法華経転読   作:wash I/O

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第21話 成り損ねた最終章……第七章“過去世の因縁”

 ここまで本連載を通じてボクは、随分と好き勝手なことを断定する体で語ってきた。無論これは、そもそもの法華経自身がそうであるからそれに倣ってのことなのである、などという冗談はさておき、もちろん、このボクをしてもワケのわからない部分だってあるのだ。う〜む、これも随分と思い上がった物言いだなぁ。

 

 今話では、その、法華経全章を通して最も何が言いたいのかワケがわからない章となる、第七章“過去世の因縁”(妙法蓮華経化城喩品(けじょうゆほん)第七)を取り上げる。

 

 内容に入る前に、少し外形的な事柄を論じておきたいと思うのであるが、本章は法華経全二十七章中、最も長い章になっているのだが、存外中身が乏しい。と言うのも、本章は冒頭から延々と、授記の章と比べるのも馬々鹿々しくなるほど、同じような内容が繰り返される体裁となっているからである。

 

 加えて、妙法蓮華経の章題にも特徴がある。法華経原典の章題と妙法蓮華経のそれは……後者においてニ分割された第十一章(第10話)を除けば……概ね意が一致しているのであるが、本章に限ってその示すところが大きく乖離している。妙法蓮華経の“化城喩品”というのは、本章に登場する法華七喩の第四“化城宝処(けじょうほうしょ)”に由来する。つまり「化城宝処の譬喩の章、であるから、化城喩品だ」というのが訳者である鳩摩羅什(くまらじゅう)の解釈なのであるが、実は、前述した通り最長の長さを誇る本章のうち、化城宝処の譬喩が語られている部分は後半四分の一に過ぎず、しかもこれは同じ内容を繰り返す偈も含めてのことである。つまり、大雑把に言って本章において化城宝処の譬喩が占める割合は八分の一に過ぎず、これは「章題に偽りあり」と言うべきところであるかも知れない。

 

 本章の肝に当たる部分を法華七喩として取り上げたのは後の天台教学においてであるが、おそらくは羅什もまた、同じ判断の下で本章表題に敢えて原典直訳とは異なる語句を当てたものだろう、とは思う。有り体に言えば、彼もまた、本章前半四分の三が何を言わんとしているのか、今一つピンと来なかったか、あるいは、彼は正しくその意味を理解したが、重要性は低いと判断して、章題を見ればどこが本章の肝であるか一目瞭然となるように配慮したのかも知れない。ちなみに竺法護は正法華経の本章々題を“往古品(おうこほん)”としていて、これはほぼ直訳になっている。

 

 とまれ、以上のことを念頭に置いて本章を読み進めてみたい。

 

 

                    *

 

 

 本章の物語は、法華経中の登場人物たちの生きた時代……体裁上は歴史上の釈迦の最晩年とされている……から、遥か遠い過去のことであるとされるのであるが、これを表現する修辞がなかなか面白いので、ちょっと詳細に見てみよう。

 

 比丘たちよ、たとえば、ある人が、この三千大千世界にあるあらゆる大地の要素を砕いて粉にしたとしよう。そこでかの人はその世界から一粒のごく微細な塵を手に取って、東方に向かって千の世界を通り過ぎ、そこにその一粒の微細な塵を置くとしよう。それから、かの人は、また、第二のごく微細な塵を手に取って、それよりさらに遠方の千の世界を通り過ぎて、第二のごく微細な塵を置くとしよう。このようにして、かの人は東方において粉とした大地の要素すべてを次々に置いていったとしよう。比丘たちよ、そなたたちはこれをどのように思うであろうか。それらもろもろの世界の終極や果てを計算によって量り知ることができるであろうか。

 

 後に、天台法華教学においては、このあまりに冗長な説明(の漢語訳)から主要な文字を拾って“三千塵点劫(さんぜんじんてんごう)”と呼び、この一語で以ってこの物語の舞台の時代まで遡る時間の長さを表すようになる。

 

 それはともかくとして、興味深く思うのは、彼等がこの「事実上の無限」を表現するのに際し、定義された手続きの繰り返し、すなわち、アルゴリズムとして表現した上で、計算によって量り知ることができるであろうか、すなわち、それがカウンタブルであるかどうか、という視点で考えていることである。これは、そのものズバリではないにせよ、ある意味において、現代的な数学における無限の定義に通じるものがあり、インドの長い数学の文化の豊かさに驚嘆させられるのである。

 

 もっとも、反知性主義的な法華経の書き手たちは、終始これを情緒的な表現の粉飾に用いるのみで、数学的に厳密な定義を与えることは遂になかったのではあるが。

 

 さて。

 

 本章冒頭に見える、この無限とも思える時間を遡った過去世において、大通智勝(だいつうちしょう)なる如来がいたのだ、と釈迦が語るところから物語は始まる。そこは好成(こうじょう)という名の世界で、劫の名前は大相(だいそう)であったらしい。章題に見える“過去世”とは、直接的にはこれを指している。

 

