――逃げる無理だ今は昼外に出てしまったら焼かれて死ぬ掘って進むかすぐに追いつかれるに決まっているではここで奴を仕留める無理だ不可能だ馬鹿を言うなそんなことが出来るのならわざわざ奴の先祖を皆殺しにしていないそうだ私は根絶やしにしたのだこの化物が生まれるはずがないだというのに何故化物は今私の目の前に現れているやはり此奴は真の化物どうするどうするどうする――
心臓とは裏腹に、無惨の頭脳は止まることなく回転している。目の前に現れた最大の脅威から逃れるために。
だがその全ては滑稽なほど空回り。いくら考えた所で良策など出てこない。逃げることには何の躊躇もないが、そもそも逃げ場がない。
戦って勝つ、なんて甘すぎる発想がよくぞ浮かんできたと、似合わない自嘲をした。そういうごり押しが効くような相手ではないことなぞ、無惨が一番分かっているというのに。
最も恐れていた生物が全く予期せず現れたせいで、無惨の体からは止めどなく冷汗が流れ落ちる。
固まる無惨。固まる化物。
神子たちも無惨の様子に困惑を隠せず、元凶と思しき人間に視線を飛ばす。
鬼。神子。化物。誰も彼もが動けない中、この重く固まった空気を打破したのは、この場に似つかわしくない只の人間であった。
「こらっ! 一体何をした、っていうか何考えとんじゃアンタは!」
化物の頭を一つ叩き、説教を喰らわせたのは、彼の隣に座った妻であった。
「あ、いや、その……」
「申し訳ありません! 我が夫が何か粗相をしたようで。何卒お許しいただきたく。ほれっ!アンタも早く頭を下げえ!」
「あ、ああ。その、申し訳ございません」
言われるがまま化物が頭を下げる。
信じられないモノを見た。無惨の顔は如実にそう語っている。
無惨の視線は化物に固定されている。
化物。そう、化物である。
ここでは便宜上『ヒト』と呼ぶが、無惨にとってヒトは三種類に分けられる。
一つは人間。
数は多いが肉体的には最も脆弱であり、最も格下の存在である。
かつての無惨の食料であり、今は
特徴としては数と多様性。その多様性があるからこそ、異常者や狂人が居るわけだから、無惨からすれば一長一短だが。
一つは鬼。
無惨が属す、人知を超えた生命体。
基本的な肉体性能。ないのではないかと思われる寿命。まさしく理の外にある血鬼術。
客観的に見て、人間より優れていると断言できる上位存在。
日光で肉体が焼かれるという大きな弱点もあるが、だからこそ無惨は鬼の頂点に立つ己を、『完璧に最も近い生物』として定義している。
そして最後の一つは、脆弱なる人間の内から現れた、人間を超えた鬼を更に凌駕する、ヒトの例外たる存在――化物。
今、無惨の目の前に居る男、そのたった一人を指すためだけにある言葉だ。
「あの、何か?」
化物が戸惑うように声を掛けるが、無惨の困惑はそれ以上。
無惨は己が最強の鬼であることを自認している。傲慢な彼は間違っても自分より強い鬼の存在など認めはしないが、それは客観的な事実でもある。
鬼は人間より優れ、その鬼の頂点に立つ自分こそ、最も優れたヒトであると。
その無惨が明確に、己より格上と認めている存在こそが、目の前に居る男なのだ。
最強の鬼は自分だが、最強のヒトは奴であると。
議論も疑問も挟む余地のない、いわば絶対の存在として、無惨の記憶と身体に文字通り刻み付けられた。
故に対策を打った。赤子どころか、この世に生まれ落ちる前に、彼の先祖と思われる一族ごと根絶やしにした。化物という存在そのものを否定したのだ
だというのに、目の前にあの時の化物が、日輪の申し子が何事もないように現れた。
如何なる手を打とうが、無惨には決して滅ぼすことができない存在だと訴えるかのように。
その時の無惨は動揺は、推して知るべし。
