法華経転読   作:wash I/O

7 / 30
第6話 燃えるお父さん……第三章“譬喩”

 壇一雄の小説『火宅の人』(新潮社,1975年)は、テレビドラマ化、映画化もされているので、ご存知の方はご存知のことと思う。この表題に現れる“火宅”という言葉は、火事になって燃え盛る家、ほどの意味であるが、妙法蓮華経譬喩品(ひゆほん)第三に由来することも、知っている人は知っている話だろう。

 

 三界無安 猶如火宅 衆苦充満 甚可怖畏

 

 壇の語法に直結するのは上に引いた同品末尾の偈の一節で三界(さんがい)は安きこと無く、なお火宅(かたく)の如し、衆苦(しゅうく)充満して、甚だ怖畏(いふ)すべしと読み下すのが普通だが、我々が輪廻転生を繰り返す世界は安心できるものではなく、燃え盛る家のようであり、いろいろな苦しみに満ちていて恐れるべきものである、ほどの意味となる。

 

 結論から言うと、壇のこの語の用法、すなわち『火宅の人』の内容は、法華経第三章“譬喩”の主題、ひいては法華経の主題とはあまり関係がない……とボクは思うのだが、世間一般からすれば壇の小説の方が知名度というか理解度は高いであろうから、ひょっとすると、壇の小説を以って「法華経もそういう内容なのか」と思っている人もいるかも知れず、だとすると、それはそれでトンデモない話のような気がしないでもないが、現代の天台法華系の僧侶ですら、どちらかというと壇寄りの意味で本章を引く人も少なからず散見されるので……というか、そういう坊さんは壇の小説だけ読んで、法華経を読んでないんじゃねの?とか思ってしまうのだが、まさかそんなコトはあるまい……一概に壇を責めるのもおかしな話ではある。

 

 法華経に限らず、あらゆる宗教テキストの文言は、自由に解釈し応用して良いのだ。なのでボクも好き勝手やらせてもらうのだ(ぉぃ)。

 

 それはともかく、第6話となる今回は、法華経第三章“譬喩”を転読(うたたよみ)し、本章が本来何を言っているのか……まぁ、ボクの過分に偏った解釈であるから壇のコトをどうこう言う資格はないのであるが……を確認してみたいと思う。

 

 法華経の文脈においては、火宅という語は、上に引いた三界無安猶如火宅ではなく、法華七喩(ほっけしちゆ)の第一“三車火宅(さんしゃかたく)”の方に力点がある。三界と三車って、一字違うだけやん!!と言われればその通りなのであるが、詳しくは追々見ていくこととして、ここでは“車”は要するに“乗り物”なのであり、それが三つということは、前章“巧妙なる方便”とつながっているのだ、ということがわかっていれば十分である。

 

 ちなみに法華七喩というのは、法華経中で語られる幾多のたとえ話の中でも、特に法華経思想の根幹に当たるものとして天台教学がピックアップした以下の七つをいう。

 

 第三章   三車火宅(さんしゃかたく)

 第四章   長者窮子(ちょうじゃぐうじ)

 第五章   三草二木(さんそうにもく)

 第七章   化城宝処(けじょうほうしょ)

 第八章   衣裏繋珠(えりけいじゅ)

 第十三章  髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ)

 第十五章  良医病子(ろういびょうし)

 

 個人的にはこのピックアップは法華経……少なくともそれを書いた法華経教団の連中の言わんとしたところをうまく拾えていない、という気がしないでもないのだが、これをさらりと七つ言えたりすると格好いいのでこの際憶えておこう(いや、そんな必要はない)。

 

 

                    *

 

 

 本章は、前章において釈迦の対話相手であった舎利弗(しゃりほつ)の独白から幕を上げる。物語としては時間的に連続していると考えてよい。

 

 法華経第一期(第二章~九章)に共通して言えることであるが、原法華経に当たるこれらの章は、書き手自身の修辞がまだ熟れていない感があって、第十章以降と比較して、やたらと冗長かつ難渋なものとなっているのだが、特にこの第三章はその傾向が顕著であるように思う。以下、早足に抄訳ベースで見ていくことが多くなることを予め諒されよ。

 

 第二章末尾の偈は、以下のような章句で終わっている。

 

 仏陀の語る密意の言葉をよく知って、疑惑を断じ、疑念を捨て去るならば、仏陀となるであろう。歓喜を喚起せよ。

 

 本章冒頭の独白は、この釈迦の呼びかけに対する舎利弗からの応答になっていて、まずは自身が大きな喜びに満たされていると述べている。もちろん、ここに現れる釈迦も舎利弗も法華経教団の見解を代弁するキャラクタなのであるから、よくも恥ずかしげもなくそんな一人芝居が打てるものだ、と言ってしまえばそれまでなのであるが、書いている本人からすればこれも如来の方便力であるから、それは捨て置こう。以下舎利弗は、何故そんなに喜んでいるのか、その説明とも告解とも解せる理屈を捏ね繰りまわす。

 

 曰く、まず彼は他者が受記(じゅき)を得るのを見て、悩んでいたのだ、と告白する。

 

 受記というのは、仏陀から「あなたは未来に仏に成るだろう」と予言されることを言う。逆に予言を与える側からはこれを授記(じゅき)と表現する。その詳細は追って見ていくことになるが、現代の我々の感覚からすると俄には理解し辛いが、少なくとも法華経が創作された当時のインドではとても重要視されたことであったらしい。本質的には異なるものだが、我が国で似たものを探すと朝廷からの官位叙爵が近いかも知れない。つまり、何らかの権威から地位を確約されることに、その実態に比して極めて高い価値が置かれていた、ということである。

