法華経転読   作:wash I/O

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第16話 広長舌をふるえ……第二十章“如来の神通変化”

 神通力(じんつうりき)という言葉は、現代日本においてはほぼ死語であるように思う。

 

 一方で、今日の我々の多くが仏教に心の平安や死者の救済を期待しているのとは異なり、古代日本の人々が仏教公伝以来そこに期待していたのは、この神通力であった。豊国(とよのくに)法蓮(ほうれん)*1がときの朝廷から期待されたのもそれだし、後期密教を持ち帰った日本真言宗の開祖弘法大師空海が一躍時の人となったのも、密教それ自身の魅力と言うよりは、そもそも当時の日本人が仏教による神通力に対する期待大であって、密教がそれにジャストフィットしたからである。

 

 ここまで釈迦の白毫(びゃくごう)ビームであるとか、浄蔵(じょうぞう)浄眼(じょうげん)の空中演舞であるといった、この世のものとも思えない……まぁ、空想の産物なのだから当然この世のものではないのであるが……神通力の描写の数々を見てきた。今回扱う法華経第二十章“如来の神通変化”(妙法蓮華経如来神力品(にょらいじんりきほん)第二十一)は、それらほど派手ではないが、表題のみから判じれば、如来=仏陀が発揮する神通力にスポットが当たっている章、ということになろう。

 

 結論から言えば、少なくとも本章を含む<仏教>の書き手の意図としては、種々の神通力は、それを発揮する釈迦その他の発言の真理性を強調する修辞なのであって、神通力それ自体には、仏典を通じてそれを知った後世の人々が期待したほどの力点は注がれていない。特に本章に限って言えば、表題に偽りあり、な感がないでもない。

 

 これは、今日の我々が自身の主張したいところの正当性を訴えるために、やたらと科学を装った言辞を弄ぶわりには、科学そのものについては余り関心がない、というところに通じているように思う。少なくとも法華経を書いた人々にとっては、神通力は権威の源泉の一つではあったが、主張の中核ではなかったように見える。

 

 それはともかく、そのような意図で以って描写された一連の神通力は、今日の我々の感性から見るとき、面白おかしいものが散見される。これを楽しもう、というのが今話のテーマとなる。

 

 

                    *

 

 

 そのときに、かの千世界の微塵の数にも等しい百千億那由他の菩薩たちは、大地の裂け目から出現し、彼等はみな、世尊に向かって合掌し、世尊にこのように申し上げた。

「世尊よ、私たちは、如来が入滅されたのちに、世尊の仏国土がどこであっても、あらゆる仏陀の国土において、世尊がどこで入滅されても、私たちはそれぞれのところにおいて、この法門を説き示すでありましょう。世尊よ、私たちはこのような妙なる法門を受持し、読誦し、説き教え、解説し、書写することを願っております。」

 

 本章は上引用の書き出しで始まる。ここで言われる大地の裂け目から出現した菩薩、というのが、いわゆる“地涌(じゆ)の菩薩”になる。地涌の菩薩についての詳細は第十四章を転読する際に改めて論じることとしたい。ここでは、法華経教団第二〜三期の面々が、自分たち自身のことを「釈迦から特別な使命を与えられた地涌の菩薩である」との自意識を有していた、と理解しておけば十分である。

 

 一方で、天台法華教学の伝統的な解釈においては、本章は「末法の世に現れる地涌の菩薩に対し、釈迦が法華経を付嘱(ふぞく)した章である」とされる。ここでいう付嘱は、現代的な表現に直せば「正統後継者の指名」ほどの意になろうか。つまり、天台法華教学は、法華経は歴史上の釈迦が発した皆是真実の金言である、と信じていたがゆえに、次下に見える上行(じょうぎょう)菩薩に対する付嘱を時空を超えた仏法の相続と観念し、ついには日蓮を上行菩薩の再誕とする言説が生まれるに至る。

 

