潮干狩りを甘くて見ませんか?
ひょんなことから潮干狩りをすることになったボクは、ほんの少し日常から離れただけで命の危険を感じることになった。
アサリなんてスーパーで買えばいいんだ。
喰わなくなって別に問題ない。今なら本気でそう思うね。

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連休が終わり、明日からの日常が待っている。
たいていの人間は少し鬱になるし、学校や会社に行きたくないことだろう。
でも、当たり前の日常に戻れるありがたさは、当たり前でない非日常を体験しないとわからないのかもしれない。


【短編】潮干狩りで死にそうになった時の話

 今から10年ぐらい前だろうか。ボクは潮干狩りをしていて死にかけたことがある。少なくとも死ぬのかな?と冷静に考えていた。

 

 ゴールデンウィークのこの時期、東京近郊の潮干狩りスポットはどこも賑わっている。行政によって貝が意図的にばら撒かれ、監視員もいるし、お店や水洗い場なども完備されている。そういうところなら安全だろう。

 けれど、ボクが行った潮干狩りスポットは地元民の秘密の場所だった。

 

 秘密というか、『立ち入り禁止区域』だ。

 

 ひょんなことから知り合った地元のおっさんに案内されて、ボクはその場所に軽装で到着した。

軽装というのは、Tシャツ、ジーンズ、長靴。ポケットには財布とケータイ。手にはバケツと熊手。どこにでもいる潮干狩りをする格好だろう。何もおかしくない。

 おっさんはプロっぽかった。いや、セミプロなのだろう。子供の頃からその場所でアサリを獲ってきたのだから。堤防で釣りをしている人がする恰好に、プロっぽい潮干狩りの道具がクーラーBOXに入っていた。

おっさんはボクの恰好をみて、何もいわなかったし、何も注意しなかった。ボクにはおっさんとの装備に大きな差はその時は感じていなかった。

 

 海岸線の道路を自転車でしばし走る。民家もなくなり、埋め立て地の道は殺風景でコンクリートの道路と街灯の他には何もなかった。車道の横は防波堤が連なっている。飛行機が低く頻繁に飛んでいることから空港に近いことがわかった。

 

 駐車場なのか、ただの空き地なのかわからないけれど、車が10台ぐらい停まれるスペースがあり、そこは補装もされていなくて、むき出しの地面は石や雑草も生えていた。ボクらはそこに自転車を停めた。

 

 大きな立ち入り禁止の看板。そして『警告文』。そこにはここで事故があったことが書いてある。そんな看板には誰かがスプレーで落書きしてある。

 緑の金網のフェンスはこじ開けられて、上の有刺鉄線も寸断されている。それが補修され、また破壊された形跡が見て取れた。頻繁に警察や敷地の管理者が巡回しているわけではないのだろう。ただ、そこには混沌とした違反者と管理者のやり取りの歴史が刻まれていたのだ。

 

 なるほど、ボクはこれから違反者になるのだ。こんな場所だなんて思いもよらなかった。ここでおっさんに「帰ります」と上品に言うべきだったろうか?いや、無理だ。ひょんなことの事情は込み入っている。ボクができる最良と思われる選択は、今日を無難に乗り切り、そしてこのおっさんと徐々に距離をとることだ。そして善良な一市民に戻る。

 

 密猟。あるいは敷地侵入罪。ボクの罪状はどんなのかわからなかった。警察がきたら逮捕されるのだろうか?それとも注意を受けて解放される?さっぱりわからない。

 

「ちくしょう。こんなところに金網なんてつけやがって」

 

 おっさんは、憎たらしく言った。おっさんが言うには、以前はもっと開放的だったらしい、だんだんとこういう風に金網フェンスで塞がれて行ったが、それは逆に危なくなるものらしい。そこにアサリが大量に獲れる以上、密猟者はいなくならない。監視所に人でも置いて24時間管理でもしない限りは、誰かしらが侵入するものらしいのだ。ここにはモラルよりも、厳然たる経済が働く。良質のアサリは高値で売れる。みようによっては砂浜に小銭がザクザクと埋まっているのだ。

 なるほど、そういう価値観もあるのかと、感心した。

 