 

 法華経文中では、実は他ならぬ舎利弗がこの後得る受記がその初出になり、舎利弗は誰の受記を見て悩んだんだ?との疑問が浮かぶのだが、授記自体は法華経の専売特許ではなく、紀元前には既に成立していたと考えられている小乗経典『阿含経(あごんきょう)』にも“記別(きべつ)”として登場するので、彼がここで言っているのは、それらを含む過去からの伝承なのであろう。

 

 ちなみに、これを聞いて「バカじゃねの?」と思った人は身内の死に際し戒名(かいみょう)を貰おうなどとは考えないことだ。戒名はこの記別に端を発する仏門に入るに際し名を改める習慣が形を変えつつ今日まで伝わったもの、ということになる。それでも戒名は必要だ、と思うのであれば、あなたは法華経を含む仏典に文化的に呑まれているのだ。

 

 閑話休題(それはさておき)

 

 続けて、自身がそれ=受記、を未だ得ることが出来ないことに対し、世尊は、私たちを小乗の教えによって救ってくだされたであるとか、これは自分たちの過失によるものであって、世尊の過失によるものではない等と考えていたことを述べる。翻訳によって生まれたニュアンスかも知れないが、何だか高慢な物言いである。否、舎利弗は、これを悔いたことで受記を得るのであるから、これは法華経教団の主観において問題視されていた、対立声聞衆の姿勢を反映したものなのかも知れない。

 

 そして、前章“巧妙なる方便”にて示される如来の密意に今日まで気付かなかったことを謝罪し、それを知った自分は今まさに、一切の苦悩から離れることができましたと締めくくる。

 

 法華経の舌足らず(ぉぃ)もあって、これだけを読んでも何が舎利弗をして一切の苦悩から離れさせたのか、一般的な読者にはわかりづらいように思う。また、これは冒頭に示した三界無安猶如火宅の認識とも通じるように思うので、以下にいささか私釈を加えておく。

 

 先に結論から言うと、大袈裟な話になるが、ここで<仏教>誕生以来の観念が180°ひっくり返っている。

 

 三界無安猶如火宅とは、端的に言えば、我々は苦しい世界に住んでいる、ということなのであり、歴史上の釈迦以来、仏教者は如何にしてそこから逃れるかを模索してきたのであって、本稿でも繰り返し登場してきた阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)というのは、それを可能とする何か、であった。舎利弗の前述の告白に登場する小乗の教えも、言わばそのサブセットの一つであり、これは、いささか矮小化し過ぎかと思いつつ敢えて言うと、仏典を学んで=声聞を究めて、三界の苦しさに対するスルー力を身につけよう、という話だったことになる。

 

 一方で、本章に登場する(過分に理想化された)智慧第一の舎利弗は、智慧第一であるがゆえに、このアプローチに疑念を抱いていたのだった。つまり、博識な智慧で以って三界の苦しさを無視することは、確かに救いではあるかも知れないが、それが釈迦の悟りのすべてであるとは思えない。何か隠された更に深い悟りがあるのではないか、私が受記を得られないのは、私に何か不足するところがあって、ゆえに釈迦はその真の悟りを教えてくれないのではないか、しかし、何が私に欠けているのかがわからない……これが前述の(ある意味において贅沢な)彼の悩みということになる。

 

 対して、前章“巧妙なる方便”において示された如来の密意をこの文脈に当てはめると、前話でも少し触れたように、三界においての苦しみ、それ自体が、共感を以って衆生に法を説くための方便である、ということになる。第二章末の歓喜を喚起せよは、舎利弗に「喜べ」と言っているのではなく、舎利弗が(自身の三界の苦悩の方便力を通して)「衆生の歓喜を喚起せよ」と言っているのであって、この瞬間、舎利弗を苦悩させていたその高慢さは、同じく高慢さゆえに一乗に思いを致すことが出来ない衆生を共感を以って導く方便力に昇華するのである。

 

 ゆえに、強いて舎利弗の告白に従って彼の過失を問えば、三界無安猶如火宅から逃れることを目的……これは伝統的に法華経以前の<仏教>が目指していたこと、そのものなのであるが……と思い込んでいたこと、こそが過失なのであって、法華経的には三界無安猶如火宅は自身が仏陀として活躍すべきホームグラウンドなのであり、それを自覚的に悟ることを以って得阿耨多羅三藐三菩提、と称しているのである。

 

 いくら練習や試合に辛いことがあっても、ホームグラウンドで野球することを苦悩する野球選手はいないのであるから、半ば自動的に三界の苦悩も滅失するのである。逆に、自身が望んでホームグラウンドに立っているのだ、という自覚のない選手、誰かにやらされているのだ、と考える選手は、逃れようもない苦しみに苛まれるであろうし、結果を残すこともまずないだろう……と、これも譬喩。

 

 我ながら旨いこと言うなぁ、と言うか、以上でほとんど法華経の主意を言い切っている、とか思うのだが(ぉぃ)、いくらなんでも旨いこと言い過ぎである(ぇ?)。

 

 と言うのも、前話でも述べたように、法華経第一期は明らかに上に述べたような思想を含意しているのだが、書いている本人たちに必ずしもその自覚がないのである。もし、彼らがそのことに気付いていたら、本章末の偈には三界無安猶如火宅ではなく、たとえば「三界無悩将如球場」と詠まれていたはずである、まぁ、これは冗談だが。

 

 無論、そうなっていない……どう転んでも火宅が球場になるはずないのだが……ことが、ボクの解釈が間違っている証拠だ、と言われればそれまでなのであるが、その判断はボク自身には下しかねるので、聡明なる読者諸兄に委ねる。

