正しくは統計を採らねば断言はできないが、日本で最も人口に膾炙している仏教フレーズは“
第2話では、法華経第二十四章“あまねく導き入れる門戸”を取り上げる。
となると察しがつくとは思うが、観音経の原典(の中村師訳)を読んでみて、果たしてそこで言われていることは、いわゆる観音信仰に通じているのか、異なるとしたら実際には何を言っていたのか、を探ろうという、まぁ、どうでもいいことが今回のテーマである。何故そんなことを?とは問わないで。とにかく、ボクはこれが楽しいのだから仕方がないのだ。
*
法華経本文に耽溺する前に、観音様についてサクッとおさらいしておこう。
法華経に限らず、漢訳経典に登場する固有・普通名詞には、サンスクリット語を音写したものと意訳したものが混在している。原語のアヴァローキテーシュヴァラを“観世音”とするのは羅什による意訳であり、ゆえに他訳者による異訳がある。般若心経の冒頭に「かんじーざいぼーさー」と聴こえる部分があるが、これを漢字で書くと“
一般的に観音様は、何か困ったことがあったときに救いを求めると、それに応えてくれる仏様……厳密にはその名が示すように菩薩、なのであるが……とされているようである。これは、観世音が「世音を観ず=世の中で求められている声を聴き取ることができる」と解せるところからの連想もあろうかと思うが、仏典が原則その性別を論じていないのに対し、通俗的に母性イメージを投影されることが多い点も含め、西欧キリスト教圏における聖母マリア信仰に通じるところがあるのも面白い。
一方で、その聖母信仰については、新約聖書中にマリアに対する言及が実際にはほとんどなく文献・教義的な裏づけをほとんど持たない信仰であるのに対し、観音信仰は、建前上は典拠経典を有している。以下に示す狭義の観音経、妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五の末尾に配される“
爾時無尽意菩薩。以偈問曰。
世尊妙相具 我今重問彼 仏子何因縁 名為観世音
具足妙相尊 偈答無尽意 汝聴観音行 善応諸方所
弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億仏 発大清浄願
我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦
仮使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池
或漂流巨海 竜魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没
或在須弥峯 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住
或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛
或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心
或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊
或囚禁枷鎖 手足被柱械 念彼観音力 釈然得解脱
呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人
或遇悪羅刹 毒竜諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害
若悪獣囲遶 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無辺方
玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋声自廻去
雲雷鼓掣電 降雹濡大雨 念彼観音力 応時得消散
衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦
具足神通力 広修智方便 十方諸国土 無刹不現身
種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅
真観清浄観 広大智慧観 悲観及慈観 常願常瞻仰
無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間
悲体戒雷震 慈意妙大雲 濡甘露法雨 滅除煩悩焔
諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散
妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念
念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙
