法華経転読   作:wash I/O

21 / 30
第20話 消えた後半部の謎……第五章“薬草”

 今日、我が国において“法華経”と言えば鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』を指すこと、その一方で、現在知られる法華経サンスクリット語写本と妙法蓮華経の間には少なからぬ異同があること、その中には後世になってこっそり妙法蓮華経に編入されたものもあること、をここまで示してきた。

 

 今話で取り上げる法華経第五章“薬草”(妙法蓮華経薬草喩品(やくそうゆほん)第五)は、原典と羅什訳の乖離が最も大きい章、ということになる。どう異なるか、というと、羅什訳は本章の後ろ半分を丸々欠いている。羅什訳を補完する体で闍那崛多(じゃなくった)達摩笈多(だるまぎゅうた)らにより7世紀初頭に編まれた『添本妙法蓮華経(てんぽんみょうほうれんげきょう)』がこの部分を含むのは当然として、どうしたことか、先行訳となる竺法護(じくほうご)訳『正法華経(しょうほけきょう)』もこの部分を含んでいる。ここまでは第十一章後半、すなわち妙法蓮華経でいうところの提婆達多品(だいばだったほん)第十二と似た話である。

 

 少し事情が異なるのは、正法華経にはこの第十一章後半を妙法蓮華経同様に梵志品(ぼんしほん)第十二として分かつものもあることから、原典当該部が後付けであることが推察されるのであるが、本章についていうと、後半部を欠くのは原典・漢訳を通じて羅什訳のみ、となっている点だ。とすると、これは羅什が何らかの事情でこの部分を訳し落としたか、意図的に省いた可能性を考慮する必要が生じる。

 

 視点を転じて、ボクの見るところ本章に登場する法華七喩の第三である三草ニ木は、第一期を要約した譬喩の中では……あくまでも第三〜四章と比較して、ではあるが……言わんとするところがわかりやすい。これを詳しく読むことで、改めて法華経教団のセントラルドグマを再確認してみたい、と思う。

 

 

                    *

 

 

 本章は、第四章から引き続いて釈迦と大迦葉(だいかしょう)の間で交わされる対話の体を採っている。

 

 大迦葉よ、善きかな、善きかな。迦葉よ、如来の真実の功徳をたたえて説くことは、そなたたちにとってまことに結構なことである。

 

 冒頭、釈迦……法華経教団を代弁するキャラクタであって、歴史上の彼ではない……が褒めているのは、前章で大迦葉が述べた体裁になっていた長者窮子の譬喩、ということになる。つきつめれば、褒めているのも褒められているのも法華経教団の書き手、ということになろうが、最早これにツッコむのも飽きた。

 

 本題となる三草二木の譬喩はすぐ次下から始まるのであるが、例によってその直前にこれから譬喩で以って言わんとすることが真正直に要約されている。いささか冗長ではあるが目を通しておいて無駄にはなるまい。

 

 迦葉よ、如来(にょらい)は法の主であり、一切の法の王であり、主宰者であり、自在者である。迦葉よ、如来がいかなる法を説かれようとも、いかなるところで安立されようとも、その法は真実の理なのである。また、迦葉よ、如来は一切の法を巧みに説かれる。如来の智慧によって説かれたものであるから、それらの他は一切知者の位に到達するように説かれるのである。如来は一切の法の意味の帰着するところをあまねく見透かされて、一切の法のもつ意味に対して自在の力を得ており、一切の衆生の深い願いの意向を完全に知っており、一切の法を巧みに決断し、選択するその智慧は最高の完成の域に達している。迦葉よ、尊敬されるべき正しい覚りを得た如来は、一切知者の智を衆生に明らかに示すものであり、衆生をして一切知者の智に入らしめるものであり、一切知者の智を授けるものである。

 

 随分と大仰な言い回しであるが、端的に要約すれば言っていることは以下の三点に尽きよう。

 

・如来は法の主権者である。

 

・如来は衆生の求めるところと、それに対する応じ方に通じている。

 

・如来は衆生に智慧を与えることが出来る。

 

 これが第二章で言われた一乗真実、開示悟入と同内容であることは明白であり、本連載では便宜上これを教育者∞と呼んできた。

 

 さて、ここからが、迦葉よ、たとえば……の語り出しに始まる三草ニ木の譬喩となる。やはり地の文はあまりに冗長なので、以下、拙抄訳で以って要点を押さえていくことを諒されよ。

 

