法華経転読   作:wash I/O

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第22話 選ばれし者……第十四章“菩薩の大地からの出現”

 本稿では法華経の各章を、敢えて章順を無視し、アットランダムに……いや、かなり恣意的な順ではあったのだが……読み進めてきた。が、今話からの3話は連続する三章を読み進めていこうと思う。対象は以下の通り。

 

 第十四章:菩薩の大地からの出現

 

 第十五章:如来の寿命の長さ

 

 第十六章:福徳の分別

 

 法華経第二期の書き手が、他期に比して筆力……元を糾せば口述と思われるので、本当はこの表現はおかしいのだが、捨て置く……に勝ること、また、かなり綿密な伏線を張っていることは、ここまで繰り返し述べてきた通りであるが、特に上記三章はそれが顕著な章となる。今話はその冒頭となる法華経第十四章“菩薩の大地からの出現”(妙法蓮華経従地涌出品(じゅうじゆじゅっほん)第十五)を読んでいく。

 

 章順から言えば、前章は第十三章“安楽な行”なのであるが、これはいささか毛色の異なる幕間劇となっていて、物語的には第十二章“よく耐え忍ぶ”(第4話)に後続している、と読んだ方がわかりやすい。すなわち、第十二章末にて、いわゆる“二十行の偈”で以って善男子らが「世尊よご安心あれ、我らが法華経を広めていきます」と誓いを立てた……実際には愚痴っているようにしか読めないのだが……まさに、その直後から、ということになる。

 

 ここにおいて、他の世界から来た菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)の中の八つのガンジス河の砂の数にも等しい菩薩摩訶薩たちが、そのとき、その集会の中から立ち上がった。

 

 本章は上引用の書き出しに始まる。彼らが、釈迦に対し礼拝した後に以下のように言う。他の世界から来たとあるので、この菩薩たちは第十一章(第10話)の白毫(びゃくごう)ビームの下りにおいて、多宝(たほう)如来の宝塔を開くべく三千大千世界から召喚された他世界の如来たちの共連れ、ということになるのだろうか。

 

 もし世尊が私たちにお許しくださいますならば、世尊よ、私たちもまた、如来がご入滅になられたのちに、この娑婆世界において、この法門を説き示し、護持し、読誦し、供養し、この法門のために精進に努めましょう。それゆえ世尊は、快く、私たちにもこの法門を広めることをお許しください。

 

 第十二章において、娑婆世界の面々が苦難の多い娑婆世界ではなく、他の国土においてではありますが、この経典を説き示すことに努め励みましょうと、勇敢なのか臆病なのかよくわからなくなることを口にしたことを思えば、娑婆世界の住人の一人として「いやぁ、他世界の菩薩さんたちに気を使わせて申し訳ない」と詫びの一言も伝えたいところである。

 

 いや、これはいわゆる「隣の芝は……」というヤツなのだろうか。

 

 冗談はさておき。法華経に描かれる釈迦……ここでは法華経第二期の書き手の傀儡である……は、しばしばこれまたよくわからないツンデレぶりを垣間見せるのであるが、ここに示されるそれは、その極みとも言うべきものである。

 

 やめよ、善男子たちよ。そなたたちにとってこのことをなす何の必要があろうか。

 

って、滅後の布教を望んだのはアンタだろ!とか思うのであるが、釈迦は周囲の戸惑いも無視して続ける。

 

 まさしく、今ここに、私のこの娑婆世界においては、六万のガンジス河の砂の数にも等しい菩薩たちがおり、一人一人の菩薩には全くこのように従者たちがいるのである。このような菩薩たちには、また、六万のガンジス河の砂の数にも等しい菩薩が従者として付き従っているのであって、実に、これらおのおのの菩薩にはこのような多くの従者がいるのである。これらのものたちが、私が入滅したのちの世、末代のときに、この法門を護持し、読誦し、説き広めるであろう。

 

 釈迦の言わんとするところは、滅後の布教に立候補した他世界の菩薩とは別に、それをおこなうべき菩薩たちが六万恒河沙いて、さらにその従者が六万恒河沙いるのだ、ということらしい。なら先にそいつらを呼んどけよ、という気がしないでもないが、とまれ、ここに至って遂に、ある意味において法華経の主人公とも言える“地涌(じゆ)の菩薩”が登場する。