無惨が預かり知らぬことではあるが、そもそもの話として化物の先祖は殺されていない。
かつての昔、戦場で武功を上げた際、褒美として姓を貰った者たちが居た。
最も功を上げた者には、継国。次点の者には、時任の姓が与えられた。
一回目の時では鬼に殺されていた者が、二回目の時の中では生き残ったため、順位の変動が起こったのだ。
無惨が生きる二回目の時の中では、鬼に殺されなかったため、一回目の時とは別の者が継国の姓を受け取り、順位が繰り下がった結果化物の先祖は時任の姓を受け取った。
なんてことはない。無惨の変化によって歴史が変わり此度の継国家は、化物の出生とは全くの関わりのない一族となっていた。
そんなことを知る由もない無惨は認識をより強固にする。どう足掻いても生れ落ちる化物は、もはやヒトなどという枠組みにすら収まらない埒外の存在なのだと。
「アンタほんっとうに何したん!? 恩人なのよ分かってる!? 早く白状しなさいっ! さあっ! さあさあっ!」
「い、いや……申し訳ないが、とんと見当がつかぬ……」
そんな超越的存在が、今、嫁と思しき女性に尻に敷かれているのを見て、無惨は呆然としている。
無惨が知る化物の姿からは余りにかけ離れた光景に、一瞬思考停止に陥るが、素早く再起動を果たす。
一度止まったおかげで、無惨の頭脳は冷静さを取り戻し、事態の分析に動き始めた。
まず把握したのは、化物が身に着けているもの。より正確に言えば武装だ。長き時の中で一番の集中力を発揮して、感覚を研ぎ澄ました所、化物が日輪刀を持っていないことを確認する。その事実に内心ほっと一息を吐く。如何に化物だといえど、無手で無惨を殺せる道理はないと判断したからだ。
本気になれば無惨がどれだけ抵抗しようが、素手で日光の下に引きずり出せるのだが。
そのことに気付かなかった、あるいはあえて無視したのか。
何はともあれ、当面の命の危機が去ったと判断した無惨は、未だ夫婦漫才を繰り広げている二人に向かって声を掛ける。
「静かにするがいい。さもなくばそこな神子らが貴様らの首を飛ばしてしまうやもしれんぞ」
いつもであれば無惨本人が手を出すのだが、流石に化物相手に自ら動こうとはしない。直接刃向かうなど御免被る。そういう危険なことは配下にやらせるに限る。
「あっ! すみません神様!
「許す。だが貴様らも子を持つ親ならば、もっと落ち着きというものを備えるがいい」
「ありがとうございますっ!」
常にない寛大な姿勢を化物に示しつつ、彼らがこの街に来た経緯を尋ねた。
部外者なのは決まっている。膝元でこんな化物が産まれたと知れば、彼の耳に入ってこないはずがないからだ。
経緯そのものに面白みはない。
化物の子と妻が流行り病に罹患。化物も救おうとしたが奔走したが、万策尽きて八方手詰まり。そんな時、彼の下に偶然立ち寄った
女の話はやけに長々としていたが、要約すれば救われて、感謝して、恩義を返そうとしている。
言葉にすればただそれだけのこと。
話を聞いた無惨はちらりと化物の方に視線を遣ると、無表情のままじっと無惨を見つめていて、背中に流れる冷汗が量を増した。
化物の妻が感謝しているのは間違いない。だが問題は化物がどう思っているか。
「そこな男も、救った医者に、ひいてはこの私に恩を感じているのか?」
「はっ! 勿論でございます」
声を掛けられた男は、弾かれたように頭を下げる。
女は不躾に無惨の顔を見続けていた旦那を睨み、その妻の視線に気づいた化物は、肩身を狭くしている。
これまでのやり取りを見ていた無惨は、彼らをどうするべくか沈思黙考する。
化物がどう思っているかは定かならぬが、その妻にあたる女は間違いなく無惨に感謝の念を抱いている。
