ、教化され、その教えに深く入らせてもらい、如来にまみえるように励ましてもらったのです。世尊よ、この二人の息子は私の善き友であって、私の宿世における善根を想い起こさせ、私を導くために、私の息子の姿になって私の家に生まれたのです。

 

 さて、雲じぃはコレにどう応じるのか。

 

 大王よ、それはまさしくそのとおりである。それはそなたが言うとおりである。大王よ、善根を植えた善男子(ぜんなんし)善女人(ぜんにょにん)たちにとっては、生死の世界に輪廻するいかなる場所に生まれても、仏陀の衆生教化に向かって身を置き、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)について明示し、教導し、励ましてくれる善知識を得やすいのである。大王よ、すなわち善知識の恩恵は如来にまみえるように化導することで、このことが最勝の義なのである。

 

 以上が雲雨音宿王華智如来、こと、雲じぃの返答。内容の検討は先送りし、とりあえず先へ進もう。

 

 ともかくこうしたやり取りの後、妙荘厳王と浄徳王妃は仏足頂礼(ぶっそくちょうらい)する。二人は不可思議な力で中空に浮かび、そこから百千の価値ある真珠の首飾りを雲じぃの頭上に振り撒く。散り飛んだ真珠は高楼の法座に転じ、雲じぃがそこに結跏趺坐(けっかふざ)して高らかに告げる。

 

 比丘たちよ、そなたたちは妙荘厳王が空中に静止して獅子吼しているのを見ているであろうか。

 

 雲じぃは妙荘厳王に対し授記を始める。定型フォーマットに与えられるパラメータは以下の通り。

 

 名号:娑羅樹(さらじゅ)の帝王

 国土:広く大きい(大光(だいこう)

 劫名:高遠な超越せる王(大高王(だいこうおう)

 仏寿:(言及なし)

 

 妙荘厳王を仏道に導いた浄蔵・浄眼ではなく、導かれた妙荘厳王の方に授記が与えられるのがどうにも不可解であるが、ともかく、ここで妙荘厳王についての物語は唐突に終わる。つまり、文面上のリアルタイム、テキストとしての『法華経』上において法華経を説く釈迦……もちろん歴史上の本人ではなく法華経教団が騙るキャラクタである……のタイムラインに復帰する。

 

 さてまた、善男子らよ、そのとき、その折の妙荘厳と名づける王をだれか別の人であると、そなたたちに疑惑、疑念、猜疑が生ずるならば、しかし、善男子たちよ。そなたたちはそのように見るべきではない。それは何ゆえかというと、ここにいる華徳(けとく)菩薩摩訶薩こそ、実にそのとき、その折の妙荘厳と名づける王であったからである。

 

 かくして、本連載をここまで読み通して来た奇特な方にとっては、最早見慣れたであろうこのパターンに至る。他、浄徳王妃は光照荘厳相(こうしょうしょうごんそう)菩薩、浄蔵・浄眼の兄弟は薬王(やくおう)菩薩……法華経のいくつかの章で釈迦の相方を務め、第二十二章の主人公でもある……と薬上(やくじょう)菩薩なのだ、と断言され、これで本章はこれまた唐突に終わる。

 

 何なんだ、コレは?

 

 

                    *

 

 

 以下、本章が何を言わんとしているのか検討してみたいと思うのであるが、最初に、本章が天台法華、特に日蓮筋においてどのように受容されたか、について触れておきたい。と言うのも、本章は日蓮宗々徒の間では、比較的知名度が高いのである。厳密に言えば、本章内容までを知る人は多くないかも知れないが、浄蔵・浄眼の兄弟の名を知らぬ人がいれば、これは日蓮宗のモグリであると言ってよかろう……いや、んなこたないか。

 

 日蓮晩年の弟子……出家したワケではないから信徒、と言うべきか……に池上宗仲(むねなか)宗長(むねなが)という兄弟がいた。日蓮が死んだのは、病んだ身体を癒やすべく湯治へ向かう途上、逗留した池上家邸宅においてのことであり、東京にある日蓮宗の大本山の一つ、池上本門寺の“池上”は、この寺領が元々は彼等が日蓮の死に際して寄進した土地であることに由来する。