 

 ただ一つ確実に言えるのは、妻から逃げ障害を負った子から逃げ愛人から逃げる『火宅の人』の主人公……同書は私小説と見做されており、つまりこれは壇一雄本人ということになると思うのだが……は、法華経を本稿に述べたようには読まなかっただろう、ということである。

 

 閑話休題。

 

 こう見てくると法華経がさも高邁な思想を説いているように見えなくもないのであるが、前述したように説いている本人たちには今ひとつ自覚がないようである。

 

 続いて舎利弗は、妙法蓮華経ベースで百二句五百十字から成る偈で同主旨を繰り返す。この部分は前段と異口同音であり、やたらと、自身が得たと思い込んでいた悟りが真の悟りでなかったこと、如来の密意は素晴らしいのだということ、が強調される一方、では、それが実のところ何であるかには言及されないところまで同じなのだが、これ対する釈迦の返しが、いきなりその自覚のなさを露呈している。

 

 舎利弗よ、私はそなたを二万億の仏陀のみもとで、無上の菩提を得るように成熟させ教化してきたのである。

 

 二万億の仏陀のみもとでから、釈迦が前世以来舎利弗を教導してきたという主張であることがわかる。言葉通りに受け取れば、舎利弗が三界無安猶如火宅こそ我がホームグラウンドと気付いたこと、ではなく、彼がそれに気付くように前世以来釈迦が教え導いたこと、の方に話の力点が移ってしまっている。

 

 実のところ、この「今のあなたの素晴らしさは前世以来の善行の積み重ねによるものだ」とする修辞は、輪廻転生観を前提とした当時のインドの人々の間では極普通に交わされるところの他人に捧げる最大級の賛辞であったようで、本章書き手の意図としても、ただ単に、釈迦が示す如来の密意を悟った舎利弗を褒めたかっただけと思われるのだが、後世これを読んだり聞いたりする立場から見ると、舎利弗が無上の正しい覚りに至った要因が、彼のこの時点の意識の変化なのか、前世以来の釈迦の教導なのか、俄かに判別できなくなっている。

 

 実際、我が国の浄土宗の開祖である法然が、法華経を含む仏典を読み通した上で千中無一(せんちゅうむいち)、すなわち「千人のうち一人も成仏でき無い教えである」と断言するに至ったのは、彼の主観においては、自分を含む末法の衆生が舎利弗のように前世以来釈迦から教導されたものであると信じることが余りに思い上がった行為であるように感じられたからであり、彼にそう思わせたのは、まさにここに引いたような、自分たちの主張が含意するところに必ずしも自覚のない法華経教団の書き手の不用意な言葉遣いである、とボクは解釈している。

 

 

                    *

 

 

 とまれ、ここに至って釈迦はいよいよ舎利弗に授記を与える。

 

 舎利弗よ、そなたは未来世に、無量、無辺にして思議することも不可能なほどの長い期間、千万億という多くの如来の正法を受持し、種々の供養をし、この菩薩の行をことごとくそなえて、蓮華光(れんげこう)という名の如来、すなわち尊敬されるべきお方であり、正しい覚りを得、知と行とを具足し、覚りの彼岸に逝けるお方であり、もろもろの世間を知り、最高のお方であり、調教されるべき人々を調御であり、天と人々の師である仏・世尊として世に出現するであろう

 

 粉飾語句が多いので読み辛いが、言っていることはただ一つ「舎利弗は蓮華光如来という仏陀になるだろう」ということだけだ。何を以って授記の記事と見做すか、にもよるが、釈迦が特定個人に対して予言したものだけを数えても法華経全篇を通して本章を含め十一回繰り返される。さらに定義を弱め、釈迦以外の仏陀が与える授記、特定個人名が示されない授記などを含めるともっと多くなる。

 

 総論としてこれらの授記は、舎利弗に代表される釈迦の弟子たちですら法華経の教え、一乗真実を悟ることで未来の成仏を約束されたのであるから、三乗方便に執着している出家者たちはすみやかに法華経(教団)に帰伏すべきである、と主張すべく書かれたものと考えられる。もちろんこの主張は、表現方法としては非常にユニークではあるものの、何ら裏付けを持たない与太話に過ぎず、おそらくはこれを聞いて法華経教団へと転向した出家者はいなかったか、いても僅かだったろう。

 

 一方で、彼らがこのような表現を、ボクが法華経第一期と呼ぶ第九章までの論述で繰り返し多用しているのは、彼らのこの時点での関心が、何はさておき、対立した出家者集団を説得するか、説得できないまでも論破することに注がれていたことを意味するものと考えられる。

 

 この授記の記事は特有のフォーマットを共有していて、それ自体がいろいろな意味で面白い読み物になっているのだが、今の時点では詳述を避け追って改めて論じることとしたい。ここでは、本章の舎利弗に対する授記のみに見られる面白い特徴があるので、それを見ておくことにしよう。

 

 舎利弗よ、かの蓮華光如来は十二中劫を過ぎたとき、“堅満”と名づける菩薩摩訶薩に、将来、阿耨多羅三藐三菩提を得ることができるという予言を授けてから、入滅されるであろう、「比丘たちよ、この堅満菩薩摩訶薩は私につづいて、無上の正しい覚りを悟るであろう。華足安行という正しい覚りを得た……

 

 なんと、釈迦は未来世に仏陀となった舎利弗が授記する弟子の名、堅満(けんまん)、さらにその如来としての名号=華足安行(けそくあんぎょう)、授記に当たっての台詞にまで言及している。これは、親が子……事実、舎利弗は文中で自身を比喩的に世尊の長子と言っている……に対し、孫が生まれる時期、孫の名前、さらには命名に際しての発言まで決めているような話で、ちょっと過保護なんじゃねの?という気がしないでもない。っつーか十二中劫を過ぎたときだったら入滅してないか、蓮華光如来?