 全体の枠組みは以下の通り。三千大千世界には種々の草木がある。ここに雨が降り注ぎ、草木はそれによって育まれる。雨はすべて一味の水であるが、それによって潤う草木はおのおのそれぞれの花を咲かせ、実をみのらせる。如来の出現は三千大千世界を覆う雲のようなものであり、草木、すなわち一切衆生を潤すべくして智慧の雨を降らせるのであるが、そのすべての法は一味であり、これを受け取る衆生は、草、灌木、薬草、樹木にはそれぞれ劣ったもの、すぐれたもの、中くらいのものがあるように様々であるが、それに対して等しく雨は降るのだ……と、こういった具合である。

 

 ここで言われる一味の水……醍醐味(だいごみ)等の仏典由来語に見られるように、仏教では法の効力を“味”で譬えることが多い……は、第二章以来繰り返し敷衍されてきた一乗真実を表象しており、対して草木に種々あることが三乗方便に対応している。衆生はそれ自身の可能性に応じて様々な姿を現じることになるが、その源泉となる如来の智慧は一つなのだ、ということが主張の骨子となるが、そう言われればそうかも知れない。ただし、これはあくまでも喩え話なのであって、これがそれを証明しているか、と問えば、そうではなかろう。第三章に見えた三車火宅に比べれば、より法華経教団の訴えたいところに適っている、といったところが関の山か。

 

 細かい部分を見ていくと、おや?と思う部分がないでもない。以上のことを論述した後、例によって偈で以って要約が繰り返されるのであるが、

 

 その人の能力がどのようであるか、境遇に応じて私は説く。種種に異なる意味を用いて、私は彼らの誤った見解を正しくするのである。迦葉よ、あたかも密雲が地上に湧き起こり、大地をおおい、すべてのものをことごとく包みこむようなものである。

 

とある一節は、ここだけ読めばなるほど至極ごもっとも、という気もするが、境遇に応じた上で種種に異なる何かを施すのであれば、それは一味とは言えないのではないか。

 

 また、続いて以下のような一節もある。

 

 雲から地上に降り注いだその水は、一味である。それを草や灌木などが力に応じ、生育の領域に応じて吸収する。

 大樹も巨木も、また、小さいものも中くらいのものも、すべて齢に応じ、活力に応じて水を吸収し、吸収して想いのままに生長する。

 

 素直にこれを読むと、一味の恵みをそれぞれの個性に応じて生長の糧とする能力は、如来ではなくむしろ衆生側に備わった本源的なものであり、如来の巧みな方便の力などを想定する必要はない、ということにならないか。

 

 後の涅槃経等に見える一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)を前提に読めば……実際、天台法華経学がそうであるが……まさにその通りなのであって、“仏”とは衆生自身に本源的なものであり、ここで観念される“法を説く如来”は降り注ぐ雨のごとく、その仏性を開花せしむる契機となるものだ、ということになろうが、どうにもボクには、本章執筆時点の法華経の書き手自身が、そこまで考えていたようには思えない。彼らの関心の中心は、降り注ぐ一味の雨、すなわち彼らが信じる一乗真実にあって、それを受け取る衆生側の本源的な性質には向けられていない。事実、偈の後半では以下のように言われている。

 

 雲が雨を等しく降らせるように、最勝者はこの法を平等に説かれる。それなのに仏陀の智が衆生の性にしたがってさまざまであることは、あたかも地上に生える植物と同じである。

 この譬喩にたとえたことによって、如来の方便を察知するがよい。仏は同一の法を説かれるのであるが、種々の説明のあることは、雨に個々の水滴があるようなものなのである。

 

 ここでも彼ら自身の言葉は、如来の側が衆生に応じて法を説くことを個々の水滴に擬えており……水滴に個性はないだろう、とボクなどは思ってしまうのであるが……後の天台法華教学が、ここで彼ら自身が意識している声聞・独覚・菩薩の差異を、衆生側に内在する素質と解するようになることとは合致していない。

 

 ところで、本章々題が原典・漢訳ともに“薬草”を取り上げているにも関わらず、ここまで述べた内容は、直接的には薬草とは関係がなかった。これは、薬草が全く登場しないからではなく、少なくともボクの抄訳の視点においては、薬草が登場する下りが本筋と関係がないように見えるからだ。その部分の例を示してみよう。

 

 この世においては、これらの極めて小さい薬草もあり、やや小さな薬草もあり、そのほかに中くらいのものや、大きな薬草が有る。そなたたち、よく聞くがよい。私はいまそれらのすべてを解き明かそう。

 

