法華経転読   作:wash I/O

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第18話 ホッケオパシー……第十七章“随喜の福徳を説示する”

 今話で取り上げるのは、法華経第十七章“随喜の福徳を説示する”(妙法蓮華経随喜功徳品(ずいきくどくほん)第十八)。前話で言及した、法華経中において弥勒(みろく)菩薩が登場する章の最後であり、法華経第二期の末尾に当たる章になる。

 

 世に宗教テキストは数多くあれども、その中にあって法華経の特筆すべき点は、自分自身を後世に渡って末永く伝承すべきである、ということを、これでもか、これでもか、と繰り返し強く主張するところにある、とボクは思う。リチャード・ドーキンスの言葉を借りれば、法華経は「適応度の高いミーム」ということになろう。今日の、法華経を自身の根本経典であると称する宗教団体の多さ、その活発さ、を考えると、なるほどそうである、と思わないでもない。

 

 が一方で、今日のそうした人々が、果たして法華経の主張したところを本当に理解した上でやっているのか、と問うと、かなりこれは疑問なのであって、有り体に言ってしまえば、法華経を広めること、それ自体が自己目的化し、その中身を問わないからこそそれらの宗教団体は能天気に増殖し続けるのではないか、という気もしてくる。そして、当然のことながら、その責は、もちろん現代までに至る後世の法華信仰者も免れることは出来ないものの、究極的には法華経自身にあるのであり、まさに本章がその元凶である、というのがボクの理解である。

 

 

                    *

 

 

 そのとき、弥勒菩薩摩訶薩は世尊にこのように申し上げた。

「世尊よ、善男子(ぜんなんし)善女人(ぜんにょにん)のなかで、この法門が説かれるのを聞いて随喜するものがあるとしましょう。世尊よ、その善男子・善女人はどのような福徳を得るのでしょうか」

 

 本章は上引用の書き出しに始まる。もちろん、弥勒菩薩なる人物が実在してこの問いを発したワケではない。法華経第二期の本章の書き手は、弥勒菩薩の名が読み手・聞き手の間で一定の権威を有していることを理解した上で、敢えてその弥勒菩薩に上引用の問いを発せさせることで、続いて釈迦……法華経教団の主張を代弁するキャラクタ……から、自分たちの最も主張したいところを語らせるべくこれを言っているのである。

 

 これに対し、本章中の釈迦は以下のように応じる。

 

 阿逸多(あいった)よ、ある善男子・善女人がいて、如来が入滅したのちに、この法門が説かれ、説き示されるのを聞くとしよう。

 

 ご覧の通り、ここで釈迦は何の説明もなしに弥勒菩薩に対し“阿逸多”と呼びかけている。これが何を意図したものであるかは、前話において論じた通りであるので繰り返さない。ここでは、本章の書き手が、弥勒菩薩の権威、さらにその弥勒菩薩を阿逸多と呼び捨てることが出来る釈迦の権威、という二重の権威で以って以下のことを主張しようとしているのだ、と理解していれば十分である。

 

 ここで言われるのは、後に天台教学において“五十展転(ごじゅうてんでん)”と呼ばれることになる論述である。例によって本章の生の筆致は冗長に過ぎるので、拙要約で以ってこれを紹介する。

 

 上引用に示したように、誰かが法華経の説き示されるのを聞くとする。この誰かは、出家であろうが在家であろうが、聡明な人であろうが少年・少女であろうが、とにかく誰でもよい、とされる。この誰かがその場を離れてどこでもよいから別の場所に行き、また他の誰かに、自分が聞いた法華経について語るとする。それを聞いて随喜した誰かが、またどこか別の場所で他の誰かに自分が聞いたことを語り伝える。これを繰り返して五十人目に至り、その人もまた随喜する……これを五十展転と言い、

 

 阿逸多よ、順次にめぐりめぐって法を聞いて随喜したその第五十番目の人は、阿逸多よ、その善男子あるいは善女人の随喜とともに生ずる福徳の功用について私は説くであろう。

 

と話は続いていく。

 

 ご承知のこととは思うが、ここで言われる“五十”という数値には特に意味はなく、では四十九番目の人はどうなの?とか、五十一番目の人は?などと尋ねるのは不毛である。この話の力点が、法華経が誰かから誰かへと、喜びを伴いながら語り継がれていくこと、にあるのは明らかだ。一方で、何事につけても無茶な数的誇張……たとえば次下の釈迦の語りは、

 

 阿逸多よ、たとえば四百千阿僧祇(あそうぎ)の世界に生存していて……

 

と、例によって例の如くスケール感を無視した阿僧祇なる桁が、世界の数としていきなり登場するのであるが、これに対し、五十展転の“五十”はやけに控え目な値である。

 

 私見ではあるが、これは、法華経の書き手が、数というものに託した意識の差の表れであろう、とボクは読む。

 