 

 まぁ、そういう冗談はさておき。

 

 私見では、これは釈迦の授記が釈迦から舎利弗に対する一回限りのものではなく、未来永劫次世代の仏陀へと続いていくものなのだ、とする……つまり仏陀は教育者∞なのだ、ということを意味している、と考えている。いささか我田引水ではあるとは思うが、それ以外に理由はみつからないだろう。

 

 ここで釈迦が()で以ってこの授記を繰り返す。続いて、この法座に同席した天子たち……粉飾なので、彼らが何者であるかは深く考えるに値しない……が、釈迦と舎利弗の双方を賛嘆する偈を捧げる。完全にミュージカルのノリであり、この間、言っては申し訳ないが、話が止まっている。法華経全般を見たとき、章を重ねる毎に長さが短くなっていく傾向が見出だせるのであるが、そんなことはなかろう、と思いつつも、法華経の整備が進むうちに、書き手たる法華経教団のメンバー自身が「あんまり粉飾し過ぎると暗唱するとき辛くね?」ということに気付き、要点だけを書き残すことを学んだのではないか、と下衆な勘繰りをしたくなる。

 

 ふたたびそういう冗談はさておき……要するに全体的に冗談のような話なのである。

 

 受記を得た舎利弗は、私には疑いも惑いもなくなりましたと言い切った上で、自分以外の声聞・独覚は、未だ生老病死の苦悩から自身が逃れることのみを目的としていて、前章“巧妙なる方便”において説かれたことに疑いや惑いを抱いている、と言う。好意的に捉えれば、ついに如来の密意を解した舎利弗が、自身の覚りではなく、共に学ぶ声聞・独覚と覚りを分かち合うことこそが自身の真に目指すべきところと知ったのだ、と読めなくもない。

 

 が、この下りには、他ならぬ釈迦がこのように教えられ、このように導かれたがゆえに彼らがそうなのだ、というニュアンスがあって、未来における成道を保証された舎利弗に、別種の高慢さが芽生えたのではないか、と穿った見方もしたくなるのだが、それはともかく。彼は、その声聞・独覚のために、疑いや惑いがなくなりますようにお説きくださいと釈迦に請う。

 

 対する釈迦の応答も、なかなか一筋縄にはいかない。

 

 舎利弗よ、私はそなたに以前説いたではないか。如来・応供・正等覚者はいろいろな信への志向、また種々に異なった素質と願いをもつ衆生たちの心に欲するところを知った上で、種々の修習の方法を説き、種々の因縁や譬喩や思惟の対象と言語の解説など、巧みな方便によって、法を説くのである。それらすべての説法は、この阿耨多羅三藐三菩提について、衆生をただ菩薩乗に教え導くためなのである。

 

 蓮華光如来が未来に授記を与える弟子の名、その名号まで決めてしまうほど節介焼きのくせに(ぉぃ)いきなり、以前説いたではないか、とくるのだから、この釈迦はなかなかのツンデレである。と言うか、この二人、実は相性が悪いのではなかろうか?

 

 それはともかく、ここで釈迦が言っているのは前章の趣意の繰り返しになっている。注意すべきは、三乗方便一乗真実、という言い方に端的に表れているように、前章で言われた方便というのは声聞・独覚・菩薩の三乗のことであって、これを一仏乗の真実へ導くのが釈迦の本意である、という主張だったはずだが、ここでは、衆生をただ菩薩乗に教え導くとなっていて、語用論的な混乱が見受けられる。

 

 この混乱が、後世において三車家(さんしゃけ)vs四車家(よんしゃけ)の論争を生むことになるのだが、その直接の源泉に当たるのが、

 

 舎利弗よ、それでは次に、この意義をさらに明らかにするために、私はそなたに譬喩を説くことにしよう。

 

との宣言から始まる第6話の本題、三車火宅の譬喩となる。

 

 その詳しい内容に入る前に、上に述べた三車家、四車家と呼ばれる本章の二通りの解釈について概説しておく。これを念頭において、三車火宅の譬喩に触れて欲しいと思うからだ。

 

 三車家、四車家、という場合の“家”は、“火宅”のいう燃えている家、ではなく、評論家だとか音楽家だとかいう場合の“家”の意味である。むしろ、三車派、四車派、と言い換えた方が馴染みやすいかも知れない。“車”は、もちろん、衆生を仏の覚りへと導く乗り物のことであり、つまるところ両派の対立点は、その乗り物は三つであるのか、四つであるのか、という、部外者からするとどうでも良さ気な議論である。

 

 三つ、という場合、声聞乗・独覚乗・菩薩乗の三つをいう。より厳密にいえば、一仏乗と菩薩乗は同じものだ、とする解釈である。対して四つという場合、声聞乗・独覚乗・菩薩乗・一仏乗の四つをいい、菩薩乗と一仏乗は同じものではない、とする解釈である。

 

 やはり「だから何だ?」と首を傾げたくなる論争なのであるが、換骨奪胎して言えば、三車家に言わせれば、一仏乗は如我等無異(にょがとうむい)(第3話参照)を目指すものであり、これは衆生は救うべくおこなわれるのであるから菩薩乗と同じである、ということになり、四車家に言わせれば、衆生を救う菩薩乗と、衆生を仏陀そのものにまで導く一仏乗は、次元の異なるものである、ということになる……のだが、違いがおわかりいただけるだろうか?

