法華経転読   作:wash I/O

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第8話 形骸化する信仰……第二十六章“あまねく賢明な菩薩が人に勧めて仏道を修める心を起こさせる”

 普賢菩薩(ふげんぼさつ)は、現代においては既に触れた観世音菩薩=観音様ほどの認知度はないかも知れないが、我が国では厚い崇敬の対象にされてきた菩薩であり、特に、中世においては貴族階級の女性からの人気を観音様と二分した菩薩である。伝統的には、同じく法華経に登場する文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)と共に、釈迦立像を信仰する場合の脇士とされる。文部科学省の実験検証原子炉が“ふげん”、“もんじゅ”と命名されたのもここに由来する。

 

 第8話となる今回は、この普賢菩薩が登場する法華経第二十六章“あまねく賢明な菩薩が人に勧めて仏道を修める心を起こさせる”(妙法蓮華経普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぽつほん)第二十八)を転読(うたたよみ)していきたい。

 

 前話で取り上げた第二十一章を除けば、具体的なダーラニーの呪文が示されるのは本章のみであり、また、定型パターンで以ってダーラニーの提示を繰り返す同章に比して、本章は曲がりなりも一連の物語構造を有しているので、そこから法華経におけるダーラニーの持つ意味合いを邪推してみよう、というのが今回のテーマとなる。

 

 法華経全篇を通して見たとき、普賢菩薩は序章にすら登場せず、本章にのみその名が見える。このような扱いを受けているのは、主要キャラクタ中では普賢菩薩だけだ。全篇中における本章の位置から考えても、本章が全二十七章中の最末期に増備されたことはほぼ確実であり、ひょっとすると、序章が作られた後に本章が付け加えられたから、かも知れないが、序章に見える登場人物一覧、すなわち釈迦が霊鷲山において法華経の説法をおこなった際……もちろん、これは歴史的事実ではなく、法華経教団の創作した物語に過ぎない……に同席した人々の一覧に彼が含まれないことには、いちおう筋の通った理由がある。

 

 彼は娑婆世界(しゃばせかい)、すなわち我々が住むこの宇宙、の住人()()()()からである。

 

 どっひゃー!!

 

 そのとき、普賢菩薩摩訶薩は、東方より、数えることのできないほど多くの菩薩摩訶薩とともに人々に取り巻かれ、敬われ、途中のもろもろの国土を震い動かせ、蓮華の雨を降らし、百千億那由他の楽器を奏でながら、菩薩の威徳と、菩薩の偉大なる変化の力と……(中略)……このような思議を超えた神通による変化を現わしながら、普賢菩薩摩訶薩はこの娑婆世界に到着した。

 

 あまりに粉飾語句が多いので一部割愛させてもらったが、本章は上引用の書き出しに始まる。ビジュアルを想像するとトンデモない光景である。何か明確な根拠があって言うワケではないが、ジャパニメーションにしばしば見られる異形の者たちが大挙して行進・登場するシーンのイメージの源流は、存外ここにあるのではないか……直接的には百鬼夜行かも知れないが、百鬼夜行もまた、ここに源流があるような気もする……などと考えさせられる。ともかく、常軌を逸したイマジネーションである。

 

 一方で、イマジネーション不徹底な部分がないでもない。

 

 と言うのも、娑婆世界に到着した普賢菩薩が最初にやるのが、仏足頂礼(ぶっそくちょうらい)だからである。漢訳経典を通じて我々がそれを知ったがために“仏”の字が見えるが、そもそもは古代インドの、仏教者に限らず尊敬すべき相手に対してとられた所作に由来するらしい。汎世界的に通用する侮りの所作として、相手の頭を踏みつける、あるいは靴を舐めさせる、といったものがあるが、その逆バージョンと言ったところか。

 

 前話でも論じたように、この礼法が法華経が説かれた古代インド以外の社会で通用する謂れはないし、そもそも、娑婆世界以外から来訪した普賢菩薩に頭や足といった構造があるのか……本章には彼自身の容姿についての説明は一切ない……が疑問である。もちろん、これは冗談で言っているのであるが、後日触れるが、法華経執筆者の中にはこの枠組みを明確に意識して、更にトンデモないことをケロッと書き遺したヤツもいるので侮れないのである(コレについては第11話にて取り上げる)。

 

 世尊(せそん)よ、私はかの世尊の宝威徳上王(ほういとくじょうおう)如来の仏国からこの国土にまいりました。世尊よ、この娑婆世界において、この“妙なる教えの白蓮華の法門”が説き示されていると知り、私はそれを聴聞するために、世尊であられる釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)のもとに来詣いたしました。