 以下、とにかく本章は冗長で無駄な粉飾が多いので、例によって例の如く拙抄訳で話を進めていきたいと思うが、十中劫を菩提樹の下で瞑想し続けた大通智勝は、三十三天の神々に百・千由旬の大獅子座を作ってもらい……意味は問わないように。多分、意味などないのだ……そこに坐して、ついに阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得た。これを祝いで満十中劫の間、大通智勝如来に天の花の雨が振り続けた。

 

 さて、大通智勝如来は、まだ太子であったとき、十六人の嫡子をもうけていた。その子らの長男は“智積(ちしゃく)”という名であった、と唐突に挿句されるが、特にそれ以上の説明はない。この智積という名は、第十一章後半において、出現間もない多宝如来に「とっとと帰りましょう」とトンデモない進言をする菩薩と共通しているが、おそらく何の関係もない。とまれ、十六人の王子と、母、乳母、祖父、百人の王と大臣たち、そして百千万億の生命あるものたちが、大通智勝如来に仏足頂礼(ぶっそくちょうらい)し、その周りを三回巡って合掌し、詩句で以って称賛し、法を説いてくれるよう請うた。

 

 ところで……何の脈絡もないのであるが、本当に本章は何の脈絡もないのである……大通智勝如来が阿耨多羅三藐三菩提を得たまさにそのとき、十方おのおのの方角における五百万億の世界は六種に振動し、大きな光明によって照らされた。同様に、東方のかの五百万億の世界にある梵天の宮殿ははなはだしくきらめき、輝き、照り映え、まばゆく、威光を放った。ちなみに梵天(ぼんてん)とは、古代インドにおいて信仰された、後にヒンドゥー教の主神の一柱となるブラフマーのことである。ここでは、現代日本の我々が考える神社の地祇程度に考えていればよかろう。とまれ、宮殿の輝きに梵天たちが色めき立つ。

 

 はなはだ稀有にして、未曾有のことである。友よ、これは、何の因、何の縁によるものであろうか。

 

 例によって例の如く、これはいったい何処の誰が見聞きして我々に伝えているものであろうか、と疑問に思う間もなく、当たり前のように梵天界を舞台にして物語は進行する。

 

 今日、だれかすぐれた天子が生まれでて、その天子にはこのような威徳があるので、それによってこのような未曾有のことが、今日見られるのであろうか。

 あるいは、人々の中の尊い王である仏陀が、今日、どこかの世界に出現されて、その瑞相として、今日、十方の世界が栄光によってこのように輝いているのであろうか。

 

 梵天たち……たくさんいるらしい……は、真偽を確かめるべく、天界の花を盛った器を須弥山の山の量ほども積み込んで西方へ向かい、ついに、百千万億の衆生に取り囲まれて、法を説くように請われている大通智勝如来を発見する。お、ちゃんと合流した。

 

 かくして、梵天たちもまた、百千万億の衆生とともに大通智勝如来に法を説くように請うのみならず、梵天の宮殿をご納受くださいと申し出る。五百万億の世界の彼方にある宮殿をもらって、いったいどうしろというのだ、という気がしないでもないが、梵天たちは私たちに慈しみを垂れたまいてご納受ください。もろもろの世間を知るお方よ、お望みのままにご利用くださいと言って引き下がらない。だから、何に使えと?

 

 ところで……本当に脈絡がない……今度は東南の方角の五百万億の世界にある梵天の宮殿においても同じことが起こる。つまり、宮殿が光輝き、梵天たちが「何の因?何の縁?」と色めき立ち、ついては花を満載して北西へ向かう。この下りは、前述のそれとほとんど同文の繰り返しになっている。花を撒き散らしながら大通智勝如来とそれを取り囲む一行に合流した彼等は、やはり梵天の宮殿をご受用してくださいと、迷惑な寄進を申し出る。

 

 ところで……まさか……今度は南方の方角の五百万億の世界にある梵天の宮殿においても……以下略。まったく同じ構造が繰り返される。どうもここに至って本章の書き手は、この調子で繰り返し続けると、いざ暗唱する段に大変なことになる、とようやく気づいたようだ。この三度目の繰り返しの次下は、以下引用の通り。

 

 まとめていえば、南西方においてもこのようであり、西方においても、西北方においても、北方においても、北東方においても、下方においてもこのようであった。

 

 ここに至って手抜きwww

 

 要するに十方に対してそうだ、と言いたいようであるが……あれ、上方が足りないぞ、と思いきや、次下には、

 

 そのとき、比丘たちよ、上方のかの五百千万億の世界にある梵天の宮殿は……

 

って、まだやるんかい!?

