運命が導いた男女の出会い。
これは少年少女が送る日常。

世界の端の──ほんの小さな巡り合わせ。


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ものわずらい

 

 

 

「狼男に憧れたことはある?」

 

 

 

さらさらに()かされた黒髪を(なび)かせながら、彼女は独り言のように呟いた。

 

誰もいない、真っ暗な教室で月光(げっこう)だけが差し掛かる。

窓から流れ込む夜風は妙に心地良く、ずっと留まっていたいとさえ思えた。

まるで迎えを待つかぐや姫のようで、今にも消え去りそうなくらい存在が薄く感じ、幻と錯覚してしまうほど彼女が(おぼろ)げに見える。

 

しかし、僕を見詰(みつ)める彼女の双眸(そうぼう)は僕の姿をはっきり映していた。

その瞳の奥に燦々(さんさん)と輝く、熱を帯びた何か秘密めいたものが潜んでいるのではないかと……。

 

──僕はそう、思ってしまった。

 

 

 

 

 

*************

 

(さざなみ)の音が聞こえる。

とても穏やかで、魂さえも(やわ)らぐようで。

そこに、一つの貝殻が流れて着いた。

何処(どこ)にでもある貝殻だったけど、それは何故(なぜ)か宝石のように輝いて見えた。

それはきっと──気のせいなんかじゃないんだろう。

 

*************

 

 

 

 

 

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小鳥の(さえず)りだけが聞こえる朝に、鬱々(うつうつ)とした気分になる。

目が覚めても布団から出ようと思えず、寝惚(ねぼ)けた頭で昨日の出来事を思い出していた。

 

 

休みの日の晩、父親とちょっとしたことで言い合いになり、気分が落ち込んで夜の街を自転車で駆けた。

近所の高校に通う僕は、学校の前を通りかかった時にふとブレーキを掛けて、気紛(きまぐ)れで校舎を見渡した。

真っ暗で、古びた校舎からは異様な雰囲気が感じられる。

すると、人気(ひとけ)がなく物寂しい夜の学校に、一人の少女が窓から夜空を眺めているのが見えた。

──思えばこれが出逢いだったのだろうか

一瞬、幻覚かと思って目を幾度(いくど)か擦り何度も確認した。しかし少女の姿は暗い夜の中でもはっきりと見え、僕は彼女が何者なのかを知りたくなってしまった。

そして、その時は自分に対して何処(どこ)か投げやりな部分があったというのも相まって、思い切って侵入してしまった。

 

 

もし先生や親に事が知れ渡れば大問題だと言うにも関わらず、人魚の歌声に誘われ海に引き()り込まれるように、自然と足取りが進んでいく。

二年一組の教室の扉の前まで来ると、僕は意を決してそっと息を殺しながら扉を開けて室内を覗いた。

 

窓際に一人の少女が、セーラー服を(まと)黄昏(たそがれ)ている。

 

僕は開けた僅かな隙間(すきま)から覗き込み、ついその顔を(おが)みたくなってもう少しだけ扉を動かそうとした。扉は引き戸になっていて、横に動かす時に鳴る扉の(きし)む音が普段は気にならないほど小さいのに、この静かな空間では辺りを響かせるのには充分だった。

 

誰かが覗いていることに気付いた少女は振り返って、少し警戒した様子で尋ねてきた。

 

「…………だれ?」

 

そう尋ねた人物に僕は見覚えがあった。

授業で一緒になることはあるけど名前だけしか知らない。特に目立ちもせず、あまり覚えていないが、教室の端っこで友達と笑談(しょうだん)している姿を一度見かけたことがあるだけ。

長い黒髪を揺らし(たたず)むのは二年一組の女子月島(つきじま)(めぐみ)さんだった。

 

僕は姿を現すと月島さんは警戒こそしたものの特に驚いた様子もなく、外へと視線を逸らすとたった一つだけ訊いてきた。

 

 

 

「狼男に、憧れたことはある?」

 

 

 

月島さんは僕のことなんて知らないはずだ。決めつけかもしれないが、友達の一人も居ない僕なんかを覚えているわけがない。なのに、僕に訊いたのは名前ではなく、意図不明の問い。