と大層な宣言がなされた後に言われるのは、声聞・独覚は中くらいの薬草、仏陀となることを志す人は最上の薬草、仏陀となることに疑いを抱かなくなった者は小樹、不退の位に至った菩薩は大樹、との説明で、声聞・独覚・菩薩のほかに突如新たな類が二つ加わっている上、途中から薬草ではなくなっている。三乗方便の主張を敷衍するため、という意図はわからないでもないが、いささか的を外している感がなきにしもあらず。

 

 とまれ、以上のことを述べ、以下引用の末文を以って偈が終わる。

 

 一切の声聞たちは究極の涅槃に達したのではなく、彼らは無上の菩提に至るための行に努め励んでいる。これらすべての声聞たちは、やがて、仏陀になるであろう。

 

 ここで羅什訳の妙法蓮華経薬草喩品第五は終わる。続章は大迦葉を含む四大弟子受記の章となる第六章であり、上引用とのつながりは決して悪くはない。が、冒頭に述べたように、羅什訳以外の法華経は、まだこれで本章の丁度半分であり、いささか異なる趣旨の譬喩話が続くことになる。

 

 

                    *

 

 

 また次に、迦葉よ、如来が衆生を教化する場合には、すべて平等で、不平等なことはない。迦葉よ、たとえば月や日の光は一切の世間を照らす。善い行為をなす者にも、不善の行為をなす者にも、位の高いものにも、位の低いものにも、好い香を放つものにも、悪臭を放つものにも、光はすべてを平等に照らし、不平等なことはない。

 

 法華経第五章“薬草”の後半、妙法蓮華経薬草喩品第五に含まれない部分は、上引用の書き出しに始まる。また次になどという書き出しが、どうにも取って付けた感を醸しているが、ここでは結論を急ぐまい。言われていることは、前稿で紹介した薬草の譬喩に通じる。事実次下では、声聞・独覚・菩薩の三乗の間に差別はなく、ただ衆生がまちまちに異なった行動をするので、それによって三つの乗り物が仮に設けられるのだ、と第二章以来の主張が敷衍される。

 

 ここで、本章冒頭から無言であった迦葉が初めて口を開く。

 

 世尊よ、もし三つの乗り物がないならば、何ゆえに現在、声聞、独覚・菩薩たちが仮に立てられるのでしょうか。

 

 それを今さっき釈迦が言っただろ、オマエ何聞いてたの?な気がしないでもないが、続く部分を読むと、これは、迦葉が上述の釈迦の説明を理解しなかった、という意味ではなく、本章書き手……ここに見える釈迦の正体……がもう一つ譬喩を思いついたので、それを言うために迦葉……彼もまた書き手の意図に従う傀儡である……に再び問わせた、といったところが真相のように思われる。

 

 迦葉よ、たとえば陶工師が同じ粘土から種々の容器を作るようなものである。そのとき、あるものは砂糖の容器となり、あるものは酥油の容器となり、あるものは乳酪や牛乳の容器となり、あるものは下等な不浄物の容器となる。しかも粘土には差別がないのに、そのとき、中に入れるものによって、容器の別がつけられるのである。

 

 言っていることは至極真っ当であるが、これを以って実にこのように、迦葉よ、この乗り物はただ一つ、すなわち仏乗だけと断言されると、いや、それは違うんじゃないですか、という気もする。ある概念を説明する譬喩で以って、その概念の妥当性を証明することは出来ないのだから。

 

 本章書き手はさらに言いたいことがあると見えて、再び迦葉に問わせる。

 

 もし、信に対する種々に異なった心の願いをもつ衆生たちが三界から出離したならば、彼らには涅槃は一つなのでしょうか。それとも、二つまたは三つあるのでしょうか。

 

 現代の我々からすると急にややこしく抽象的なところに話が飛んだように見えるが、これは用語が見慣れないための錯覚である。三界から出離というのは、この世の有象無象に惑わされるのを断つこと、の別の謂いであり、涅槃とは、その結果辿り着くとされた理想的な境地を恭しくそう呼んでいるに過ぎない。

 

 言い換えれば「いろんな人がこの世のことに悩むのをやめますが、その結果辿り着く境地はみな同じですか、それとも人によって異なりますか」というのが、この迦葉の問いの含意となる。個人的には、この問い自体が無意味な問い……仮に悩むのをやめることが可能だとして、その結果が理想の境地であることは証明されているわけではないし、自分のそれと他人のそれを比較検証する手段はそもそも存在しない……であるように思えるが、ここの釈迦はこの問いに、それはただ一つがあるのであって、二も三もない、と断言し、これを譬喩で以って説こうと宣言する。