 

 察しの良い人はお気づきのことと思うが、この展開は、第十一章において釈迦が白毫ビームを十方に放つ際とまったく同じである。第十一章では、東方……がこのような演出においては順序第一位であるらしい……に対する白毫ビームの発射が詳細に描写された後、他九方向に対しても同様であった、と簡潔に記されるのであるが、どうもコレは、本章のこの繰り返される梵天の宮殿寄進の下りから得た負の教訓であったようだ。

 

 ここまでで、法華経全章中最長となる第七章の前半分を読んだことになる。あまりに記述が冗長で何を言っていたのかわかりにくい。一旦、箇条書きにまとめてみよう。

 

・遠い過去に、大通智勝という名の十六人の嫡子を持つ仏陀がいた。

 

・大通智勝如来が成道した際、十方世界の梵天の城が光輝いた。

 

・一切衆生と梵天が、大通智勝如来を取り囲んで法を説くことを請うた。

 

 粉飾をすべて取り去れば、実のところ言っていたことはこれだけ、になる。本章第一の謎は、なぜたったこれだけのことを言うのに、これほどの分量を費やさねばならなかったのか、という点になろうか。

 

 では、続きを読んでいこう。

 

 さて、ここに至って大通智勝如来が衆生と梵天の求めに応じ、法を説いた。余談になるが、法華経に限らず、仏典では仏陀が法を説くことを「法の輪を転じる」と表現する。漢語的に書けば“転法輪(てんぽうりん)”というのがそれに当たる。以下、大通智勝如来の初転法輪(しょてんぽうりん)……特に成道後最初の説法をこう呼ぶ……の内容について示されるのであるが、ここに書かれていることは、四諦、八正道、十二因縁法といった、いわゆる“小乗仏教”が伝える歴史上の釈迦が弟子たちに説いたとされること、のかなり乱暴な要約に過ぎない。とまれ、以って大通智勝如来を取り囲む一切衆生、梵天たちはたちまちに声聞の阿羅漢果(あらかんか)を得た、とされる。

 

 続いて、件の十六人の王子にたちに話が戻ってくる。彼等は既に百千万億の諸仏のもとで浄梵行を修行したものであったとされ、その彼等が、かの初転法輪に満足することなく、私たちをあわれみたまいて、阿耨多羅三藐三菩提について法をお説きくださいと請う。つまりこれは(法華経教団の書き手の立場からすれば)十六王子が大通智勝如来に対し「法華経を説いて欲しい」と請うた、ということになる。

 

 かくして、大通智勝如来は二万劫が過ぎ去ったのち……随分と気の長い話である……妙なる白蓮華と名づける法門であり、菩薩のための教えであって、一切諸仏が護念するところの大乗経を、彼ら四衆のすべてに説き示した。十六王子はたちまちにそれを完全に理解し、以って大通智勝如来は十六王子に対し授記を与えた。

 

 さて。

 

 ここまで本連載では敢えて無視してきたのであるが、法華経中において“法華経”、あるいは“妙なる白蓮華と名づける法門”、サンスクリット語で書けば“サッダルマ・プンダリーカ・スートラ”と自己言及される場合、ここには二つの意味合いがある。

 

 第一には、文字通り自分自身、すなわち、建前上は釈迦が晩年に霊鷲山(りょうじゅせん)から転じて虚空会(こうくうえ)で説き給い阿難(あなん)を介して伝えられ、実態としては法華経教団が三期に渡って創作増補した経典、としての法華経である。当然のことながらこの法華経は、法華経教団にとっての現在、建前を含めても釈迦が生きた時代までは存在しなかったことになる。

 

 対して、上に述べたところの、十六王子が大通智勝如来に説くことを請うた“妙なる白蓮華と名づける法門”は、第一の意味における法華経ではあり得ない。大通智勝如来は無限とも思える時間を遡った過去世の仏陀だからであり、釈迦が説いたにせよ法華経教団が創作したにせよ、その時点で第一の意味の法華経は存在しようはずがないからである。

 

 この第二の意味の“法華経”に言及される章を列挙すると、

 

・序章の文殊師利(もんじゅしり)法王子が語る日月灯明(にちがつとうみょう)仏の法華経

 

・第十九章の常不軽(じょうふょう)菩薩が聞いた法華経

 

・第二十二章における日月浄明徳(にちがつじょうみょうとく)如来の法華経

 

・第二十五章における雲雨音宿王華智(うんらいおんしゅくおうけち)如来が説いた法華経

 

 そして本章における大通智勝如来が説く法華経がある。第十一章後半には文殊師利法王子が竜宮で法華経を説いたとする下りがあるが、これはいささか不出来な加筆部として無視して良かろう。

 

 法華経第三期に帳尻合わせで増補されたと思われる序章を除けば、このいささか不条理な自己言及が初出するのが本章、ということになる。

 

 天台法華教学においては、この第二の意味の法華経、すなわち、過去仏が説いたのだと釈迦(序章のみ文殊菩薩)から語られる法華経の存在を以って、広義の法華経は、歴史上の釈迦が説いた(と天台法華教学が信じる)法華経のみではなく、三千大千世界とともに無始無終、本源的に備わる真理の法なのであり、それぞれの世界に機に応じて出現する仏陀が各々の世界において法華経を説くのだ、と観念するのであるが、この気宇壮大かつユニークな着想*1は、本章を含む上記の全章において、さらりとさも当然のように書き飛ばされるのみで、まったくその意味するところが説明されない、というのもこれまた摩訶不思議である。

