思うに、一般的な日本人はいわゆるお経を「意味はわからないけれども何だか有難い呪文」というように認識している、と言って間違いないと思う。
たとえば、第3話で触れた妙法蓮華経
ショーイーショーホー、ニョーゼーソー、ニョーゼーショー、
ニョーゼータイ、ニョーゼーリキ、ニョーゼーサー、
ニョーゼーイン、ニョーゼーエン、ニョーゼーカー、
ニョーゼーホー、ニョーゼーホンマックキョートー……
いろいろな理屈(本筋ではないので割愛)があって、音読*1に際してはこれを三回繰り返して読むのが一般的だが、これを聴いて呪文だと思うな、という方が無理がある。
さて、ここまで本連載で見てきた法華経の各章の内容から、いわゆるお経が意味不明の呪文ではなく、その主張に納得するかどうかはともかくとして、さほど難解なことを言っているワケではなく、むしろ一部稚拙とすら思える理屈を捏ね繰り回しているに過ぎない平易な文章である*2ことは、ご理解いただけたのではないか、と思う。
が、法華経の全章がそうなのか、と問うとこれまた違うのであって、第7話となる今回は、全27章中でも際立って異色な第二十一章“ダーラニー”(妙法蓮華経
何が異色かというと、そもそも章題が異色である。これは、本連載底訳本の著者である中村師が章題をそのようにしておられるのでそれに倣ったものであるが、章中の陀羅尼についての訳註において、師は以下のように書いておられる。
原典の「ダーラニー」の呪文は、日本語音写すべきであると思われるが、K本、G1本、G2本、写本集成、また、チベット訳の五種類の版本を比較するとき、異なる語が見られ、どの語を音写すべきか決めがたいものがある。ここは羅什訳の音写語に従った。
これだけ抜き書くと読者諸兄には意味不明かと思うので不遜ながら語意を補うが、まずK本〜チベット訳の五種類の版本というのは中村師が邦訳に際して参照した諸写本のことを言っている。陀羅尼……この漢字表記がそもそもダーラニーの音写なのであるが……は呪文、つまり意味ではなくその音に価値があるとされるものであるから、邦訳に際しては本来的にはこれを片仮名なり平仮名で音写すべきであるが、諸写本間でこれが一致しないので、最も人口に膾炙した鳩摩羅什訳妙法蓮華経のそれを採用するのであしからず、というのが師からのお断りである。
つまり、本章は本当に「意味はわからないけれども何だか有難い呪文」から成る章であり、ゆえに、その章題も原典の音のまま“ダーラニー”と表記された、ということなのだろう、と思う。
また、本章は本稿底本中の章番(第二十一章)と妙法蓮華経中の登場順(第二十六)の乖離が大きい章でもあるのだが、これも師の訳註によれば、本章の位置は諸写本間で第二十一から第二十六までの間で揺れ動いており、底本が本章を二十一番目に配しているのは、単に、そうである写本が多数派だったから、らしい。逆に言えば、本章は法華経第三期の章の中でも、どこに配しても構わないほどに突き抜けて独立性の高い章だ、ということを含意している。
法華経全体に目を向けると、ダーラニーの語が初出するのは、序章と全章成立後に加わったと見られる第十一章後半(妙法蓮華経
第十ニ章転読に当たっては、特に触れる必要もなかったのでこの語を無視していたのだが、これは、同章も含めて本章以外にこの語が現れる場合、共通して何の脈絡もなく「そのとき〜はダーラニーを得た」と挿句されるのみで、それ以上の広がりが皆無だからであり、しかも各章に一回か二回である。と言うことは、法華経第二期の筆者は、途中から粉飾語句的にダーラニーに触れるようにはなったが、そこにはさほど積極的な意味はなかった、ということになるだろう。