 おっさんは完全に趣味だ。もう何年もあるいは何十年もここでアサリをとって、それを楽しんでいる。販売しているわけではない。ここに人工的な施設を作り、アサリを獲れなくすることは、おっさんのささやかな楽しみに対する侵害ともいえるわけだ。

 

 まぁそんなことはいい。

 

 ここはそういう場所だった。フェンスを越えた先。そこは無法地帯であり、『自然の驚異』が待ち構えていた。

 

 フェンスなんか上ったのは子供時以来だった。有刺鉄線が少し引っかかった。危ないな、なんでこんなとこに有刺鉄線なんか張っているんだよ!と、ボクも苛立ちを覚えた。人間とは勝手な生き物である。

 

 コンクリートの外側にはゴツゴツとした黒い岩礁が道沿いに連なっていた。これが実に鋭いのだ。もしこの岩礁の上で足を滑らして転んだら、大けがをするのは間違いない。手を着いたら手は血だらけになるだろう。そこ慎重に渡っていく。

 

 すると砂浜が広がっていた。砂浜でなく「干潟」というべきだろうか。岩礁も干潟も潮が満ちれば海に沈む。潮が引き始めてから、満ち始めるまでが潮干狩りの時間だ。

 

 ほとんど人がいなかった。海風が強く、耳が痛くなるぐらいだ。おまけに頻繁に飛行機が飛んでいる。静寂とは無縁だったが、その景色は簡素だった。濃い灰色の砂浜と東京湾の汚い海。打ち寄せる波は涼し気な風流なんてなく、どこか退廃的で終末的なもの寂しさがあった。東京とは思えない場所がそこに広がっていた。

 

「じゃ、ここで」

「はい」

 

 おっさんが荷物を岩礁の上に置いて、近くの大き目の石で流されないように固定していた。手慣れている。掘ればそこら中にアサリがいるらしい。見つけ方は空気穴がポツポツと砂浜に空いているので、そこを掘ればいいらしい。

 

 なるほど。簡単だった。ザクザクと獲れる。

ボクとおっさんの他には10名程度しかいなかった。おばさんはいたが、子供はいなかった。同付き水中長靴を履いている本格派もいる。これはまぎれもない密猟者だろう。みんな装備が物々しい。娯楽的潮干狩りの恰好をしているのはボクだけだった。

 

「ああいうモラルに欠けた人がいるから、ここが閉鎖されるんだ」

 

 おっさんにはおっさんの価値観がある。ボクは管理者側でないからわからないけれど、とりあえず自分が悪いことをしているのに、さらに悪いことをしている人を非難する気にはなれなかった。バケツに一杯程度なら問題ない。アサリはなくならない。でも、専門の道具で根こそぎ密漁する人が増えると、アサリがだんだんと獲れなくなる。

 

「小さいアサリは逃がしてやってな」

 

 アサリはすぐにバケツに一杯になった。重すぎて持ち上げるのに苦労する。それにこんなには食べられない。ボクはおっさんの言われたとおり選別をして、型の良いものだけをバケツに半分ほど残し、あとは海に返した。人間と自然との理想的な関係がそこにはあった。

 

 音はうるさいが広々としてとても気持ちがよかった。そしてほっとのしたのか、おしっこがしたくなった。

もちろん付近には公衆便所はおろか、簡易トレイすらない。まぁここは海だ。問題なかろう。

とはいえ、潮干狩りをしている人の側でおしっこは流石に失礼だし、恥ずかしい。

 

 ボクは波打ち際の方へと歩いて、みんなから離れていった。砂浜はとても広くて歩いていて気分がよかった。気持ちが高揚していたのかもしれない。50メートルぐらい離れて、足元に波が少しかかるところまできた。

 東京湾を隔てて反対側には、工場地帯が見える。ボクはそんな景色をみながら、一面に広がる海に向かって立ちションをした。男子本懐である。

 

 なんだから青春っぽいな・・・などと暢気なことを考えていた。

 

※ ※ ※

 

 無知とは罪である。

 

 ジョボボボッ。と、人生で一番の立ちションをボクは楽しんでいた。ボクはその行為を終えて、ジーンズのチャックを上にあげた。そして、戻ろうとして足を上げようとした時・・・ボクは自分が動けないことに気が付いた。