 

 世尊がこの言葉を仰せられるや否や、そのとき、この娑婆世界のこの大地のいたるところが震え裂けた。そして、それらの裂け目の中から百千億那由他の多くの菩薩が出現してきた。身体が金色に輝いていて、偉大な人物のもつ三十二の相好をそなえていた。彼らはまさにこの娑婆世界の中にあって、この大地の下にある虚空界に安住していたのであるが、世尊のこのような音声を聞いて、大地の下より現われ来たったのである。

 

 六万恒河沙なのか百千億那由他なのかどっちなんだ?あるいは六万恒河沙×六万恒河沙=百千億那由他なのか……といった野暮なツッコミは置いておいて、ともかく、何だか中二心をくすぐる登場シーンである。本章までの法華経、どころか、ここに至るまでの仏典にまったくその存在について言及がないにもかかわらず、突如として大地の下にある虚空界に安住していたことにされてしまうご都合主義も含めて、ライトノベルのヒーローのようですらある。

 

 が、そのド派手な演出ゆえに返って妙に冷めてしまう現代の我々とは異なり、書いている本人は至って真剣である。その度合いは、次下から繰り返されるあまりにクドい修辞からも明らかである。

 

 それらの一人一人の菩薩は六万のガンジス河の砂の数にも等しい菩薩を従者として従え、群衆を伴い、大群衆を引き連れており、群衆の師である。このような菩薩摩訶薩であって、群衆を伴い、大群衆を引き連れ、群衆の師である六万のガンジス河の砂の数にも等しい百千億那由他の菩薩たちが、この娑婆世界の大地の裂け目から現われ出てきたのである。であるから、菩薩摩訶薩で五万のガンジス河の砂の数にも等しい菩薩を従者とするものについては言うに及ばない

(下線、強調は引用者による)

 

 以下、上引用下線部の五万とある箇所が、四万、三万……と繰り返され、一万で終わるかと思いきや、今度は一、四分の一、六分の一……と続いていく。母数=恒河沙が大きいので、分数を乗じてもその数は十分に大きいのである。これが呆れたことに百千万億分の一まで続く。それで終わりか、と思いきや、今度は恒河沙が外されて、

 

 菩薩摩訶薩で千の菩薩を従者とするものについては言うに及ばない。

 

……以下、五百、四百、三百、二百、百、五十、四十、三十、二十、十、五、四、三、ニ、一とこれが繰り返され、最後に、

 

 従者なく一人で静住しているものについては言うに及ばない。

 

とされて、ようやくこの列挙が終わる。既に読んでいる側としては、そもそもの論旨が何であったかわからなくなりつつあるが、言いたいことは、

 

 この娑婆世界の大地の裂け目から現われ出た菩薩摩訶薩たちは、その数も、計算することも、たとえることも、ごくわずかの数についても知ることができないのである。

 

ということであるらしい。「数えきれないほど現われ出ました」と一言で終わらさず、それを表現する言葉自体が、こちらは数えきれないことはないにせよ、何度繰り返されたか数えるのが面倒になるほど繰り返される、という執拗な修辞で以って為されているところに、書き手の本気度合いが伝わってくる。

 

 もっとも、妙法蓮華経の同じ部分を引くと、

 

 各將六萬恒河沙眷屬。況將五萬四萬三萬二萬一萬恒河沙等眷屬者。況復乃至一恒河沙半恒河沙四分之一。乃至千萬億那由他分之一。況復千萬億那由他眷屬。況復億萬眷屬。況復千萬百萬乃至一萬。況復一千一百乃至一十。況復將五四三二一弟子者。

 

と、存外あっさりしている。直訳調の正法華経(しょうほけきょう)ではもう少し長いので、これは鳩摩羅什(くまらじゅう)があまりに冗長なのを嫌って要約した結果なのだろう。どうも本章書き手の熱さは、竺法護(じくほうご)と中村師には伝わったが、羅什には伝わらなかったようだ。読者諸兄には伝わっただろうか。

 

 しかもさらに呆れたことに、地涌の菩薩の数の多さを示す修辞はこれで終わりではないのである。続いてかの菩薩たちは、中空に浮かぶ宝塔……ついつい忘れそうになるが、もちろん第十一章における出現以来、宙に浮かんだままなのである……に居並ぶ釈迦と多宝如来を礼拝すべく、頂礼したり、如来がたを右回りに繞ること幾百千回したり、合掌、賛嘆したりするのであるが、

