法華経転読   作:wash I/O

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第25話 求められる献身……第二十二章“薬王菩薩の過去の修行”

 前話において、自ら創作した久遠実成の教説に感極まった法華経第二期の書き手が、支持者たちに対し「塔など作らんでいい、医薬品も日用品も要らん、諸君の信仰さえあれば」と、宗教で食っている人間とも思えぬ暴言(?)を放つのをみた。これが第十六章の話となる。

 

 今話で読んでいく法華経第二十二章“薬王菩薩の過去の修行”(妙法蓮華経薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)第二十三)を見ると、上記の放言が法華経第二期のキレッ切れの書き手の一時の気の迷いに過ぎず、第三期の書き手たちには継承されなかったことがよくわかる。むしろ、本章の書き手は、背景にどのような事情があったのかは知る由もないが、聞き手・読み手に対し、香と油の提供を求めているようにも読める。

 

 先に結論を言っておくと、少なくともボクの感性においては、本章は法華経中最も胸クソ悪い章になっている。その胸クソ悪い章が、法華経教団の創設メンバーを表象していると思しき薬王菩薩の因縁を通して語られる点が本章の見所、と言えるかも知れない。

 

 

                    *

 

 

 世尊よ、何ゆえに薬王菩薩摩訶薩は、この娑婆世界において遍歴遊行するのでしょうか。世尊よ、彼には百千億那由他の多くの難行があるのです。

 

 本章は、上引用に示した宿王華(しゅくおうけ)菩薩からの釈迦に対する問いかけから始まる。この宿王華菩薩は序章の出席簿にもその名が見えず、法華経全篇を通じて本章にのみ登場するキャラクタとなっている。意図するところは定かでないが、ボクの推理では、本章と序章の創作は同時期であった可能性が高く、それぞれに異なる人が当たっていたとすれば、これはある種の引き継ぎミスであったのかも知れない。

 

 出だしの問いからも想像されるように、本章は第二十四章“あまねく導き入れる門戸”(第2話)と同様、理想化された菩薩の振る舞いを通して、法華経教団が配下の比丘衆や支持者・信者に対し、あるべき姿を示す意図で以って書かれたものと考えられる。なお、観音経とは異なり本章には薬王菩薩本人は登場せず……観音様のアレを登場と見做すのであれば、の話だが……その過去世の因縁が釈迦から語られる体裁を採る。思うに、本章が書かれた時点で、法華経教団の創設メンバーであったと思われる薬王菩薩のモデルとなった人は、既に故人であったのだろう。

 

 では、釈迦を騙って語られるところの、薬王菩薩の過去世の因縁に耳を傾けてみよう。

 

 例によってそれは遠い昔、恒河沙にも等しい劫の過去世のことであるとされるが、そこに日月浄明徳(にちがつじょうみょうとく)如来なる仏陀がいた。この仏陀と、第十五章で論じられた久遠の仏陀の関係について、本章は何も語っていない。と言うか、本章に限らず法華経第三期の書き手はこの気宇壮大な観念にまったく触れておらず、先輩の遺した大言壮語を持て余していたようにも見える。

 

 さて、日月浄明徳如来には八十億の菩薩摩訶薩の大衆がおり、七十二恒河沙の声聞たちの衆が従っているとされる一方、その教えには女人がおらず、地獄、畜生、餓鬼、阿修羅の衆もいなかったなどと、第八章につづき全女性を敵に回す物言いがなされているのはご愛嬌か。これは本章の書き手が、四人の地涌の菩薩の上首に表象された教団内派閥の中でも、比較的保守的なグループに属していることを反映している可能性もあろう。

 

 この菩薩衆の筆頭として、一切衆生喜見(いっさいしゅじょうきけん)菩薩の名が挙げられる。彼が事実上の本章の主人公となる。そして、この一切衆生喜見菩薩を含むすべての大衆を前に、日月浄明徳如来はこの“妙なる教えの白蓮華の法門”を詳細に説かれたとサラリと書かれている。これまた例によって例の如く、過去仏の説いた法華経、というものになる。