法華経第三期に入ると、本章までの三章には一切ダーラニーの語は現れない。対して、本章以降は、第二十ニ〜二十三章に第二期同様に一回ずつ挿句された後は、第二十六章で突如頻出する。本章の全章中の位置が写本間で不安定なことには既に触れたが、以上のことを鑑みるに、おそらくは法華経第三期に入って「やっぱりダーラニーに触れる章があった方がいいんじゃない?」という話になって本章が作られ、以外にウケが良かったので続いて着手された第二十六章で多用されたものの、そこで法華経の拡充が終わってしまった、といったところが真相なのではないか、と思う。
ここで改めて本章の位置についての中村師の註を参照すると、写本の成立時期が新しくなるほどに本章が前に出てくる傾向があるので、意外に羅什の妙法蓮華経における位置がオリジナルに近いのかも知れない、などと思ったりもするのであるが、まぁ、楽しげに推理を進めておいて言うのもアレだが、実のところどうでもいい話だ。言わんとするところは、ダーラニーは、少なくとも法華経にとってはあってもなくても良いものだ、ということである。
ところで、ダーラニーとはそもそも何であろうか。陀羅尼、は音写である。“尼”の字が見えるが、女性とは何の関係もない。漢意訳としては、
輪廻転生観など、現代の我々が“仏教由来のもの”と考えてしまいがちな多くの概念同様、これも元来は仏教の産物ではなく、<仏教>者が“外道”と呼んで自分たちと区別した各種の祭儀……
後に、ここに神秘的な意味合いが付加されるようになり、マントラ……漢訳経典はこれを
つまるところ、本章は、一般的には密教の対概念となる顕教を代表する経典とされることが多い法華経に紛れ込んだ初期密教、ということになる。それはいったいどのようなものであったか、味わってみようというのが第7話のテーマとなる。
*
いきなり本筋から外れるが、本章冒頭に法華経全篇を通じてしばしば登場する面白い所作が紹介されるので、少し触れておきたい。
そのとき、薬王菩薩摩訶薩は座から立ち上がって、右肩の衣を脱ぎ、左肩は衣によっておおい、右膝を地につけて、世尊に向かって合掌、礼拝して、このように世尊に申し上げた。
昔の時代劇で渡世人が仁義を切るシーンなどをボクは想像してしまう……若い人はわからんかも知れんなぁ……のであるが、これは“
本件に限らず興味深いなぁ、と思うのは、仏教にせよキリスト教・イスラム教にせよ、その良し悪しは別にして、世界宗教・普遍宗教を自認している割には、こういった特定の時代・地域のみで通用した礼法・習慣を聖典の中に記録していることが存外多いこと。それに起因して、主に教条的保守派や原理主義者が、無意味な所作を現代の信仰者に押し付けるといった事態もしばしば散見される。最も極端な例を挙げれば“割礼”などがそれだろう。
特に、法華経が、自分たちのそれとはまったく異なる世界や時代をそもそも想定しているにも関わらず、ここに例示したような極めてローカルな礼法をさも当然のように記載していることを鑑みると、少なくとも本章の書き手は、自分が記録しているこういった所作が、自分の周囲のごく限られた範囲でのみ意味を持つものであり、場所や時代が遷移すれば無意味になってしまうかも知れない、という事実に対して自覚がなかった、ということがわかる。
一方で、ここまで本連載で例示してきたように、法華経が主張する視点には現代に通じるものも多々含まれており、それが信仰として有意味な部分になるワケだが、それと上に述べたようなローカルな習慣が文面上区別されない、ということは、後世の我々が有難がるほどには、聖典テキストの書き手は、何が時代・地域を超えて普遍的なものであって、何がそうでないか、をわかってはいなかった、ということを示していると言えよう。
本章に見えるダーラニーも、まさにそのような例のひとつであるように思う。
本章は上引用に見たように、第十二章以来の再登場となる
いい加減見飽きてきた感じのするシチュエーションであるが、同じく薬王菩薩と釈迦の問答になっている第十章……本章のこのやり取りは、それを本歌取したものと思われる……のそれが、法華経を聴いて(意味を理解し)歓喜したり、自身で法を説いたり経典を書写したり、といった状況を想定していたのに対し、ここでは経巻として受持するといった、極めて形式的なことが主題になっている点に注目したい。