 前述したように、元来は、地涌の菩薩およびそのリーダーとされる上行菩薩は、法華経教団のコアメンバー自身を指していたと考えるのが妥当かと思うので、天台法華教学のこの解釈は、直接的には間違っているということになろうが、一方で、後日見る第十七〜八章あたりの論述を見ると、法華経教団が自分たちの信念が未来永劫引き継がれていくことに強い期待を抱いていたことも事実なので、書き手がそこまで意図していたかどうかは判断が難しいが、天台法華教学の解釈は、結果的には法華経教団の期待に適ってはいた、とは言えそうである。

 

 さて、上引用の地涌の菩薩の誓願に続き、この娑婆世界(しゃばせかい)に住む文殊師利(もんじゅしり)菩薩を首とする百千億那由他の多くの菩薩以下、諸々の衆もまた、如来が入滅されたのち、この法門を説き示すと誓う。この対比を言葉通りに受け取ると、地涌の菩薩はこの娑婆世界の本来の住人ではない、とのニュアンスを感じるが、それが明示的に言われるワケではない。

 

 また、この誓願においては続いて、身体を現わさず空中に立って、声を聞かせましょうという意図不明の文言が見える。これも言葉通りに受け取ると、ここで滅後の布教を誓願する文殊師利菩薩以下諸々の衆は、法門を説き示しはするが、それは普通の意味においてではなく、空中から声を聞かせるという神秘的な方法によるのだ、と取れるが、これ以上の説明を欠くため、真意は定かでない。

 

 この両者の誓願に対し、釈迦……毎度繰り返すが歴史上の釈迦ではなく、法華経教団を代弁するキャラクタである……は、後者を無視し、大地の裂け目より出現してきた菩薩摩訶薩の群衆を率い、大群衆を従え、群衆の師である上首の上行という菩薩摩訶薩に向かって以下のように述べる。

 

 素晴らしいことである。まことに素晴らしいことである。上行よ、そなたたちはそのようにするがよい。この法門のために、そなたたちは如来によって教化されてきたのである。

 

 やはり明示を欠くため断言は出来ないが、全体の意図としては、滅後の布教を担うことを釈迦に認められたのは地涌の菩薩なのであり、文殊師利菩薩以下の娑婆世界の諸衆は、それを空中から声を発して助けることはするが、直接には布教はしないのだ、ということらしい。穿った見方をすれば、地涌の菩薩=法華経教団のメンバーにのみ法華経を布教していく権利があり、その活動は文殊師利菩薩等の権威によって支えられているのだ、との主張とも読める。

 

 以下、次下において、釈迦が上引用の発言の真理性を保証すべく、神通力による神変を現じるのであるが、その考察は後に譲る。ここで野暮なことながら考えてみたいのは、これを書いた人々、また後世これを読んだ人々は、そもそも地涌の菩薩とやらが大地の裂け目より出現することは、神通力と見做さなかったのであろうか、という疑問である。十二分にこれは超常的な出来事であり、これを言葉通り現実の出来事である、と受け取るのであれば、以降の釈迦の神変の下りで以ってその神秘性を保証する必要もないのではないか。

 

 これは裏を返すと、必ずしも法華経教団に限った話ではないが、当時の<仏教>者たちが何かを主張するに際し、存外釈迦の聖性に依存していた、ということでもある。たとえば、本章の主張は、つきつめれば「我々法華経教団が法華経を布教するのだ」ということだけなのであり、外部の人間からすれば「そうしたければ、どうぞご勝手に」としか言いようのない話なのであるが、彼等はその正当性を、後に示すような釈迦の神変に求めている。

 

 もちろん、これは当時の一般的な修辞に過ぎない、という見方も出来ようが、少なくとも天台法華経学は本章を、釈迦から末法の地涌の菩薩に対する神秘的な付属であるとする解釈に固執したのであり、同時にそれは、彼等自身をして自分たちの信念の一部なりともを時代や環境に応じて改良していくことに対する心理障壁として作用することになった、とも言えよう。

 

 と、小難しいことを述べてみたが、実のところ、そんなことはどうでもいいのであって、結果的にそのような権威の源泉となった神変が、書き手の意図を離れて面白おかしいので一緒に楽しみましょう、というお話なのである。

 