 

 かろうじて、第二章にそれを匂わせる論述、すなわち、舎利弗よ、いつか、もろもろの如来はこのような妙法の教えを説くのであるの下りがあり、その紹介に際して、本連載においても古代インドの三千大千世界観を概説はした。が、これはあまりに抽象的な言及なのであって、これのみを見てもその含意するところは明白ではなく、本章における、具体的な過去仏から法華経が語られたとする論述に至って、はじめてその意味がおぼろげながら明らかになるのであるが、やはり、ここでボクが説明したような言説は、法華経の書き手自身からはなされないのである。

 

 とまれ、これについての考察は先送りして、ここでは先を読み進めることにする。

 

 かくして、十六王子の求めに応じて大通智勝如来は、それが実体として何であるかはともかく、法華経を説いた。ところが、千万億の多くの衆生たちは、かえって疑惑を生じたのだそうで、大通智勝如来はその後も八千劫に渡って法華経を講じたのであるが、ついには独居して沈思黙考するために精舎に入り、以降、八万四千劫の間そこで瞑想し続けた……って、コレ、説いたことを理解されなかったことに拗ねて引き篭もった、ということだろうか。いきなりの不安な船出である。

 

 しかして、かの十六王子たちが引き篭もった大通智勝如来に代わって法華経を、やはり八万四千劫に渡って説き続ける。結果、六十ずつのガンジス河の砂の数と同じくらいの百千万億の生命あるものたちが、同じく阿耨多羅三藐三菩提へと導かれた。

 

 言葉通りに素直に読むと、授記を得たとは言え、この時点での十六王子は成道はしておらず、言わば仮免状態で法華経を説いていた、ということになるのだが、それでいいのだろうか。後世の付加部分とは言え、第十一章後半において既に受記を得たはずの舎利弗が「未だかつて成仏した女人はいない」と断言して恥をかく下りを思えば、ここにも法華経の一貫性のなさを感じずにはいられないのであるが、それはさておき。

 

 ここで、仮免の嫡子に布教を丸投げしていた大通智勝如来が、改めて登場し十六王子を褒め称える。冷めた目で見ると親馬鹿の極限であるような気がしないでもないが、とにかく、ここで改めて授記の詳細が示され、十六王子それぞれに未来仏の名号が与えられるのであるが、雑多なのでその一つ一つを引くことは割愛するが、その最末尾、つまり十六番目の王子に対する授記に至って、ようやくオチがつく。すなわち、

 

 私こそは第十六番目の釈迦牟尼と名づける如来・応供・正等覚者であって、中央のこの娑婆世界において阿耨多羅三藐三菩提を会得したのである。

 

 余談ではあるが、この釈迦の十五人の兄たちの九番目が阿弥陀と名づける如来・応供・正等覚者とされていて、西方の世界においてのことであるらしいから、誰あろう西方極楽浄土の阿弥陀様、その人(仏?)ということになる。これまた、後世の日蓮一門がその名号を無心に唱える人々を目の敵にしたことを思うと、何とも皮肉な話ではあるのだが。

 

 とまれ、以上で本章表題に言う“過去世の因縁”の物語は終わり、以降は法華経にとってのリアルタイムとなる、霊鷲山における釈迦……ひつこく言うが、法華経教団を代弁するキャラクタである……の説法に話は戻る。ここで述べられることは、化城宝処の譬喩の前振り……というか、その譬喩で以って書き手が主張したいところ、そのもの……になっているので、やや詳細に追ってみたい。

 

 まず言われるのは、大通智勝如来の十六王子の末が今日の釈迦であるのと同様に、十六王子の法華経説法を聴聞したその人々のなかには、今日もなお声聞の地位にあるものがあり、それが釈迦の法華経説法を聴聞している比丘たちだ、との言明。加えて、方便の教えによって次第に阿耨多羅三藐三菩提の完成に成熟せしめられているのであり、これが、実に、彼らが阿耨多羅三藐三菩提を達成するための順序であるとされる。

 

 これは、法華経全篇を通じて言われるところの……たとえば連載冒頭に触れた第二期先頭、第十章の論述を想起せよ……法華経の一句一偈なりとも信受すればたちまちに阿耨多羅三藐三菩提を得るのだ、とする主張と、一見して矛盾しているように思える。あるいは、大通智勝如来の劫において法華経を説いた過去世の釈迦は、“仮免”であったがゆえにその効力に制約があったのであろうか。否、法華経それ自体に阿耨多羅三藐三菩提を得さしめる力があるのであって、それが誰によって説かれるかは問題ではない、とするのが法華経教団の信念であったはずである。

 

 いちおう、この矛盾に対する説明として、ここでは如来の智慧はこのように難信難解(なんしんなんげ)であるからと言われている。好意的に捉えれば、第十一章において示される六難九易(ろくなんくい)に通じていると言えなくもないが、これをどう解釈するかについても、一旦棚上げして先へ進むことにしよう。

 