 

 普賢菩薩が開口一番に発するのが上引用の台詞。SF読みでもあるボクとしては「そんなファーストコンタクトってアリかよ?」とか思うのであるが、書き手にとっては大した問題ではないようだ。同時に、トンデモ本読みでもあるボクとしては現代の「宇宙人から宇宙の真理を授かりました」と無邪気に主張するトンデモさんたちが、自分たちの思いついた……失敬、宇宙人から授けられた真理とやらの伝道に注力するあまり、肝心の宇宙人の描写がぞんざいになりがちであること、以って主張全体の説得力が失われるのみならず失笑の対象となること、に通底するものを感じる。

 

 つまり、本章書き手の意識は、法華経が説かれるという事象は他の宇宙から聴聞しに来たくなるほど稀有で貴重なことなのだ、という主張に置かれているのであり、逆に言えば、現代のトンデモさんたちがそうであるように、彼らは他宇宙から来迎した普賢菩薩の権威で以って自身の主張を裏付けしているだけ、ということになる。もちろん、彼らやトンデモさんたちが期待しているほどの権威が本当にそこにあるのか、というのはまったく別問題なのであって、これらのケースに限って言えば、断言するがまったくない。

 

 この修辞上の問題は、広くは法華経全篇に共通するのであって本章のみに限ったコトではないのであるが、それにしても、宝塔の出現を除けば(厳密に言えば第二十三章もそうだがコレについては後日改めて)原則的には釈迦の語る物語の中に現れるのみであった他仏国土が、法華経最末尾に当たる本章に至って、改めてその実在を観念される体で登場することには、何らかの意図が込められている、と考えるべきだろう。ここでは結論を急がず、もう少し本章を読み進めることにする。

 

 さて、本人が語るところによれば普賢菩薩は『法華経』を広く説き明かして欲しくてはるばる異世界から我らが娑婆世界を訪ねたそうだが、まぁ、そもそも終劇間近にやって来て何言ってんだ、という気がしないでもないが、これを迎えた釈迦……繰り返すが、法華経教団を代弁するキャラクタであって歴史上の彼ではない……は、例によって例の如く、いささか噛み合わないことを言い出す。あまりに噛み合わないので、妙法蓮華経を漢訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)はここに、

 

 若善男子善女人。於如来滅後。云何能得是法華経。

 

 つまり、若し善男子・善女人ありて、如来の滅したる後において、云何にして能く是の法華経を得んという、他のどの写本にもない挿句を補っている。要するに、普賢菩薩の要請にもかかわらず、釈迦は法華経そのものではなく、釈迦の死後においてどうすれば法華経を得ることが出来るか、ついて語り出す。もちろんコレは、この釈迦が空気が読めないから、ではなく、本章の書き手が本章を通じて言いたいことがそちらにあるからであって、それに対して前振り……他仏国土からの普賢菩薩ご一行の来迎……が大袈裟過ぎたのである。

 

 逆に言えば、少なくとも本章が執筆された時点で、それだけ大袈裟な前振りを以ってしてまで強く主張したいことがあったればこそ、このようなちぐはぐな修辞が用いられたのだ、ということは言えそうである。

 

 さて。

 

 言葉通りの意味としては、如来滅後という語は法華経教団にとっての現在、つまり紀元1〜2世紀頃のインドも含んだ言葉であり、実際、第十章の用例を見れば、第二期までの法華経がむしろそちらの意味でこの語を使っていることがわかる。対して、本章の普賢菩薩と釈迦の対話に見える如来滅後はいささか異なる意味合いを持っていて、結論を先取りすれば、前話末で触れた法華経教団の世代交代が前提としてあって、本章のいう如来滅後は、法華経教団を代弁するキャラクタとしての釈迦が死んだ後、つまりは、法華経を成立させた人々が死に絶えた後のことを言っている。

 

 なぜコレが言えるのかというと、本章と第二十ニ章のみに見出だせる表現(厳密には第十三章にも存在するが、これは少し意味合いが異なると思われる、詳しくは後日改めて)漢訳妙法蓮華経から拾えば如来滅後後五百歳というものがあるからである。

 