 「滅後の布教は地涌の菩薩に託すのだ」という言明の真理性を示すべく、釈迦……法華経教団を代弁するキャラクタであって、本人ではない……が示すありがたい神通力をご覧あれかし。

 

 そのとき、世尊の釈迦牟尼如来と、かの入滅なされた世尊の多宝如来の、尊敬されるべく正しい覚りを得たお二方は、宝塔の獅子座に坐しておられ、ニ世尊は微笑を浮かべられ、お口の中から舌をお出しになられた。そして、その両世尊の舌は梵天の世界にまで達し、その舌から百千億那由他の多くの光明が放たれた。

 

 薄ら笑いを浮かべながら、光輝く天まで届く長い舌を伸ばす二人の仏陀、しかも一方はミイラ。ビジュアルを想像するとあまりにシュールな光景なのであるが、意外にもコレは今日の我々に馴染みのあるものでもある。

 

 滔々と雄弁に語ることを“広長舌(こうちょうぜつ)をふるう”(長広舌(ちょうこうぜつ)、とも)と言うが、この“広長舌”とは、実に仏陀が真理を語る際に長い舌を示す、という上引用にみたこの様子に由来する。

 

 より厳密に言うと、広長舌は仏陀が備えるとされた三十二の見た目上の特徴……これを三十二相という……の一つで、その多くは今日の仏像の姿に反映されている。件のガンマ線バーストを放つ白毫もそこに含まれる。ただ、舌がみよ〜んと伸びた仏像はあまり見ないので、流石にこれはビジュアルが不気味に過ぎたので立体造形の定石には反映されなかったらしい。

 

 それはともかくとして。

 

 以下、如来の神通力によるとされる祥瑞が延々と描写される。雑多に過ぎるのでザッと箇条書きにしたいと思うが……

 

・舌が放った光の中から百千億那由他の菩薩が現れて、三千大千世界の如来たちと共に百千歳に渡って法を説く。

 

・如来たちが獅子のような咳払いをする。

 

・如来たちが一斉に指を弾く。

 

・咳払いと弾指により百千億那由他の仏国土が揺れ動く。

 

・それを見たすべての世界の衆生が喜びに満たされる。

 

・虚空の彼方から「娑婆世界の釈迦牟尼世尊が法華経を説くぞ」と声がする。

 

・すべての衆生が「釈迦牟尼世尊に敬礼します」と合掌する。

 

・花や香、金銀宝玉が世界に降り注ぐ。

 

・降り注いだ財宝が花の天蓋となって虚空を覆い尽くす。

 

 正直に言って、もう何が何だかわからないことになっている。

 

 特に、これらの祥瑞の冒頭百千歳に渡ってとある部分は、ここでいう“歳”が、普通の意味でいう“太陽年”に等しいのかどうかわからないのであるが、言葉通りに受け取れば、設定上法華経が説かれたとされる釈迦在世の晩年から、現実に法華経が書かれた紀元1〜2世紀に至っても、虚空会において法華経が説き続けられていることになってしまうが、それでいいのだろうか。

 

 まぁ、そういった野暮なツッコミはさておき。

 

 ここに至り、釈迦が“広長舌をふるい“だす。天台法華教学のいう狭義の付嘱はこの下りのことを言う……厳密に言うと、最終章にも付嘱とされる部分があるがこれは後日改めて。ここで、その付嘱の相手が、

 

 世尊は、大地から出現してきた地涌の上行を上首とするこれらの菩薩摩訶薩に仰せられた。

 

と明示されているので、以って、地涌の菩薩への付嘱である、とされる。やや冗長であるが、以下に引いてみよう。

 

 善男子(ぜんなんし)たちよ、もろもろの如来・応供・正等覚者は思議することも不可能な威大な神力をもっておられる。善男子たちよ、私はその威神力をもって、この法門を付嘱するために、百千億那由他の多くの劫の間、種々の教法などによって、多くの功徳を説いたとしても、さらに、この法門の功徳について説き続けたとしても、私はその功徳の果てに達することはないであろう。善男子たちよ、要約して言えば、(1)仏陀のすべての法(2)仏陀のすべての神力(3)仏陀のすべての秘要(4)仏陀の行われるすべての深奥な出来事を、私はこの法門において述べたのである。