 

 天台法華教学は、原則論としては四車家を以って正統と見做しているようであるが、上引用に見たように、法華経の地の文自体がこれを混同して書いているので、俄かに判じ難い話題ではあるのだ。個人的には、書いた本人たちですらちゃんと使い分けられていない概念を、後世の人間がゴニョゴニョ言わんでもええんちゃうの、程度に思っているのであるが、これについては三車火宅の譬喩を一読いただき、読者諸兄にも頭を捻ってみていただきたい。

 

 

                    *

 

 

 舎利弗よ、それでは次に、この意義をさらに明らかにするために、私はそなたに譬喩を説くことにしよう。それはなぜかというと、この世では、学識あるものはだれでも、譬喩によって、説かれた意義をさらによく理解するものだからである。

 

 先の引用部と重複するが、冒頭において釈迦……繰り返すが歴史上の釈迦ではなく、法華経教団の主張を代弁するキャラクタである……は、上に引いたようなことを言う。

 

 やや穿った見方かと思うが、天台法華筋の人の中には、法華七喩ほかの仏典中の譬喩を、さもそれが何らかのこの世の真理を“証明”するもの、と勘違いしているのではないか思われる発言をする人が多いように思うし、これは仏教のみならず、キリスト教神学においてもしばしば見られる傾向なのであるが、殊更ボク如きが力説するまでもなく、譬喩というのは単にうまいこと言っているだけ、の話であって、含む内容の真理性とは関係がない。上引用に見えるように、少なくとも法華経を書いた当人たちには、譬喩が書き手にとっては説明、聞き手・読み手にとっては理解のための便法であることに自覚的であったようだ。

 

 以下、例によって、まだ要約力が熟れきっていない本章の地の文はやたらと冗長なので、以下、趣意抜粋にて三車火宅の譬喩を紹介していきたい。

 

 まず、裕福な長者がいて彼は立派な邸宅を持っている、とされる。なぜかこの邸宅には門はただ一つしかないのだが、これはストーリー上の要請によるもので、当時のインドの家が皆そうだった、という意味ではないだろう。この邸宅で、ある日突然に大火が起こり、諸方に燃えひろがり、みるまに屋敷全体が火につつまれる。中には長者の子どもたちが多く取り残された。この燃える長者の家が“火宅”ということになる。

 

 私のこれらの息子たちは、まだ幼い童子であって、この燃えさかる家の中で、それぞれの玩具で遊び戯れ、喜々として楽しんでいる。しかも、この家が燃えているとは知らず、気づかず、わからず、注意もせず、おじ恐れもしない。この大火に焼かれ、また、大きな苦の集まりにおそわれながらも、心に苦痛とも感じていない。また、逃げ出そうという心も起こさない。

 

と長者は独白するのであるが、これが今話冒頭に示した三界無安猶如火宅衆苦充満甚可怖畏のことであるのは言うまでもあるまい。つまり、火宅から既に逃れて上引用の慨嘆を述べている長者とは釈迦のことであり、いまだ火宅の中で遊んでいる息子、幼い童子とは、我々を含む一切衆生のことを指している。

 

 どうでもいいが、大火に焼かれながら本当に心に苦痛とも感じていないのであれば「その子供ら、既に悟ってるんじゃね?」という気がしないでもないのだが、もちろん、ここで法華経の書き手が言いたいのはそういうことではない。本来は「迫り来る苦痛を予期することもなく」等と言うべきところかと思うのだが、やはり、修辞が熟れきっていない法華経第一期に属する本章の書き手は、論理的に矛盾を孕む文言をうっかり書き残す傾向が見て取れる。

 

 とは言え、法華経の書き手が何も考えていないワケではなく、むしろ、彼らの関心の範疇においては、その適否はともかく、彼らなりに懸命に考えてこの話を作っている、ということは次下の描写に現れている。

 

 「私は勇敢であり、腕の力もある。だから、私はすべての子供たちをみんな一緒に集め、抱きかかえて、この家から逃げ出させよう」と。また、彼はこのようにも考えるであろう。「この家は門は一つで入り口は閉まっている。子供は移り気で走り回っているが、過って危険を冒すようなことがあってはならない。彼らはこの大火によって不幸な災厄に遭うかも知れない。だから、私は、彼らに注意を促そう」。そう考えて長者は子供たちに呼びかけた。

 

 これは何を言っているのかというと、長者とは釈迦なのであり、法華経の書き手を含む当時の仏教者は釈迦が各種の神通力を備えていたと観念していたので「なら、まず神通力で子供を救出するか、そもそも消火しろよ」というツッコミを予め封じているのである。以下読んでいけばわかるように、三車火宅の譬喩本体は、火宅の外から長者が子供に向けて発する呼びかけ、である。つまり、上引用は、その呼びかけが必然なのだ、とする(かなり強引な)エクスキューズなのだ。

 

 う〜む、ちょっと力点を誤っているような気がしないでもないが、これは当時のインド人の思考様式に沿ってのことかも知れないので、とりあえず捨て置こう。

 

 長者は火事だから逃げなさい、と子供たちに声をかける。が、当の子供たちは遊びに夢中で一向に長者の意図を解さない。こういうのが幼児のありのままの姿だからであると本文は言っている。これが、仏陀の目線から見た、三界で苦悩しつつ煩悩に振り回される衆生、を表象していることは説明するまでもあるまい。対して長者はこう宣言する。

 

 私は巧みな方便を用いて、これらの子供たちをこの家から外へのがれ出させよう。

 

 “巧みな方便”という前章表題が現れることが、核心に近づいてきたことを予感させる。それにしても、息子たちを火宅の中に取り残してきておいて、存外悠長な長者さん(ぉぃ)である。しかも、ここで彼が弄する方便が、これまた悠長なのである。

