吐き出した空気は随分と細かった。喉元を絞めるような、押さえるような、抑圧した感情。そうしなければ魔法薬を失敗させたように頭を締め付ける情動を爆発させていただろう。
何度も鋭く繰り返される深呼吸に、当たる空気を厭うたヴァシーが首を擽る。宥めようったって無駄だぞ。そんな言葉すら紡げない。何か、1つでも言葉にしてしまえば自身から感情のまま何を突き出すかわからなかったからだ。
杖を振って、アクシオ。無言呪文は失敗して杖先を向けた机の引き出しをしっちゃかめっちゃかにした。唇を噛んで飛び散った中身を直接漁る。そして無事だったそれと机上のケースを取った。杖を懐にしまって、魔法だって使わない。広げられた真っ白な紙にそっとインクを落とした。書き始めは、こう。
ーTo my great father.
これは、ただ、1人だけ逃げようとする奴への罰だ。この感情も、そんな身勝手なアイツへの怒りに決まってる。そうじゃなければ、なんだっていうんだ。
「さあ、集中して。」
背後の声に、溜息を吐きそうになった口を引き結ぶ。どうして私は授業以外をコイツと過ごさなきゃならないんだ。
チラリ、見た髭面は、ん?と穏やかぶって小首を傾げる。鼻につく。
「もう一度おさらいしておこう。」
今は放課後。「授業後、寮ごとに配り物があるのを忘れていたため取りに来るように」、そんなことをすれ違い様ダンブルドアに言われたため、私の貴重な時間を潰してやってきたわけだ。何故、私だったのか、と思うが紙束など口実なんだろう。だから、後々面倒になるとわかって、別のやつに押し付けるのは我慢した。くそ、なんでこの私がこんな雑用を。
そして姿を見せた私の紙束を催促する手を無視して、コイツは古びたクローゼットもどきに手を置いた。「これはマネ妖怪ボガートと言ってね。先程の授業で使ったんだ。」知ってる。“前”もこれと遊んだのだから。まあ、他人のを見る限りは面白かった。自分の時は心底不快だったが。
「そうだ、良かったら、君もチャレンジしてみるかい?君は優秀だからね。」余計なことを!ニコニコと笑うタヌキの魂胆は分かってる。私には開心術が効かないからだ。別に特別なことはしてない。ただ、閉心術を常にしてるだけだ。
生まれ直したとき、まず真っ先に危惧したのは、この知識を知られてしまうということだ。先のことを知られて、それを盾に脅されるなんてたまったもんじゃない。面倒なことは嫌いだ。だからこそ、それはもう必死に閉心術を身につけた。まあ、私はマルフォイ家の子女。容易に身につけられたが。
元々、閉心術を自然と行使してる人間もいるにはいる。逆に全く閉心術の才能のないやつももちろん存在する。そういうやつは大抵警戒心もクソもない誰にでも尻尾を振る犬みたいなやつだ。そういう奴は“心を閉じる”ということが理解できない。閉心術が得意な人間はその逆。“心を開く”ということを理解しない。要するに、常時全てを敵だと思えばいい。そうすれば閉心術など容易いのだ。
それをダンブルドアは危惧している。以前あまりにも自然に開心術を行使してきたこともあったが、それでも覗かれた感覚はなかった。さりげなく、であった為にさらりと撫でる程度の開心術ではあったが、無事私の閉心術が対抗出来たのには安堵した。本気の開心術がかけられることはないと信じている。その瞬間、マルフォイ家はダンブルドアを追い詰める手札を手に入れることになるのだから。それはダンブルドアも望むことではないだろう。
「ボガートは近くにいる者の1番恐れるものに化ける。大丈夫、所詮は偽物だ。」
つまりは、その人物の心を映す生き物。なんて、なんて、“ばかばかしい”。
「撃退する呪文は簡単だ。“リディクラス”!コイツを、」
クローゼット前に移動したダンブルドアはコンコンとそれをノックした。反応するようにガタリと揺れる。
「怖くない姿にしてしまえばいい。大丈夫!怖くなんかないさ。コイツが恐れるのは笑顔だ。笑いたまえ。」
にこり、口角を上げるその顔が忌々しい。楽しくもないのに笑えと言うのか。お前が一番私から笑いを奪ってるんだぞ。笑って欲しければ逆立ちでもしながらタップダンスでも披露しろ。
「さあ、杖を構えて。」
さっさと終わらせてしまおうと大人しく杖を眼前に据えた。撫でるようなダンブルドアの杖の動きに合わせてそのドアノブが回る。
ーギィィ。
ゆっくりと開いた隙間。出てくるものは分かってる。“前”もそうだった。あの時と違うのは
「あ、」
想像の中だった人物を実際に目にしたことがあるということだ。
真っ白な肌。潰れた鼻。切り裂いたような長身を黒いローブで包んでいた。そんなモノクロの人影で唯一爛々と発色する濡れたような、赤。
「我が、君…。」
口の中で呟いた言葉は、恐らく、音にはなっていなかった。カラカラに乾いた喉ではヒューヒューと風しか通らない。
ゆるりとした動作で差し出された手。恐れた赤が私の杖を見る。
震えた体は自然と膝を着き、頭を垂れ、かの方の望みを差し出そうとして、
「ミス、マルフォイ。」
思い出した。そうだ、まだ、例のあの人は、いない。恐らく、生まれてもいないだろう。そうだ。大丈夫。いない、いないのだ。だって、あの方に傷付けられることを恐れた家族さえ、いないのだから。
息をする。
「リ、」
この方を怖くない姿に、とはなんだろう。私が、怖くない姿。私がこの方を恐れない為に必要なもの。
「リディクラス!」
わからなくて、でも杖を振った。早く、この、恐ろしい幻を消してしまいたかった。
ぐるり、旋風が通ったようにその身が翻る。ローブに色が付く。目も覚めるような赤だ。その内に潜む白は私が着る制服と同じで。肌は健康的な橙色。柔らかな黒髪の奥でレンズ越しに翠が瞬く。
「……ッタ…。」
そして霧のようにその身は掻き消え自らクローゼットへと帰った。かの少年の姿を象ったのはきっと、一瞬。
失敗だ。
何も、笑えない。あれが、怖くない姿だと?あれこそ1番恐ろしいものだろうが!