具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼
繰り返される印象的な
一方で、現在流通する妙法蓮華経テキストは、文献学的に扱われる場合を除き、ほぼ例外なくこの観音偈を、さも元からそこに書かれていたかのように扱っていて、いささか不誠実なことになっている。要するに、この部分だけが観音経として、独立してあまりに人口に膾炙してしまったため、今更「実は漏れてました」と言えなくなっているのである。
この差異がなぜ生じたのか、この羅什訳の脱落部分を、誰が、いつ、どのような意図で補ったのか、もよくわからないのであるが、そういう経緯であるがゆえか、漢訳に怪しげな部分もあったりする。顕著なのは、冒頭に爾時無尽意菩薩。以偈問曰。……そのとき無尽意菩が偈を以て問うて曰く……とあるように、この偈は釈迦ではなく、本章における釈迦の対話相手である
さらには、現存サンスクリット写本の一部には、漢訳された上掲の偈に続いて、さらに未訳の一節を含むものが複数あって、これも後世の挿句が疑われている。また、中村師の翻訳を素直に信じると、どうもこの部分は、法華経を原理主義的に堅守して専修念仏を忌み嫌った日蓮にとっては皮肉なことながら、浄土三部経に基づく浄土思想からの汚染を受けた可能性がある。観世音菩薩は、法華経の登場キャラクターであると同時に、浄土経における阿弥陀仏の脇士でもあることを思い出そう。
とは言え、ボクが言いたいのは「来歴怪しげな観音偈に基づく観音信仰はおかしい」などという、狭量なことではないのである。宗派を問わない、言わば俗信レベルの日本の仏教文化に、この観音信仰が大きな影響を与えたことは疑う余地のない事実なのであり、その善悪良否はともかくとして、そこには何か、人の心に深く突き刺さるものがあったがゆえに違いないのであるから。
*
「世尊よ、観世音菩薩摩訶薩はいかなる因縁によって“観世音”と名づけるのですか」
法華経第二十四章“あまねく導き入れる門戸”は、無尽意菩薩なる登場人物が釈迦に礼を尽くしつつ、上引用の問いを発するところから始まる。と言うと、先行する二十三章までに、何か観世音菩薩が活躍するエピソードがあって、それを受けてこの問いが発せられるのだろう、と考えるのが常識的なところかと思うのであるが、さにあらず。
実は、ここから法華経を遡って読んでいくと、観世音菩薩が登場するのはただ一度、しかも序章の登場人物一覧に出てくるだけなのである。無尽意菩薩も同じく。何じゃそりゃ?と思うのであるが。
これは実は至極単純な話なのであって、諸説あるので断定はできないものの、ボク個人の見解としては、法華経の序章、第二章から第九章、第十章から第十七章、そして第十八章以降の各章は、作者および成立時期が異なるのである。特に、本章を含む第二十二章から第二十六章の五章はそれぞれに独立性が極めて高く、単章で内容が完結している。
序章に観世音菩薩と無尽意菩薩の名が現れるのは、法華経の構想時点からこの二菩薩が本章に登場することが予定されていたから、ではもちろんなく、二十二章以降が最後に法華経に編入された後に、辻褄合わせに序章にその名が追記されたか、あるいは、序章自体がその時点になって初めて書かれたから、と考えるのが妥当だろう。
一方で、本章の記述が法華経の他の章とまったく隔絶しているか、というと、もちろんそんなことはないのであって、冒頭に示した「~という名の仏・菩薩はいかなる因縁によってそうなのですか?」という問い、それに対する答え、という修辞は、法華経全篇に渡って共通して用いられる比喩のスタイルになっている。つまり、執筆者も執筆動機も異なるが、その基底にある思考様式は概ね共有はされているのだ。
では、本稿冒頭に示した問いに対し、釈迦……法華経教団が自論を仮託したキャラクタであって、歴史上の釈迦ではない、念のため……はどのように答えるのであろうか。
善男子よ、この世において、百千万億那由他の多くの衆生たちがもろもろの苦を受けているが、もし彼らが観世音菩薩の名を聞くならば、彼らはすべて、その苦の集積から解き放たれるであろう。
え?
普通「いかなる因縁で?」と問われれば、その答えは、たとえば「~な修行を積んでこうなったのだ」とか「~な善行をおこなった報いでそうなったのだ」的な回答を期待したいところである。実際、この仏菩薩の名の因縁を問う修辞は、法華経のみならず、その他の大乗経典全般においても、読み手・聞き手に推奨されるべき善行、あるいは忌避すべき悪行を印象づけるために用いられることが多いのであるが、本章では、いきなり上引用に示したような“結果”から始まるのがいささか特殊である。