(付番、下線は引用者による)

 

 この部分、特に下線部(1)〜(4)は天台法華教学において“四句要法”と恭しく称される。妙法蓮華経の漢文表記で書き記せば、

 

 (1) 如来一切所有之法

 

 (2) 如来一切自在神力

 

 (3) 如来一切秘要之蔵

 

 (4) 如来一切甚深之事

 

となり、なんだか凄いことを言っているように見えなくもないが、冷静に考えれば、これは釈迦が「伝えたいことはすべて法華経として述べた」と言っているだけであり、もちろんこれは歴史上の釈迦その人ではなく、法華経教団の書き手の主張に過ぎないのであるから、むしろ、今更何だ?という話ではある。

 

 さらに、その醒めた頭でそこに至る部分をよく読めば、……説き続けたとしても〜果てに達することはない……と言っているのであるから、要するにコレは、伝えたいことはたくさんあるが、伝えきれない、と言っているのであって、四句要法と微妙に矛盾している。語り尽くしたのか?語り尽くせないのか?どっちなんだ、と。

 

 また、細かいことであるが、この下りの次下には、

 

 (趣意:善男子がこの法を説く場所がどこであろうとも、そこには)……如来のために塔を建てるべきである。それはなぜかというと、その所はすべての如来が覚りを開かれた金剛の座であると知るべきであるからである

 

との一節がある。付嘱に続いているのであるから、素直に読めばこれは釈迦の地涌の菩薩に対する遺命である、ということになろうが、実は、本連載では未読の第十六章にはその善男子・善女人は、私のために塔を作ったり、僧坊を建てたりする必要はないとの断言が見られる。詳細は後日改めて見ることになるが、文脈整合性としては、後に続いて「経典を受持することが塔を建てることになるからだ」とする第十六章の方に分があるように思われる。

 

 以下、私見であると断って述べるが。そもそも第十九章“常に軽侮しない”に後続する本章が、前振りもなく唐突に地涌の菩薩に対する付嘱をおこなうのは何故か、ということを考えると「法華経第二期においてやり忘れていたから」が直接の動機ではないか、とボクは疑っている。

 

 これも詳細は後日改めて見ることになるが、第十四章において地涌の菩薩が初出する時点で、これが法華経教団自身を表象しており、以って(彼等主観における)釈迦の正統後継者を自認していることは読めばわかるのであるが、その時点での書き手の関心は、地涌の菩薩が何故存在し得るのか、の問いを伏線としての第十五章に向いており、そこから十七章まで、十五章の内容を褒めに褒め称えて第二期が終わってしまうため、釈迦の言葉でもって直接に地涌の菩薩を後継者指名する機会を遂に逸しているのである。

 

 これが、法華経第三期の拡充期になって問題視され、増補されたのが本章であろう、というのがボクの理解である。よって、全部述べた、いや、述べ切れない、の揺れは、本章が書かれた時点で、後続の章の増補が計画されていたことの影響ではないか、と思う。塔を建てなくていい→いや、やっぱり建てろ、は、この間に寺塔建設に関する教団の方針が変わり、ついでに紛れ込ませたものではないだろうか。

 

 かくして、如来の神通力とは何であるか、が明らかになった。同時に両立できない命題を、どちらも真実であると断言する力、これが如来神力である。古代以来、日本の権力者たちがそれを欲しがったのも無理はない。本音と建前は、我が国開闢以来のお家芸なのである。普通は、これを広長舌、ではなく、二枚舌と呼ぶように思うが、まぁ、これは冗談になっていない冗談。

 

以上を以って、法華経第二十章“如来の神通変化”の転読(うたたよみ)を終える。

 

*1
 続日本紀養老五年(西暦721年)の記述に詔曰。沙門法蓮。心住禅枝。行居法梁。尤精医術。済治民苦。善哉若人。何不褒賞。其僧三等以上親。賜宇佐君姓。の記録を遺す現在の大分県の仏教者。八幡神研究の過程でその事績を追ったので個人的に思い入れがある。

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