 

 種々の菩薩の讃歌をもって賞賛している間に、満五十中劫が過ぎ去った。

 

とあって、要するに、全員が釈迦・多宝如来を礼拝するのにそれだけの長い時間がかかるほど、地涌の菩薩はたくさんいるのだ、と言いたいのだとは思うが、文字通り読むと、どう考えても釈迦在世から満五十中劫を経たとは思えない今この瞬間も、虚空会(こくうえ)ではその礼拝が続いている最中であることになってしまう。しかもこの間、釈迦も多宝如来もその他の面々も沈黙を続けていたとあり、これは黙然(もくねん)と言って、法華経においては無言の同意を示す所作なのだが、ビジュアルを想像するととてつもなくシュールな光景になる。

 

 流石に本章書き手も「これではマズい」と思ったのかどうかは知らないが、下引用のようなフォローが入っている。

 

 そのとき、世尊はこのような神力を現わされていた。大きな神力が現わし起こされたことによって、かの四衆たちはその五十中劫という長い時間が半日であるかのように感じた。

 

 まさかの神通力による“早送り”である。これもビジュアルを想像するとトンデモないのであるが、紀元1〜2世紀を生き当然のことながらスマートフォンも映画も見たことのない法華経教団が、こういう演出を思いついて弄んだことには驚くほかない。とまれ、この下りを見ても、法華経の文が、紙面上で推敲を重ねた上で公表されたものではなく、口述によって述べ伝えられた後は、おいそれとは校閲されなかったものであることを知ることができよう。

 

 突如登場した地涌の菩薩なのであるが、ここに四人の上首(じょうしゅ)、すなわちリーダー的な存在がいたのだ、ということが言われる。

 

 (一)“勝妙の行”と名づける菩薩摩訶菩と、(ニ)“無辺の行”と名づける菩薩摩訶菩と、(三)“清浄の行”と名づける菩薩摩訶菩と、(四)“安住の行”と名づける菩薩摩訶菩である。

 

 中村師訳は上引用のようになっているが、これがそれぞれ妙法蓮華経でいうところの、

 

 一名上行(じょうぎょう)。二名無辺行(むへんぎょう)。三名浄行(じょうぎょう)。四名安立行(あんりゅうぎょう)

 

 すなわち、上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩に対応する。うち、上行菩薩は後に第二十章において滅後の布教の付嘱(ふぞく)を受ける菩薩であり、後の世にかの日蓮がその化身であると見做されるようになったことも、既に述べた通りだ。

 

 これまた繰り返し述べてきたことではあるが、後の世の解釈はともかく、本章の書き手の意識としては、如来がご入滅になられたのち、すなわち、法華経教団にとっての現在において法華経の布教を釈迦から付嘱されるべきは彼ら自身をおいて他にないのであり、地涌の菩薩というのは直接的には彼ら自身を表象したものと考えるのが妥当だと思う。つまり、先に見た地涌の菩薩のド派手な登場シーン、そしてその威儀を称えるクドいまでの繰り返しは、彼ら自身の布教活動を正当化するとともに、極限まで聖別すべく創作されたものである。

 

 とすると、ここに示される四人の上首の存在も、何らかの現実を反映したものと考えるべきだ。もちろんこれは傍証を欠くので断定はできないが、おそらく法華経教団第二期の人々は、四人のリーダー的存在……あるいは、互いに主導権を牽制し合う四つのグループかも知れないが……を戴く合議制でもって組織の運営をおこなっていたのだろう。やや飛躍する想像ではあるが、対して第十章から第十二章まで釈迦の相方を努める一方、第二十一〜ニ章でダーラニーと教団への貢献の重要性を権威付ける薬王(やくおう)菩薩はおそらくは第一期の教団創設メンバーであり、地涌の菩薩の出現は法華経教団内の世代交代をも表象していた可能性がある。

 

 とまれ、半日を費やして……いや、五十中劫だったっけ……登場した地涌の菩薩を代表して、彼ら四菩薩が釈迦に挨拶することろから読み始めてみよう。

 