いささか勇み足な解釈ではあるが、おそらくこれは在家信仰のカジュアル化を反映したものではないか、と思う。第十章が書かれた時点では、法華経教団が想定していた在家信仰者の参加形態は、お布施をすることはもちろんとして、経典を聴いたり書写したり、ときには出家者に混じって自ら説いたり、と積極的なコミットを含んでいた。概ね第二期までの法華経は、出家・在家を問わず、信仰活動への参加が明に暗に呼びかけられている。
が、時代が下って……私見では法華経第一期から第三期までの間には百年前後の時が流れている……お布施は惜しまないが、手間を惜しむ人々が現れたのだろう。これが、信仰の形骸化を反映したものなのか、社会活動の複雑化……商業的富裕民が余暇時間を失うのは世の常である……を反映したものかは俄かに判じがたいが、書写された経巻を贖って所有する以上の信仰活動への参加をしない・できない人々が一定数現れ、この人々に対するケアが必要になって本章が書かれたことが想定されるワケだ。
この問いに対し、釈迦……クドいが、法華経教団を代弁するキャラクタであって、歴史上の釈迦その人ではない……が「八十恒河沙、百千万億那由他の如来を供養する功徳はいかほどか」と、問い返す。この流れも見覚えのあるもので、第二十四章で観音様の救済を強調する際に用いられていたものと同じである。章番は観音経の方が大きいが、先に述べた理由から、おそらく本章の執筆の方が後であり、やはりこれも本歌取なのだと思う。
とまれ、その結論するところは容易に想像できる。釈迦は薬王に、それはたくさんでありましょうと一旦言わせた後に、以下のように続ける。
だれかある善男子か善女人で、この“妙なる教えの白蓮華”の法門から、四句よりなる詩句の一つだけでも受持し、読誦し、熟達し、修行によって成就するとすれば、薬王よ、かの善男子あるいは善女人は、この因縁によってはなはだ多くの福徳を得るであろう。
どうにも直前の修辞とのつながりが悪いような気がしないでもないが、まぁ、予想通りの展開ではある。が、これも細かいことながら注目しておきたいのは、四句よりなる詩句の一つだけでもとの挿入句である。これは具体的には偈の一句を指していると思われる。つまり、明示こそされていないものの、この対話は、経巻を所有する以上の信仰参加をする気がない在家信者に対し、一句のみでいいから読め(あるいは、詠め)、と釈迦を騙って示された妥協案であるように見える。
以上の前振りを経て、ようやく本章の本題に入る。
そこで、薬王菩薩摩訶薩は、そのとき、世尊にこのように申し上げた。
「世尊よ、私たちはこの“妙なる教えの白蓮華”の法門を身にいだいたり、経巻とする善男子あるいは善女人たちに対して、守護し、保護し、擁護するために、陀羅尼の呪文の句を与えましょう。それは、次のような句です。
やはり、微妙に会話が噛み合っていない。直前の釈迦の発言は前述したように「一句のみでいいから読め」と善男子・善女人に勧めているが、対する薬王菩薩は法門を身にいだいたり、経巻とするというように、形式論で応じている。
が、これは修辞が下手糞なのではなく、意図されたものではないか、とボクは読む。
というワケで、薬王菩薩が示すダーラニーを見てみよう。本稿底本では妙法蓮華経が採用している音写漢字表記になっているが、漢字自体には意味はないので、敢えて音読の読みをカナ表記する。
アニ、マニ、マネイ、ママネイ、シレイ、シャリテイ、シャミャ、シャビタイ、センテイ、モクテイ、モクタビ、シャビ、アイシャビ、ソウビ、シャビ、シャエイ、アシャエイ、アギニ、センテイ、シャビ、ダラニ、アロギャバサイハシャビシャニ、ネビテイ、アベンタラネビテイ、アタンダハレイシュダイ、ウクレイ、ムクレイ、アラレイ、ハラレイ、シュギャシ、アサンマサンビ、ブッダビキリチテイ、ダルマハリシテイ、ソウギャネク、シャネ、バシャバシャユダイ、マンタラ、マンタラシャヤタ、ウロタ、ウロタキョウシャリャ、アシャラ、アシャヤタヤ、アバロ、アマニャナタヤ、ソワカ。
