結局全二十七章をやりきってしまった。誰も褒めてはくれないと思うので、自分で自分を褒めたい。善々哉々、まことにもってそなたは真に数寄者である。
冗談はさておき。
まぁ、それを言ったら本稿が全部冗談みたいなモンだが。
法華経第二十七章“教法を委託する”(妙法蓮華経
そのときに、
いきなり凄い書き出しで本章は始まる。本章が法華経のどこに収まるにせよ、地涌の菩薩とその眷属のせいでここで言うかのすべての菩薩たちの総数、すなわち釈迦が上引用が示す行為をおこなうために用意しなければならなかった右手の数がいかほどか、まさに思議不可能なのであるが、それにしてはその数が無数と控え目にサラッと流されているのが、そこはかとなく面白い。得意の百千万億那由他はどうした?的な。
「
二度も、三度も、世尊はすべての菩薩の大衆を右手をもって握り、このように仰せられた。
あ、出てきたわ百千万億那由他www
それはともかくとして、本連載も最終話に至ったのでそろそろ究極の問いについて真面目に……まぁ、ボクが何書いても真面目には見えないだろうけども……考えねばならないだろう。
つまり、この釈迦……クドいが法華経教団の代弁キャラクタである……がそなたたちの手に託し、付託し、委ね、委託するとありがたくも仰せの無上の正しい覚りとは、結局のところ何やねん?問題である。
結論から言うとわからん。
手前味噌ながら、こうして私釈を加えながら、かつ、敢えて章順ではなく
この状況を説明する最もシンプルな解釈は「そもそもそんなものはない」であろう。平田篤胤が『
敢えて私見を加えるならば、そもそも法華経の文面に篤胤の言う丸薬、つまり、それを服せば病も悩みもみな消えて何もかも思うがままハッピー、な特別な何かが潜んでいるに違いない、という前提がそもそも間違っている。というか、力説するまでもない当たり前のことであるが、法華経に限らず、そんな書物は存在しない。
法華経は、二千年前のインドに生きたボクが“法華経教団”と仮称する人々が、何やかやと試行錯誤し、自信過剰になり、雲散霧消していった経緯の記録であり、それ以上でもそれ以下でもない。雲散霧消を別にすれば、聖書だってクルアーンだってそうである。むしろ、聖書やクルアーンと比較した場合、法華経は必ずしもそのテキストを奉じる人間の集団を常に持ち続けたワケではないのに、都度、後世の人間に再発見されて現代に至るという点で奇書の類であると言えるかも知れない。いや、私見ではここにこそ法華経の特徴がある。
以下、好き勝手な妄言を書くが話半分に読んで欲しい。
拙稿でしばしば触れるところの、伝教大師最澄や日蓮がことごとく弟子の育成に失敗しているという事実を、ボクはずっと彼らの個性に起因する問題だ、と思っていたのであるが、こうして改めて法華経を徹底的に読んでみて、その理由がわかった気がしている。これは、そもそもの法華経教団の法華経創作の目的と密接につながっている。
つまりこういうことだ。つきつめれば、法華経教団は、対立した出家者集団に対し「自分たちの方が絶対に正しいのだ」と主張する根拠が欲しくて法華経を創作したのであり、それがすべてなのであって、結果的に含意してしまった必ずしも互いに整合していないがしかしながら魅惑的な思想の断片たち……篤胤の言う能書キは、言わばオマケなのである。
そして、であるがゆえに法華経は、しばしば良かれ悪かれ「私は正しい、絶対に正しい者でありたい」という指向性を抱えた人間の思考にシンクロする。智顗や最澄や日蓮がまさにこれである。そして、シンクロした人にとてつもない使命感を植え付けて、これまた良かれ悪かれ尋常でないエネルギーを引き出しその人間に特殊な聖性を与えるのであるが、ここに集まってくる人は、その人の聖性に惹かれて集まってくるので、彼らとはちょっと別の種類の人間なのである。そして、智顗や最澄や日蓮が自分の下へ集まって来た人たちに「私が法華経から読み取った熱さをおまえも継承しろ」と迫ったところで、これはそもそも無茶振りなのである。振られた側は、彼らが体現した熱さをありがたがっているのであって、自分もそうなりたいとは必ずしも願っていないのだから。