 

 後世の天台法華経学が考えたように、久遠実成が真に法華経教団にとって最重要の教説であるならば、この時点で過去仏の説く法華経と久遠の仏陀の関係に何らかの言及がなされてもよさそうなものであるが、そういったものはまったくない。理由は明白で、本章書き手の関心がそういった抽象的な概念に対してではなく、追々わかってくるが、支持者から何を引き出すことが出来るかという具体的な物品に向かっているからだ。

 

 とまれ、一切衆生喜見菩薩は日月浄明徳如来の下で一万二千年に渡って修行を重ね、あらゆる身体を自由に現わす深い瞑想の境地に至ったのだそうだ。これに我を忘れ、喜悦し、快楽を生じた一切衆生喜見菩薩は、その瞑想を彼に与えた日月浄明徳如来と法華経に供養すべく、一計を案じる。

 

 神通力の变化を示し現わすことによって世尊を供養申し上げるとしても、このわが身を捨てて供養する功徳には遠く及ばないであろう。

 

 なんだか不穏な独白であるが、さにあらん。その日から十二年間、一切衆生喜見菩薩は沈香(じんこう)乳香(にゅうこう)薫陸(くんろく)の液を服し、瞻蔔(せんふく)の油を飲み続けたのだそうな。いずれも高価な香の名である。

 

 その十二年の歳月が過ぎ去ったのにち、、自らの身体に天衣を纏い、香油を注いで覚悟をした。自ら覚悟してから、如来を供養するために、“妙なる教えの白蓮華の法門”を供養するために、自らの身体を燈明として燃やした。

 

 阿呆か、と。

 

 いや、失敬。念のために補足しておくと、この「我が身を以って供養する」という類話は法華経に限らぬ仏典に散見される。有名なところでは、大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)施身聞偈(せしんもんげ)に説かれる雪山童子(せっせんどうじ)の物語がそれだ。法隆寺の玉虫厨子(たまむしずし)の図案に採用されていることからご存知の方もおいでかとは思うが、これは、釈迦がその前世においてヒマラヤ山中で修行していた際、山中で出会った羅刹(らせつ)がつぶやいた偈に感銘を受け、残り半分を聞き出すために我が身を捧げる話である。偈を聞き出した雪山童子は、これを後世に遺すために岩に刻んだ後、約束通り我が身を喰らえ、と、羅刹の口の中へ飛び込むが、その瞬間、羅刹が帝釈天(たいしゃくてん)に姿を転じ、童子の求法の志を試みるために羅刹を演じたのだと詫びて帰依を誓ったことになっている。

 

 この施身聞偈に代表される物語は、概ね共通して「法を得るために命を懸ける」という構造が見られ、現代的な感性からは少なからぬ違和感を覚えるものの、言わんとするところは理解できるものである。対して、本章の一切衆生喜見菩薩の逸話は、まったく何の役にも立っていない捨身の物語だ。一切衆生喜見菩薩摩訶薩の身体の燈明による光と炎は、八十恒河沙にも等しいもろもろの世界をあまねく照らしたとあるが、照明したいのであれば香油を飲まずに灯せばよかったのである。灯す芯がなかったのなら、こよりでも撚れば済む話ではないか。

 

 しかして、本章の釈迦はこの愚行を褒め称える。厳密には、過去世における八十恒河沙にも等しいすべての仏陀・世尊が賞賛した、と説く。

 

 素晴らしいことである、まことに素晴らしいことである。善男子よ、実にそなたは有徳のものである。善男子よ、これこそが菩薩摩訶薩たちの真実の精進の発露である。これが如来に対する真実の供養であり、法に対する供養である。

 