 先に後者について論じれば、四百千阿僧祇という途方もなく大きく事実上の無限大な数が出てくる場合、これは、たくさんのものがある、ということではなく、ここで言う事柄が、空間的に言えばあらゆる地点において成立する普遍性を有していること、時間的に言えばいついかなるときも常に成立する永続性を有していること、の表現になっている。

 

 対して、五十展転に見られるような、その気になれば誰にでも容易に数え上げられる値が用いられる場合、これは、読み手・聞き手に期待される具体的な実践が想定されている、と考えて良い。

 

 授記に際して示される如来の寿命が例外なく事実上の無限値で示されるのに対し、たとえば第二十四章に見えた観世音菩薩の変化の数が三十三、と控え目なのも同じ理由からだ。

 

 前者は如来の普遍性・永続性の謂いであって、読み手・聞き手に期待される態度は、その深遠さに感銘することのみである。対して後者は、読み手・聞き手が観世音菩薩に倣って三十三種の変化を通じた衆生救済の努力に参加することが期待されているのであり、であるがゆえに、こうした場合の数値はカウンタブルである必要があるのだ。

 

 そのような意味合いにおいて、一見野放図に見える法華経の書き手の数の修辞の有り様は、存外よく考えられている、とボクなどは思う次第であるが、彼等自身がその意図を法華経中に明示的に書き遺していないがゆえに、後世に渡って過分なミスリードをおこなっている、とも同時に思わないでもない。

 

 さて、本章内容に話を戻そう。

 

 上に示した四百千阿僧祇の世界に生存していて……以降も粉飾語句ばかりがあまりに多いので大雑把に要約するが、とにかくそれだけ多くの世界に生きているあらゆる生物に対し、無限の快楽と無限の財宝と、さらには阿羅漢果(あらかんか)……声聞の修行の果てに得られると観念されたこの世の苦しみに動じない境地……を惜しみなく与える人、がいるとされる。そんなことが実際にあり得るのか、と問うことにはやはり意味がない。上述したように、無限の数を以って言われることは、法華経においてはあくまでも理念を示すものであって、具体的な実践を言っているワケではないのだ。

 

 阿逸多よ、そなたはこれをどのように考えるであろうか。かの施主であり、大施主であるその人は、そのような結果、量り知れず、数え切れないほど多くの福徳を生じないであろうか。

 

 釈迦は弥勒菩薩に上引用のように問う。ここで言われる施主は、前段で言われた無限の生きとし生ける者に快楽と財産と阿羅漢果を与える何者か、のことである。対して弥勒菩薩は、世尊よ、そのとおりです、善逝よ、まさしくそのとおりですと大袈裟に同意する。本稿の熱心な読者であれば、最早見慣れた修辞であり、この後何が言われるかは十二分に予測可能であろう。

 

 もちろん、釈迦は「かの施主よりも、五十展転の人の福徳の方が大きい(趣意)」と結論するのである。しかもそれは、強いて比べれば五十展転の方が大きい、といったレベルのものではない。

 

 阿逸多よ、この随喜にともなって得るところの福徳、随喜にともなう善根の功用の前においては、先の、施しにふさわしい阿羅漢果を得させたことにともなって得るところの福徳は、百分の一にも及ばない。千分の一、百千分の一、億分の一、百億分の一、千億分の一、一百千億分の一、百千億那由他分の一にも及ばない。その差は数えることも、計ることも、量ることも、譬えることも、比べることもできない。

 

と釈迦は言う。当然、ここでおこなわれている数値的な比較には特に意味はないのであって……

 

 阿逸多よ、このように、かの展転して聞いた五十番目の人でもなお、この法門から一詩句、一句でも聞いて随喜するならば、量り知れず、数えきれないほどの福徳を得るのである。

 

……と続いて言われるように、どんなに徳が高いと思われる行為よりも、法華経の伝播に加わることの方が福徳が深いのだ、というのが法華経教団の主張したいところ、ということになる。

 

 改めて指摘するまでもなく、これは法華経教団が手前勝手に主張していることに過ぎないのであって、これがこの世の真理であることが証明されているワケではまったくない。が、釈迦の聖性を信じ、かつ、法華経を信じる人にとってはこの言明こそが真理である、ということになり、実際、法華経(を奉じる宗派)の布教力は、まさにここで言われる言明を受けた信仰者の、献身的な尽力によって成されたものであり、それこそが、まさに法華経教団が希望した未来だったのだろう。

 

 が、ちょっと待って欲しい。

 

 果たして、現代の法華経を自身の根本経典として奉じると称する宗教団体の興隆は、本当に彼等が望んだ未来像、そのものなのだろうか。

 

 

                    *

 

 