そして彼にとって不思議な話であるが、夫婦の力関係は対等、むしろ女の方が強いことを見抜いていた。
無論、人の世で長く生きている無惨も、女の方が力を持つ夫婦関係というのがあることは理解している。
だがそれはあくまで脆弱なる
理解が及ばぬ光景なれど、そもそも化物の考えることは理解できぬと納得し、その夫婦関係をありのまま受け入れた。
とはいえ問題となるのは、人間である女ではなく、やはり化物の方。
考えるまでもなく、化物が膝元に居るというのは精神衛生上、良かろうはずがない。
好き好んで自分を殺しうる男を傍に置くなど有り得ない。
敵視されないよう適当な言い訳を並べ、ある程度の金子を渡して出て行ってもらおう。
そう結論付けようとする無惨の脳裏に、一つの閃きが過った。
常の無惨なら思いつきもしなかっただろう、今この瞬間、この状況だからこそ浮上した分岐点。
無惨からすれば、悪魔の囁きに等しい選択肢であった。
いつの間にか、場には沈黙が満ちていた。
先とは異なり、何かを考えを巡らせている
悩む。悩むがその前に、まず何を置いても真っ先に聞かねばならぬことが、無惨にはあった。
「貴様らに問わねばならぬことがある――鬼殺隊を知っているか?」
沈黙を裂いて問われるは、そう、鬼殺隊との関わりである。
日輪刀は持っていないが、もし関係があるのなら、無惨の考えを実行することは能わぬ。それどころか、下手に身を寄せられては敵わぬと、安易に追い出すことすらできないのだ。
「きさつ隊、ですか? えっと、申し訳ありません。とんと知りません」
「私も……同様です」
芳しくない反応から接点はないことが分かり、内心息を吐く無惨。
無惨は今一度、己が閃きを見直す。
危険性の高さや、心理的な障害はあれど、やはりこれしかないと決断する。
苦肉、断腸、骨身を削るような、苦渋の選択であった。
「貴様らは何故ここに呼ばれたか、理解しているか?」
覚悟を決めた無惨は改めて夫婦に問いかける。
無惨の問いかけに、夫婦は少し戸惑う。
新たな神子の推薦という形で呼び出されたわけだが、彼らには詳細を伝えてはいなかったらしい。
この街に居を移してよいのか、許可を貰いに来たと勘違いしていた様子だが、無惨は訂正することなくそれをそのまま利用する。
「ああ。この街に住むことを許している。いくつか条件を設けるがな」
「条件、ですか……?」
「そうだ。条件は二つ。一つは貴様が有する『呼吸』の技術。これを他者に教え伝えることを禁ずること」
化物は驚きに目を瞠る。『呼吸』という名称を使ったことはなかったが、無惨が何を指しているのかは理解している。ゆえに驚いていた。
家族を除き、彼は今まで一度も他者にその技術を教えたことはない。日常において使っている場面はあれど、それを勘づいた者は誰一人としていなかった。無惨相手には未だ見せたことすらなかったのだ。
人間と同じようでいて全く異なる肉体、そして見せたことすらない物を見通す眼力。なるほど神とはこの方のことを呼ぶのかと、化物は感心すら抱いていた。
その条件に化物は二つ返事で了承を返す。
無惨からすれば念のため程度の条件であったが、あっさりと受け入れられて逆に疑いを抱かれているのが始末におえないが。
とはいえ、本命は二つ目の条件にある。
「そうか。では二つ目の条件だ。それは――」
化物はここで初めて難色を示す。しかし恩義、そして何より家族のことを思い、彼はそれを受諾した。
以上を以って、無惨は獅子身中の虫になりうる化物を、そのうちに囲い込んだ。
誰よりも近くに置きたくない相手を、彼は傍に置いた。
彼の永年の夢を、叶えるために。
(注)先祖を滅ぼせば産まれてこない、とは言っていません。
次話は翌日10/25の18時5分、投稿予定です。