 私が完全に入滅した未来世においても、声聞たちは存在するであろうが、彼らは菩薩の行を聞いても、「私たちは菩薩である」と悟らないであろう。

 

 ここで言う私が完全に入滅した未来世とは、書き手である法華経教団にとっての現在に他ならない。ということは、ここで言われる「私たちは菩薩である」と悟らない声聞とは、法華経教団と対立した声聞衆のことであることがわかる。釈迦は、彼らが苦から脱れ出るだけの小乗教の涅槃のみを追い求めつつ、私がそれぞれ異なった名前で他のもろもろの国土に住しているとき、彼らもそこに再び生まれて、如来の智慧をもとめるだろうと予告する。つまり、本章前半で述べられた過去世の因縁は、単に過去の出来事であるのみならず、これからも未来永劫繰り返されていくのだ、ということになろうか。そして、結論されるのは以下の引用の通りである。

 

 比丘たちよ、この世には第二の乗り物も第二の完全な涅槃もない。いわんや、第三のものについてはいうまでもない。ただ如来の乗り物によってのみ、如来の完全な涅槃が得られるのである。

 

 ここに至って、ようやく言わんとするところは、第二章以来繰り返し述べられてきた、一乗真実三乗方便に帰着することが明らかになる。いくら贔屓目に見ても、本章前半の過去世の因縁は、これを言うのに必要であったように思われないが、これも一旦は捨て置いて後に検討を加えたい。

 

 実に、比丘たちよ、衆生の性質が長くそこなわれ、劣ったものを喜び、愛欲の泥沼に沈んでいるのを知って、それゆえに、比丘たちよ、如来は、彼らが信じて受持することができるような苦を滅尽した涅槃を説くのである。これがもろもろの尊敬されるべき如来の巧みな方便なのである。

 

ここで言われる、彼らが信じて受持することができるような苦を滅尽した涅槃は前段で言う苦から脱れ出るだけの小乗教なのであり、これが如来の巧みな方便なのだ、とするのも、最早見飽きた感すらある法華経教団の信念に当たる。

 

 現代的な感覚で考えると、あるがままの姿で、ただ一句一偈なりとも信受すればたちまちに阿耨多羅三藐三菩提を得るのだ、と主張する法華経の方が、小難しい擬似哲学用語や俄かには従い難い戒律に縛られた小乗教よりも、むしろ信じて受持することができるように思わないでもないが、法華経教団主観においては、あくまでも自分たちの信念こそが難信難解の真理であり、対立声聞衆のそれは易信易解の劣ったものだ、と観念されていたようだ。これが事実としてそうであるのか、彼らが単に自分たちの信念の方がより高等なのだ、と信じたいがゆえに、後付けの理屈を弄んでいるのか、なまじ彼らの一仏乗の論理には的を射ているところがないでもないだけに、たちまちには判断し難い。

 

 

                    *

 

 

 かくして、ここから法華七喩の第四、化城宝処の譬喩が始まることになる。

 

 比丘たちよ、たとえばここに五百由旬もある険しい難所のある広野がひらけ、すこぶる悪路で、住む人もなく、畏怖すべきところがいたるところにあるとしよう。

 

 物語は上引用の書き出しで始まる。奇しくも第十一章に見える宝塔の高さと同じ……というか、法華経の書き手はこの“五百由旬”という長さに大層ご執心である……であるが、高さとしては馬鹿げたこの長さも、水平方向の距離としては、さほど無茶ではない。いわゆるシルクロードの陸路がそれくらい(約6,000Km)である。

 

 例によって冗長な記述が続くので抄訳でカッ飛ばしていこうと思うが、場面設定としては、この五百由旬の道のりを、その彼方にある珍宝のある所を目指して進む大衆がいて、その中に賢明で、知識があり、慎重で、聡明な、広野の悪路をよく知っている案内者がいて、彼はその大衆をして無事に広野を通り過ぎさせようと先導している、ということらしい。

 

 そのうち、大衆の中から疲れ果てて嫌気がさし、恐怖におののき、不安に駆られる人々が現れ、もとのところに引き返したい。この険しい難所の広野は、これより先もずっと遠くまで広がっているにちがいないのだからと言い始める。対して、巧みな方便を知っている案内人は、苦しみながらここまできたものたちが、あのような大きな宝のあるところに行かずに終わってしまうというようなことがあってはならないと考える。読者諸兄におかれては、この時点でそれぞれの登場人物が誰を表象しているか、概ね了解されたこと、と思う。

 

 さて、案内人はこの危機をどう乗り越えるのだろうか。

 

 案内者は人々を慈しみ、巧みな方便を用いることであろう。彼はその広野の中に、百由旬あるいはニ百由旬または三百由旬を過ぎたところに、神通力によって幻の城を化作し、それから人々にこのように言うとしよう。「あなたたちは恐れる必要はありません。引き返してはなりません。あれは大きな城です。あなたたちはあそこで休息を取りなさい。あなたたちが何かしたいことがあるなら、それらすべてをあの城の中でやりなさい。あそこで快い安穏を得て、ゆっくりとどまり、疲れを癒やしなさい。そして、さらに、目的を達成しようと願う人はまた、あの大きな宝のあるところに向かって出発したらよいでしょう。」