何じゃコリャ、と一見思うのであるが。
冷静に考えてみれば、そもそもの法華経原典全文も同じ言語で書かれているのであって、ここだけが特別にこのようであるワケでは本来ないのである。が、この部分が薬王菩薩の台詞でもって呪文の句とされていることから、妙法蓮華経を漢訳した
部分的にであれば意味を追うことができないでもない。たとえば、本連載でしばしば引く『日興記』に以下のような部分がある。
御義口伝に云く、
ここで言われている安爾、曼爾は、上引用ダーラニーの書き出し部分のことであり、日興が日蓮に口伝されたところによれば、それぞれ“止”と“観”の意なのであって、天台大師の『摩訶止観』の“止観”はここから来ているのだ、ということらしい。
この調子で全部説明してくれていたら、と思うのだが、同書はこの安爾・曼爾以外のダーラニーは一切スルーしているため、日興記からわかるのはこれだけである。これが真に日蓮の口伝であるにせよ、日興またはその門流が師を騙って言ったことであるにせよ、なぜ日興記は強いてこの部分にのみ言及しているのだろう、という疑問が残るのであるが。
他にも意味がわかる部分はある。たとえば、ブッダビキリチテイ、ダルマハリシテイ、ソウギャネクの各句の頭、つまり、“ブッダ”、“ダルマ”、“ソウギャ”は、要するに“仏・法・僧”のことであろう。音の似た別語である可能性がないワケでもないが、連関のある三語が偶然連続するとも思えないし、実際、妙法蓮華経はそれぞれの音写漢語(仏陀・達磨・僧伽)を充てているので、ここはいわゆる“
加えて、これはよく知られた定型句なのでわかるのだが、ダーラニー末尾のソワカは、他のダーラニーや後のマントラ=真言の多くの末尾にも共通して現れるものであるが、本来の発音は“スヴァーハー”であり、強いて日本語訳すれば「幸あれ」「栄光あれ」、キリスト教でいうところの“ハレルヤ”的な常套句であったらしい。
羅什に先行して『正法華経』を訳した
奇異、所思、意念、無意、永久、所行奉修、寂然、澹泊、志默、解脱、濟渡、平等、無邪、安和、普平、滅盡、無盡・・・・・・
となっている。奇異、所思は現代語的に直すと「不可思議、思惟」ほどの意味になるらしく、前述した日蓮遺文の「止観」がこれに対応する。強引に通訳すれば「考えることを止めざるを得ないものを敢えて観る」といったところか。個人的には「日立、不思議、発見」とでも訳したいところだが、冗談はさておき。日興記が伝えるのは天台大師の解釈によるもので、原語も竺法護訳も文章としては読むことができず、意味ありげな単語を並べたもの、といった体である。
とまぁ、いったい何を言っているのかについては興味がつきないのであるが、言っている本人が呪文の句だと言っていることでもあるし、連載種本を含む他の法華経日本語訳……とりあえず岩波文庫版、新書版は確認した……でも特に意味内容に触れていないので、ここでは、まぁ、何か意味はあるようだが、さほど気にする必要もないものらしい、といったところにしておこう。
世尊よ、これら陀羅尼の呪文の句は六十二のガンジス河の砂の数にも等しい諸仏・世尊によって説かれたものです。ですから、このような説法師や、このような経典を受持する人たちを悩乱させるものは、そのすべての仏・世尊に敵意をいだくものにほかなりません。」
ダーラニーに続いて、上引用が薬王菩薩の発言として続く。どうにも意図がよくわからない。特にわからなくなるのは、ここに見える「六十ニ恒河沙の諸仏が説いたものだ」との断言である。原則としては、この手の断言は法華経中においては釈迦の専売特許であったはずである。なぜ、薬王菩薩はこの謎の呪文について、このように言い切ることが出来るのであろうか。
これに対する釈迦の返答が、また輪をかけてわからない。