 

 さて、彼等が兄弟であることから薄々察しはつくと思うが、幕府作事奉行を務める二人の父は、皮肉なことに日蓮が忌み嫌った真言律宗の僧、極楽寺忍性(にんしょう)の熱心な信者であった。これが仇となって、兄弟は一時は父から勘当されるに至る。これに前後して日蓮と交わされた書簡が多数現存しているのであるが、最も端的なものを以下に示すと、

 

 法華経のかたきになる親に随いて一乗の行者なる兄をすてば、親の孝養となりなんや。せんするところ、ひとすぢにをもひ切つて、兄と同じく仏道をなり給へ。親父は妙荘厳王のごとし。兄弟は浄蔵・浄眼なるべし。昔と今はかわるとも、法華経のことわりはたがうべからず。

兵衛志(ひょうえさかん)殿御返事、句読点は引用者が適時補った)

 

 これは、弟・宗長(兵衛志は彼の官職名)に対して日蓮が送った手紙の一節である。日蓮への帰依は兄・宗仲が先行したようで、ために兄が勘当されたワケだが、弟・宗長は、自身にも法華信仰を勧める兄に従うか、兄を廃嫡して家督を譲ろうと迫る父に従うか、選択を迫られたのであった。

 

 この手紙において日蓮は「法華経の敵となった父に従って一乗(法華経)の行者である兄を捨てることは、本当の意味での親孝行にはならない。思い切って兄につきなさい。あなたの父は妙荘厳王であり、あなたたち兄弟は浄蔵・浄眼だ。時代は変わっても、法華経のことわりは疑うべきでない」と言っているのであり、まさに、ここまで読んできた本章の内容を踏まえてのことであることがわかる。実際、この手紙が書かれた翌年には、二人の父が日蓮に帰依するに至ったと伝えられる。

 

 おぉ、何だか凄い話。

 

 念のために申し添えたいが、これを、法華経が池上兄弟を予言したものだ、などという読み方をすべきではない。これは言わば自己成就型の予言である。日蓮は父に背いて自身に帰依しようとする兄弟の姿に、生きる浄蔵・浄眼を見たのであり……彼の魂の熱量からすれば、法華経が池上兄弟を日蓮の下へ遣わしたのだ、と彼自身は本気で信じたことだろう……日蓮からそのことを告げられた池上兄弟もまた、妙荘厳王と浄蔵・浄眼を自分たち父子に重ね合わせて考えた。ひょっとすると、彼等の父もまた、法華経本章を息子たちに示されて日蓮への帰依を決めたのかも知れない。これは、経典が生ける者の行動モデルを示し、関係者がそれを受容した結果、経典と現実が一致したものであって、未来予言ではない。

 

 さて、ここで日蓮宗僧侶である中村師による、本稿底本の本章解説に目を向けてみたい。師は本章を、家庭成仏を説くものといわれると紹介する。その上で、家庭の中で最初に法華経信仰を持った者が『法華経』の説く菩薩の行に徹し切っていくならば、必ずや、自分でも気づかぬうちに、目つき、顔つき、言葉遣いがすがすがしく整えられ、立居振舞が真理にかなった浄らかなものになってくるはずであり、本章に現れるところの妙荘厳王を回心させるに至った“神変”とか“神通力”とかは、決して魔術ではない。真理にかなった行為が大きな力を生み、それが凡夫には“神わざ”か“魔法”のように見えるにすぎないのであると書いている。

 

 なかなかどうして名文である。ボク個人としても、後世の法華信仰者が本章を解釈する上では中村師の仰せがごもっともであり、これを論難するつもりは毛頭ない。

 

 が。

 