 

 もし、これが日本の昔話だったら、突如出現した大きな城は文字通り幻の城であり、一夜明けて一行は枯れ葉や沼の中で目を覚まし「さては、狐狸に化かされたか!」とオチがつくところであるが、さにあらず。これは、神通力によって化作されたものではあるが、本物の城であるらしい。かくして心が挫けかけた大衆は、しばし休息し英気を養う。

 

 さて、この後どうなるか。

 

 案内人は、彼らがすべて十分に休息がとれたのを見届けてから、神通力によって造られた城を消滅させ、消滅させてから、かの人々に、このように言うであろう。「あなたたち、皆さん、こちらへおいでなさい。かの大きな宝のあるところはもう間近なのです。この城はあなたがたを休息させるために、私が化作したものにすぎないのです」と。

 

 そんな魔法が使えるなら一気に宝処まで運んでやれよ!

 

と、畏れ多くも釈迦にツッコミたくなるが、この釈迦とて法華経教団が自説を代弁させているキャラクタに過ぎぬと思えば、何をか憚らん。ましてや、ここで化城宝処の譬喩は、呆れたことに終わってしまうのであるから、何をかいわんや。

 

 お気づきのこととは思うが、この譬喩における案内人は釈迦であり、大きな宝は一乗真実、神通力によって造られた城は三乗方便をそれぞれ表象している。さしずめ、五百由旬もある険しい難所のある広野は、第三章の言葉を借りれば三界火宅(さんがいかたく)といったところか。

 

 本人の説明するところを引けば、

 

 そのように、比丘たちよ、如来・応供・正等覚者もまた、非常に巧みな方便を用いて、衆生たちを休息させるために、途中に二つのかりそめの涅槃の場所を説いて示すのである。すなわち、声聞の場所と独覚の場所とである。そして、比丘たちよ、彼ら衆生がそこに安住するときには、そのとき、比丘たちよ、如来はまた、このように述べ説かれるのである。「実に、比丘たちよ、そなたたちは真の目的を達成したのでもなく、なすべきことを完遂したのでもない。しかし、比丘たちよ、そなたたちにとって、求める如来の智慧はここからほど近いのである。比丘たちよ、よく見るがよい。深く思量するがよい。そなたたちの涅槃はまさに真実の涅槃ではないのである。しかも、また、比丘たちよ、一仏乗をおいて三乗を説いたということは、これはもろもろの如来・応供・正等覚者の巧みな方便によるものなのである。

 

ということになる。言わんとするところは、わからないでもない。

 

 声聞や独覚が目指したところの涅槃、すなわち、学び尽くし考え尽くすことによってこの世の有象無象の苦しみをスルーすること、が、“巧妙な方便”に過ぎず、如来の知見ではないのだ、ということは、第二章、第三章を通じて言われるところの、狭くは法華経第一期、広くは法華経全篇に渡ってのセントラルドグマとなっていることは、繰り返し述べてきた。“化城”が合間のかりそめの休息所に過ぎず、真に辿り着くべき“宝処”は他にあるのだ、とするこの譬喩物語は、確かにそれに通じている。

 

 が、これはいささか剣呑な含意を含む譬喩でもある。

 

 第一に、これを言葉通りに受け取るとして、ここで言われる大衆の立場で考えるとき、案内人が「宝の処に着きましたよ」と言ったとして、その都度、大衆は「これは本物の宝処なのか、あるいは再びの化城なのか」と疑わねばならないのではないか。

 

 むしろ“化城宝処”と端的に言うとき、その意味は“宝処(に至るための)化城”ではなく、“化城(か)宝処(か?)”と解する方が素直であるような気がしないでもない。

 

 特に、本章に限った話ではないが、法華経全篇を通じて、結局のところここで言う“宝処”、全体を通じて言われる言葉を使えば“阿耨多羅三藐三菩提”が具体的にどのようなものであるのか、遂に説明されないまま、ただそれは素晴らしい、素晴らしい、ということだけが繰り返されるのであるから、余計にそうなのだ。

 

 第二に、こちらの方がより本質であるが、法華経教団の信念とする一乗真実が教育者∞であると考えるとき、そこには決して“宝処”に表象される究極的なゴールはないのであって、仏陀たるものは永遠に衆生を導き続けてこその仏陀ではないのか。化城宝処の譬喩は、法華経第一期に通底しているこの観点を見事に欠いており、むしろ、如来の智慧をかりそめの涅槃に矮小化している感すらある。

 

 あるいは、素晴らしい、素晴らしい、と繰り返されるばかりで具体的な説明を欠くがゆえに、“宝処”は永遠に辿りつくことが出来ない……ポジティブに言い改めれば、永遠に求め続けることの出来るゴールだ、ということだろうか。いや、これは善意に解釈し過ぎだろう。

 