素晴らしいことである。素晴らしいことである。薬王よ。そなたはこの陀羅尼の句を説き、多くの衆生を利益した。薬王よ、衆生たちに対する慈悲と哀れみのゆえに、よくぞ守護し、擁護し、救護することをなしとげた。
本当に他に何の付加説明もなく、上引用の発言が釈迦からなされる。薬王菩薩がおこなったことは、単に意味不明なダーラニーとされる一節を述べたのみ、であるが、なぜ、これが守護し、擁護し、救護することをなしとげたことになるのだろうか。
さらに謎なことには、本章における薬王菩薩の出番は、これで終わってしまうのである。変わって
ザレ、マカザレ、ウツキ、モツキ、アレ、アラハテイ、ネレイテイ、ネレイタハテイ、イチニ、イチニ、シチニ、ネレイチニ、ネリチハチ、ソワカ。
と、前出のそれに比べれば短めのダーラニーを示した後、薬王菩薩とほぼ同じこと、つまり「この陀羅尼の句は恒河沙の諸仏によるものです、法華経を説く法師を悩ませる者は諸仏の敵です」と断言し、そして、もう笑うしかないのだが、釈迦からの返答すらなく、これで法華経全篇における彼の出番がやはり唐突に終わる、何の説明もなしに。
……何が起こってるんだー!?
そして、空恐ろしいことに、同じ流れがまだ続くのである。三番手を務めるのは
アリ、ナリ、トナリ、アナロ、ナビ、クナビ、ソワカ。
とダーラニーが示された後は、やはり前ニ菩薩と同じことを言って退場する。想像がつくとは思うが、まだこれがしばらく続くのであるが、一旦置こう。とにかく意図不明瞭な本章であるが、その根本的な部分の疑問は少し棚上げして、ここまでの部分から推測できることを確認しておきたい。
第一に、ここまで三つのダーラニーを例示しているが、こうして並べて比較してみるとわかることがある。どうやらこれは、何らかのルールに従っている韻文らしい。全句がそうだ、というワケではないが、多くの句が概ね前後の句と音節の一部を共有しているように見える。何を狙ってそうであるのかはよくわからないが、ともかくダーラニーというのはそういうもののようである。
第二に、これも実態として何を意味しているのかはよくわからないが、一見適当な言葉をただ並べたように見えるダーラニーであるが、釈迦の薬王菩薩に対する返答を素直によむと、何らかの形で衆生の役に立つものであるらしい。また、それは何らかの形で衆生を“護る”類の役立ち方が想定されていることが読み取れる。
第三に、これまた不可思議なことではあるが、ダーラニーは本章も含め法華経全篇に渡って、教主たる釈迦から教え示されるもの、ではなく、菩薩や諸天(インド土着宗教に由来する神)から「諸仏が説いたものである」という体裁で以って示される。繰り返し述べているように、法華経自体が法華経教団によって釈迦を騙って語られたものであるのだから、ダーラニーもまた釈迦の発言として示しても良さそうなものであるのに、そう出来ない、あるいは、したくない、何らかの事情があるようだ。
以上のことから、あくまでも私見である、と断った上で書くが、ダーラニーは本来、経典の暗唱に取り組む初学者の練習用フレーズだったのではないか、とボクは考えている。現代の我々が暗唱という行為を考える場合、文字テキストの音読を繰り返す、というスタイルを想起してしまいがちであるが、法華経が成立した当時の人々の識字率がそんなに高いはずはないので、ほとんどの場合それは口伝によっておこなわれていたはずである。
無論、理屈の上で言えば、法華経を含む仏典テキストをそのまま伝え聴き、復唱することを繰り返して練習することを否定する理由はないのであるが、それに取り組む本人たちからとってみれば、それは紛うことなき聖典なのであって、万が一にも間違って覚えたり誤って復唱したりすることが憚られるものである。一方で、ダーラニーのように、まったく無意味なワケではないが、比較的覚えやすい韻文と定型句からなるフレーズは、聴きながら覚えるという技能の練習台としては好適であったのかも知れない。