 世尊は、もろもろの憂いや悩みもなく、お体はお健やかに、安楽にお過ごしでしょうか。世尊よ、衆生たちは気質よく、教化しやすく、ご指導をよく守り、清浄に導きやすく、世尊のみ心を患わすようなことはないでしょうか。

 

 西欧のマナーハウスでフリル付のワンピースを身に纏い、膝折礼(カーテシー)を執って挨拶する淑女、を思い浮かべるのはボクだけだろうか。登場がド派手だっただけに、開口一番の台詞があまりに牧歌的で、そのあまりのギャップに眩暈すら覚える。

 

 しかも、続けてまったく同じことが偈で示される。つまり、彼ら(彼女ら?)もまた詠うのだ。以降、本章はここまでの劇的な叙述とは対照的に、散文で示される台詞に同内容の偈が交わるミュージカル調で進んでいく。いい加減慣れてきたつもりではいたが、このインド映画ノリは註釈者としては疲れる。天台大師も日蓮もよく投げなかったものだ、と変なところで感心したりもするのであるが、思えば、これがあるお陰でどこに書き手自身の力点があるか一目でわかる、という利点もあるのだ。いや、それを勘案しても疲れるのだが。

 

 閑話休題。

 

 滅後の布教を託されるべくド派手に登場しておいて、開口一番気の抜けた挨拶を放つ地涌の菩薩に対し、釈迦は「貴様ら、弛んどるぞ!!」と喝でも入れるのか、と思いきや、存外釈迦の答礼もまた牧歌的だったりする。

 

 善男子らよ、そのとおりである。まことにそのとおりである。私は安楽に過ごしており、憂いや悩みがなく、身体も健やかである。

 

 何なんだ、この人たちは。いやいや、おそらくこれは当時のインド人の中でも、教養十全な人であれば取ったであろう態度を反映したもの、と見るべきなのだろう。むしろ、同時代の日本人がかろうじて稲作を始めたばかりで、大部分の人々が日々獣を狩る暮らしをしていたことを思えば、その洗練された文化に驚くべきなのかも知れない。

 

 さて、これに続く釈迦の言明は注目しておく必要があろう。

 

 また、私のこれらの(1)衆生たちは気質よく、教化しやすく、指導をよく守り、清浄に導きやすく、清浄にされているとき、私を倦み疲れさせるようなことはない。それはなぜかというと、善男子らよ、私のこれらの(2)衆生たちは、もろもろの過去の正等覚者のもとですでに修習したものたちなのである。善男子たちよ、彼らは私の身体を見、私の所説を聞くだけで、私を深く信じて了解し、仏陀の智慧に向かって精進し、通達するからである。しかし、(3)声聞の道と独覚の道にいそしみ帰伏したものたちは除く。しかし、私は今、(4)彼らにさえも、実に仏智に向かわせ、最高の真実の義を聞かせるであろう。

(付番、下線は引用者による)

 

 のほほんと牧歌的に進むのかと思いきや、唐突にコレだから本当に法華経は油断ならないのである。

 

 さて、まず下線部(1)は、地涌の菩薩の挨拶の後半部を裏返したものだ、と言ってしまえばそれまでなのだが、物語的に本章の前段となる第十二章において、薬王菩薩、大楽説(だいぎょうせつ)菩薩と配下二万の菩薩衆が、衆生たちは信義を守らず、善根が少なく、高慢の心が強く、名利を貪り、不善の行ないを積み重ね、教化することむずかしく、教えを信受することがなく、強い信仰心もないと愚痴をこぼしたのと対照的な内容になっている。

 

 これは決して矛盾しているワケではない。釈迦の言明が(設定上は)彼が生きた時代の衆生についてのものであるのに対し、薬王菩薩たちのそれは釈迦が死んだ後の……つまり、法華経教団にとっての現在の衆生のことを言っているからだ。これを下線部(2)と合わせ読むと、天台法華教学の言う正像末の歴史観になる。つまり、釈迦の在世には過去世で十分な修習を積んだ人々が教化の対象だったのに対し、天台法華教学にとっての現在、すなわち像法・末法の時代にあっては、そうではない人々が布教の対象となるため、薬王菩薩たちが愚痴ったような認識に至る、というようにつながる。

 