 

 この世では、譬喩によって一類の学識のある人たちは説かれた意義を深く理解するからである。

 

 察しの良い人はお気づきやも知れないが、これは、第三章で三車火宅の物語が説かれる直前に言われることと、文面上はまったく同じことを言っている。同じなのだが、文脈上の意味するところはいささか異なっていて、第三章のそれが、あくまでも如来の方便力とはどのようなものか、具体的には「火宅から子どもを誘い出す方便は、嘘とは言えない、ゆえに三乗方便も嘘ではない」という、理解の枠組みを示すものであるのに対し、本章のこれは「三乗は存在せず、たた一仏乗のみが存在する」ことが、この譬喩で以ってまるで論証されるが如き体になっている点に注目したい。

 

 この視点で本章前半の三草ニ木の譬喩を振り返ると、その趣旨は「一味の雨が様々な草木を育むように、一仏乗から三乗が派生することは驚くにあたらない」というところにあり、やはり理解の枠組みの例示にとどまっていることがわかる。とすると、本章後半の書き手は、ここから一歩深く踏み外して、説明と立証の混同に陥っている、と言えるかも知れない。

 

 とまれ、どのような譬喩が語られるのか見てみよう。例によって冗長なので、趣意抜粋することを諒されたい。

 

 まず、生まれつき盲目の人がいるとされる。この人は自身が見たことがないゆえに、この世には太陽も月もないと言うだろう、と。対して、目の見える人たちは太陽も月もあると言う。が、盲目の人は目の見える人の言を信じることが出来ない。

 

ここにあらゆる病に精通している一人の医師が現れ、ご都合主義極まりないが、かの盲目の人を治療し、彼は突如として目が見えるようになる。盲目であった人は自身の発言を悔いる。

 

 以前には、話しかけてくれる人たちがいても信用せず、言葉をわかろうともしなかった。その私が、いま、すべてのものを見ることができる。私は盲目の状態から解き放たれて、眼を得たのである。私よりもすぐれたものは、だれもいない。

 

 既にこの発言末尾が、続く彼を貶す展開を予感させるのであるが、果たせるかな五神通を得た仙人たちがここに登場する。ここに現れた“仙人”という語はキーワードとなるのでご記憶願いたい。それはともかく、この天眼通を得たという仙人が、視力を回復した男に言う。

 

 おまえは視力が回復したにすぎないのだ。おまえはほかに何事も知らない。それなのにどうしておまえは高慢になったのか。

 

 仙人がいくつか例示する彼が見えていないもの、に男はハッとさせられ、どうすれば五神通を得ることが出来るか、と仙人に教えを請う。仙人は山の洞穴に坐って法を思惟し、おまえは煩悩を断つべきと諭し、素直に従った男はついに五神通を得る。そして以下引用の通り独白する。

 

 いま、私は思いのままに行動することができる。以前、私は智慧も劣り、経験も少なく、何事にも私は盲目であった。

 

 盲目の男の譬喩はここで終わる。以下、その含意が説明されるのであるが、曰く、生まれつき盲目のものというのは、六道輪廻(ろくどうりんね)の中に浮き沈む衆生なのであり、無明(むみょう)によって盲目となったのだ、とされる。“六道輪廻”とは、簡潔に言えば、苦しんでは喜び、喜んでは苦しむことを繰り返す、当時の仏教者たちが忌避した生き方であり、彼らはそこから逃れ出たいと願い、逃れでた先を“涅槃”と呼んでいた。“無明”とは、涅槃を阻む無知、のことを言う。

 

 男の盲目を癒やした医師は如来であり、視力を回復した男の一時の高慢さは(法華経教団主観から見た)声聞・独覚の修行を極めて私は涅槃を得たのであると慢心する様に喩えられる。男は仙人……文中では明示されないが、彼もまた如来だ、ということになるのだろう……の導きを得て、目に見えるものだけがすべてではない、ことを知り、ついに五神通を得るに至ったのであり、ゆえに、三乗方便に留まることなく一乗真実を希求せよ、というのが書き手の言いたいことであるようだ。

 

 この話はそれはそれとして、なるほど、と思わない話でもない。盲人をこのような譬喩に用いることは障害者差別である、などという短絡思考は棚上げした上で、ある時点で有していなかった能力を得たことで満足してしまい、さらなる前進の歩みを止めるべきではない、と、この物語を読む限りにおいては。

 