いやいや、この後に、どうして観世音菩薩が衆生を苦の集積から解き放つことができるようになったのか説明があるんでしょ?と思うのが人情であるが、実は最後まで読んでも一切これがない。とにかく、観世音菩薩はそういうお方なのである、というゴリ押しが延々と続くのだ。
善男子よ、観世音菩薩の名を称える衆生たちは、たとえ大きな火の塊りの中に堕ちたとしても、彼らはすべて、観世音菩薩摩訶薩の威神力によって、その大なる火の塊りの中から救いだされるであろう。
その冒頭が上引用で、いきなり常識的には有り得ないことが持ち出される。ちなみにこの内容は、前回紹介した観音偈の念彼観音力、すなわち観世音菩薩の名を称えるを含む一行目、
仮使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池
と、内容的に概ね……厳密に言えば、偈のそれは「誰かに火の坑に落とされても」と言っているのだが……一致している。
仮に、羅什が妙法蓮華経漢訳に際してこの観音偈を見落としたのではなく、その時点でそもそも観音偈は存在しておらず、羅什の訳出後に何者かによって追記されたのだ、と考えても筋は通るのであるが、この内容の一致からすると、その追記者は、少なくとも悪意でもって本来のそれとは異なる意味を付け加えることを試みたワケではないようだ。
とまれ、以下同様の、かなり無理のある救済事例が続いていく。中には、罪を問われて手枷・足枷をはめられていても、観音の名を呼べばそれらに裂け目が生じて逃げ出せる、などという「え、そんなんアリですか?」と言いたくなる効能まで含まれていて理解に苦しむ。
仏様……厳密には菩薩なのであるが……の慈悲は善人・悪人を問わず施される、ということが言いたいのだろうか。それならば、他に何か言い様があるようにも思われるのであるが。また、お願いすれば男女の産み分けを叶えてくれて、しかも生まれてくるのは美男美女だ、とか言っていて、とはいえ、古代インドで美男美女で国が溢れて困ったという話は聞かないから、存外、観世音菩薩は崇敬されなかったのかも知れない、まぁ、これは冗談だが。
念のために言っておく。
仏様……いや、菩薩なんだけど……に何かお願いしたら叶えてくれる、というのは当たり前の話なのではないか?などと馬鹿なことを言わないように。あなたがそれを当たり前だと考えるのは、本経典を含む大乗経典が、それまでには存在しなかったそのような観念を流布し、その観念を無批判に継承した文化の中に、何の疑問を抱くこともなくあなたが育ったからである。今回のテーマは、そのような観念が生まれた背景の一端を探るところにあるのだ。
閑話休題。
さらには次のような、輪をかけて理解に苦しむことが言われる。引用すると冗長なので、要約で済ませることにする。
まず釈迦が「六十二億
いくら誇張にしても、これはやり過ぎではないのか。後日触れることになるが、法華経第十四章“菩薩の大地からの出現”において、釈迦の死後の布教を命じられる“
ところで、観世音菩薩と言えば、主に仏像としての話になるが、その表象バリエーションの豊かさについては読者諸兄もご存知のことと思う。千手観音であるとか、十一面観音であるとかである。ここに例示した名号は、直接的には法華経からさらに3〜5世紀後に成立する真言系の経典に由来するのであるが、その変幻自在さを説いてみせているのはやはり本章であり、上記の福徳比較の次下において述べられている。
やはり無尽意菩薩が「観世音菩薩はこの世界において、どのように遊行され、どのように衆生に法を説かれるのですか」と問うのに対し、釈迦は「あるときは仏陀のお姿によって……」を皮切りに、これまた延々と例示を始める。その数、三十三。直前に六十二億恒河沙などというふざけた数字が登場しているだけに、え、たったそれだけ?と一瞬考えてしまいそうになるが、百面相とまではいかないものの、変身のバリエーションとしては十二分であろう。
もちろん、この数自体には、特に深い意味はないのである。そもそも、その数はサンスクリット写本各種、漢訳経典各種、それぞれで一致していない。中村師訳が三十三になっているのは我々に最も馴染みのある妙法蓮華経のそれが、暗黙の前提として還流しているからである。まぁ、それはよしとしよう。
将軍によって教導すべき衆生たちには将軍の身をもって法をとき、婆羅門によって教導すべき衆生たちには婆羅門の身をもって法をとき……
上引用は観世音菩薩三十三変化……などと書くと歌舞伎の演目みたいだが……からの抜粋になるが、読めばわかるように、言いたいことはそのバリエーションではなく、観世音菩薩が相対する衆生、すなわち菩薩からすれば救済すべき人々のニーズに応じて、然るべき姿を示して然るべく救済するのだ、ということが、三十三種を例示して言われているワケだ。
なお、観音偈には、この三十三変化に対応する部分はない。強いて言えば、
衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦
念彼観音力を含む十二行の次下にくる上引用の一行は概ね、苦悩に苛まれる人々を妙なる智の力で観じて救うのだ、という意味であるから、この部分がそれだ、と言えばそうかも知れない。
これで本章の前半を概ね読んだことになるのだが、とにかく意図不明な論述である。いや、意味はわかるのである。観世音菩薩の名を称えれば救われる、としか言っていないのだから。意図がわからなくなるのは、だとしたら、ここまで二十三章を費やして述べられてきた法華経は何だったんだ、ということに、必然的になってしまうからである。観音様にすがればそれでハッピーなのであれば、ここまでの二十三章はなくてもよかったことになるし、実際、本章のみを取り出して観音経としてありがたがる人はまさにそれをやっていることになるが、その責任が、ありがたがる人の愚かさにのみ起因する、とは言えない。
その謎解きは追々するとして、一方で、この観音経が我が国の庶民レベルの信仰シーンに深く根を張った理由はおわかりいただけたのではないか、とも思う。以上の文面を素直に信じるならば、これは救済の大安売りとでもいうべき状態である。西方極楽浄土へお導き下さるという阿弥陀仏ですら、言ってしまえば、その救済は極楽への片道切符だけなのであり、しかもそれは死後の話に過ぎないのだから。
が、これを馬鹿げている、と一笑に付すのもいかがなものか、とは思うワケで、要するにこれは、それだけ現実の生活が苦しいものであり、いつの時代も庶民というものは、そこからの救済を謳う物語を、たとえそれが非現実的な夢物語に過ぎないとしても、渇望するものであるということを示しているのである。
では、本章は単にそのようなニーズを文字通り“観世音”して、空手形を売ったのみのものなのだろうか。そのあたりを後半部から探ってみることにしよう。
*
そのとき、無尽意菩薩摩訶薩は世尊にこのように申し上げた。「世尊よ、私は観世音菩薩摩訶薩に対する敬虔な念に基づいて供物や法にかなった供養の品々を贈るでありましょう」。世尊は仰せられた。「善男子よ、そなたは今やその時が至ったと知るならば、贈るがよい」。
そこで、無尽意菩薩摩訶薩は、百千の値のある真珠の首飾りを自らの首から解きほどいて、法にかなった供養の品として観世音菩薩摩訶菩薩に贈った。「仁者よ、どうぞこの法にかなった供養の品を私からお受けください」。
法華経第二十四章“あまねく導き入れる門戸”の後半部分が上引用から始まる。観音様に対して畏れ多いコトとは思うが、突っ込まずにはいられない。
居たのかよ!
序章においてその名が臨席者の一人として挙げられて以降、観世音菩薩は今の今まで黙って座っていたらしい。法華経を文字通り読む限り、そういうことになる。いわゆる雛壇タレントでももう少しマシな扱いを受けそうなものであるが、まぁ、そういう戯言はともかく、コレ、その情景を思い浮かべると、ちょっと可笑しくて笑いが止まらなくなるのはボクだけだろうか。
と言うのも、本章冒頭から延々と続いてきた、釈迦による観世音菩薩への“褒め殺し”をもまた、彼……次下で善男子と呼びかけられるので、少なくともこの観音様は男性らしい……は黙って聞き続けていたことになるのだから。いや、あるいは観音様は心中穏やかでなかったのかも知れない。「お釈迦様ってば好き勝手なことおっしゃってるけども、大火の穴に落ちた人を救うとか、三十三変化して法を説くとか、私、そんなことせなあかんのですか?」みたいな。
読みようによっては、これが本章のオチの前振りなのかも知れないのだが、今のところはともかく、観音様は黙ってそれらを聞いていたし、それに感動した無尽意菩薩から首飾りを捧げられたのだ、としておこう。
ところが、観世音菩薩はこの首飾りを、やはり黙したまま受け取らないのである。
これに対して無尽意菩薩は、善男子よ、仁者は私たちに慈しみを垂れられて、どうぞ納受してくださいと食い下がる。この、その場において権威のある側が一旦申し出を断り、再びへりくだった申し出がなされてようやく受け入れる、という演出も、法華経に頻出する修辞の一つ*1になっているのだが、その意味するところも追って考察するとして、ここでは先に進むことにする。
そのとき、観世音菩薩摩訶薩は無尽意菩薩摩訶薩に哀れみを垂れられ、また、かの四衆や天・龍・
やたらと厳めしい単語が居並んでいるが、かの四衆~鬼神たちというのは、観世音菩薩同様にこの場で黙って釈迦と無尽意の問答を聞いていたとされる人々……というか、人間でないものも随分混じっているのだが……を列挙しているだけである。言わんとするところは、観世音菩薩が贈り物を受け取るのは、それが欲しいからではなく、その場に居合わせたすべての者に対する慈悲の心で以って受け取るのだ、ということらしい。何だか恩着せがましい話だが、とりあえずそういうことにしておこう。ちなみに瓔珞とは首飾りのことで、転じて、今日においては仏殿の天井から垂れ下がっている金属片を数珠繋ぎにした装飾具もそう呼ばれる。