これは言い換えれば、そもそもの「教育者∞であれかし」と祈り願った法華経教団の出発点、さらにはそれを絶対反論不可能の聖性のベールで包まんと目論んだ久遠実成が、そもそも無茶振りだった、ということである。より正確を期すならば、これらは、ある素質を有した特殊な個人にのみ適合するスーパーチャージャーだった、ということになろうか。
とすれば、驚くべきことではあるが、法華経を“千中無一”と喝破した法然は、それが「千のうち一人もないが、万のうちならいるかも」という意味であるならば、正しかったのだ。
もちろん、だからといって念仏唱えたら救われるとも思えんが。
冗談はさておき、法華経第三期の章が信仰の形骸化と手を変え品を変え悪戦苦闘しているのも同じ理由からなのであって……というか、こっちが原型で、後世に同じことが繰り返されている、と言うべきなのだが……ゆえに、法華経第三期にダーラニーのような密教化傾向が見出だせることと、現代日蓮宗穏健派が鬼子母神だの稲荷だのの総合デパートになっていることもまた、時空を越えて再現した予定調和なのである。逆に、日蓮宗過激派筋がそれぞれ異同がありつつも、総じては次世代の指導者を輩出できずに先細っていくのも、これまた法華経に見事にシンクロした結果なのだ。
逆に、日蓮筋に限定して言えば、もし彼が彼ら自身でこの問題を超克できたとしたら、それは最早、法華経ではないのである。
ところで。
冒頭に引いた釈迦の台詞を文字通り読むならば、無上の正しい覚りをそなたたちの手に託し、付託し、委ね、委託するとまで言っているのであるから、任されたからにはどーしようとこちらの好き勝手なのである。この一文を遺した法華経教団を、ボクは評価したい。もしここに「一句一偈たりとも過たずに語り継げ」とでも書かれた日には、法華信仰にハマッた人には出口がなくなる。
繰り返すが、これは法華経に限った話ではなく、あらゆる宗教テキストに普遍的に通用する話であるとは思うが、個々を論証するのは手に余るので、とりあえず法華経についてだけ断言しておきたい。
法華経は未完成である。完成するかしないかは、自身を法華経の行者として自ら背負い込んだ人次第である。そして、その人が完成させた真・法華経はその人だけの法華経であり、他の人に適用可能である保証はまったくない。
篤胤の言葉を借りれば「自分用の丸薬を作るヒントは様々に含意されている。我が身を以って試すならばそれが得られるだろう。が、それが他人にも効くなどとは夢々思うなかれ」と言ったところだろうか。これは奇しくも……というか必然的に……如来寿量品の偈に見える一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山と等価な言明である。
強いていえば、これがボクが見出した“正しい無上の覚り”ということになる。もちろん、コレはボクだけの法華経であって、読者諸兄に適用可能である保証はまったくない。
*
再び釈迦……クドいが……もういいや……は付嘱の言を繰り返す。発言回数は先に引いたものを含めて二回だが、二回目のそれは内部で同じ内容を二度繰り返しているので、第二章にみた
善男子たちよ、そなたたちも私に従って学ぶがよい。貪り惜しまないものとなって、この如来の知見と大いなる巧みな方便を信受するために集まってきた善男子や善女人たちに、この法門を聴受させるべきである。不信の人々は、この以前に説かれた法によって教え導くべきである。
貪り惜しまないものというのは、直接的には法華経教団の主観から、対立声聞衆が非出家者に対して自身の悟りを出し惜しみしているように見えることへの批判かと思われるが、法華経第三期の信仰の形骸化・怠惰化を自己批判したもの、と読むのも可能だろう。
不信の人々は、この以前に説かれた法によって教え導くべきというのは、中村師訳は訳者の日蓮宗僧侶としての立場からの訳であるように思う。いわゆる天台法華教学が“
