「無惨様、お加減は如何でしょうか?」
「ああ、大事ない。これからもよく励め」
「お言葉、有難く頂戴いたします」
別れの挨拶を告げ、医者は患者の部屋から出て行った。
「……ふん」
日は陰り、蝋燭の灯りのみが部屋の主、鬼舞辻無惨を薄く照らす。
誰も居なくなった部屋で、彼は一人思索に耽る。
内容は、先ほどまでの出来事について。
鬼殺隊を滅ぼそうとし、逆に追い詰められ陽光に焼かれ消えんとしていた状況に死力を尽くして抗っていたら、居るはずのない見知った顔がそこにあった。
彼を鬼に変えた張本人であり、彼がその手で殺した医者が、無惨の顔を覗き込んでいた。
驚きの余り固まった無惨は医者に導かれるまま布団に寝かされ、そのまま診療を受ける。
呆然としたまま視線を巡らせば、鬼殺隊と殺しあっていた場所とはまるで違うことに気付き、更にはそこが千年前に住んでいた己が生家であることに思い至る。
千年前。そう、無惨の前に現れた光景は、まさに千年前のものである。
外から中へ。大正から平安へ。終わりから始まりへ――現在から過去へと、まるで時を遡ったかのように、唐突に場面が切り替わったのだ。
前後の脈絡が抜け落ちた、余りに突飛な状況。死を目前にした夢幻であると言われても不思議ではない。
されど無惨は夢幻ではないと確信し、何が起こったのか理解していた。
事実として、時を遡ったのだ。
そのような慮外な現象を引き起こす方法など一つしかない。
とはいえそう難しい話ではない。
目の前の光景が夢幻でないのであれば、時を遡れるような現象を引き起こすような要因など、心当たりは一つしかない。
血鬼術。
道理も何もかもを超越した、鬼にのみ許された超常的な力。
鬼の始祖でありながら、千年間まるで発現することなかった異能が引き起こした結果だと理解し、また実感していた。
そう、無惨には実感があったのだ。血鬼術を発動した実感が。時を遡った実感が。
無惨もいつまでも呆然としていたわけではない。医者が忙しなく働いていることなどお構いなく、裏付けを取るための情報を一方的に聞き出した。
年代や家族などという当たり前に過ぎることばかり尋ねられたが、狂瀾の様相を見せた無惨に思うところがあったのか、医者は戸惑うことなく答えを返した。
聞き出した情報が無惨の自信を裏付け、また己が力を確信させた。
逃れられぬ死を前にして発現する、死の運命を覆す血鬼術。
無惨は思わず笑みを零した。
己にこれほど相応しく、また有能な血鬼術はないだろう、と。
「やはり私は間違っていなかった。あの狂人の戯言が正しいなど有り得るはずがない」
無惨は朧気ながら理解していた。
もし無惨が想いなどという不確かなものに縋っていたら、この血鬼術は日の目を見ることなかったことを。
ひいては、無惨自身が正しいことの証明であると。
「まあよい、全ては過ぎたこと。既にこの世に居らぬ者、いや未だこの世に生まれてすらいない者の言など気にする必要はあるまい。大事なのはこれからだ」
無惨は既にこの状況を受け入れ、先のことについて考えを巡らしていた。
唐突に鬼に変わっても戸惑うことなく生き続けてきた適応能力が如何なく発揮されている
「とはいえ、もはや私自身が何かをする必要もないだろう」
かつての彼を知る者が見れば、極めて上機嫌であることが窺える。
それも無理からぬこと。果報は寝て待てではないが、このまま時を過ごせば、求めていたものがその手に転がり込んでくるからのだから。
無惨が部下を使って血眼になって探していた青い彼岸花。正体不明のそれはそもそも、先ほど無惨の部屋から退出した医者の記録に残っていた代物だ。
無惨を鬼に変えたナニカ。それがあれば鬼にとって最大の弱点である陽光を克服できると無惨は考えていた。
医者を殺めてしまったがために、医療が中断し陽光という最大の欠点を残してしまい、ろくな手掛かりもなく千年探し廻るはめになったのだが、今この時代においては、青い彼岸花を扱った医者自体がまだ生存している。
つまり、医者の治療を受け続ければ自ずと陽光すら克服できると考えているわけだ。
形は違えど鬼殺隊を消滅させるという目的は達成したのも一因ではあるが、陽光克服の目途が立った喜びに比べれば微々たるものだ。
「やれやれ、思えば随分遠回りしたものだ。千年もの間脇道に逸れていたなどと、我がことながら笑い話にもならん」
苦言を呈すが声色からは喜色を隠せず。
無惨にあっては自死を選ぶなど万が一にも有りえないが、さっさと血気術を発現させてしまえばよかったと思わずにはいられない。
徐に、右手を眼前にまで上げ、力を込めるとまるで刃のように形が変わった。
人間の体では起こりえぬ変形である。
「ふむ、力は流石に落ちているか」
無惨自身の主観ではあるが、時を遡る直前の状態より、更に弱くなっていた。
元の彼の力からすると急激な弱体化だと思われるが、それでも上弦の壱を凌駕する力を誇っている。
呼吸を使えるものがおらず、そもそも鬼狩りすらいないこの時代において、無惨を害する可能性を持つ者がいないことが分かっているからこそ、余裕を持って弱体化を受け入れていた。
それに――落ちたのならば、戻せば良いだけのこと。
「食事にするか」
呟きより早く、無惨は部屋から消え去った。
そこから、時が経つのは早かった。
日中は医者の診療を受け、日が落ちれば食事をする日々。
無用な騒ぎや警戒を起こさないように、
討伐隊なぞを恐れていたわけではない。治療を中断されるのを恐れただけだ。
人間が持つしつこさや執念深さといったものを、無惨はこの世の誰よりも深く知っている。
そんな面倒な代物をわざわざ抱える気など、彼にはさらさらなかった。
医者を鬼に変えて支配することも考えたが、支配を抜け出した一人の女医のことが頭を過ぎり、実行はしなかった。
余計なことをせずとも、求めるものは手に入る。
何も問題はない。
無惨は、そう信じていた。
かつて医者を殺した日はとうに過ぎ去り、医者の治療はまさに終わりを迎えようとしていた。
「無惨様、お加減は如何でしょうか?」
「くどい。一体幾度同じようなことを聞くつもりだ。大事ないと申しておろうが」
「これは申し訳ありません。して、食の方は如何でしょうか?」
無惨の前に出された膳を見て医者は尋ねた。
いつもは一口も付けず残されているのに、今回は綺麗に平らげられている。
「ああ、食欲は戻った。気にするな」
この日、無惨は千年振りにまともな食事を口にしていた。
投薬の結果か、今まで微動だにしなかった食指が料理を前にして動くようになったのだ。
とはいえ、本人からすれば外に食料を探す手間が省けた。その程度の認識である。
重要なのは日光を克服すること。それが成し遂げられぬ以上、他のことは全て些事である。
「ふぅむ、日の元は歩けませぬが、食人欲求は消失したと。……うむ、これにて我が薬は完成を果たし――治療は終了と相成りました」
「――は?」
だが無惨は知らなかった。
何が重要なのかは、人それぞれだということを。
次は5/8、18時ごろを予定しています