 と言った具合に、ワケのわからない本章なのであるが、最もワケがわからないのは、化城宝処の譬喩が始まるまでに示された、大通智勝如来と十六王子の“過去世の因縁”が、まったく関係がない、という点であろう。強いていえば、梵天の化城城つながり、と言えなくもなかろうが、それが何だと言うのか。ただのダジャレではないか。あるいは、化城宝処の物語で用いられる化城は、大通智勝如来への寄進を通じて釈迦に相続された梵天の城だったのか。

 

 以下、本章は偈で以ってここまでの流れを再要約し、それで終わってしまう。

 

 とにかく昔からボクはこの法華経第七章“過去世の因縁”だけは、何が言いたいのかさっぱりわからない章である、と思ってきたのであるが、こうして法華経全章の3分の2を転読してきて、不意に気づくところがあったのであり、もちろんコレは浅学不才なボクの思いつきに過ぎないのではあるが、我ながらなかなか面白い仮説ではあると思うので、これを論じてみたいと思う。

 

 

                    *

 

 

 法華経第七章“過去世の因縁”の言わんとするところ……より正確を期すならば、なぜ本章はこんなワケのわからんことになってしまったか、について述べてみたい。前以って断っておくが、そんなに劇的なことを語ろうというワケではなく、聞いてしまえばミもフタもない話に思われるかも知れない。

 

 まず、なぜ本章がワケがわからないか、その本質を問うてみよう。実は、本章の記述自体がワケがわからないのではない。ここまで見てきたように、部々分々については、言葉通りに信じられるかどうかは別にして、さして特殊なことを言っているワケではない。本章の意図がわかり辛いのは、本章が第七章という中途半端な位置を占めているから、これに尽きる。特に読解に混乱をきたすのは、前章、続章がともに授記の章であり、本章が両者に挟まれているのが不可解なのである。

 

 ここで視線を転じて、授記の章の側から考えてみよう。第九章転読に際して私見を論じたように、法華経第一期中に見える授記の章は、概ね釈迦十大弟子の席次順に準じてはいるものの、その並びが不自然である。以ってボクは「書き手の意図としては、授記の論述は、当初は第六章までで必要十分だった」とする仮説を述べたのであるが、これは裏を返すと、第一期の法華経は第六章または本章で一旦終わっていた、ということである。

 

 結論から言うと、法華経第一期は第七章で一旦終わっていたのではないか、つまり、最初期に経典の体裁で完成した原法華経は、第二章から第七章で成っていたのではないか、という話になる。

 

 もちろん、これは考古学的裏付け……たとえば第七章までで終わっている写本の存在……などがあって言っているワケではないので、有り体に言えば妄想の類でしかないのであるが、このように仮定すると、本章のワケのわからなさが、解消こそしないものの幾分かは和らぐように思われるのだ。

 

 まず、本章々題であり論述の大半を占める“過去世の因縁”であるが、これを授記の章に挟まれた教説として見ると脈絡不明なのだが、本章が元来は第二〜六章の論述のクロージングとして書かれた、と考えるとその意図が見えてくる。つまり、第二〜六章に述べた一乗真実三乗方便の教説が、前世の釈迦の父君であった大通智勝如来、その成道の瞬間から始まった因縁によって今日、ここ霊鷲山で説かれているのである、とすることにより、全篇を聖化する、という意図である。

 

 これは、後に同様の意図、つまりこの法華経の説法を極限まで聖化すべく、異世界の宝塔、如来を招来せしめ、説法の舞台そのものすらを異次元空間へと引き上げる第十一章とまったく同じ思考様式によるものと考えることが出来る。いや、話は逆で、法華経第二期のキレっ切れの書き手は、第七章に元来託されていた意図を正しく理解した上で、本章に用いられた時間的垂直性に被ることを避けて、空間的水平性、すなわち東方宝浄世界の多宝如来を用いて、本章と同じことを第十一章でやったのだ。

 

 その傍証……と言えるかどうかは読者諸兄の判断にお任せするが……としては、これまたワケがわからなかった、クドクドと繰り返される梵天の宮殿のエピソードを挙げることが出来る。既に述べたように、この繰り返し構造は、冗長ではあるものの、第十一章における白毫から光を放って三千大千世界を照らす釈迦とまったく相似している。現代の我々の感性からは俄かには納得できないものの、おそらく法華経が創作された時分のインドにおいては「十方世界で同時に何かが起こる」という修辞が、最上級の真理性表明の演出として受容されていたのではないだろうか。

 

 本章に初出する「過去仏が説く妙なる白蓮華と名づける法門」の描写も、同様の意図を託されたものと読むことが出来る。光を放つ十方世界の梵天の城が、真理の空間的普遍性を表象しているように、過去世における仏陀の法華経転法輪は、真理の時間的・歴史的普遍性を表象しているのだ。そして、これが何を意味しているのか、書き手の言葉で敷衍されない理由は、つきつめればこの物語にはそれ=真理性の強調、以外に特に深い意味がなく、そもそも書き手自身がこれを言うことがどのようなことを含意し得るかについて、この時点では自覚がないから……とりあえず真理性の強調こそが重要であり、彼らがこの時点で本当に主張したいことは他にあったから……と考えられる。

