付録 法華経、2つのあらすじ
ここまで法華経全二十七章を、興味関心の赴くままに
天台法華教学からみた妙法蓮華経二十八品
まず示すのは、天台法華教学が信受するところの妙法蓮華経二十八品のあらすじ。 厳密には、宗派によって細部に異同があるが、ここでは概ね受け入れられているであろう概要的なそれを示すに留める。
天台法華教学においては、法華経前半十四品を迹門と呼ぶ。迹とは「仮」の意であり、この時点においては
以下のことを釈迦の弟子、
釈迦は
開口一番釈迦は、
知恵第一の
舎利弗は即座に釈迦の真意を理解し、以って釈迦より受記を得る。
重ねて舎利弗は釈迦に、自分以外の人々の理解のために教えを請う。これに応じて釈迦は
釈迦は四大弟子が示した長者窮子の譬えを賞賛する。さらに、一乗真実三乗方便を敷衍すべく
須菩提、大迦旃延、大迦葉、大目犍連が受記を得る。
阿難と釈迦の子である
釈迦は薬王菩薩たちに、法華経の一句一偈なりとも受持するものは受記を得ると宣言する。さらに、釈迦の滅後に法華経を受持することが容易でないことが示唆され、
大宝塔が突如出現し、中から釈迦の法華経説法を賛嘆する声が聞こえる。釈迦は白毫相を示して三千大千世界の諸仏を呼び寄せ、以って宝塔から
釈迦は聴衆に、釈迦の滅後に法華経を説くものは誰かと問い、
釈迦が前世において、提婆達多との因縁により成仏の因を得たことが示される。これを以って提婆達多に授記が与えられ、悪人であっても法華経によって成仏できることが明かされる。
続いて文殊師利法王子菩薩が龍宮より
薬王菩薩たちが釈迦の滅後に他世界において法華経を広めることを誓う。この誓いを聞いた善男子たちは、法華経を受持するものには様々な苦難が待ち受けているけれども、それに耐え忍んで布教していくことを宣言する。
文殊師利法王子菩薩が滅後の法華経受持が困難であることを釈迦に訴える。対して釈迦は、四安楽行を示して布教を勧める。加えて、
後半十四品は本門と呼ばれ、仮の教えである迹門に対して、釈迦の法華経における真意を説いたものとされる。
釈迦は滅後の布教の許可を求める菩薩たちを退け、大地の裂け目から
釈迦は
さらに
如来の寿命の永遠なることを明かすこの法華経を聞くことの功徳もまた無量であることが明かされる。
如来の寿命の永遠なることを明かすこの法華経を聞く喜びを、五十人を経て伝え聞いても無量の功徳があることが明かされる。
法華経を説くものには、現世において
遠い過去において、虐げ罵られながらも出会う人すべてに礼拝行を貫いた常不軽菩薩の修行が示される。常不軽菩薩は釈迦の前世であり、また、常不軽菩薩を虐げた人々もまた法華経によって救済されることが明かされる。
釈迦は広長舌相などの神通力を示したのち、地涌の菩薩の上首である
すべての聴衆に滅後の法華経布教が付嘱される。
多宝如来ほかの三千大千世界の諸仏はそれぞれの世界に帰還し、法華経説法の舞台が
薬王菩薩の前世である
加えて、法華経がすべての教えの中で最上のものであることが明かされ、
釈迦が白毫相を示すと東方世界の妙音菩薩が照らし出され、妙音菩薩が霊鷲山の法華経説法へとやって来る。
薬王菩薩たちが法華経を説くものたちを守護する陀羅尼の呪文を示し、釈迦がそれを賛嘆する。
遠い昔、妙荘厳王を仏の教えへと導いた
東方世界から普賢菩薩が来詣し、釈迦滅後において法華経を説くものたちを守護していくことを誓う。
本迹論の問題点
天台法華教学においては、法華経を前半十四品からなる迹門と、後半十四品からなる本門に分けて考えることは本書中でも繰り返し述べて来た通り。こうして同教学の標準的な見解を元にしたあらすじを改めて俯瞰すると、彼らの言う迹門・本門の区切りが極めていびつであることに気付かされる。
第一に、安楽行品と従地涌出品を迹門・本文の切れ目とする必然性が感じられない。特に、従地涌出品の地涌の菩薩の出現が、見宝塔品における釈迦の滅後の布教の勧め、勧持品における菩薩たちの他国土における布教の誓いと、物語として連続していることは誰の目にも明らかであり、この連続を分断するほどの切れ目が安楽行品と従地涌出品の間にあるようには思えない。
第二に、迹門・本文の内容的なボリュームがアンバランスである。特に主従で言えば主にあたるはずの本門十四品は、冒頭の従地涌出品と如来寿量品と少し空けて示される常不軽菩薩品を除けば、思想的な内容は皆無に等しく、いずれも平田篤胤の言い分ではないが法華経自身を褒め称える「能書キバカリ」であり、何が褒め称えられているのかさっぱりわからない。