このように考える理由はもう一つあって、それは、本稿で取り上げたダーラニーを示す菩薩・諸天の発言に共通するニュアンスとして、法華経の説法師の過ちを指摘するヤツは許さない、というものが含まれるからである。過ちは誰かに指摘してもらえないと改められないじゃないか、とか思うが、第十ニ章の二十行の偈からも読み取れたように、法華経教団には自分たちに対する批判を一切合切悪口として切り捨てる傾向があったようなので、法華経の章句の暗唱を間違えること、特に、立場の異なる仏教徒の前でそれをしてしまうことにもまた、我々が想像する以上の忌避感が働いていたのだろう、と思う。
そのような背景から、指導者から示されるダーラニーをほぼ百発百中暗記復唱できるようになった熟達者が、仏典テキストの口伝継承に本格的に取り組むことを許されたのではないか、と考えると、上に挙げた三つの特徴すべてに納得がいく。つまり、それは偈に通じる韻文構造を持ち、衆生の仏典テキストへの取り組みに役立つものであり、かつ、釈迦の説法そのものではないので誤っても害がないが、究極的には諸仏の衆生救済を目的とした知恵に位置づけられるものとなる。
だがしかし。同時にダーラニーは、<仏教>から見れば外道であった婆羅門の呪術にも通じるものであった。厳密に言えば、当時のインドに仏教以前から連綿とつづいた呪いの章句を扱う文化があって、これを<仏教>が仏典の口伝継承者の育成に応用したものであろう、という話になるのだが、そのような文化が背景にあるがゆえに、このメソッドが形骸化すると、ダーラニーあるいはマントラ自体に神秘的な力があるのだ、とする観念が生じるのは、我々が想像するよりも遥かに容易であったのは間違いない。
さらに二回、同じパターンが繰り返される。
登場するのは、まず、前出の毘沙門天同様に四天王の一角を占める
参考までに、それぞれの示すダーラニーを以下に引いておこう。
増長天、あるいは持国天、あるいは無名の誰か:
アキャネイ、キャネイ、クリ、ケンダリ、センダリ、マトウギ、ジョウグリ、フロシャニ、アッチ、ソワカ。
鬼子母神と十羅刹女:
イデイビ、イデビン、イデイビ、アデイビ、イデイビ、デイビ、デイビ、デイビ、デイビ、デイビ、ロケイ、ロケイ、ロケイ、ロケイ、タケイ、タケイ、タケイ、トケイ、トケイ、ソワカ。
何と言うか、鬼子母神のそれからはネタ尽き感が漂っていなくもないが、まぁ、いずれもそもそも深い意味はないもの(ぉぃ)であるからして、捨て置こう。
ここまで、ダーラニーを示した菩薩・諸天は、各自の仕事を終えると速やかに退場していったのであるが、最後に登場した鬼子母神たちにはもう一仕事残っている。すなわち、彼女らはやはり何の前置きもなく突如として、似たような章句を四回繰り返す短い偈を詠うのであるが、その最初が以下のものになる。
この呪文を聞いて順わず、説法者を悩乱するものは、その頭は七分に破れ裂け、阿梨樹の花房のようになるであろう。
ピンと来た読者がもしいたら偉い、というか怖いが、この一節が日蓮の曼荼羅に見える“若悩乱者頭破七分”の文言の典拠になる。直接そうだ、とは書いていないが、鬼子母神や十羅刹女を超自然の神・精霊として仮定するならば、法華経を信じるものを惑わす者がいれば、彼女らが頭を七分に破り裂きに来るぞ、という意味だろうか。鬼子母神がいつ妻に取り憑かないとも限らないので、今夜からはヘルメットを被って寝よう。
そういう冗談はともかく、説法者を悩乱するものを罰する、というネガティブな形ではあるが、こうして鬼子母神たちが法華経を奉じる人々の守護を誓う。
これを以って、今日においても日蓮宗穏健派の人々の間では、特に安産や子育て、ひいては家内安全の神様として鬼子母神が信仰される、ということになるのだが、ここで強いて“穏健派”と書いたからには対局に“過激派”がいるのであって、むしろ日蓮の言説に教条的な宗派においては、鬼子母神信仰は忌避される傾向にある。これは、同神の加護を願って陀羅尼呪を唱える行為が、晩年の日蓮が精力的に論難した真言宗のそれに通じるため、過激派の言い分としては「陀羅尼品の論述は、法華経信者を守護する諸天を譬喩的に示したもので、信仰対象ではない」ということになる。