 

 子供たちよ、お前たちがきっと喜ぶにちがいない、珍しくて、めったに手にすることができない玩具がここにある。いろんな色が塗ってあり、いろんな種類があり、それらを手に入れなければお前たちがきっと後悔するようなもの-たとえば牛の車、羊の車、鹿の車などである。お前たちがほしがり、望んでいたもの、愛らしくて心を奪われるような素敵なもの、それらのすべてを、私は、お前たちが戯れ遊ぶようにと、家の門の外に置いてある。さあ、お前たち、こちらに来なさい。この家の中から走って出て来なさい。そうすれば、私はお前たちの一人ひとりが何をほしがり、何に関心をもとうとも、それをそれぞれにあげよう。さあ、それを受け取るために、早くこちらに走って出て来なさい。

 

 ……落語『寿限無』のオチ(クソ長い名前を復唱している間に、溺れた寿限無〜が自力で川から上がってくる)を想起したのはボクだけか?

 

 それはともかく。

 

 今度は、子供たちは先を競って燃え盛る家から飛び出して来る。そして口々に、父上のおっしゃった、あのいろんな楽しい玩具、たとえば牛の車、羊の車、鹿の車などを、どうぞ私たちにくださいと訴える。対して長者は、それら三種の車ではなく、風のように速く走る牛の車を与えたとされる。

 

 三つではなく一つ……この流れから、この部分が一乗真実三乗方便を象徴する、三車火宅の譬喩の主題であることがわかる。つまり、長者(釈迦)は三乗を方便として示し、子供たち(衆生)を一乗へ導いたのだ、とする主張だ。問題は、三つの車にいう牛の車と、長者が与えたとされる風のように速く走る牛の車、どちらも“牛“だという点で、これが前稿で触れた甚だ馬々鹿々しい……この文脈では牛羊鹿しい、とでも言うべきか……三車家・四車家論争の火種となったものである。

 

 次下を読んでいくと、長者が与えた一つの車の牛は、普通の牛ではなく白く純白で、迅速な足をもつ牛であることがわかり、漢訳妙法蓮華経は続く偈中でこれを大白牛と表記している。これを受けて天台大師(四車家)は「長者が与えたそれは“牛車”ではなく、“大白牛車(だいびゃくごしゃ)”である」と言っている。天台教学では、牛車は菩薩乗を、大白牛車は一仏乗を表象する、と解される。

 

 本稿は三車家と四車家のいずれが真であるかを判じること……など、そもそも無意味だ……を目的とするものではないので、ここでは、法華経の書き手は、三つの車のうちの一つは、長者が与えた一つの車と質的には異なる(普通の牛と純白・迅速の牛)が、同時に何らかの共通点(どちらも牛)もまた意識していたのだろう、と指摘するに留めたい。

 

 むしろ、面白いのは続く釈迦と舎利弗の問答の方ではないか、と思う。

 

 舎利弗よ、そなたはこのことをどのように思うであろうか。かの人は彼の子供たちに、さきには三つの乗り物を告げ、のちにはみんなに大きな乗り物だけを与え、すぐれた乗り物だけを与えたということは、偽りを言ったことにはならないであろうか。舎利弗は申し上げた。「世尊よ、そのようなことはございません、善逝よ、そのようなことはございません、世尊よ、とにかく、かの人は巧みな方便によって、子供たちをかの燃えさかる家から逃げ出させ、その身命を守ったのですから……

 

 法華経中、釈迦がしばしば発するそなたはこのことをどのように思うであろうかとの問いかけは、授記に際して明らかなように、読みて・聞き手からして不可知な因縁を、釈迦が断言する前振りとして用いられるのが常であるのだが、ここでは釈迦の偽りを言ったことにはならないかとの問いを、聞き手の舎利弗がそのようなことはございませんと繰り返し否定する体を採っている。

 

 ここから推察されるのは、本章の書き手自身も、彼自身はともかくとして、読み手・聞き手にとって一乗真実三乗方便の主張が俄かには受け入れ難いものであり、釈迦の立場から天下り的な真実として断言するよりは、むしろ、舎利弗すなわち教説を受容する衆生の立場から、釈迦がそう言うからにはひとまずはそれを信じてみよう、と受け入れるべきもの、と観念していたのではないか、という点である。法華経教団自身も、少なくとも本章が編まれた時点では、自分たちの主張するところに絶対の確信を持っていたわけではないか、あるいは、確信していた人もいるが、中には懐疑的な人もいて、そのあたりのブレがこの三車火宅の譬喩に反映されているのではないか、というのがボクの読みである。

 

 当時の<仏教>界において、法華経はある種の大統一運動、つまり、釈迦を原点に措定しつつ派生した諸運動を単一の教理に帰一させようとした試み(の一つ)であったと考えられるのだが、それによって救済される衆生の立場から見れば、三車火宅の譬喩にも見えるように、とりあえず火宅から連れ出してさえもらえれば、連れ出しの方便であった三つの車であろうが、純白・迅速の牛車であろうが、いただけるものはいただくし、あるいは、極端な話、全部嘘であっても構わないのであって、これは西欧におけるキリスト教の正統・異端論争とも通底すると思うのだが、概して帰一運動というのは、救済される側よりはむしろ、救済を与える(とされる)側の都合によって推進されてきた。

 