 が、どうにもこの解釈は、天台法華教学の色眼鏡で以ってこの一節を読んでしまっているような気もするのである。と言うのも、続く下線部(3)は第二章冒頭で言われた二乗不作仏、すなわち声聞と独覚は如来の知見を俄かに信じ理解することが出来ない、とする見解につながるものであり、次下下線部(4)は、第二章後半から第九章まで、譬喩と授記で以って二乗を一乗へ導いたことを言っているように見えるのであるが、その授記が不用意にも過去世からの修習に言及してしまっていることと、いささか不整合である。

 

 つまり、下線部(2)が下線部(1)の要因であるならば、同じく過去世からの修習があったとされる声聞、独覚とて同じではないか。実際、法華経の主張するところでは下線部(4)は成し遂げられたのではなかったか……というのが、ボクがこの一節を天台法華教学の解釈で素直に読めない理由である。

 

 ここで、思い切って踏み込んだ解釈をしてみたいと思うのであるが、上に述べた天台法華教学的な読み方は、本章の書き手が、登場人物主観における時制を徹底して使いこなしていたことを前提としている。つまり、文中の釈迦その他が自身の現在として述べることは正しく釈迦在世に仮託された事柄であり、滅後のこととして述べることは正しく法華経教団にとっての現在を反映している、ということであるが、この複雑怪奇な修辞が、大元は口述されたと思われる法華経の創作時点において、果たして常に正確に使い分けられていたか、と問えば、これはいささか怪しいと考えるのが自然ではないだろうか。

 

 言わんとすることはこういうことだ。下線部(1)は、実は釈迦在世のことではなく、法華経教団の現在のことを言っているのではないか、という見方である。もちろん、これは第十二章における薬王菩薩たちの認識と衝突するのであるが、本稿冒頭にも述べたように、上行以下四菩薩の登場は、法華経教団内の指導層の世代交代を反映している可能性が高い。つまり、下線部(1)は、第十二章に示された教団第一期指導層の一般庶民に対する見方を打ち消すべく、釈迦を騙って述べられた見解ではないか、という読み方である。

 

 そもそも、第七章転読(うたたよみ)(前話)末にて論じたように、法華経教団第一期の指導層が究極的に目指したところは、一般庶民に対して自分たちの信念を広めることではなく、自身の出自でありおそらくは追放された出家者集団を論破し、そこへ復帰することであった、とボクは見ている。これは、後世に殉教の予言として読まれた第十二章の二十行の偈にもその痕跡が認められた。

 

 対して、法華経教団第二期の指導者……つまり地涌の四菩薩たちは、出自教団と完全に決別し、一般庶民を取り込むことを教団の新たな目標に定めたのではないか、と思うのである。地涌の菩薩が登場するに際し、群衆を伴い、大群衆を引き連れており、群衆の師であるであるとか、ガンジス河の砂の数にも等しい菩薩を従者とするとクドいまでに繰り返されるのは、このことを表現しているのではないか。少なくとも、第九章までの法華経からは、こういったニュアンスはまったく読み取ることは出来ない。

 

 つまり、第十二章がやたらと愚痴っぽく見えるのは、実際にまだこの時点で残存していたであろう第一期指導層が出自教団への執着を愚痴っていたのであり、本章は、それを真正面から否定はしないものの、結果的にそこから次のステージへ飛翔する意図を込めて創作されたのではないか、というのが、かなり穿った解釈であると自身思いつつも、さりとて、妄想に過ぎないと切り捨てるには惜しく感じるボクの読みである。

 

 この話題については、連続する第十六章までを読み終えた後に、今一度立ち返って考察を加えてみたい。

 

 

                    *

 

 

 そのときに、弥勒(みろく)菩薩摩訶薩と他の八つのガンジス河の沙の数にも等しい百千万億那由他の菩薩たちは、このように思念した。

 

 法華経成立に先行して受記を得、五十六億七千万年後の世界に仏陀として君臨することを約束されつつ、法華経においては法華経教団の主張を聖別する狂言回しとしての役割を押し付けられている阿逸多(あいった)くん、こと弥勒菩薩。満を持して遂に登場。

 