 要するにこれは、法華経教団が無分別な献身を支持者・信者に求めているに他ならないのであって、これをボクは「胸クソ悪い」と評するのであるが、本章の書き手がこのような妄言を吐くのは好き勝手にしてもらえばよいし、いちいち真に受ける必要もまったくないのであるが、今日においてもしばしば“捨身供養(しゃしんくよう)”などと称して灯油を被って焼身自殺する仏教者が少なからず存在することを思えば、笑ってばかりもいられない。間違いなく、本章のこの物語は、そうした愚行の源流の一つとなるものだからである。

 

 視線を本章の続きへ戻そう。

 

 千二百年間燃え続けた一切衆生喜見菩薩はついに消滅し、転生して浄徳王の家に生まれる。ここで言われる浄徳王と、同じく薬王菩薩の前世譚が説かれる第二十五章(第14話)の浄徳王妃の関係は不明だが、生まれてすぐに彼が出家を宣言する下りは、浄蔵・浄眼の物語との共通性を感じさせる。

 

 それはともかく、転生した彼は日月浄明徳如来に再会……かの如来は四万二千劫ほど寿命があったそうな……し、今度は如来の入滅に立ち会うことになる。日月浄明徳如来は入滅に先立ち、何を思ってか、

 

 そなた自ら私の舎利を広く供養すべきであり、また、それらの舎利を流布すべきである。幾千もの多くの仏塔を建立すべきである。

 

と、第十章、第十六章における仏舎利信仰、塔建立の否定とは明らかに矛盾することを言い遺す。これを受けて一切衆生喜見菩薩は八万四千の塔を建立、その高さは梵天の世界に達したとされるのであるが、同菩薩はそれでは飽きたらず、

 

 私はかの世尊の日月浄明徳如来の舎利を供養した。しかし私はこれよりさらに最上のすぐれた如来の舎利に対する供養を行おう。

 

と宣言、何をするのかと思いきや、八万四千の塔の前に座して自らの臂を燃やす。

 

 はぁ?

 

 彼の臂は七万二千年に渡って燃え続け、ついに失われる。このとき、彼に導かれた大衆たちが嘆き悲しむ。

 

 この一切衆生喜見菩薩摩訶薩は、私たちの師であり、指導者である。彼の身体は今やことごとくそなわっておらず、臂を失ってしまわれた。

 

 思うにこの発言は、徳を備えた仏菩薩は全き健常な肉体を備えているべきである、とする観念が前提されているようである。考え方によっては暗黙のうちに不具者差別が含意されてしまっているのだが、書き手にはその自覚がないようだ。

 

 対して、一切衆生喜見菩薩は嘆き悲しむ大衆を戒め、

 

 誠心誠意をもって、誓言をもって、私自らの臂を如来にを供養するために喜捨するならば、私の身体は金色となるであろう。そのように、誠実によって、誓言によって、私のこの臂がもとのようになりますように。そして、この大地も六種に振動し、空中におられる天使たちも、大きな花の雨を降らせてもらいたい。

 

と述べる。果たせるかな、三千大千世界は六種に振動し、上空から大きな花の雨が降りそそぎ一切衆生喜見菩薩の臂が元通りになった。本章の釈迦はこれを、

 

 かの菩薩摩訶薩が智慧の力を得ていること、福徳の力をそなえていたことによるのである。

 

と断言するのであるが、どう考えてもこれは、今日の欲深い自称宗教者が「神仏に捧げた以上のものが戻ってくるのだから何も惜しむことはない」と寄進を煽るのと、本質的には同じであるように思われる。ここでもまた我々は、こうしたメソッドが二千年も前から存在することに驚かされるのである。

 

 ここに至って、釈迦はこの物語の真意……まぁ、もう予測可能かとは思うが……を明かす。すなわち、かの一切衆生喜見菩薩は、薬王菩薩の前世の姿なのである、と。毎度のことながら、宿王華菩薩が問うたところの、何ゆえに薬王菩薩摩訶薩は、この娑婆世界において遍歴遊行するのでしょうかに対する答えになっていないようにも思うのではあるが、そもそも本章の書き手の関心はそこにはないのだろう。