 天台大師や日蓮はこの語を、いわゆる末法思想における“末法”の意と解していたようであり、日蓮の主著『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』の題号も実にここに由来するのであるが、既に論じたように、法華経自身からは末法思想は読み取れない。如来滅後後五百歳は、法華経教団にとっての現在=如来滅後とは区別される何かであるが、後世の天台法華が考えた末法でもないのであり、法華経第三期の中でも教説の維持伝承に強い関心を示す第二十二章と本章にのみこの語が現れることから、コレが知れるのである。

 

 これを念頭に置いた上で、本章の書き手が異世界からの来訪者を招いてまで言いたかったコトを探っていくこととしよう。

 

 善男子らよ、四種の法をことごとくそなえる女性は、この『法華経』を得ることができるであろう。四種とは何かというと、すなわち、(1)諸仏・世尊に加護せられるようになること(2)徳本を植えたものとなること(3)真実の集団のなかに入っているものとなること(4)すべての衆生を救護するために、無上の正しい覚りに向かって発心することである。

(付番、下線は引用者による)

 

 普賢菩薩の「法華経を説き明かしてください」との請願に対し、釈迦……クドいが歴史上の釈迦その人ではない……が半ば問いを無視して語るのが上引用となる。

 

 まず、上引用を素直によむと女性限定の話をしているように見えるが、これは写本間に差異がある。中村師は上のように訳出しているが、たとえば妙法蓮華経の当外部は「もし、善男子・善女人があって」というように、性差を問わない表現になっている。いずれが正しいにせよ、むしろコレは、第二期までの法華経に女性蔑視が潜在していることを前提として、ここで述べることは男性限定の話ではないのだ、というところに力点があるのだろう。

 

 以下、ここで言われる『法華経』を得る……これは得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)と同義と思われる……ための四種の条件を検討してみたい。

 

 下線部(1)は、加護の動作の主体は諸仏・世尊であるから、これを聞いている善男子・善女人側にはどうしようもない話のように読めるが、おそらく言わんとするところは、授記の要件にも見える、釈迦と法華経を礼拝せよ(その結果として加護を得よ)の意であり、平たく言えば、食べ物や財物を法華経教団に供出せよ、を遠回しに言ったものと思われる。

 

 続いて下線部(2)であるが、ここに見える徳本(とくほん)の語は、法華経第三期、特に第二十三章以降に頻出する無定義語、つまり、それが何であるか説明されないまま用いられる語、になっている。中村師は欄外註に衆徳の本、善根と同意とされているが、これとて、師には申し訳ないが、説明しているようで説明になっていない。やはり授記に関する第一期の論述から類推すると、前世以前において釈迦(の前世)から受けた薫陶、を言っているように見えるが、これも上記の“加護”同様に、言われた本人にはどうしようもない話になっている。

 

 やや踏み込んだ解釈になるが、近世キリスト教徒の道徳律などを合わせて鑑みるに、ここで言われているのは「自身が前世において徳本を植えられた者であることを、自らの言動で以って証明してみよ」の意ではないか、と思う。授記においては、受記を得る人物の徳(舎利弗であれば知恵、富楼那であれば説法のスキル)が前世以来からの釈迦との因縁によるものとして称揚されるのが常であり、これは逆に言えば、今日において賞賛されるべき徳を示す者は、前世以来の“徳本”を有するゆえである、ということにもなろう。

 

 下線部(3)は、さもありなんと理解できるが、意外なことに、本章に至るまでの法華経がほとんど主張してこなかった観点である。要するにこれは、現代の原理主義・教条主義的宗派が「我々の組織に所属していないと救済されない」と主張するのに通じている。その一方で、ここまでの法華経の主張は、その是非はともかくとして、究極的には法華経の主張に耳を傾ける個々人の受け止め方を問うものがほとんどであったので、本章における唐突な組織論の登場には注目すべきと思う。

 

 最後の下線部(4)は、当たり前のことが言われているようにも見えるが、これも本章に至るまでの法華経の主張とは微妙にベクトルがズレている。本連載のここまでの理解に準じれば、仏の無上の覚りを得ようとすることは、自らが教育者∞であろうとすること、と等しく、そこには必然的に他者の救済が包含される構造があった。第三章の解釈に見た三車家と四車家の対立も、このことを表現する字面上の問題だった、と言ってしまえばそれまでなのである。

 

 が、ここでは、無上の覚りに向かって発心するに際し、すべての衆生を救護するためにとの断りがわざわざ加わっている。これは裏を返せば、すべての衆生の救護を目的としていないのに自身は発心しているのだと思っている人……というのは、法華経教団のセントラルドグマからすれば完全な自己矛盾なのであるが……が少なからず本章が執筆された時点において存在したことを意味しているように思う。そういう人がいるからこそ、わざわざこのような断りをおこなう必要性が生じたのだ。