 ちょっと脱線して、今話を書き始めて不意に思い出したことを書き留めたい。何分、小学生の時分の記憶なので正確性を欠くものであるとは思うのだが。

 

 その着想は、毎日放送の『まんが日本昔ばなし』を見ていて浮かんだ。同作には、しばしば無心に念仏を唱える信仰深いお婆さんが登場する……というか、そのような設定が、日本古来の民話の定型の一つだ、と言うべきであろうか。法華信仰の家に生まれ、日蓮遺文に親しみながら育ったボクは、このアニメの演出を通して、ある思考実験を思いついたのだった。

 

「隔絶した僻地に一人で暮らす、信仰深い老婆がいるとしよう。彼女が知っている仏教上のフレーズは“南無阿弥陀仏”のみであり、無心にこれを唱え、仏様への感謝の祈りを捧げる日々を送っているとする。さて、日蓮信仰の立場から見たとき、彼女は救済されるだろうか?」

 

 我ながら変な子どもだった、とは思うのであるが、ボクはこれを周囲の日蓮信仰者を自認する大人たちに問うて歩いたのである。さて、どのような返答が返って来たか。

 

「日蓮聖人が念仏無限地獄と言っている以上、お婆さんは地獄に堕ちる」

 

「南無妙法蓮華経を知らないお婆さんは不幸だ」

 

といったところが最大公約数だった。

 

 これは、教条的日蓮信者……関東地方では堅法華(かたぼっけ)とも言うらしい……としては模範解答であったのかも知れない。

 

 念のために申し添えれば、ボクはこのようにボクに返答した人々を非難したくて言っているワケではなく、むしろ生意気な子どもであったボクに真摯に応じてくれたことに感謝しているくらいなのであるが、思うに、これを不条理に感じ、自分で仏典を読み、自分自身で考えない限りは何が正しいかは判断できない、と考えたのが、ボクが日蓮遺文や妙法蓮華経を自分で読むようになった直接のキッカケであったように、今になって思う。

 

 

                    *

 

 

 さて、法華経第十七章“随喜の福徳を説示する”は、五十人の伝言ゲームを経て伝え聞いた法華経の一句一偈であっても無上の福徳があると説く。これを書いた本人が、本気でそう考えていたであろうことは、本章が法華経中でも良くも悪くも最も熱い第二期の末章であることを考えれば、疑う余地はない。実際、本章はまったく同じ内容を偈で以って繰り返し、この主張を立証するでもなく、その含意を説明するでもなく、唐突に終わってしまう。

 

 書き手にとって、それはまさに“真理”だったからである。

 

 が、冷静に考えれば、五十人を経た伝言ゲームで以って何らかのメッセージが正確に伝わるなどということは馬鹿げた話である。実際、子どもの時分のボクが発した(過分に無茶振りな)思考実験の相手をしてくれた大人たちに、法華経第十九章の常不軽菩薩に託された一切衆生に礼拝する姿勢(第4話)や、第二十四章が観世音菩薩を通して勧める一切衆生救済の姿勢(第2話)は、伝わっていない。

 

 “五十展転”の果てに法華経のメッセージは極度に単純化され、宗派によって多少の温度差こそあれ、突き詰めれば日蓮筋においては「南無妙法蓮華経と唱える者は救われ、唱えないものは救われない」ということだけが後の世の人々に伝わったからである。

 

 無論、これは「日蓮が法華経を歪めた結果である」と解釈することも出来る。が、これも虚心坦懐に法華経を読む限りにおいて、法華経第二十一章(第8話)にはこの法門の名号だけでも受持する法師たちを守護し、擁護し、救護しようとする福は量ることができないとの一説があり、日蓮は“五十展転”のリレーを中継し、文字通り一句一偈を五十人目に伝えたのであるから、まさに、彼は本章が言っている通りの福徳多いことをやったのであり、それを心底信じている人々もまた、本章が言っている通りの福徳に包まれているのだろう。

 

 つまるところこれは、日蓮をはじめとする人師や、それに連なる後世の信仰者の問題ではなく、法華経が本質的に抱え込んでいる欠陥である。

 

 以下、私見であることを断って書くが、法華経の成立に関わった人々は、自分たちが編み上げたテキスト、端的に言えば“ことば”の力を過信していたように思う。が、これは彼等が異常に自信過剰かつ自己愛気味な集団であった、という意味では決してない。彼等が実際に生きた時代に限っていえば、それは過信ではなく、事実だったからだ。

 

 どうしても現代の我々は、漢訳テキストとしての仏典を第一に想起してしまうので、それが誕生した時点においても、それらはそのように当時の人々からも見えていた、と考えてしまいがちであるが、繰り返し述べているように、少なくとも法華経を含む大乗経典は、それを編み上げた比丘衆によって、彼等に対する施与を求めるべく、町々において集団で暗唱されたものであった。