師は正直なので、訳註にこの部分の記述が写本間で一致していないことをちゃんと示してくださっている。ボクの直感では、書き手の意図したところは、信受するものに対してであれ不信のもの対してであれ法華経を説き示せ、の意であるように思う。
この釈迦の言を受けて、かの菩薩摩訶薩たち……これが地涌の菩薩なのか、同座したすべての菩薩なのかは文面からは判然としない……が誓いを述べる。
世尊よ、私たちは、如来が仰せられたとおりに実行いたしましょう。そして、私たちは、すべてのもろもろの如来の教えを実践し、成就いたしましょう。世尊は、どうか憂慮されることなく、安穏にお過ごしくださいませ。
菩薩たちは上引用のように誓いを立てる。これも釈迦の付嘱同様に文面上は二回だが、地の文に二度も三度もと補足されるので、三唱の形式に倣っていることがわかる。
それはともかくとして、ここまで述べたように結局のところ法華経を全篇通して読んでも、如来が仰せられたとおりに実行いたしましょうというのが、具体的に何を実行すればよいのかについては、よくわからない。ボク自身の解釈は先に述べた通りであるが、これはあくまでもボクの信仰心であって、本章の書き手がどう考えていたか、とは別問題である。
これまた直感的には、彼ら自身は特に何も考えていなかったのではないか、というのが真相のように思わないでもない。法華経第三期においては、具体的な信仰者の実践という意味においては明確なビジョンを示すことが出来ず、第二十一章や第二十六章に見える妥協案を示したり、第二十二章や第二十四章のように無分別な組織への献身を求めたり、と、一貫したポリシーが感じられないからである。
穿った見方をすれば、これは後世に対する丸投げと言ってもよく、これがボクが先に示したような総論を以って本連載を締めくくる直接の理由であるが、その観点からすれば、天台大師も日蓮も、法華経教団の全体的な主張との整合性はともかくとして、法華経が期待した通りの仕事をした、とは言えるのかも知れない。
以下、第十一章にて召喚されたところの多宝如来 in 高さ五百由旬の宝塔や、それを開くためだけに三千大千世界から参集させられた如来たちが、互いに安穏にお過ごしくださいと牧歌的な言葉を交わしつつそれぞれの仏国土へ帰国した、とされる。これは言い換えれば、この時点で
古来、妙法蓮華経における本章の位置に基づき、法華経は“
厳密に言えば、妙法蓮華経で本章の前に配される如来神力品第二十一は地涌の菩薩を名指ししての付嘱の章であり、本章の付嘱との対比で天台法華教学においてはそれぞれ別付嘱、総付嘱と区別されるのであるが、この解釈に影響がないとは言えない。
が、そもそも、ボクの読むところによれば、後世の信仰者が「私には/あの人には法華経が付嘱されている/されていない」と論じることは「私は正しい、絶対に正しい者でありたい」問題の発露に他ならないのであって、この問い自体がナンセンスである。
法華経の行者とは誰か、なんて問うのは馬鹿げている。なりたい奴が勝手になればいいのであって、また、勝手になったからにはそれを経典であるとか、誰か権威者に保証して欲しいなどと考えるのは自家撞着というものだ。そういう意味において、本連載冒頭に示した八幡賜衣伝説を創作した最澄の弟子は法華経がわかっていないし、日蓮を上行菩薩の再誕だ、いや末法の御本仏だ、などと議論した連中も法華経がわかっていない。
つまり、日蓮が『諫暁八幡抄』において「オレが八幡だ」と言い切ったのは正しいのである、少なくとも彼にとっては。
そして、それを真に受けるのであれば「日蓮が八幡だ」と信じるのではなく「オレも八幡だ」と続くのが正しい信仰というものである。そういう意味で『雨ニモマケズ』に我流曼荼羅を書いた宮沢賢治は正しい、いや、彼は別の意味でちょっと変だが。
ま、当の日蓮は「いや、オレが八幡だ」と返すだろうけど、んなこた知ったことか。
以上を以って、法華経第二十七章“教法を委託する”の
本日はオマケとして付録と結が続きます。