 究極的には、ローマ教会の関心事が教会税の独占確保であったのと同様に、彼ら自身にその自覚があったにせよなかったにせよ、法華経教団の帰一運動のそもそもの動機は、限られた在家の施与が諸派に分散霧消することを防止し、逆に集約することで自分たちの影響力を最大化するところにあったと考えるのは妥当と思うのだが、同時に、法華経教団が過分に理想主義的であったことも法華経の文面からは十二分に伝わってくるので、そのあたりの現実と理想のギャップが、このやたらと迂遠な三車火宅の譬喩、創出の背景にあると考える次第である。

 

 とまれ、第3話冒頭で紹介したように、我が国においてはこの物語を典拠に“嘘も方便”という成句が江戸時代あたりから生まれた、と言われているが、おそらくは、天台・日蓮系の寺院において講じられた法華経講義を耳にした人が「お釈迦様ですら嘘をついて目的を達しようとするのだから、我々が嘘をついて何が悪い」といったような、江戸時代的な諧謔精神で以って言い出したのがキッカケだったのだろう。この用法は、法華経の書き手が意図したものでは決してなかったろうが、それでも、およそ千五百年の時を超えて彼らの発した言葉が後世の人々の思考様式に影響を与えた一つの例となっている。

 

 

                     *

 

 

 三車火宅の物語に続き、釈迦……くどいが法華経教団を代弁するキャラクタである……自身の言葉で以ってこの譬喩物語の意義が語られる。この解説が、やたらと粉飾語句が多いこともあって物語本体の三倍近い文量があるのだが、趣意抜粋で見ていきたい。

 

 まず冒頭において、火宅の如き三界から衆生を救い出すこと、そして阿耨多羅三藐三菩提へと教え導くことが如来の目指すところなのである、と断言される。もちろん、これは歴史上の釈迦がそうであったのではなく、少なくとも法華経教団が、広くは大乗仏教諸派が共有していた、釈迦がそうであって欲しいという祈り、願いであろう。ここまではまぁいい。

 

 次に言われるのは、釈迦が救い出したいと願う当の衆生は、火宅の如き三界において大きな苦の集積に苦しめられながらも、それを苦と覚えず、思いもしないのだ、とされる。対して、衆生の父である釈迦が、真の遊び、喜び、楽しみを知らしめるために仏陀の智慧を与えるのだ、というのであるが、これは現代的な知見から見ると、典型的なパターナリズムである。

 

 この論述から見て取れるのは、少なくとも本章の直接の書き手は、言葉の上では「衆生を火宅の如き三界から救済する」と言ってはいるが、実際にその衆生が主観的に苦しんでいるかどうかにはあまり関心がなく、愚かな衆生は苦しみに気づいていないから、聡明な釈迦がそれを救い出してやるのだ、と言っているのであって、ここで言う釈迦は法華経の書き手自身に他ならないのであるから、この構造的な問題に当の本人が気づいていたかどうかはともかくとして、これは随分と尊大な物言いなのである。一方で、三車火宅の譬喩を釈迦の直接の説法であると信じて疑わない天台法華教学は、この点を一切問題視していない。

 

 このようなパターナリズムは、法華経第十九章“常に軽侮しない”に見えるような、「すべての人間はその内在的可能性を尊敬されるべき存在である」とする法華経第三期に生じた観念とは本質的に矛盾しているように思える。理念構築の途上にあった法華経第一期の著者にその責を問うのが酷であるとしても、完成形を受け取った天台筋の系譜に連なる人々はこれに気づくべきであった、とボクなどは思うワケだが、最澄や日蓮に共通すると見られる“弟子を育成する師匠としての問題点”もまた、行き過ぎたパターナリズムにあるように見えるので、これは第十九章のようなパッチ当てでは解消し切れない、法華経理念が抱え込んでいる根本的な問題、と言うべきなのかも知れない。

 

 続いて、一乗真実三乗方便の敷衍を目的としたと思われる論述がなされる。曰く、衆生はそのようなものであるから、釈迦がいきなり一乗を説いても、かの子供たちのように衆生は理解しないであろう、と。そして、火宅のような三界からのがれ出なければ、彼らはどうして仏陀の智慧をよく理解することがありえようかと反語表現で強調されるのであるが、勢いに呑まれそうになるが、よくよく考えるとこの論理もまた、彼ら自身の主張といささか不整合である。

 

 法華経教団の言う一乗、如来の密意、仏知見が、ここで言われる通り、火宅の如き三界を逃れなければ決して理解できないものなのであれば、依然としてそこから逃れ出る手段としての三乗は必要である、ということになる。とすれば、そもそも法華経教団には殊更声聞衆と対立する理由がないことになる。声聞に限って言えば本章で受記を得た舎利弗よろしく、阿羅漢に至った声聞衆のみを相手に、いわば仏教のエキスパート編として法華経を説けば良いのであって、阿羅漢の育成は声聞衆にお任せ、という住み分けが可能になりはしないか。

 

 が、現実には、法華経教団は第十章に見たように、麾下の比丘衆のみならず有意の在家が自身で法華経を説くことを勧めているし、第十二章からは、彼らがそのことを以って対立声聞衆から非難されていたことが読み取れた。つまり、少なくとも法華経第二期の主張からは、一乗真実三乗方便が「一乗が明らかにされた上は、最早三乗は必要ない」という意味で用いられていたことがわかるのであり、天台法華教学も基本的にはその延長線上にある。

 

 また、こちらの方がより本質的であると思うが、今話冒頭においても私釈を示したように、法華一乗思想は、火宅の如き三界こそが仏陀のホームグラウンドである、とするその一点のみにその思想的価値があるのであって、三界の外側からパターナリズムで以って衆生を一本釣り救済する仏陀、などというものは論外であるはずなのだ。これは、第二十四章に見た観世音菩薩を、救済をもたらす絶対他者と捉えるか、信仰者のロールモデルと捉えるか、の問題にも通底するように思うが、そのような意味において、三車火宅の譬喩の作者は、どうにも当事者意識に欠けていると言わざるを得ない。