本稿はどちらの言い分が正しいか、を判じることを目的としない……っつーか、判じる価値もない……が、それでも敢えてこの話題を取り上げたのは、次下以降の内容、ひいては本章が法華経に含まれる意味合いに通じるものを、個人的に感じているからである。
まことによろしい。姉妹たちよ、そなたたちがこの法門の名号だけでも受持する法師たちを守護し、擁護し、救護しようとする福は量ることができないほどである。
彼女らの偈を、釈迦……クドいが法華経教団を代弁するキャラクタである……が賛嘆して上引用のように言う。発言は今少し続くが、以下は粉飾文として無視してよかろう。本章はこれを以って終わる。
お気づきかと思うが、この一節は、
但法華経の題目計りを唱えて三悪道を離る可きことを明さば(中略)第八に云く、汝等但能く法華名を受持する者を擁護する福量る可らず
受持法華名者福不可量の事、御義口伝に云く法華の名と云うは題目なり。
一方で、法華経を書いた人々の立場から考えた場合、ここに見える主張、すなわち、この法門の名号だけでも受持するというのは、一乗真実三乗方便の教説を信受すると共に、共感・歓喜せよ、仏陀とその法を礼拝せよ、と比較するとき、かなり後退している、と言うか、妥協の産物であるように見える。これは何を意味しているのだろうか。
以下、例によって例の如く甚だ論拠に乏しい私見であることをお断りした上で、本章が法華経第三期の中にあってもその最末期に増補されたと思しきことも鑑みるに、その時点の法華経教団が、自分たちを支える在家衆に対して妥協せざるを得ない状況にあったことが反映されているのではないか、とボクは考える。これは言い方を変えれば、信仰の形骸化が始まっていたのではないか、ということである。
つまり、こういうことだ。
法華経全体は百年前後の時間をかけて整備されていった、と考えられるが、本章が書かれた第三期末期というのは、出家・在家を問わず、法華経第一〜ニ期の対立声聞衆との緊張感の中から自分たち自身の信念を自分たち自身の言葉で綴りあげた世代、また、その世代から直接その体験を聴くことが出来た世代が、徐々にこの世を去っていった時分である、と考えられる。別の言い方をすれば、この時期の法華経教団は、指導的立場の者にせよ、追従する在家にせよ、歴史上の誰かによって大成された経典として法華経を受け取る世代へと交代しつつあった、ということである。
これを前提に考えるとき、本章冒頭の、いささか噛み合わない釈迦と薬王菩薩の対話の真意が明らかになる。釈迦、つまり教団の指導層は詩句の一つだけでも受持し、読誦し、熟達することを求めている……この時点でかなり後退しているのだが……のに対し、在家信徒またはその教化の前線に立っている人にあたる薬王菩薩は法門を身につけたり、経巻として受持するという妥協案で応じているように読めるのだ。
同時に、このやり取りからは、法華経教団全体の総意として、どのような形を採るにせよ、法華経それ自体を後世へ確実に継承していくことが最重要課題として共有されていたことがわかる。その上で、釈迦は一句一偈なりとも理解して伝承せよ、と言っているのに対し、薬王菩薩は文字化されたテキストを所有するので精一杯です、と言っているのが、本章冒頭の対話なのである。
とすると、続けてダーラニーが示される理由も見えてくる。前述したようにダーラニーは法華経に限らず、仏典の口頭伝承に参加する人向けのトレーニング教材であったと想定されるのであるが、このダーラニーの暗唱を菩薩や諸天の言葉で以って推奨することで、次代の法華経口頭伝承の候補者を募っているのだ。これがボクの考える本章創作の、直接の動機である。