 師の論は、日蓮と池上兄弟のエピソードがあるから言える話だ。日蓮と池上宗仲・宗長は、言うなれば法華経本章を身読(しんどく)したのであり、それはそれで尊いことであるし、後世の法華信仰者がそれを自身の行動規範の一つとして採用することも、まことに以って結構な話である。実際、池上兄弟の物語と紐づくことにより、本章は、例えば呑んだくれの父を持つ子が、法華信仰を以って自身の心の拠り所としつつ、どのような方向へ進むにせよ、現状の改善に立ち向かう際などに援用される。ボク自身はそのような父を持たなかったが、そういう話は身近でいくつも耳にしつつ育ってきた。繰り返すが、これは素晴らしい話である、と思う。

 

 さりとて、それが法華経第三期、すなわち、法華経教団の信仰の形骸化が問題視されていたと思われる時期に、本章の書き手が本章に託した意図に通じているか、は、まったく別の話であるはずだ。有り体に言えば、ボク個人は、本章書き手の意図は、法華信仰者としての池上兄弟のエピソードとはまったく無関係なところにある、と見ている。

 

 繰り返し念を押しておくが、そう言いつつ、ボクは法華経信仰者の間で本章が池上兄弟と結び付けられて読み継がれてきたこと、それ自体は尊重する立場である。テキストの本来の意味内容、そこに含意されること、それがどのように利用されるか、の間には、明白な相関はない。何かしらテキストが書かれ、誰かによって含意が解釈され、誰かの行動が変容する、その結果が現れて初めてテキストの評価が定まる。そのような意味において、本章には一定の好評価が下されていることを認めつつ、それを相対化するために、敢えて異論を述べるものだ、と諒されよ。

 

 

                    *

 

 

 以下に述べるところは書いているボク本人も必ずしも確信には至っていない仮説に過ぎない。その点を割り引いて、話半分に読んで欲しい。最初に、法華経第二十五章“吉祥な荘厳王の往古の事”に何が書かれていたのか、整理してみよう。

 

・大昔、娑婆ではない別世界に、妙荘厳王という王様がいた。

 

・妙荘厳王の二人の息子、浄蔵・浄眼は神通力を示して父を仏道へ導いた。

 

・ときの仏陀、雲雨音宿王華智如来は妙荘厳王に授記を与えた。

 

・妙荘厳王は華徳菩薩の過去世である、と示された。

 

 まず、この物語の書き手にとっての意図を探るにあたり、特に、日蓮信仰における池上兄弟のエピソードとの連関を考える上で、不可解なことを列挙してみることにしよう。

 

 第一には、本章々題が原典にせよ漢訳妙法蓮華経にせよ、妙荘厳王その人を主人公に据えた表記になっている点に注目したい。池上兄弟がそうであったように、信仰厚い誰かがそうでない誰かを信仰へ導くこと、が本章の主題であるならば、章題は浄蔵・浄眼を主人公としたものになるはずだ。が、実際にはそうなっていない。そしてこのことは、以下に述べる他の点とも繋がっている。

 

 第二には、本章において授記、すなわち如来からの成仏の予言を受け取るのもまた、浄蔵・浄眼の兄弟ではなく、彼等に導かれたとされる妙荘厳王である点だ。法華経全般を通じて、授記は、釈迦と絡む前世譚と並ぶ、描かれる人物に対する最大級の賛辞になっている。本章の意図が、法華経信仰へと他者を導く者の賞賛にあるのであれば、授記は浄蔵・浄眼に与えられるべき、と考えるのが人情であるが、やはり実際にはそうなっていない。

 

 第三には、妙荘厳王の物語が彼への授記によって締めくくられた後、その妙荘厳王が前世の姿であったとされる華徳菩薩とは何者か、という疑問である。論理的に考えれば、妙荘厳王への授記は、同時にこの華徳菩薩への授記でもあることになる。言うなれば、華徳菩薩は、既に未来世においての成道が約束された妙荘厳王=娑羅樹王仏の“中継ぎの生”ということになるが、錯綜する釈迦の輪廻転生遍歴を除けば、このようなケースは法華経全篇を通じて本章のみに描かれる。

 

 本章書き手の執筆意図が、池上兄弟がそうであったように「法華経信仰を受容しない父親を、信仰へと導くこと」を称揚することにあったのだ、と仮定すると、上に挙げた三つの不可解さが謎のままになってしまう。無論、これは書かれた時点と今日の間に横たわる二千年の溝によって生じた理解不可能性であるかも知れないが、敢えて私的な異説を示し理解を試みてみたい。

