こいつは何を言っているんだ?
無惨は純粋にそう思った。
彼からするとまるで理解できない発言が飛び出したからだ。
鬼にとって日光克服より大事なものなどあるはずがないと、無惨は心の底から信じていた。
「無惨様。この度は
だが事態は困惑の無惨を置き去りにして進んでいく。
「我が秘薬において最も目障りであり、どうしても抑えることが叶わなかった食人欲求という障害。半ば諦めかけていたおりましたが、貴方様のおかげで見事乗り越えることができました。重ねてお礼申し上げます」
医者は心からの謝意を込めて、深々と頭を下げた。
「これにて我が研究は完成しました」
医者の旋毛を眺めながらも、無惨の脳内は疑問で一杯であった。
回らない頭は、停止した思考をそのまま垂れ流した。
「食人が最大の障害?研究が完成した?貴様は一体何を宣っているのだ?」
無惨からすれば鬼にとって最大の障害は日光に他ならない。
治療を受け続けていたのはただそのためだ。
だというのに、得られたのは食人からの解放という、どうでもいい結果。
その程度のことを意気揚々と発表する意味が、彼には分からなかった。
「ご察しします。いきなり食人欲求などと聞かされて、大変動揺なされていることだと」
裏の意味を読み取ることなく、医者は言葉を額面通り受け止めた。
上げられた顔には、成し遂げたことを誇るような、自信に溢れた笑みが浮かんでいた。
「ですが、先の言の通り、無惨様のおかげで――正確には無惨様の血のおかげですが――、人を超える人を作るという我が研究は完成を迎えることが出来ました。その成果を今、御覧に入れましょう」
小さく包まれた薬包紙が、医者の口に運ばれ、嚥下された。
その全てを、そこからの悲劇を、無惨はただ茫然と眺めていた。
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「あの藪医者は一体何を考えているのだっ!?折角生かしてやったというのにあの様とはっ!!この私の期待を裏切った罪、百回死んでも贖えんぞ!!!」
無惨は濃い闇に包まれた
鬼火のようにぼんやりと浮かぶ松明が一つ処に集まるのを尻目に、無惨は都から離れるべく鬼の脚力を発揮していた。
頂点を超えた怒りは、未だ落ちる気配すら見せず。
食人欲求を克服したと意気揚々に語った医者が、手近の人間を
無惨は別に食人について拘ってはいない。
人を喰ってもいいし、喰わなくてもいい。喰えるものが
医者が食人を一番の問題と見ていようが、最終的に日光を克服できるようにするのなら、無惨は全く気にしなかっただろう。
しかし、医者の醜態を見て考えを改めた。
日光という弱点を放っておきながら完成などと宣い、克服したと得意満面に語っていた食人行為すら抑えることが出来ず、鬼化による暴走を始め、周囲の者を無差別に捕食し始めた。
屋敷を飛び出した医者が道行く人を喰らい始めた段階で、秘密裡に処理することは不可能となった。
人喰いの鬼の話はすぐに拡散し、都中の武者を集めるほどの大騒動となる。
目を付けられることを嫌った無惨は、騒ぎに乗じて都からの脱出を選んだのだった。
期待を裏切るばかりか、鬼という存在を衆目に晒し、目を付けられるという面倒を持ち込んだのだ。
無惨が見限るには充分な不甲斐なさ。
大きな期待は、失望と怒りをも大きくする。
求めていたものが、するりと手から抜け落ちたような感覚を無惨は覚えた。
僅かな時間で都の外縁部であり、最近の無惨の食事場所まで到達した。
都から離れる前に腹を満たそうと近くに居た浮浪者に牙を突き立て――堪らずむせ返った。
「なんだこれは?!喰えたものではないぞ!」
異常事態に動揺したが、すぐさま心当たりに行きつく。
医者曰く、食人欲求の消失。
人を食べる気が消失したのではなく、食べれなくなったのだと悟った。
より正確に言うならば鬼の食性がまるごと反転したのだが、無惨からすれば知ったことではない。
度重なる不愉快な出来事に、無惨の怒りは留まることを知らない。
山中に駆け込んだ無惨は生まれて初めて、人間以外の生物を狩った。
暗く急峻な斜面であろうが獰猛な獣であろうが、鬼としての身体能力さえあれば大した労ではなかったのが幸いである。
解体や調理などという面倒なことをせず、仕留めた熊を抱え喰らいながら、さらに走った。
腹を満たした所で、無惨は一つの村に行きついた。
日の出までもうすぐ故に、隠れる場所を探すために近づいただけであったが、それは村人にとっての福音でもあった。
その村は長い間、武者崩れの野盗たちに襲われ、荒らされていた。
全てを根こそぎ奪うのではなく、再起可能な程度の余力を残すように略奪していた。
再起して得た実りを絞り取るために。
既に、何度も何度も。
野盗にとって幸運だったのが、この農地が未だ荘園ではなかったこと。
中途半端に都に近く、武士や貴族の縄張りの境界上ということもあり、どこの所領ではなかった――つまり、村を守る武士や戦力がいなかったのだ。
網目の隙間に存在する、盗賊たちの理想郷であった。
村人たちには抗う力はもうなく、ただ救われることを何かに祈っているのが日常となっていた。
まさにこの世の春。
全てを暴力で想いのままにしている野盗たちは、目の前に現れたカモを相手に、いつものように仕事を始めた。
刃を向け、粗野な大声でがなりたて、おべべを脱げと命令する。
「貴様ら、たかが人間如きが、よもやこの私に命令しているというのか?――死ね」
無惨からすれば野盗が村を襲っていようがどうでもよかった。誰が死のうがどうでも。
ただ、とっくの昔に緒が切れていた堪忍袋に、唾吐きかけて踏みにじるような相手を、無惨が目零すはずがなく。
何が不運だったわけではない。ただ気づかなかっただけ。
突き付けた刃の先、散り舞う桜の向こうにいた、怒髪天衝く一人の鬼に。
その日、野盗たちの春は終わりを告げ、芽が開くことは、二度となかった。
次回は今週中を予定しています(予定は未定)。