ぱちぱちと2人きりの空間で乾いた拍手が響く。
「お見事!」
弓形に弧を描くその目は、今最も見たくないものだ。
「さて、あれは何か、私に教えてくれないか?」
あれ、とはどちらのことか。口端を釣り上げて、望み通り、私の恐怖の正体を教えてやった。
「生き残った…生き残る、ただの、少年ですよ。」
その存在を私は今度こそ殺すと決めている。頼むから目の前に現れてくれるな。
久しぶりに、彼を見た。前と変わらず、視線はウロチョロ。変わったのは周囲の視線。距離を取ったようなそれには訝しむような鋭い剣が含まれて。正に針のむしろ。それには生徒だけでなく教師の目もあった。
ビクビクと、しかしながらそれを気にすることなく、過ごすアイツは知らんぷりが上手いのか、鈍いだけなのか。否、どちらでもないのだろう。鈍くはない。むしろ、鋭い方だ。では素知らぬ振りをしてるのか?そういうわけでもきっとない。
奴はどうでもいいのだ。自身と魔法生物以外、全部、全部。石ころにどう思われても関係ない、それだけだ。本当に自分勝手なやつ。気に食わない。
「ティア、何か気になるものでも?」
まあまあの顔立ちの男が在り来りな青を近付けて、問う。腰に回された手がローブ越しに体のラインをなぞる。階下に見えた赤茶色から目を離し、男に笑む。
「穴熊が一匹、外に見えた気がして。」
「ワオ!ホグワーツではあまり見ないね。先生方に保護してもらおう。」
「ええ、」
寄せられた吐息をさり気なく逸らす。頬に当たったそれは虫が這うような感覚がした。
「本当に。」
今年もまた、クリスマスがやってくる。つまり、ウィンターホリデーが始まるということ。
荷造りしながら、目の前で浮かぶリストを見る。今年のクリスマスパーティの招待客だ。
「あら、ティアったら珍しい!今年は帰るのね!」
「ええ。今年もクリスマスはパーティを開くの。良ければいらして。」
「マルフォイ家のパーティに!?もちろん行くわ!」
鼻息荒くベットの上をぐちゃぐちゃにしたままドレスの色はデザインはデザイナーはと悩み出したルームメイトを無視して教科書をトランクに落とす。ゴミのように適当に放っても溢れることにならないのだから、本当にこのカバンは“優秀”だ。
入学してから数年。サマーホリデー以外で帰るのは初めてだな、トランクを閉める。少し荒い音を立てて、隅に寄せた。別に苛立ちでは無い、ただ重かっただけだ。
荷物整理をしてもほとんどプライベートエリアに変化はない。教科書類の書物が消えたくらい。滅多に着ない服も割れるんじゃないかと心配するインク瓶ももちろん何巻きもある羊皮紙も要らないのだから、こんなものだろう。家にそれこそ腐るほどある。
見ろ、覚えろ、叩き込めと眼前でバッサバッサと跳ねるリストを押しのける。執拗い。両親から送られてきたこれはあれらのように粘着的だ。
もうほとんど覚えてるんだからいいだろ!怒鳴りつけても変わらないことはここ数時間で理解した。無駄なことはしないに限る。
去年の今頃は、あの隠し部屋で優雅に茶をしばいていたのに、どうしてこうもペチャクチャ煩い中に身を投げなくてはいけないのか。理由も分かっているそれに八つ当たりと理解しながら眉を寄せる。ちなみにそのとばっちりでぐちゃぐちゃに丸められたリストは離した途端新品同様にまた文字の羅列を突きつけてきた。胸を張るような動きに今度は引き裂いてやろうかと思ったほどだ。
今年からは必ず長期休暇毎に帰ってくるように、そうふんぞり返って“命令”した父へ脳内で知る限りの拷問呪文を並べる。
今まで帰らなかったのは、単純。楽しくも有意義でもない数週間を過ごすくらいならホグワーツの図書室に佇む棚を攻略する方が余程いい時間だったからだ。人脈を築くためなんて見え透いた言い訳は少し前から薬にはならない。邪魔するなと言った口で“最高の魔女だ”と誉めそやす奴らの口は新聞で同じ動きを繰り返す写真より飽き飽きしてる。