また、これは本章のここまでの流れからすると、同時に、観世音菩薩が無尽意菩薩のみならず、居合わせたすべての者に対して、本章で説かれたところの救済を与える義務を負ったのだ、という意味にも取れる。まぁ、菩薩は元来見返りなどまったく期待せずに……厳密に言えば得阿耨多羅三藐三菩提がその見返り、ということになろうか……一切衆生の救済を誓願した存在なのであるから、これを労務関係に準えるのは本来おかしいのであるが、それを言ったら、観世音菩薩の救済を期待するのに一度だけでも礼拝し、名号を受持するなどという条件が示されるのもおかしな話になってしまう。真に菩薩であるならば、無条件であらゆる衆生を救済するのが建前なのであるから。
それはともかく、そのことを知ってか知らずか、ともかく観世音菩薩は首飾りを受け取るのである。受け取るのであるが、
受け取られてから、その瓔珞を二分し、二分したうちの一分を釈迦牟尼仏に献上し、他の一分を世尊の多宝如来・応供・正等覚者の宝塔へ奉献した。
……いくら観音様とはいえ、饅頭ならともかく、宝飾品を贈り主の目の前で割っちゃうのはどーよ、とか思うのであるが、そのようなささいな疑問は、その一方が
と言うのも、多宝如来というのは、本稿序でも触れた第十一章において出現する高さ7,500Kmの宝塔の中央に鎮座しているという仏様なのであり、つまり、この瞬間もその宝塔は、彼らの目前に浮かんだまま*3なのである。なんじゃぁ、そりゃ!
虚空に浮かぶ、高さ7,500Kmの塔を目前に交わされる、この謙遜になっていない謙遜劇。とてつもなくシュールな光景ではないか。
「善男子よ、観世音菩薩摩訶薩はこのような自在力によってこの娑婆世界を遍歴遊行されるのである」
と釈迦が再び断言し、次下から件の観音偈が始まる。呆れたことに、法華経全二十七章を通じて、観世音菩薩の出番はこれで終わり。台詞もなく、何か神秘の力を発するでもなく……観世音菩薩については、ただ釈迦が延々とその力を賛嘆したのみであったことを思い出そう……やったことと言えば、受け取った首飾りを二つに割っただけである。
この観世音菩薩が、我が国においては、教主釈尊を凌ぐ人気を博したのであるから、いろいろな意味でトンデモない。おかしな喩えになるが『踊るさんま御殿』に出演した雛壇タレントが、明石家さんまにいじられたおした挙句、自身一言も発することなく番組が終わったのに、千年経ってみたらさんまさんよりも人気者になっていた、みたいな話だ。
まぁ、そういう冗談はさておき。
原典もここで偈で以って内容のおさらいをしていることでもあるし、我々もここまでの内容を整理してみることにしよう。
・無尽意菩薩が、釈迦に対して観世音菩薩の名号の由来を問う。
・釈迦は問い自体には答えないまま、観世音菩薩がその名を呼ぶ一切衆生を苦から解き放つこと、三十三相の変化を以って衆生の求めるところに応じることを述べる。
・感極まった無尽意菩薩が首飾りを捧げるが、観世音菩薩はそれを二つに割り、釈迦と多宝如来に捧げてしまう。
つまるところ、本章が言っているのはたったこれだけのことに過ぎない。では、いったいこの不可思議な物語は、法華経の書き手にとってどのような意味があったのだろうか。観音偈の次下に添えられた一節から、その背景を探ってみよう。
*
本題に入る前に、本稿冒頭において、この観音経が「浄土思想からの汚染を受けた可能性がある」と述べた点について解題しておくことにする。
妙法蓮華経の観音偈が後世に追加挿入されたこと既に述べた通りであるが、中村師によると、現行妙法蓮華経の観音偈に対しさらに七詩句多いサンスクリット写本が複数現存していて、師の現代語訳はその部分を含んでいる。不躾ながら、全引用するには冗長なので以下に拙抄訳でもって紹介したい。
未来に仏陀となる観世音菩薩を礼拝しよう。
法蔵比丘は修行して阿弥陀仏になった。
観世音菩薩はその脇に仕えて扇ぎ続けた。
極楽浄土には無量光という名の如来がいる。
そこには女人も淫欲もなくみな純潔だ。
無量光如来は蓮華の獅子座においでになる。
共におられる観世音菩薩のように私もなりたい。
と、こんな具合。
一見して、観世音菩薩を阿弥陀仏の脇士とする浄土経そのままの内容となっている。他ならぬ鳩摩羅什その人が浄土三部経もまた漢訳していることから鑑みるに、成立当初の法華経が上抄訳の内容を含んでいたならば、羅什がこれを見落とすことはないと考えられる。事実、後日触れることになろうが、第七章と第二十二章にも阿弥陀の名が見えるが、羅什はこれを訳し漏らしてはいない。