第三に、扱われている話題の切れ目を探すと、明確な断絶点は授学無学人記品と法師品の間、隨喜功徳品と法師功徳品の間にのみ認められ、法師功徳品以降の品はそれぞれまったく個別の話題を扱っている。ここからも、やはり迹門・本門の分け目は実質を伴っていないことがわかる。
結論から言えば、迹門・本門の区分は、法華経はシンメトリックに中央で分割されるべきであるという思い込みが先行し、後から理屈が付けられたものと考えるべきだろう。
天台法華教学は「本門においてのみ久遠実成が明かされている」と言うが、本稿を通して示したように久遠実成に言及しているのは本門の中でも従地涌出品から分別功徳品までの三品のみで、以降の品では言及がないどころか、常不軽菩薩品や妙荘厳王本事品では久遠実成を無視して迹門・化城喩品と同じレベルで釈迦の前世譚や過去仏の説く法華経を扱っている。どうしても「久遠実成が明かされるのが本門だ」と言うのであれば、従地涌出品から分別功徳品までの三品のみを本門とし他は迹門と分類すべきだが、そんな分け方に意味があるとも思えない。
以上の理由から、天台法華教学の聖典としてではなく、法華経を書いた人々がこれを以って何を言わんとしたのかを理解するためには、以下に示す成立史から捉えたあらすじから考える必要がある、とボクは考える。
成立史からみた法華経二十七章
続いて、本連載を通じて述べてきた法華経の成立史を三期に分けて考える視点を踏まえた全二十七章のあらすじを示してみる。
改めてお断りしておくと、以下の解釈は考古学的・史料学的な裏付けのあるものでは必ずしもない。法華経の文面に表れる意味内容と、これを書いた人々は何らかの動機を有した普通の人であったはずだ、とするコモン・センスから導出されるものであり、少なくともボクは、以下に示すこれが法華経の唯一無二の正しい解釈であると主張しているわけではない。
このように理解すれば、神秘的・超常的な仮定をせずとも法華経の言わんとするところが読み解ける、という枠組みの一つに過ぎないとご承知おきあれかし。
法華経第一期
紀元1~2世紀頃、インドのとある出家者集団において、その時点の指導的な長老たちの権威を受け入れることが出来なかった有志たちの手により、法華経の創作が開始される。それは今日第二章とされる部分から着手され、主に出家者集団の主流派の説得を目的に第九章まで進められた。
第二章『巧妙なる方便』
法華経教団の母体となった有志たちは「釈迦は我々に、釈迦同様の仏陀となることを望んでいた(
彼らはその信念を以って主流派を説き伏せるべく、従来知られていた仏典は彼らの信じる釈迦の願いを実現するための方便(
第三章『譬喩』
主流派説得の方便として、彼らは「智慧第一の
第四章『信解』
主流派から期待した反応が得られないことに業を煮やした彼らは、彼らが期待する態度の変化を、釈迦の四大弟子に仮託して語ることを思いつく。かくして四大弟子の口から
第五章『薬草』
さらなる説得の必要性を感じた彼らは、
第六章『予言』
第三章『譬喩』のセルフパロディとして、四大弟子に対する授記の物語が創作される。が、やはり主流派を説得することはかなわなかった。一方で、一乗真実によって釈迦の弟子たちに成仏の予言が示される物語が一般聴衆の好評を博すという、彼ら自身が期待していなかった結果を招くことになった。
第七章『過去世の因縁』
ここまでに創作した教説すべてを聖別し、法華経を一旦完結させることを目論んで新たな釈迦の前世譚が創作されれた。この前世譚によって、彼らは自身の信念が三千大千世界を貫く空間的な普遍性を有しているとの過剰な自信を有するに至る。
一方で、釈迦の前世譚を勝手に創作した科により、彼らは所属していた出家者集団から破門されてしまった。ここに実体としての法華経教団が誕生する。
第八章『五百人の比丘に対する予言』
教団の経済基盤を安定させるべく、一般聴衆に好評であった受記の物語の増補がおこなわれた。
あわせて、
第九章『阿難と羅睺羅および他の二千人の比丘に対する予言』
さらに受記の物語の増補がおこなわれた。おそらくはこの頃に、続く法華経第二期の書き手となる若手が育ってきたものと考えられる。
法華経第二期
主流派説得の失敗と所属教団からの破門という挫折があったものの、法華経教団は彼ら同様に出家者集団に対して不満があった一定数の在家衆の支持を得た。結果、出家者集団にとっても無視できない存在となった法華経教団に対し、種々の批判が浴びせられるようになった。