 と言うワケで、以降第十七章まで彼が釈迦の相方を務めることになる。そういう意味では、第十四章から第十七章までがひと続きの物語なのではないか、と言えばそうかも知れないのだが、ボクの見るところ、第十七章は、おそらくは第十六章までの出来栄えに気分を良くした書き手が勢いで付け加えたもののように見えるので、敢えてこういう切り方をしている。これについても、第十六章まで読み終えた後に、改めて考察を加えることとしたい。

 

 とまれ、ここでは本文に戻り、冒頭引用の弥勒菩薩たちが何を思念したのかに耳を傾けてみよう。

 

 私たちはこのような菩薩の大衆、菩薩の集団が大地の裂け目から出現して、世尊の前に進み出て、世尊を称賛し、崇拝し、尊敬し、供養し、世尊に丁重にご挨拶申し上げているのを、いまだかつて見たこともなければ、いまだかつて聞いたこともない。ところで、これらの菩薩摩訶薩たちはどこから訪れ来たのであろうか。

 

 この一節を見れば、ここでの弥勒菩薩の役回りが序章のそれとまったく同じであることがおわかりいただけると思う。もちろん、本章が序章を真似て書かれたのではない。序章の方が本章から第十七章までの弥勒菩薩の使い方を真似た上で、トンデモないオチまで加えたのである。これ一つのみとっても、法華経は読み物として二千年前に創作されたとは俄かに信じ難い大傑作である、とボクなどは思うのであるが、それはさておき。

 

 以下、弥勒菩薩が、例によって偈で以って……もちろん彼も詠うのである……自身の疑念を表明するのであるが、これがまた千両なのである。

 

 これらの人々は皆、正念を得、智慧の明瞭な偉大な賢者であり、見る目にうるわしい姿をしております。これらの人々はどこから来られたのでしょうか。

 

 上引用はその偈の中でも特に際立った一節を抜いたものだ。以下、偈は本章冒頭に見た六万、五万……と続くあの大仰な修辞までご丁寧に繰り返すのであるが、それはともかくとして、法華経教団と同時代のインドの仏教徒であれば知らぬ人はいなかったであろう弥勒菩薩に、上引用を言わせるのであるから本章の書き手は本当にキレッ切れである。

 

 なにせ、ここでいうこれらの人々は、他ならぬ書き手本人たちのことなのである。

 

 私たちは、まさしく十方の世界をしばしば遍歴遊行しましたが、私たちはこれらの菩薩たちをかつて見たことがありませんでした……(中略)……牟尼尊よ、願わくは彼らの来歴をお説きください。

 

 今日的な目線でこの修辞を見るとき、まず思い浮かぶのは病的なまでのナルシズムであるように思うのだが、一方で、これから見ていく第十五章までの一連の流れは、一部不徹底があるものの、法華経全篇を通して最も考え尽くされた伏線になっていて、弥勒菩薩のこの問いが既にそのリードになっているのであり、これを単にナルシズムだけで創作できるか、と問えば、これまた疑問なのである。たしかに、本章の書き手はかなりヤバい人であったように思うが、ともかく彼が、これから語られる内容について深い確信を抱いていたことは間違いない、とは言えるだろう。

 

 もちろん、確信の深さと言明の正しさの間には何の関係もないのであるが。

 

 さて、ついつい忘れそうになるが、今この瞬間も、件の宝塔は中空にあり、その周囲を、多宝如来の尊顔を拝す条件を満たすべく三千大千世界から参集した如来とその従者が取り囲んでいるのであるが、彼らの中からも同様の疑念が持ち上がる。従者たちは、それぞれの如来に「どこから来たのでしょうか?」と口々に尋ねる。対するそれぞれの如来の返答は以下の通り。

 

 善男子たちよ、そなたたちは暫く待ちなさい。あの弥勒という菩薩摩訶薩は、釈迦牟尼世尊に次いでのちに無上の正等覚を得るであろうと予言されている。彼が世尊の釈迦牟尼如来・応供・正等覚者にその意義をお尋ねしている。かの世尊の釈迦牟尼如来・応供・正等覚者がお答えくださるにちがいない。それゆえ、そなたたちはお聞きするがよい。

 

 これまた、弥勒菩薩が他の聴衆を代表してより高位の権威に対し問いを立てる物語構造が、序章のそれとまったく同じである。同時に、序章のみならず、本章の書き手もまた、“弥勒菩薩”というキャラクタがどのような意味合いを持つか、法華経の聞き手・読み手にとってどれほどの権威となるかについて自覚的であったことも読み取ることが出来よう。