 

 では、その「本当に主張したいこと」とは何か、と問えば、本章末尾に見える、過去世の因縁とは一見連続性がないように見える化城宝処の譬喩が、実のところソレなのである。同譬喩を本章の締め、と考えるからワケがわからないのであって、第二〜第六章全体の締め、と考えれば十二分に納得がいくではないか。この観点から以下に示す本章末句を読むと、不思議と腑に落ちる。

 

 もろもろの導師の教えはこのようなものである。人々を休息させるためにかりそめに涅槃を説き、十分に休息したことを知ってから、真実の涅槃を得させるために、すべてのものたちを一切知者の智に導き入れるのである。

 

 これも、法華経の中程の一節として読むと意味がボヤけるが、第二〜七章のみから成る法華経を想定すると、綺麗にここまでの法華経教団の主張を要約した章句になっていることがわかる。

 

 このこととも繋がってくるが、もう一つ傍証……同上、まぁ判断しろというのがそもそも無茶振りだわな……がある。化城宝処の譬喩は「一乗真実が教育者∞であると考えるとき、そこには決して“宝処”に表象される究極的なゴールはないのであって、仏陀たるものは永遠に衆生を導き続けてこその仏陀ではないのか」という点において、法華経全体の主張と不整合であることを指摘したが、これは不整合であって当然なのである。というのは、第七章で一旦終わる原法華経には「究極的なゴール」があったからだ。

 

 つまり、対立声聞衆に法華経教団の主張を認めさせることである。

 

 要するに、法華経教団第一期のイニシャル・メンバーには、法華経第二期が繰り返し言うところの「釈迦の滅後に法華経を布教し、一切衆生を救済せよ」という着想は、具体的な実践レベルにおいてはなかったのだ。事実「一句一偈なりとも信受するものは阿耨多羅三藐三菩提を得る」との言明は、第二〜第七章の法華経中からは見出だせない。これが言われだすのは、第二期の冒頭に配される第十章からである。

 

 といったことを踏まえて、いささか飛躍を含むとは思うが、本章を編み上げた時点、さらには以降、第二期増補が始まるまでの法華経教団に何が起こったのか、を素描してみたい。

 

 五千起去(ごせんききょ)の下りが示唆するように、一乗真実三乗方便・如我等無異(にょがとうむい)の信念を表明した法華経教団は、当初は正統派声聞衆から、批判以前に黙殺されていたと考えるのが妥当だろう。よって、彼らの当初の目的は、自説を声聞衆に認めさせること、に置かれていたはずである。これを目指して、第二〜五章の、譬喩による“説得”の試みが繰り返された。

 

 おそらくターニングポイントとなったのは、第三章に結果的に含まれることとなった舎利弗への授記であって、実はこれは本源的には後の法華経全体に影響を与える含意もまた含んでいたのだが、おそらくは「あの舎利弗が成仏を約束されていた」というインパクトが先行し、そのウケの良さを以って第六章が加えられることになったと考えられる。

 

 そして……これは本当にボクの思いつき以外の何物でもないのであるが……法華経教団自身にそのようなつもりがなかったにも関わらず、この授記の下りが、存外、彼らに施与してくれる在家衆にウケたのではないか、と思うのだ。これに気をよくした法華経教団は、本章を増補して原法華経を完成させる。そして、これが彼らが期待していたのとは別の、二つの結果を生むこととなる。

 

 第一には、在家衆がもっと多くの授記の話を聞きたがる、という現象である。これに対し、法華経教団はたちまちには反応しなかったはずである、第二の、反応せざるを得なくなる事態が起こるまでは。

 

 第二には、声聞衆が法華経教団に注目したことであり、その反応は「勝手に釈迦の前世譚(本章における大通智勝如来と十六王子の因縁)を創作した」ことに対する激怒だったのではないか、と思う。つまり、法華経教団が目指した声聞衆の説得は失敗するどころか、この試みが返って“対立声聞衆”を生み出したのだ。

 

 これを受けて、法華経教団は、第一の現象に反応することを余儀なくされる。第十ニ章に見えるように僧院から追い出された彼らは、今日の糧を得るために、在家に直接法を説くしかなくなったからだ。本来終章となるはずだった第七章に後続して、授記の章が二章続くのはこれが理由である。そして、しばしこの膠着状態が続いた後、対立声聞衆に対して一発大逆転を図るべく、大胆不敵なキレっ切れの書き手によって、法華経第二期の増補が開始されることになる。

 

 そういう意味で、一見意味不明な本章が、実は法華経教団を独立旗揚げへと誘う起爆剤に……本人たちの意図とは過分に異なりつつも……なったのではないか、というお話。以上を以って、法華経第七章“過去世の因縁”の転読(うたたよみ)を終える。

 

*1
 法華経成立を紀元1〜2世紀とすると、この着想の背景にギリシア哲学のイデア論があった可能性も考えられるが本稿ではそこまでは立ち入らない。

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