この時点で第一期における出自教団主流派説得という目的は放棄され、代わって、独立教団としての自立を確実なものとすべく法華経第二期の増補が開始される。
第十章『法を説く師』
在家衆の支持を確実なものとすべく、法華経教団は一切衆生が一仏乗により成仏することが可能であると主張した。同時に、対立出家者の権威の源泉である仏舎利信仰が否定されるとともに、法華経に基づかない信仰を通じての成仏可能性が否定される。
第十一章『塔の出現』
彼ら自身の創作物である法華経を究極的に聖別すべく、大宝塔の物語が創作された。
この時点から法華経教団の書き手は自身の創作物を、釈迦に仮託した教説の範囲を超えて、ある種のSF小説であることを自覚するようになったものと思われる。そして、そのSF小説を信じて受容することを、
第十二章『よく耐え忍ぶ』
法華経教団は、自身に対する批判を逆手に取って自分たちを聖別することを思いつく。同時に、釈迦在世の菩薩に他国土での布教を誓わせることで、彼らと立場を異にする対立出家者には娑婆世界において布教をおこなう資格がないことを匂わせる。
第十三章『安楽な行』
法華経教団の中には、彼らのそもそもの目的、すなわち自分たちが出自出家者集団の主流派に成り代わりたかった、という思いを捨て切れない人たちも含まれていた。彼らは過激化していく法華経教団の主張を尻目に、彼らの理想とするあり方を四安楽行として論じた。
第十四章『菩薩の大地からの出現』
法華経教団の自画像、釈迦の密意を受け継いだ使命ある存在として、
第十五章『如来の寿命の長さ』
地涌の菩薩の出現を前振りとして、
第十六章『福徳の分別』
第十〜十四章の出来栄えに納得し半ば陶酔した法華経教団は、法華経を信じさえするのであれば教団に対する施与すらする必要がないとまで主張するに至った。
第十七章『随喜の福徳を説示する』
さらに法華経教団は、自分たちの創作物である法華経が未来永劫語り継がれるべきであると考えるようになった。
法華経第三期
第二期までで概ね経典としての完成をみた法華経に対し、法華経第三期においては、ときどきの課題に対する対応やここまでの各章で取りこぼした内容を補うための増補が散発的に繰り返された。それは法華経を磨き上げる過程であると同時に、図らずも、彼らが信仰の形骸化と戦った記録となった。
第十八章『説法師の功徳』
出自出家者集団との断絶から時が流れ、法華経教団では読経をおこなう法師の不足が問題視されるようになってきた。これを受けて彼らは、
第十九章『常に軽侮しない』
並行して、法華経第二期の章が含んでしまった教団外部に対する攻撃的な姿勢が問題視されるようになり、これを相殺する目的で常不軽菩薩の物語が創作されたが、そこに久遠実成説が反映されることはなかった。
第二十章『如来の神通変化』
同じく法華経第二期の取りこぼした主題、地涌の菩薩に対する釈迦からの明示的な付嘱を示す物語が創作された。
序章『発起』
実際の作成時点は若干前後した可能性があるが、法華経教団は法華経全体の経典としての体裁を整える必要を感じ、ここまでの法華経のセルフパロディと登場人物一覧を含む序章を作成した。
第二十七章『教法を委託する』
おそらく同時期に最終章も作成され、以降、新たな章が増補される都度、章番が後ろへとずらされたものと考えられる。
第二十一章『ダーラニー』
経典の暗唱読誦をおこなう人材の不足と、在家の信仰形骸化が問題視されるようになり、密教的な発想に基づくダーラニー読誦の行が考案された。
第二十二章『薬王菩薩の過去の修行』
法華経教団の財政に不安を持った人々により、未来永劫に渡って教団への無分別な奉仕を要求する物語が創作された。
第二十三章『妙音菩薩』
法華経教団の体外的な存在価値を高めるため、慈善活動がおこなわれるようになる。これを称揚するために本章が創作されるが、あまりに突飛な修辞を用いたため広く受け入れられることはなかった。
第二十四章『あまねく導き入れる門戸』
前章の失敗を踏まえ、既にその名が人口に膾炙した
第二十五章『吉祥な荘厳王の往古の事』
有力在家を賞賛する物語を創作することで、さらなる財政の安定化が図られた。
第二十六章『あまねく賢明な菩薩が人に勧めて仏道を修める心を起こさせる』
より深刻化した信仰の形骸化に対しテコ入れが図られた。
これに前後して第十一章『塔の出現』後半に追記された内容(