 

 果たして釈迦が口を開く。

 

 素晴らしいことです。まことに素晴らしいことです。阿逸多よ。そなたが私に問い尋ねたことは、阿逸多よ、きわめて大事なことである。

 

 そりゃそうでしょうよ。と嫌味の一つもこぼしたくなるが、とまれ、ここでも弥勒菩薩は釈迦……彼もまた歴史上の釈迦ではなく、本章書き手の主張を代弁する傀儡である……に阿逸多と呼ばれていることがわかる。この演出を最初に考えた人は、本当に頭が切れる。いい方にか悪い方にかはともかくとして、ではあるが。

 

 とまれ、釈迦は弥勒菩薩の問いに対して……と言うか、要するにこれは法華経教団が本章で主張したいこと、そのものなのであるが……淡々と語り出す。この部分はもったいぶりがヒドく冗長なので要約しつつ進めたいと思うが、まず言われるのは、如来は虚妄のない言葉を説くのだ、ということであり、そなたたちはすべて、決して疑念をいだいてはならないと念が押される。思うにこれは、第十一章の六難九易の下りにも見えた、法華経教団の書き手が、読み手・聞き手にとって俄かに信じ難いことを主張する際の常套手段である。

 

 弥勒菩薩の問いに対する直接の回答は下引用の通りとなる。

 

 阿逸多よ、これらすべての菩薩摩訶薩たちは、私がこの娑婆世界において無上なる正等覚を悟ってからのちに、私が教化し、励まし、喜ばせ、無上なる正等覚を得ることに発願させたものたちなのである。

 

 続けて、偈で以って同趣旨の主張が繰り返される。特に下に引く一節は次章となる第十五章“如来の寿命の長さ”への前振りも兼ねているので、注目しておきたい。

 

 私は伽耶城(がやじょう)のほど遠からぬ所にあるかの樹の根元で、この最勝の覚りを得たのち、無上の法の輪を転じて、すべてのものをこの最高の覚りに教化したのである。

 

 伽耶城というのは、出家以前に王子であった釈迦が住んでいたとされる城であり、遠からぬ所にあるかの樹は、釈迦がその下で悟りを開いたとされる“菩提樹(ぼだいじゅ)”のことを言っている。つまり、ここにおける釈迦の言明は「オマエたちが知らないだけで、地涌の菩薩は『ワシが育てた』」と言っていることになる。

 

 もちろん、本章の書き手自身がこの主張に無理があることは承知していて、その無理さ加減が弥勒菩薩によって代弁される。

 

 世尊よ、そのときから今日まで四十余年が経過したにすぎません。世尊よ、このようなわずかな時間に、如来はどのようにして、この量り知れない如来の所作をなされ、如来は如来の威力と、如来の勇猛心をお示しになられたのですか。世尊よ、このようなわずかな時間に、この菩薩の大衆と菩薩の集団を阿耨多羅三藐三菩提に勧め導かれ、教化されたのでしょうか。

 

 書き手の確信犯的なミスリードに丸め込まれそうになるのであるが、敢えてここで立ち止まって頭を冷やしてみよう。

 

 第一に、地涌の菩薩を「ワシが育てた」とする釈迦の主張が無理に思われるのは、その人数が六万恒河沙などという誇張した数字で語られるからである。そもそも、法華経が書かれた時点においては……否、21世紀の今日においても、インドの人口はたかだか13億人なのであり、六万恒河沙には遠く及ばない。これが誇張であるならば、四十余年が経過する間に、釈迦が別系統の人材育成をやっていたと主張した……まぁ、作り話なのだが……からと言って、さして驚く話ではないだろう。

 

 第二に、仮に地涌の菩薩が本当に六万恒河沙いるとして、つい今しがた釈迦は、本来なら五十中劫を要する彼らの挨拶を半日に早回しするという神通力を現じたばかりではなかったか。半日で六万恒河沙の地涌の菩薩の拝礼に応じれるのであれば、四十余年の間に彼ら全員を教化育成したとしても、やはり驚くような話ではないのではないか。

 

 ところが、続けて弥勒菩薩は以下のような譬喩でもって大袈裟に驚いて見せるのである。

 