が、その時点でこの試みがどのような成果を得たか、あるいは得なかったか、については知る由もないが、歴史的にみた場合、大きな副作用を生じせしめたことは疑いない。一言でいってしまえば、法華経の密教化、ということになる。つまり、元来は、法華経テキストの口頭伝承を確実にするための“方便”であったはずのダーラニーが、口頭伝承されていくはずだったセントラルドグマを押しのけて、信仰の中心を乗っ取るのである。
個々の論証は手に余るものの、いわゆる密教はこの流れの果てに生まれた信仰形態であるように思うし、その日本に至った末流となる真言密教や天台密教を批判した日蓮自身もまた、ここに見える密教化した思考なしには「法華経の題目のみを唱える」という発想には決して至らなかったはずである。さらには、その日蓮の末流もまた、法華経に内在した密教を“再発見”し鬼子母神に対する神祇信仰へ陥った、と理解することができる。
いささか踏み込み過ぎの解釈であるように我ながら思うが、本章以外で唯一陀羅尼呪が示される法華経第二十六章“あまねく賢明な菩薩が人に勧めて仏道を修める心を起こさせる”が、本章に垣間見える法華経の密教化を敷衍しているように読めるので、次話でこれを取り上げて改めてその意義を論じてみたい。
以上を以って、法華経第二十一章“ダーラニー”の
たとえば、妙法蓮華経中で最も人口に膾炙しているのは如来寿量品第十六後半の偈、通称“自我偈”であり、かく言うボクも淀みなく暗唱することが出来るが、
自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万
億載阿僧祇 常説法教化 無数億衆生
令入於仏道 爾来無量劫……
冒頭八詩句は上引用の通りだが、これを音読する際……葬式の読経を想像してもらえればいい……一般的には以下のように発声される。
ジーガートクブッライ、ショーキョーショーコッシュ、ムーリョーヒャクセンマン
オクサイアーソーギー、ジョーセッポーキョーケー、ムースーオクシュージョー
リョーニューオーブツドー、ニーライムーリョーコー……
おそらく、ボクもこれを覚えたての頃はこういう感じに発声していたのだ、と思うのだが、いつ頃からか字義に意識が引っ張られて詠み方が以下のような感じになってしまったのである。
ジガ、トクブッライ、ショキョウ、ショコウスウ、ムリョウヒャクセンマン
オクサイ、アソウギ、ジョウ、セッポウ、キョウケ、ムスウオク、シュジョウ
リョウニュウ、オブツドウ、ニライ、ムリョウコウ……
おわかりいただけるだろうか?
別に、上段に示した読み方が正しくない、といったような意図で言っているワケではない。自分でやってみればわかると思うが、発声のしやすさで言えば上段のそれの方が圧倒的に楽なのである。が、この読み方をすると、意味が頭に入って来なくなって本当に呪文になってしまうのである、少なくともボクにとっては。
で、意識的にそうしたワケでもないのだが、いつの間にか下段に示したような……要するに、調子を整えるための長音化を止め、意味の切れ目で一息止めるようになった、ということなのだが……読み方が癖になったのであるが、コレが存外評判が悪く、読経に変な癖がある、と指摘されるのはマシな方で、人によっては面と向かって罵倒されることもあって、それで初めていつの間にか自分の読経が変化していたことに気づいたのだった。
まぁ、あくまでもボクの個人的な体験に基づく話なのではあるが、ここからわかるのは、宗教コミュニティにおいても、お経の意味を意識して読む、という読み方は、必ずしもメジャーではなく、むしろ意味不明な呪文として読むのが普通であって、そうでない人間に敵意を剥き出しにする人すらいる、という事実である。
とまれ、そういう手合はもう漢訳経典なんかも詠むのは止めて、今話に紹介する意味不明なダーラニーを有難がってりゃいいのに、ということが言いたかった。ま、誰にも共感してもらえないとは思うけどね、こんな話。いや、カトリックの人はミサ等の言葉使いでそういう矛盾、というか、やるせなさを感じてる人がいたりするかなぁ?