 

 これが、前話末に論じた信仰の形骸化の実態なのではないか、というのがボクの見解である。

 

 法華経が、やたらと自画自賛する経典であるということは繰り返し述べている通りであるが、これはなにも後世においてそのように理解されたのみならず、法華経を成立させた法華経教団自身にとっても、世代交代に伴って、法華経テキストの聖性ばかりが強調される余り、第一期の論者たちが忌み嫌った対立声聞衆の保守的な傾向を、他ならぬ法華経教団自身が体現するに至ったのではないか。それに気づいた一部の有志が、何とかその傾向に対して巻き返しを図るべく講じたのが本章なのではないか。

 

 一方で、その有志たちにせよ、第一期の論者たちが抱え込んでいた、良く言えば理想主義的な、悪く言えば反知性主義的な熱さは失いつつあるのであって、どうしても立脚点が組織防衛的になっているように、ボクには見えるのである。これは、続く普賢菩薩の発言からも読み取れる。

 

 世尊よ、私はのちの世、末代の時、のちの五百年の現世において、このような経典を受持する比丘たちを守護し、安穏ならしめ、禍いを除き、悪毒を消すでありましょう。

 

 こう言って普賢菩薩は語り始めるのであるが、その内容がいささか奇妙なのである。これは前話で見た第二十一章“ダーラニー”において繰り返される構造にも通じるのであるが、法を説くものたちの欠点をほじくり出したり、短所を探し求めたりする機会が得られないようにいたしましょうなどということが三度も繰り返し述べられる。

 

 これはおそらく、本章が書かれた時点で法華経教団が問題視していた禍いや悪毒が、具体的には外部からのそのような指摘であったことが反映されているのだろう。そこからは、法華経第一〜ニ期が良かれ悪かれ抱え込んでいた、増上慢とも言うべき満ち溢れた確信が微塵も感じられない。何が彼らをそこまで弱体化させたのだろうか。次下の一節には、そのヒントとなることが言われている。

 

 かの法を説くものがこの法華経を思惟し、瞑想に精進しているとき、この経の一句一語でも忘れることがあるときには、私は六牙をもつ白象の王に乗って、その法を説くものの門前に現われて、彼にこの経の文辞を欠くるところなく再説するでありましょう。

 

 仮にボクがアルツハイマーか何かになって一句一語が思い出せなくなったとしても、あまり現れて欲しくはないルックスではあるが、それはさておき。この一節が典拠になって、普賢菩薩を描いた図像では、しばしば六牙をもつ白象が描かれるのだが、そこに乗っている当人が当たり前のように人類の姿をしていることには個人的に疑問がないでもない、それもさておき。

 

 思うにこれは、実際に少なからぬ法華経教団のメンバーが、法華経の一句一語を覚えられないがゆえに言い出されたことではないか、などと邪推してみたくもなるのである。自分たちこそが如来の密意を知っているのだ、と主張しつつ、経典を諳んじることができない一群の人々。そのこと自体の良し悪しはともかくとして、伝統に従った戒律や修行を順守する対立声聞衆からすれば、欠点をほじくり出したり、短所を探し求めたりしたくもなろうと言うものである。

 

 が、この時点の法華経教団には、そういった批判に真正面から立ち向かう知力も胆力も既に失われていたのだろう。そのような集団が、ある種の神秘主義=ダーラニーに活路を求める、というのは、十二分にありそうな話だとは思われないだろうか。

 

 アタンダイ、タンダハダイ、タンダハテイ、タンダクシャレ、タンダシュダレイ、シュダレイ、シュダラハチ、ボッダハセンネ、サルバダラニ、アバタニ、サルバシャ、アバタニ、シュアバタニ、ソウギャハビシャ、ソウギャネキャダニ、アソウギ、ソウギャハダイ、テレアダソウギャトリャ、アラテハラテ、サルバソウギャサンマジキャランダイ、サルバダルマシュハリセッテイ、サルバサッタロダ、キョウシャリャアトギャダイ、シンナビキリダイテイ。

 

 普賢菩薩から示されるダーラニーを、前話同様にカナ表記で書き出してみた。

 

 これを教え示す普賢菩薩が法華経を説くものを守護するのだ、という主張、同時に、そこに何の理論的な説明がなされないところまで、第二十一章とまったく同じ展開である。そしてこれは、明らかに密教……その言葉は意味はわからなくとも人智を超えた力が宿っているのだ、とする呪術的思考……そのものであり、法華経の通奏低音となっている諸々の主張とまったく噛み合っていない。