「あ、もう汽車の時間だわ!」
「本当!?早く行かなきゃコンパートメント取れなくなっちゃう。」
その言葉にリストを鷲掴んで、素早くトランクを開け、滑り込ませる。そのまま鍵をかければハエのように飛び回ってたそれは視界から消え失せた。スッキリ。
トランクを持ち上げて、部屋を出る。必死に鍵を閉めようと彼女ら自身の重さで押し潰されるトランクを不憫に思う。買い手の実家の金のなさか、持ち主の体重か、少女特有の無駄な荷物か、どれに同情してるのかは私にもわからないが。
談話室に出れば多少の寮生とそれに見合わぬざわつき。その中で一目散に私に気付いた男が自身の荷物を腰巾着に押し付けて、こちらに手を差し出す。
「レディ、お手をどうぞ。」
「あら、ありがとう。」
遠慮なくトランクを渡した。それを受け取ってもう一方の手に持ち帰ると再びキザったらしく掌を差し出してくる。その顔は諦めを知らない。というか、手を取る選択肢以外を疑ってない。そして、私はその選択肢を選ばざるをえないのだから、ままならないものだ。
静かに手を重ねた。指を絡まされる。気持ち悪い。
「貴方をエスコート出来るなんて僕はなんて幸運なんだ!」
この男はスリザリンの良家。私のボーイフレンド候補だ。にこり、笑顔だけを返した。それ以上に私からやるものは何も無い。
手を引かれるまま、寮を出た。私たちの後ろをゾロゾロと群れのように着いてくるコイツらはどういうつもりなのか。知らないし、知りたくもない。他寮生は迷惑そうにこちらを見て、そそくさと道を開ける。何も言ってないのに、臆病な奴らだ。
ホグワーツを出る。そんな時、見えた男に小首を傾げた。何故あそこにいるのだろう。荷物も持たず、コートも着てない。帰省するつもりがないのは一目でわかった。真っ黒なセーターに黄色のマフラーがとても映えていた。
その顔がゆっくりと持ち上がる。こちらを見て。目が合った。
「あ、あの。」
相も変わらず覇気のない声。しかし、逸らされない視線は久々に交わっていて。雪に反射した光を受け止めてキラキラと綺麗に碧は輝く。そっと視界から外した。
「、うっ。」
どんとなよなよしい体を紳士気分のエスコート役が弾く。一言もなく、虫を払うような仕草で。なんて野蛮なやつだ。品性の欠片もない。
それでも私から碧が逸らされることはなかった。見てなくても、わかる。強い視線が首筋を焼く。
「ねえ、」
知らない、あんなやつ。ジャービーなんか隠し持って、しかもそれを用いた実験に失敗するようなアホ。もっと上手くできただろうに隠蔽も満足に出来ないのか。
退学処分になっても、唯唯諾諾と従って、大人しくホグワーツから去ろうとしたヘタレ。自分の言い分も通せない軟弱者なのか。退学するならするで、それを告げるのが礼儀じゃないのか。
本当に知るもんか、あんな、あんな、人の罪をわざと被った大馬鹿者。そんなの自業自得だろ。そいつの罪はそいつに償わせろよ。なんでお前が。このお人好しが。
私はお前みたいなやつが嫌いだ。1番嫌いだ。大嫌いだ。
「ティア!」
だから、お前とは友達なんかじゃない。
これは家に言われたからじゃないぞ。お前を庇ったからじゃない。お前を停学処分で済むよう手を回したからなんかでは、決してない。お前みたいなやつと、もう関わりたくないんだ。お前みたいな自分勝手なやつにはうんざりなんだ。私はマルフォイらしく、身分にあったやつと付き合っていくのは当たり前のことなんだ。
でも、これくらいはいいよな?
小さく振り返って突き飛ばされた姿勢のまま、こちらに強い碧を向けるそいつに口先だけで告げる。
ーうらぎりもの。
お前も私が要らないんじゃないか。
そして、ヤツとは一度も話すことなくヤツも、私も、学び舎を卒業した。優秀なる魔女としての称号だけ、手に入れて。