加えて、細かい点ではあるが、極楽浄土をして「そこには女人も淫欲もなく」としている点が要注目である。追って論じる予定だが、法華経の中でも最初期に書かれた前半部分には同様のあからさまな女性蔑視が含まれているが、これは第十章以降においてまるでなかったかのように消え去っている。にもかかわらず、この偈の作者はそのことを承知しておらず、まるで法華経の前半部しか読んだことがないように見える。
といった程度のことで論証できたつもりなど毛頭ないのであるが、詳細な経緯を知ることは叶わないにせよ、羅什が参照したところのオリジナル法華経を成立させた教団メンバーが世代交代した後に、浄土経の影響を受けた何者かが新たな法華経写本製作に際して、上抄訳の七詩句を追加した可能性をボクは考えている。あるいは、そもそも本章が偈で以って要約するほどの長さを有していない……事実、対になる内容で長さもほど近い第二十三章には偈がない……ことを思えば、観音偈全体がこのとき挿入されたこともあり得よう。
では、なぜそのようなことがおこなわれたのだろうか?
以下、あくまでも私見であることを断って書くが、先に述べたとおり、本章が示す観世音菩薩の現世利益は常軌を逸しており、これに比較すれば
思うに、浄土経が観世音菩薩を阿弥陀仏の脇士として取り入れているのもそういった事情によるのではないか、と思うのだが、世の趨勢に応じて、死後救済と現世利益の両面に対応できるよう、突き抜けてポジティブな世界観を示す法華経への浸透を図ったのではないか、というのがボクの推理である。こうして、妙法蓮華経訳出後に法華経サンスクリット本に追記された観音偈が後の世に再発見され、羅什を絶対無謬の翻訳者と信じる人々によって、彼の犯した翻訳漏れ……そう見えるだけで実際には漏れてなかったとは思うのだが……をなかったことにするために、現行妙法蓮華経テキストへの編入が確信犯的におこなわれたのではないか。
無論、以上は単なる歴史浪漫的妄想である。また、ことさら浄土思想の先達を貶めたくて言っているワケではないことを断っておく。むしろ、彼らが本気でそこまでやっていたとしたら、ボクはその信徒獲得の努力に敬意すら表するだろう。その程度のことすら出来ない宗教者の方が、むしろ多数派なのであるから。
さて、ここからが本題である。
まぁ、以下もボクが手前勝手に思っていることであるから話半分に聞いていただきたい、とエクスキューズしておくが、敢えて言おう。我が国の観音経を信仰した人々はもちろんのこと、観音偈を本章に忍び込ませた人々も、その権威(?)を自派に取り込もうと目論んだと思われる浄土経教団の人々も、本章の真意を読み間違えている。本章が言いたいことは「観世音菩薩の名を呼ぶものは救済される」ではないのである。
本章の最末尾、観音偈が終わり残り数行となるに至って、やはり法華経全篇を通じてここにしか登場しない、
「観世音菩薩に対するこの法門、すなわち、観世音菩薩の自在力を説く『あまねく導き入れる門戸』の章と名づける、観世音菩薩の神力をによる変幻を聞く衆生たちは、さぞかしわずかばかりの善根をそなえたものではないでありましょう」と。
随分と回りくどい台詞であるが、文字通り読めば、ここで言われている観世音菩薩の神力をによる変幻を聞く衆生たちというのは、法華経の書き手たちが空想した、法華経説法の場に居合わせた人々、という意味になるが、当然のことながら、これは同時に、テキスト化された法華経本章を聞く人、読む人のことを言っている。そして地持菩薩は、その人々は、決してわずかばかりの善根をそなえたもの、すなわち、単にこの物語を「ありがたや~」と聞いたり読んだりするだけの存在、ではない、と、釈迦に対して言上している。
さらに、続く本章結句は以下の通り。
さて、世尊がこの普門品を説かれているとき、その会衆の中の八万四千の人々が、比類ない無上の菩提心を起こした。
八万四千という値は、法華経に限らない多くの仏典で頻出する「とても多い」程度の意味の比喩的な数字なのだが、本章を含む法華経第二十二章以降においては、それぞれ文脈は異なれども、共通して、法華経を受持することで成仏に近づく菩薩の数として用いられている。つまりここでも、八万四千の人々とは、字面上の意味は法華経説法の参加者であるが、同時に法華経の聞き手、読み手を指している。そして、その彼らが起こしたという比類ない無上の菩提心とは、自らが仏の悟りを得ようという誓いなのであるから、よって、本章の真意はここに明らかとなる。
本章執筆者が真に言いたいことは「観世音菩薩の名を呼ぶものは救済される」ではなく、この法華経を聞き、あるいは読んで、観世音菩薩の因縁に心打たれた他ならぬあなたが「観世音菩薩の如く衆生を救済せよ」なのであり、ひいては「法華経に参加せよ、菩薩行を通して成仏せよ」なのだ。
おぉ、感動的な展開!!