 

 法華経第二十二章“薬王菩薩の過去の修行”の後半部は、その章題に反して薬王菩薩とは最早関係のない論述で占められている。もっとも、薬王菩薩が法華経第一期の創設メンバーを表象している、と考える本連載の読みに沿って考えれば、これとて決して不自然なことではない。

 

 ここから本章の釈迦……クドいが言う、法華経教団を代弁する傀儡である……は、延々と自画自賛を続けることになる。すなわち、様々な譬喩を用いて、法華経があらゆる経典のなかでも第一である、との言明を繰り返す。以下にザッとピックアップしてみよう。

 

(1) 泉、川、湖のなかで大海が第一であるように

 

(2) すべての山の中で須弥山が第一であるように

 

(3) あらゆる星座の中で月が第一であるように

 

(4) 日の光があらゆる暗闇を除くように

 

(5) 王の中で転輪聖王が第一であるように

 

(6) 三十三天の中で帝釈天が神々の主であるように

 

(7) 梵天の中で大梵天王が父であるように

 

(8) 独覚が無智の者や凡夫たちを卓越しているように

 

(9) 菩薩が声聞や独覚たちの中で第一とされるように

 

(10) 如来がすべての声聞・独覚・菩薩に対して仏法の王であるように

 

 余談になるが、後に天台法華教学において“十種の称揚”と呼ばれることになる上記のうち、(5)は妙法蓮華経のみにあって原典写本、他漢訳には対応部分がなく、後続する“十二の利益”から重用したものらしい。ちなみに転輪聖王(てんりんじょうおう)とは、古代インドにおける観念上の皇帝である。我が国では、各地域の実質支配者を実在の人間である天皇の権威が裏付けるシステムが近代まで続いたが、かの国では、その権威が転輪聖王と呼ばれる架空の存在に求められた。

 

 とまれ、以上の称揚は、書き手の自ら依って立つところ=法華経への思い入れの強さこそ伝えているものの、法華経が諸経に対して第一である、とする命題を何ら立証しているものではない。

 

 続けて、前述した十二の利益が語られるのであるが、法華経とは何であるかについて、以下の十二の喩えで以って示される。

 

(a) 渇き苦しむ人にとっての清涼な池

 

(b) 寒さにふるえる人にとっての温暖

 

(c) 裸のものにとっての衣服

 

(d) 商人にとっての商主

 

(e) 子どもにとっての母親

 

(f) 渡航するものにとっての船

 

(g) 病人にとっての医師

 

(h) 闇の中にいる人にとっての灯火

 

(i) 富を求める人にとっての宝

 

(j) 小国王にとっての転輪聖王

 

(k) 河川にとっての海

 

(l) あらゆる暗黒を除く炬火

 

 (1)〜(10)と(a)〜(l)には互いに意味内容が重複するものも含まれるので、鳩摩羅什(くまらじゅう)がわざわざ(j)から(5)を創作した理由は不明なのであるが、私見では、第二章の十如是がそうであったように、分析哲学的な視点を好んだ羅什が十種(本来は九種)の称揚の中に「権威の源泉」を意味する章句がないことを嫌って、最小限の改変で以って補うことを狙ったものではないか、と推察する。

 

 次下の部分は、今話冒頭に「油の提供を求めているようにも読める」と書いた典拠になる部分だ。少し長くなるが引いてみたい。

 