 

 しかも、続けて普賢菩薩はこんなことも言っている。

 

 散乱しない正念によって書写する人には千仏がみ手を差し伸べられるでありましょう。また、寿命が尽きようとするときには、千仏がその面前に現われたもうことでしょう。

 

 百歩譲って一文目、すなわち、法華経の書写……これは経典の継承に直結している……が諸仏に愛でられることだ、とする観念は良しとしよう。が、続く一文……死に際して救済がもたらされるとする慰め……は、これまた明らかに浄土思想のそれであって、法華経第一期の書き手が権威ある声聞衆すべてを敵に回してまで声高に宣言した、一乗真実三乗方便、如我等無異の思想とは何の連続性も感じられないではないか。

 

 以上のことから、

 

・法華経成立の最末期において、法華経教団は既に信仰形骸化の危機に陥っていた

 

・その危機に対し、法華経教団の書き手は密教思想や浄土思想を借りることしか出来なかった

 

の二点が、本章から読み取れるとボクなどは思う次第なのであった。

 

 一方で、本章は法華経全二十七章(妙法蓮華経は二十八品)の中でも、比較的後世において人気を集めたものの一つであり、特に中世の我が国においては女性の成仏を保証する経典の一つとして深い崇敬を受けたのである。この噛み合わなさは何を意味しているのだろうか。

 

 一足飛びに結論を言ってしまえば、法華経の言う如来の密意は、それはそれで一つの思想としては興味深いもので、現代の我々の視点からも学ぶべきところは少なからずあるものの、つまるところは(法華経教団の考えたところの)如来側の都合で言われていることであって、それを受け取る市井の極々普通の人々が自然に求めるところにリーチしていないどころか、究極的にはそもそもそこに関心がないのである。

 

 これを、本連載で繰り返し多用する教育者∞の譬えに当て嵌めて言えば、法華経は超理想主義の熱血教師なのである。掲げる理想自体は、それは結構なもので、俄かに反論しがたい聖性すら漂わせている。が、理想は理想なのであって、そのような熱血教師の陰には、必ずそのノリについて行けない生徒、その熱さに返って冷めている生徒がいる。ましてや、この熱血教師は、すべての生徒に自分と同じ熱さに至ることを要求しているのであるから、これは土台無理な話なのである。

 

 むしろ、普通の人々が……それが合理的な要求であるか否かはともかくとして……歓迎する教師とは、たとえば「これさえやっておけばいい」と至極単純な指示を与えてくれる教師、「別に無理しなくても何とかなる」と根拠のない安心を与えてくれる教師であったりするものであって、ここでは前者が密教思想、後者が浄土思想に当たるのであるが、これらが果たして良い教師かどうかはともかくとして、いずれが一般的な生徒から見て親しみ易いか、と問えば、法華経教師よりは密教教師・浄土教師の方がそうだろう。

 

 そして、法華経第三期の書き手の一部はこのことに気づいたがゆえに本章が書かれたのであるが、本章の書き手自身もまた信仰が形骸化していて、法華経第一期の人々が遺した衣裏繋珠、すなわち“巧妙な方便”に思い至ることがなく、ただただ学級崩壊を防ぐべく無分別に密教教師・浄土教師を真似てしまったのだ。

 

 後世において、本章や観音経(第二十四章)が法華経中でも他章に比べて多くの人々の崇敬を集めた理由も同様で、これは法華経第三期の書き手が、おそらくは自覚のないまま先達の理想を見失って、人気取りに走った必然的な結果なのである。そのような意味において、彼らはその短期的な目的は見事に達成したが、その代償として長期的な目的を結果的に放棄してしまった、と言えるかも知れない。無論、その自覚は彼ら自身になかったろうけれども。

 

 無論、ボクが言いたいのは、法華経第三期の(第十九章の書き手を除く)執筆陣が無能であった、ということではないのだ。彼らを彼らがそうであるように成さしめたのもまた、疑いようもなく法華経なのであるから、これは法華経自身の欠陥であるはずだ。そしてこのことは、伝教大師最澄や日蓮が、ことごとく弟子の育成に失敗していることとも、無関係であるはずがないではないか。

 

 といったところで、第二十六章“あまねく賢明な菩薩が人に勧めて仏道を修める心を起こさせる”の転読(うたたよみ)を終える。

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