 

 長靴の裾のあたり、膝下10cmぐらいまでボクは砂浜に沈んでいたのだ。まったく気が付かなった。ここは底なし沼のような状態だと気が付いたときは遅かった。右足を左足もまったく動かない。

 

 ケータイを取り出す。電波は一本も立っていない。

 

 声を出して、おっさんを呼ぼうとしたが、すぐに海風にかき消された。ボクの声量ではまったく届かないだろう。おまけに飛行機の轟音が定期的に地鳴りのように響く。

 

 カナダの首都を思い出す。

 

 いや、ぜんぜん笑えない。ワロえないよ。ボクはおっさんたちに向かって大きく手を振った。誰もが下を向いてアサリを掘っているし、密猟者の人だけは立っていたが背中を向けている。

 そもそも、ボクが手を振っているに気が付いてくれるなら、誰かがボクが離れていくのを注意してくれたはずだ。「あっちの方は危ないよ」と教えてくれたはずなのだ。

 

 ボクだけが素人だった。たぶん、ここに来ている人にはあまりにも常識だったのだろう。あるいは世間の常識でボクが無知なだけかもしれない。

 

 とにかくボクは底なし沼にはまって危機的状況にある。救出を早々と諦めた。

 

 まずは冷静になること。持ち物を確認する。ケータイ。チェーンでジーンズにつながれた財布。財布の中を確認する気も起きない。役立ちそうなものはなかった。

 

 さらに沈んでいた。長靴に海水が入るまであと数センチだ。今は干潮だろうか?満潮だろうか?

満潮になったら、俺は浮くことができるんだろうか?干潮になったら砂浜がもっと固まって抜け出せるようになる?ボクにはわからない。

 

 結論は一つしかない。長靴は諦める。長靴さえ諦めれば、ボクは足を抜くことができる。その場から移動できるのだ。長考しても物事が好転しないのは明白だ。ここまでどれくらいの時間がたっただろう?一分ぐらいか。

 

 僕は右足を長靴から脱いで、砂浜に一歩踏み出した。

 

ずぶぶぶっ・・・

 

 まったく感触がなく15cm程度すぐに沈んだ。

 

「・・・オワッタ」

 

 それ以上体重をかければ、右足が抜けなくなるだろう。ボクは右足を抜き、長靴に戻した。今の一歩で左の長靴は大きく沈み、海水が中に入ってきた。

 

 頭を抱え、知識を総動員する。サバイバル。底なし沼。緊急時。クイズは得意で雑学はあるほうだった。考えろ。思い出せ。

 

『底なし沼から生還する方法を』

 

 脳内で必死に検索をかける。重心、比率、分散・・・

 

「わかったああああああぁ!!!」

 

 俺は長靴を脱いで右足を踏み出し、沈むのを無視して左足も長靴から脱いで、その場に倒れ込んだ。

 

 全身を横にして、体重を拡散。沈まないように這っていった。泥の上を亀のように進む。少しずつでも前へと進めた。ある程度まで進むと砂浜からは水が抜けているのか固くなった。そこで立ち上がり、沈むよりも早く走って戻っていった。

 

 ボクは砂だらけになりながらも生還を果たしたのだ。

 

「なんだ、その恰好?」

 

砂まみれになったボクをみて、おっさんが言った。ボクは事情を軽く説明する。

 

「そりゃダメだろ」

と、さも当たり前のようにおっさんは言う。教えてくれてもいいのに。

 

「おしっこするなら、そこの岩礁の脇ですればいいんだ」

おっさんが指を指した。

 

教えてもらわなくても、自力で学習したさ。ただ、その経験が生かされることはなかった。それ以来ボクは潮干狩りをしていないし、海にもあまり近づかないようになった。

 

 疲れたボクは、ぼんやりと潮干狩りをしている人を眺めた。そして気が付いた。

 

 ここにいる、プロの密猟者ないし、地元のセミプロのようなおっさんとおばさん達は・・・

 

 

 僕と違って、ライフジャケットを着ていたのだ!

 

 

(了)



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