 

 取っ掛かりとして、華徳菩薩について考えてみる。この菩薩の名は、法華経のみにその名が現れるものではないが、弥勒菩薩や観世音菩薩と比べると遥かにマイナーな名である。試みに大蔵経データベースで異名と思われる華徳蔵菩薩も含めて検索すると計67件だった。ちなみに弥勒菩薩と観世音菩薩で同じことをするとそれぞれ2,220件、2,187件ヒットする。これは前後関係を問わない予備調査に過ぎないことを断った上で、少なくとも華徳菩薩は、法華経に先行した仏典がその名号に与えた権威を引き継いだキャラクタではない、とは言えるだろう。

 

 視線を転じて法華経中にその名を探すと、法華経第三期となる本章、および第二十三章“妙音菩薩”にのみ登場する。同章転読時は身の丈四百二十万由旬でお腹いっぱいになってしまって精読を割愛したが、かの下りの後に、妙音菩薩の過去世の因縁と変幻自在の衆生救済の物語を釈迦から聴くのが同じ華徳菩薩となっている。さらに興味深いことに、華徳菩薩の名は序章の登場人物列挙の中に含まれていない。差し出された首飾りを半分に割るためだけに出番に備えていた観世音菩薩ですら、序章で言及されているにもかかわらず、である。

 

 もう一点。本章における妙荘厳王に対する授記が、結果的に華徳菩薩に対する授記になっていることは前述した通りである。ここで、法華経全篇を通しておこなわれる「定型フォーマット」に準じた授記を列挙してみたい。

 

章番授記者受記者
三章釈迦舎利弗(しゃりほつ)
三章華光(けこう)如来堅満(けんまん)菩薩
六章釈迦大迦葉(だいかしょう)比丘

須菩提(しゅぼだい)

大迦旃延(だいかせんねん)

大目犍連(だいもっけんれん)

七章大通智勝(だいつうちしょう)如来阿弥陀仏(あみだぶつ)

釈迦牟尼仏ほか計十六名

八章釈迦富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)

阿若憍陳如(あにゃきょうしんにょ)

千二百人の阿羅漢(あらかん)

九章釈迦阿難(あなん)

羅睺羅(らごら)

二千人の学・無学

十一章釈迦提婆達多
十二章釈迦摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)

耶輪陀羅比丘尼(やしゅだらびくに)

二十五章

(本章)

雲雨音宿王華智如来妙荘厳王=華徳菩薩

 

 さて、ここから何がわかるだろうか。

 

 まず明らかなのは、本章と明らかに後付けされた十一章後半(提婆達多)を除けば定型フォーマットに則った授記は、すべて法華経第一期の章中に現れている。第二期となる第十二章においては、話題にこそ上るものの、それは第八〜九章の出来事である、とわざわざ説明されるケースまであった。

 

 次に、法華経中の釈迦が授記を与えている相手は、皆、いわゆる声聞(しょうもん)独覚(どくがく)とされる人々であり、菩薩は含まれていないことがわかる。無論、これは法華経が菩薩の成仏を認めていない、という意味ではない。舎利弗の受記に際して論じたように、声聞・独覚への授記には、彼等が衆生に共感することが暗黙の前提となっており、これは言い換えれば「声聞・独覚よ、菩薩となって成仏せよ」という呼びかけでもある。法華経の論理においては菩薩の成道は自明であり、であるがゆえに、その成道が自明でない声聞・独覚に対する授記が延々と繰り返される、という背景がある。

 

 以上二つの点に鑑みて、本章における授記は特殊事例であることが見えてくる。第二〜三期を通じて授記が定型フォーマットで以って詳述されるのは本章のみであり、かつ、受記を得るのは、その時点においては俗名を名乗る妙荘厳王であり、輪廻転生を通じて、華徳菩薩であることが明かされる。これは、体裁こそ共通しているものの、第九章までとは異なる意図で以ってこの授記の下りを含む、妙荘厳王の物語が創作されたことを示唆している。