 

 ここで想像力を逞しくして、自分自身が、テレビもラジオも新聞もないその町々に暮らした、自分自身は文字すら読み書きできない一般庶民であったなら、と考えていただきたい。そこに、揃いの糞掃衣を纏い、髪を剃り上げた一群の比丘衆が厳かにやって来る。それは五人であったろうか、十人であったろうか、或いはもっと多かったかも知れない。その異形の集団が、一斉に声を揃えて唱和する。

 

 オーム、あらゆる仏陀と菩薩に帰命したてまつる。あらゆる如来・独覚・聖なる声聞たち、そして過去・未来・現在の菩薩たちに帰命したてまつる。このように私はお聞きしている。あるとき、世尊は王舎城の耆闍崛山においでになられ……

 

 このとき、あなたはどのように感じるだろうか。食を求める乞食が好き勝手なことをほざいている、と考えるだろうか。無論、そのような、ある意味聡明な、ある意味捻た人もいたかも知れないが、普通の人はそうではあるまい。比丘衆は、全文朗唱に数時間はかかろうかという経典を、誤ることなく唱和し続けるのであり、しかもそれは、耳心地の良い韻文にもなっているのだ。

 

「世俗を離れボロボロの衣を纏って修行している人々が、このように声を揃えて長々と語ることには、何らかの真実が含まれているに違いない。」

 

 聞き手の多くはそう思ったはずであるし、その効果については語り手も自覚していたはずだ。つまり、この行為の有り様そのものが、語られる内容の真理性の証拠と理解されていたのであり、それ以上の立証は求められなかったのである。これが、前述した「ことばに対する過信は、過信ではなかった」とする理由である。

 

 一方で、ここまで示してきたように、法華経教団第一期の章句は、後のそれに比べておしなべて冗長であり、かつ、情緒的ではあるが理屈っぽい、という特徴をもつ。既にみたところの第二章におけるセントラルドグマの表明、第三章における譬喩を通しての敷衍説明を見れば、当初の彼等が、それほど自分たちの“ことば”を過信しておらず、むしろ、ことばを尽くして聴衆の理解や賛同を得ようと苦心していたことがわかる。

 

 が、どこかの時点で……おそらくは法華経第二期の拡充が始まった頃だろう……彼等は気づいたのだ。第二〜三章のようなことばを尽くした説明は、たちまちの賛同や施与を得るにはときに逆効果なのであり、授記の章に見られるようなシンプルな断言の方が、むしろ人々の心を捉える、ということに。

 

 かくして、第十章以降の法華経は、修辞がよく練られて短文化されるとともに、説明抜きの断言が多用されるようになっていく。語り手主観から見れば、冗長であった第一期経典を朗唱しているときと、得られる効果……つまりは、その日のアガリ……は、同じか、あるいは、わかりやすさとインパクトが増したことにより、増収につながっていたのではないかとすら思うのであるが、こうなってくると、彼等自身が、自分たちの語る一句一偈なりとも語ったり聞いたりすれば、無量の福徳があるのだ、と過信を抱くのも無理はない、とボクなどは思うワケである。

 

 が、彼等は以上に述べたようなことを、最初から知っていて計画的におこなったのではなく、言葉は悪いが行き当たりばったり試行錯誤しながら見出していったのであり、法華経全篇を通じてのスケール感の不一致などが端的にそれを証明しているように思うのであるが、であるがゆえに、彼等自身が創作した衣裏繋珠の譬喩を通して指摘したように、法華経教団はついぞ自分たちがやっていること全体を俯瞰してメタ視することがなかった。

 

 その行き着いた果てが本章の、五十人の伝言ゲームを経ても法華経に一句一偈には無量の福徳がある、との根拠なき断言、ということになる。

 

 これが何を生起せしめたか、と問えば、遠くはボク自身の子供時分の実験結果として示したような後世の法華信仰のあらぬ方向への拡散であり、近くは法華経教団自身が信仰の形骸化に早くも直面していたことは、既に見てきた通りである。これを以ってボクは、法華経が本質的に抱え込んでいる欠陥である、と考えている。

 

 が、これを単純に欠陥である、と切り捨ててよいものか、と問えば、そこに迷いがないワケでもない。と言うのも、以上見てきたように、その欠陥こそが同時に、今日に至るまでも法華経信仰が、その内実を失いつつも拡散し続けている原動力であり、かつ、それがあったればこそ今こうしてボクは十全な法華経テキストを弄ぶことが出来るのであって、彼等がいなければ、つまり、法華経にこの本質的な欠陥がなければ、これらのテキストはボクの目に留まることもなかったのであるから。

 

 何たる矛盾!何たる不条理!

 

 以上を以って、法華経第十七章“随喜の福徳を説示する”の転読(うたたよみ)を終える。

 

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