 

 この思惟の不徹底は、続く三車の譬喩それぞれへの言及にも顕著に現れている。やはり冗長なのでいちいちの引用は割愛するが、以下、三車火宅の譬喩で言われた羊の車、鹿の車、牛の車が声聞乗、独覚乗、菩薩乗に対応していることが、それぞれの改めての解説を付して述べられるのであるが、それらを方便として誘引し与えたのだとされる同一の大きな車については、それは素晴らしいものなのだ、ということが繰り返し賛嘆されるのみで、その実体が何であるのか、の論述を欠いている。

 

 ここからも、少なくとも本章が創作された法華経第一期の時点においては、彼らの信念は彼らが反感を抱いていた既存他教団に対するカウンターカルチャーの域を脱しておらず、彼ら自身が自分たちの言い出したことが図らずも抱え込んでいた思想に無自覚であったことが見て取れるのである。

 

 この後本章は、妙法蓮華経ベースで六百六十句二千六百四十字に及ぶ超長文の偈……最早韻文として暗唱する限界に達していると思う……で以って、ここまでの内容を再要約……これを要約と見做すのであれば、だが……して終わるのだが、おかしなことにこの偈は、その力点がここまでの内容からあからざまにズレている。具体的には、火宅の如き三界には語るにも恐ろしい魑魅魍魎が跋扈しているのであり……冒頭で触れた壇一雄が観念していたであろう火宅は、まさにコレであろう……そこから救い出そうとする法華経を誹謗するものには、世にも恐ろしい報いがあるのだ、という脅しが繰り返される。

 

 ここまで来て、そこへ堕ちるのか?と言いたくなる。日蓮が『立正安国論』に引いている「法華経は、法華経を信じずに死ぬと長さ5,000Kmの蛇のような体で生まれてくるだろうと言っている」の典拠となる一節も、意外なことにこの偈の中に登場する。護教的観点から善意でこれを解釈すれば、これもまた火宅の如き衆生を一乗に帰伏せしめるための方便なのだ、と言えなくもなかろうが、少なくとも文面上の修辞は、これをこの世の真理として断言する体であり、どうもこの筆者は、論敵を説得するための譬喩を勘案するうちに、自説を受容しない論敵への怒りの方が打ち勝ってしまって、論点が相手を貶める方へ滑ってしまったようである。

 

 さらに呆れたことに、このようないささか醜悪な文中に、第二章転読(うたたよみ)(第3話)で先取りして触れた“以信得入(いしんとくにゅう)”の依拠文が登場するのである。以下に引いてみよう。

 

 この経典は、浅薄な人々を惑乱させるかもしれないが、これは深い明智をもつ人々のために、私が説き示したものである。そこにおいては声聞たちのよく理解できるものではなく、辟支仏たちもそこには通達しえないのである。

 舎利弗よ、そなたは信心が堅固である。これらの私の他の声聞たちもそうである。彼らもまた私にたいする敬信によってこの経に入るのであって、それ以外の各自の智慧によるものではない。

 

 仏典の記述を己の知性で以って解釈し理解することには凡人には限界があるので、それをそのまま信じることを以って如来の知見に入るのだ、とする主張は、ここだけを切り文し、かつ、反知性主義的な問題点を棚上げすれば、それはそれで信仰というものはそういうものかも知れない、と思わないでもない。

 

 が、やはり、信じない者、疑う者、に対する恫喝を伴ってしまっていることには、ただただ残念だ、としか申し上げようがないし、繰り返しになるが、天台法華教学がこの問題点を取り上げることなく、ただただ教条的に釈迦の金言であるとして受容し続けてきたことについては、信仰者として怠惰であると指摘せざるを得ない。本章を「嘘も方便」という諧謔に転じた江戸の庶民の方が、まだ聡明である。

 

 

                    *

 

 

 と、今回はかなりネガティブな批評をおこなってみた。

 

 念のために申し添えておくが、ボクはこれを以って法華経、および、法華経本章を書いた人、を貶めたいワケではない。そもそも、そんなことをして何になると言うのか。ボクがこのように思惟し駄文を書き連ねて喜びに満ちているのも、元を正せば彼らのお陰……まぁ喜んでいるのはボクの変態的な個性によるものかも知れないし、事実、ボクはしばしば法華経を読みながら大笑いするので、妻からは変態扱いを受けている……なのであるから、感謝することはあっても責めることなどないのである。

 

 言わんとするところはまったく逆なのであって、それが意図されたものか意図せざる結果なのかはともかく、狭くは法華経成立に関わった人々、広くは<仏教>を積み上げて来た人々は、自分たちの理念が徐々に、良く言えば精緻化、悪く言えば肥大化していく過程を、本章に見えるように隠蔽していない。生焼け状態の思索を、存外二千年を経た今日においても容易に追体験できるのであり、ボクはそれを楽しんでいるのである。

 

 決して善悪良否を言うワケではないが、これは公会議で異端が定められる都度、少数派の文献を焼き捨てることが常であり、それを追跡するには正統側が残した記録から逆算せざるを得なくなっているカトリックなどとは対照的ですらある。この比較論も面白いテーマかとは思うが、連載本筋から逸脱しそうなので、備忘するに留め今日のところは捨て置こう。先はまだまだ長いのだ。

 

 以上を以って、法華経第三章“譬喩”の転読(うたたよみ)を終える。この転読自体が何かを譬喩しているような気がしないでもないが、まぁ、それは読者諸兄で好き勝手に解釈して欲しい。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。