だが、しかし。
私見によれば、まだこれでは法華経の書き手の真意の半分しか読み取ったことにならないのである。残り半分は、実はミもフタもないことなのである。本章内容は、登場する釈迦を法華経を書いた人・法華経教団指導層の代弁者、観世音菩薩を教団に所属する比丘に期待される人間像、として考えるとより鮮明に読み解くことができる。
要するに、観世音菩薩が起こす種々の救済、三十三相の変幻は、法華経教団がその配下の比丘たちに「衆生……潜在的な、教団にお布施をしてくれる人々……が喜ぶことであれば何でもせよ」と遠回しに命じている無茶振りなのだ。文字通り「世音を観じ、応じよ、それが菩薩道である」と言っているのであるが、その目的は、必ずしも仏道を成じることではないようだ。
そこで問題になるのが、件の捧げられる首飾りである。これを、教団経営を支えるべく献じられるお布施、と解釈すればどうなるか。つまり法華経執筆者は、衆生がお布施を払いたくなるように人気取りに走り回れ、と比丘たちに言っているのだ。そして、無尽意菩薩よろしくお布施を献じようと思い立った人に対して、一旦は謙譲の美徳を示すべく遠慮せよ、と言っている。その意図は明らかで、要するに、お布施目的でやっていることだ、と衆生に思われたくはないのである。が、結局は慈悲の心でもってそれを受け取り、釈迦、すなわち法華経教団の指導者に黙って上納せよ……ってことだよね、コレ?
というワケで、空恐ろしい事実がここに明らかになったのである。今日においても少なくない新興宗教教団が採用しているこのメソッドは、二千年も前に法華経教団によって発明されていた*4のである!!
誤解のないように申し添えておく。ボクはコレを、揶揄したくて言っているのではないのだ。たとえそれが究極的にはお布施集めの手段であるとしても、少なからぬ人に使命感を与え、その人々をして、仮にそれがありがた迷惑の類であったとしても、多少なりとも誰かの利益になる行動を、自発的意思を以って起こさせる、というのは、至極結構なことではないか。しかも、本章表題が“あまねく導き入れる門戸”とされていることが象徴しているように、この運動への参加は、基本的には誰に対してもオープンに開かれているのである。
逆に、善意の裏には必ず隠された悪意があると疑い、それを理由にあらゆる自発的・積極的行動を忌避し、科学や法律に権威付けられた正しさにのみに唯々諾々と随い、自由と奔放を混同し、社会的な身分・肩書きの排他的占有を互いに競い合う現代の我々の生き方は、観音経が示す観世音菩薩の姿に比して、果たして「観音様など俗信だ、我々の合理的世界観の方が優れている」と胸を張って主張できるものであろうか。
無論、こんな藁人形論法を以って法華経に学ぶべき点がある、などということを主張するつもりもまた、ボクには毛頭ないのである。ただ、二千年前に、今ではその名も知れぬ法華経を書いた人たちが、おそらくはそういう問題意識に直面した上で、この法華経第二十四章“あまねく導き入れる門戸”を書き残したのだ、ということを、現代の我々は、知っておいて損はないと思う次第なのである。
ふざけているのか真面目にやっているのか、自分でもわからなくなってきつつあるが、以上で法華経第二十四章“あまねく導き入れる門戸”の