 が、この物語は、そもそもの迦葉に言わしめた、涅槃は一つなのでしょうかとの問いに対して、今ひとつ噛み合っていない感がなきにしもあらず。仮に迦葉の問いが「涅槃は一つであるのに、二つ、三つと誤認する衆生がいるのは何故でしょうか?」であったならば、まだ文意が通じるのであるが。これは、翻訳によって生じた擬似問題かも知れないので、ここでは捨て置こう。

 

 いずれにせよ、それはただ一つがあるのであって、二も三もないとの断定から始まった割には、盲目の男の譬喩は何も論証してはいないように見える。穿った見方をすれば、法華経第一期の書き手は、対立声聞衆を、三乗方便の覚りに固執する権威主義者である、というように、感情的な目で見ていたように思われるので、物語を説き進めている間に、言わんとするところが、彼らが忌み嫌った声聞衆の慢心……個人的にはこれは、いわゆる同族嫌悪であるようにも思うのであるが……の方へ横滑りしてしまったように見えなくもない。

 

 だいたい、ただ一つがあるのであって、二も三もないことを言おうとしているのに、盲目の男には医師の治療と仙人の示唆という二通りのキッカケが与えられているのが自己矛盾ではないか。本章前半の流れを思えば、雨に個々の水滴があるけれどもその水は、一味というところに帰着させないと、これが続けて論じられる意味が失われてしまう。

 

 この後、本章は、本稿冒頭に示した釈迦と迦葉の問答の部分も含めて、その内容を偈で以って再要約して終わる。上に述べた前半とのつながりの悪さ、さらに、この偈と長行の対応範囲からも、本章の前後半が互いに独立性が高いことを知ることが出来る。

 

 

                    *

 

 

 さらに異なる観点から本章前後半問題を検討してみたい。

 

 以下に述べることは、あくまでも一つの仮説に過ぎず……それを言ったら本稿全部そうなのであるが……書いている本人も今ひとつ自信はない、ということを予め断った上で、それでも好き勝手なことを論じさせてもらう。

 

 ここまでに以下のことを示した。

 

・本章の後ろ半分を鳩摩羅什の妙法蓮華経は欠いている。

 

・現存する他の原語、漢訳すべての法華経はその欠落部を含んでいる。

 

・前半、後半(欠落部)は一見つながっているものの、独立した内容である。

 

 これは何故だろう、ということをつらつら考えていて、どうしても引っかかることがある。それは“仙人”という漢語について、である。この語が、妙法蓮華経においては、隋代に編入されたと見られる提婆達多品第十二にのみに用いられていることは既に述べた。

 

 で、前回読んだ本章後半部の中村師訳がこの仙人の語を含むのが気になって、正法華経と添本妙法蓮華経についても同じことを調べてみたのである。すると、意外なことがわかった。

 

・正法華経において“仙人”の語が現れるのは、薬草品(やくそうほん)第五後半と七宝塔品(しちほうとうほん)第十一後半、加えて例外的に一箇所のみ。

 

・添本妙法蓮華経において“仙人”の語が現れるのは、薬草喩品第五後半と見宝塔品(けんほうとうほん)第十一後半のみ。

 

 偶然にしては、ちょっと出来過ぎた話だとは思わないだろうか。

 

 ちなみに、正法華経の「例外的に一箇所」というのは光世音品(こうせおんぼん)第二十五、妙法蓮華経でいうところの観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんほん)第二十五……つまり、竺法護は観音様を“光世音菩薩(こうせおんぼさつ)”と訳したのである……の観世音菩薩の三十三变化の下り、

 

 将軍によって教導すべき衆生たちには将軍の身をもって法をとき、婆羅門(ばらもん)によって教導すべき衆生たちには婆羅門の身をもって法をとき……

 

なのであって、上引用は中村師訳だが、下線を付した“婆羅門”の部分が正法華経では“仙人”になっている。なお法護は、妙法蓮華経が他に“婆羅門”とする部分は、概ね“梵志(ぼんし)”と訳しているようで、これは婆羅門がサンスクリット語の“ブラーフマナ”の音写であるのに対し、漢意訳としてこの語を用いているようである。

 

 正直に自身の能力不足を吐露すると、これがどうしても気になって『サンスクリット原典現代語訳法華経』(植木雅俊著/岩波書店,2015年)のローマナイズされたサンスクリットにも当たってみたのだが、同語の格変化についてまったく知識を欠くため、有意な結論に自力で至ることが出来なかった。そういう次第なので「原典も読めない若輩が何を言うか」と言われてしまえばそれまでだ、ということを重々承知の上で、それでも悪びれずに妄言を吐く。