 宿王華よ、この法華経を聞き、書写する人、人をして書写せしめる人、宿王華よ、それらの人々の功徳の集積は、仏陀の智慧をもってしてもその果てに達することができないほどである。この法門を受持し、あるいは読誦し、あるいは教説し、あるいは聴受し、あるいは書写し、あるいは経典としたりして、恭敬し、尊敬し、敬い仕え、供養して、花、香、薫香(くんこう)華鬘(けまん)塗香(ずこう)抹香(まっこう)、衣服、傘、旗、幟、勝利の旗などによって、あるいは音楽、衣服、合掌することによって、あるいは蘇油(そゆ)の燈火、香油の燈火、瞻蔔油の燈火、須曼那(すまなす)油の燈火、波羅羅(はらら)油の燈火、那婆摩利(なばまり)油の燈火、あるいは多くの種類の供養によって恭敬し、尊崇し、敬い仕え、供養する善男子・善女人は、量り知れないほど功徳の集積を増進させるであろう。

 

 語り出しこそ、法華経全篇に見える「一句一偈なりとも」の信仰の勧めに共通するが、語っているうちに語り手が支持者から提供を欲しているものが、ポロポロと出て来てしまったような印象を受ける。特に末尾において六種もの具体的な油の名が挙げられるのは、何らかの事情で法華経教団がまさに本章が創作されたその時点に、これらの香と油を必要としていたからではないか、と考えざるを得ない。

 

 また、これも繰り返し連載を通じて述べていることではあるが、上引用に見える人をして書写せしめる人との表現は、法華経教団第三期を襲ったとみられる信仰の形骸化、すなわち、自身は信仰活動に積極的ではないが、何らかの投資をおこなうことでその功徳にだけは与りたいと願う人々の出現を匂わせるものとなっている。

 

 以下本章は、本章自体を読んだり語ったりすることにいろいろ功徳があるのだ、ということを繰り返して終わってしまうのであるが、要するにこれは、法華経教団からの「寄付のお願い」を口伝えで広めてくれ、と言っているに等しい。そのような実態に一度気づいてしまえば、

 

 善男子よ、そなたは怨敵の魔や賊を降伏させ、生死の戦いを克服し、怨敵の茨の棘を除いたのである。

 

などという下りが、いかにも虚しく響く。相当部分を妙法蓮華経から引けば諸余怨敵(しょよおんてき)皆悉摧滅(かいしつさいめつ)となって、その勇ましい字句から、古くは呪術的調伏に際して読誦されたり、現代では法華系新宗教において組織員を鼓舞する際に好んで引かれるものであるが、そういう使い方をする人は自分で法華経を読んだことがない、と苦言を呈さざるを得ない。

 

 そしてここに、本章でもっともよく知られた以下の章句も含まれる。まずは妙法蓮華経から引いてみよう。

 

 我滅度後(がめつどご)後五百歳中(ごごひゃくさいちゅう)広宣流布(こうせんるふ)於閻浮提無(おえんぶだい)令断絶(れいだんぜつ)

 

 中村師訳では以下の通り。

 

 のちの時代、のちの五百年に持続する中において、この閻浮提に流布し、決して絶えることがないように、

 

 天台法華教学では、法華経こそが末法のために説かれた仏陀の教えである、ということを主張する際にこの一節を引くことが多い。末法の世の一切衆生すべてに法華経を広めきることを“広宣流布”という。なるほど、ここだけを切り取って読めば、天台法華教学の主張するところはごもっともかも知れない。

 

 が、本章を通して読んできた我々としては、この一節をそのような意味に読むのはためらわれる。法華経教団が仮想した釈迦はそう言ったかも知れないが、それを言わせた彼らの真意が天台法華教学のいうそれであるとは思えない。法華経教団がのちの五百年に持続することを望んだのは、法華経それ自体ではなく、法華経教団に対する寄進である、と考えた方が素直であろう。

 

 隣接する第二十一章や、やはり有力支持者に阿って書かれたとみられる第二十五章を合わせて鑑みるに、第十五章に結実した法華経教団第二期の熱さは思いの外急速に冷め、第三期の書き手たちが組織運営の維持に汲々としていたことが読み取れるのである。

 

 以上を以って、法華経第二十二章“薬王菩薩の過去の修行”の転読(うたたよみ)を終える。

 

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