 たとえば、ある若者がおり、若々しい青年で、髪は黒く、すぐれて健康に恵まれ、年齢は二十五歳であったとしましょう。彼は百歳になる老人をたちを指差して、「善男子らよ、これらのものは私の息子たちです」と、このように言い、また、かの百歳の人たちも、「この人は私たちの父であり、生みの親です」と言うとしましょう。しかし、その人の語る言葉は、世間には信じられず、信じがたいにちがいありません。

 

 それを言ったら、本章冒頭から述べられているすべてが信じがたいのであるが、それはともかくとして、もちろん本章の書き手は、それらすべてを百も承知の上で、計算づくでこれをやっているのが痺れるのである、憧れるのである。

 

 以下、ここまでの弥勒菩薩の問いが偈で以って再要約されて本章は終わる。その結句は次のとおり。

 

 このことについて疑いをいだき悪道に陥ることがないように、世尊よ、どのようにして、これらの地涌の菩薩たちを教化せられたのか、このことを適切に解説してください。

 

 ここから、以上本章で語られた与太話が、すべて次章“如来の寿命の長さ”の前振りであったことがわかる。しかも、上引用は、それを示すと同時に、これから述べられることに対し疑いをいだくことは、すなわち悪道に陥る因となるのだとほのめかした上で、読み手・聞き手にとって比類ない権威を有する弥勒菩薩の口から、衆生が悪道に陥ることがないようにとの、慈悲の配慮で以って釈迦に問うた、ように演出しているのだ。

 

 誤解のないように補足しておく。ボクはこれを以って、本章の書き手が確信犯の詐欺師である、と非難しているワケでは決してない。法華経に見られるこの弥勒菩薩の権威の用法は、今日的に言えば、ある小説家が自身の思想を歴史小説として作品化するに際し、想定読者に歴史上の偉人として受け入れられている人物……たとえば織田信長にしようか……に自身の思想を仮託して語らせるのと、原理的には同じことなのである。

 

 織田信長は確かに歴史上の偉人であり、弥勒菩薩は仏教が創作した架空のキャラクタなのだから、同列に語るのはおかしい、と憤慨する人もおられるかも知れないが、そういう人には敢えて問おう。では、あなたは織田信長が確かに戦国時代に存在し、今あなたが認識するような織田信長であったことを、自らの手で検証したことがあるのか、検証しようと考えたことがあるのか、と。念のために言っておくが、織田信長について書かれた本を何冊読んでも、ここでいう検証をおこなったことには決してならない。

 

 無論、ボクはこれを以って誰かを責めているのではないのだ。このような思考様式、すなわち、自身が何らかの主張を他者に対しておこなうに際し、想定される聴衆の中で既に通用している権威を利用するという手法は、二千年前から今日に至るまで普遍的なものなのだ、ということを自覚して欲しい、ただ、それだけである。自覚しておけば、不用意に騙されることもないし、自分自身がその手法を利用することもできようから。

 

 閑話休題。これらの修辞を総合して、ボクは本章を含む法華経第二期の書き手はキレッ切れである、と評するのであるが、そんな彼にも、もちろん限界はある。

 

 地涌の菩薩は、釈迦に対して滅後の布教を誓うべく登場したはずなのだが、弥勒菩薩が登場して次章への前振りに注力した結果、途中からその存在が忘れられているのだ。次話以降を見ればわかるが、しばらく地涌の菩薩は登場どころか言及すらされない。法華経教団がこのことを思い出して、地涌の菩薩に対していわゆる付嘱がなされるのは、かなり下った第二十章“如来の神通変化”に至ってのことになる。途中、どっこいしょや雨ニモマケズ等の、完全に内容が独立した章が立てられていることが、これが意図的な演出ではなく、本当に失念していたのだ、ということを示している。

 

 まぁ、それを差し引いても、ボクのこの書き手に対する評価は変わらないのではあるが。もちろん、だからと言って彼の主張を鵜呑みにし、信仰の対象と出来るかというのは、まったく別の話なのであって、少なくともボクにはその気はない。が、面白いし、大好きである。グレッグ・イーガンくらいには。

 

 以上を以って、法華経第十四章“菩薩の大地からの出現”の転読(うたたよみ)を終わる。次回はいよいよ本丸中の本丸に突撃だ。

 

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