 

 そもそも、ボクがこの“仙人”という語を気にするのは、『仏典はどう漢訳されたのか』(船山徹著/岩波書店,2013年)を読んだ際、ある経典が偽経か否かを判別する指標の一つとして、この“仙人”という漢語が紹介されていたからである。ここでいう偽経とは、対応するサンスクリット語やパーリ語の原典が存在しないにも関わらず、漢訳の体で中華文化圏で創作された経典のことをいう。

 

 誤解のないように明言しておくが、これは「“仙人”という語を含む仏典はすべて偽経である」という単純な話では決してない。正しく原典の存在する仏典であっても、サンスクリット語の“リシ”……これは単純化すればヨーガを極め超常的な力を身につけたとされる人、ほどの意味なのだが……に対する訳語として“仙人”が用いられる場合が知られている。前掲書が言っているのは、老荘思想や道教の示す“仙人”と思しき概念が漢訳仏典に登場した場合、これは偽経である可能性が高い、という話だ。もちろん、ここで話題に上げている法華経第五章および第十一章後半は、ちゃんとサンスクリット語原典が現存しているので、少なくともここで述べた偽経には当たらない。

 

 以上のことを踏まえて考えると、まず第一に、直訳調を好んだと思われる法護本人が“仙人”という語を用いたのだろうか、という疑問がある。現在知られる正法華経は、法護(厳密には彼が監督した訳場……前掲書を参照されたい)が書いたそれそのものではなく、もちろん幾度かの写本の果てに今日に伝わったものであるから、当然いくらでも改変の機会はあったはずだ。もちろん、これは可能性の話でしかないが。

 

 第二に、羅什(同上)が妙法蓮華経訳出に際し正法華経を参照しなかった、ということはないだろうと思うのだが、仮にこの時点の正法華経が薬草品第五後半と七宝塔品第十一後半を既に含んでいたとして、羅什の目に“仙人”の語がどのように見えただろうか、という点である。特に、第十一章後半部は、内容を読めば法華経第二期の書き手が当初意図したであろう筋を仏陀……もといブッた斬っているのは一目瞭然であるから、ここに“偽経”を疑わせる傍証が加われば、意訳を好み、ときに原典にない論述を加えることに躊躇しなかった羅什であればこそ、当外部を「後世の改竄なり」と喝破して除外したとしても、驚くにはあたるまい。

 

 ここで改めて第五章後半部に話を戻すが、この部分は、その書き出しからして後付感が漂っているのではあるが、言っている内容は法華経第一期の主張から逸脱はしていない。むしろ、前半部は、一乗真実を言いたいことはわかるが、三乗方便についてはやや滑っている感がなきにしもあらず。この点を後半部が補っているように見える。とすると、そもそもこの部分は、法華経第一期の人々が、第九章までの法華経の体裁が整った時分に、自ら加筆して補った部分ではないか、という気がしてこないでもない。第二期以降の法華経の書き手は、どう見ても三乗方便の主張にあまり関心があるようには思えないためである。

 

 というようなことをつらつら惟んみるに、以下の二通りのパターンが考えられるのではないか、と思うのである。

 

ケース1:

 

 正法華経の最初の訳出時点で第五章後半、第十一章後半は含まれていたが、偶然にも盲目だった男を導く人物、および提婆達多の前世が、共に“仙人”と訳されてしまった。羅什は、第十一章後半の内容に対する疑義からこれを除外し、正法華経において同じく“仙人”の語を含む第五章後半も、言わば巻き込まれる形で真性を疑われ除外されてしまった。

 

ケース2:

 

 遅れて加筆された部分であるがゆえに、正法華経の訳出時点で第五章後半、第十一章後半は伝わらなかった。後に伝わったこれを正法華経に編入した人物の、訳出上の癖として“仙人”の語が用いられ、以下、ケース1に同じ。

 

 まぁ、そもそも法華経原典自身が、釈迦の直説ではありえない、という点においては“偽経”なのであるから、上に論じたようなことは「だからどうした」な話ではあるのだが、ただただ趣味的に面白いというだけの理由で長々と書いてみた。そして、真相がいずこにあるにせよ、本章が法華経第一期の主張としては、後に法華七喩の一つに挙げられた割には、あまり役立ったようには思えない、という評価には影響しないだろう。

 

 以上を以って、法華経第五章“薬草”の転読(うたたよみ)を終える。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。