 

 そこで、やや踏み込んだ想像を巡らせてみたいのだが、舎利弗が法華経第一期の書き手にとって、問題視するところの対立声聞衆のあり方を表象していたのと同様に、華徳菩薩もまた、法華経第三期の書き手にとって、表象したい現実の誰かに対応しているのではないだろうか。

 

 具体的には、法華経教団にとって、菩薩とは自分たちと信念を共有する身内であろう。その前身たる妙荘厳王を信仰に導いた息子・浄蔵は薬王菩薩と同一視されており、薬王菩薩が法華経教団の指導者層を表象しているのは明らかだから、華徳菩薩はその指導者層によって信仰に導かれた人物であり、かつ、異例の扱いで以って受記を得たことにしたくなる相手だ、ということになる。そして、その受記の直前、妙荘厳王は私財を如来の頭上に振り撒いたのであるから、こうなってくるとその人物像は概ね特定される。

 

 要するに、華徳菩薩というのは、法華経教団第三期メンバーを支えた世俗の裕福なパトロンの誰か、を表象している可能性が考えられる。おそらく“華徳”という名号を示せば、それがその人を指していることは、知っている人には一目瞭然、といった背景があったのではないだろうか。そしてその人物は、元々は仏教徒ではなかったが、法華経教団に対して大きな経済的利益をもたらすようになった人物であったのだろう。

 

 なぜそのように考えるかというと、もしこの人物が古くから法華経教団を支えてきた人物なのであれば、その人を顕彰するのにこんな回りくどい話を創作する必要がないからである。前世の徳を褒め称えるのは当時のインドの人々の社交辞令の一種だったのであり、その応用として、今日において宗教的な徳=教団と関係した期間の長さが突出していなくとも、その前世において、薬王菩薩自らが信仰の世界へと招くほどの徳を有した人物であり、かつ、受記さえ得ていたのだ、と語ることで、経済的利益は大きくないが法華経教団との関係期間がより長い他の在家衆を押さえて、この人物のみを特別扱いすることが出来る。

 

 ボクの妄想するシナリオは以下のようなものである。

 

 まず、法華経教団第三期の経典拡充に際し、大きな施与と引き換えに自身を表象するキャラクタを法華経文中に登場させる提案が教団側からその人物に対して為される。この人物はその“商品”を購入するのだが、出来上がって来たのは身の丈四百二十万由旬の巨人が登場する奇妙奇天烈なものであり、その経典自身の不出来さから、同一コンセプトの第二十四章いわゆる観音経が追って増補されるような代物だった。これは、パトロンからすれば納得のいかない商品であり、当然、クレームがなされる。

 

 このとき、このパトロンが「私も法華経第八章や第九章のように受記を得たい」と要求した、とすればどうだろうか。流石に、経文中で華徳菩薩に直接授記を与えるのは躊躇われる。さりとて、パトロンの要望には応じねばならない。この相矛盾する要件を満たすべく考案されたのが、妙荘厳王の物語である、と考えると、冒頭に述べた疑問がすべて氷解する。

 

 つまり、なぜ信仰に導かれる側の立場の妙荘厳王が本章の主人公なのか、との問いの答えは、まさに彼が主人公であるから、であり、その彼が受記を得るのはなぜか、との問いの答えは、それが本章の目的だから、になる。同時にこれが、前話末で述べた「法華経第三期の人々はここに埋設された地雷を踏んでしまった」の顛末でもある。少なくとも本章書き手の中では授記が自己目的化しており、法華経第一期の書き手がそこに込めた真意は失われてしまったのだ。その責がいずれにあるか、は敢えて問うまい。

 

 もちろん、これはボクの妄想に由来する仮説であり、論証できるような類のものではないが、この仮説を前提すると、第二十一章や第二十六章に垣間見えた、信仰の形骸化に悩まされる法華経第三期のメンバーの格闘(?)が、より色鮮やかに見えてくる、というアドバンテージはあろうかと思う。

 

 以上を以って、法華経第二十五章“吉祥な荘厳王の往古の事”の転読(うたたよみ)を終える。

 

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