月島さんはそれだけ言うと、僕の答えも聞かずに入って来た扉とは逆方向の扉からさっと立ち去ってしまった。そんな彼女を僕は目で追うことしか出来ず、教室に一人ぽつねんと取り残されてしまった。

 

これが、昨夜に起こった事の顛末(てんまつ)である。

 

 

 

「ふわぁ……もうこんな時間か」

 

気付けば学校へ行く支度をしなければ間に合わない時間まで迫っていた。

勢いよく布団から飛び起きると関節を鳴らし、身体全身に血が巡るように軽く屈伸する。

寝惚け目で一階の洗面所まで行くと、乾燥して鼻がむっとするような匂いを放つ口内に水を入れて(すす)いでいく。それが終わって歯を磨いて尿素を体外へ排出すると、着替えを済ませる為に二階へ上がる。

この幾度となく繰り返してきた行為(作業)|にもいい加減飽きてきた頃だ。単調で面白味もなく実につまらない。

これじゃあ学校の授業と何も変わりないじゃないか。

 

そう愚痴(ぐち)ったって何も変わらない。

理想と現実の差に辟易(へきえき)しながら制服の袖に腕を通して、姿見(すがたみ)の前で格好を整える。

もう少しで目に掛かるほど伸びた前髪は他人に暗い印象を持たせるだろうに、それを理解して未だ放置している僕の黒髪は全体的に重い。

顔の形が整っている訳でもなく、有象無象に紛れた一般人の典型みたいなのが灯施陽太(ともせようた)という人間だった。

 

学校指定の鞄を背負い、玄関先で使い古された靴を履く。いってらっしゃい、と後ろで声が聞こえたが、僕はそれに答えることなく家の扉をがちゃりと開けた。

 

朝のひんやりとした風が、僕を出迎えてくれた。

 

 

 

 

 

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自転車に(またが)って登校する朝は退屈で(わび)しい。

塵箱(ごみばこ)から溢れた空き缶。尻尾を揺らして欠伸(あくび)をする黒猫。慌ただしく靴音を鳴らして走る背広(せびろ)を着た会社員。

この景観は僕が高校に通ってから(ほとん)ど変わることなく保たれていて、それは安心感を与えると同時に退屈を覚えさせる。

 

脚は回れど頭は回らず、気づけばずっと上の空。

事故を起こしても不思議ではないくらい呆然としているのに、未だ五体満足なのはこの身体に染み付いた習慣たる(ゆえ)だろう。

 

僕は学校に通う理由について考えを巡らせていた。

通う意味などないと度々(たびたび)思いながらも、親の意思に背かぬよう渋々(しぶしぶ)通っているのが現状で、友達一人も(ろく)に作れない僕からしたらそこは孤独の(おり)に自ら閉じ込められに行くのに等しい行為だ。

そんな愚者(ぐしゃ)を世間は責め立てるだろうけど、惰性(だせい)に生きている人間は数多(あまた)と居るんだ。今を生きている人以外は誰も僕を非難できない。

それに、僕と同じく流れるように高校に行った奴もまた数多といるはずだ。それは単に楽しいから、それが現代での常識だからと安直な理由で。

 

それはそれでいいのかもしれない。

でも、その理由を否定したいという人間が居るはずだ。人混みに紛れる有象無象の象徴である僕みたいに。

だって、そんなのゼンマイ仕掛けの機械玩具(がんぐ)のように、前にだけ進むよう設定されただけのものと同然じゃないか。

 

今も(なお)自転車を()ぎ進めながら、退屈に反抗心を抱いてより一層ペダルを強く踏む。

陽射しを浴びながら受ける向かい風は僕の心を晴らしてくれるくらい気持ちが良く、学校へ行くことの憂鬱(ゆううつ)な気分を和らげてくれる。

 

駐輪場に指定された場所に自転車を置くと下駄箱で上履きに履き替え、北館三階の二年二組の教室まで階段を登る。

教室に入ると僕のことなんて目に映っていないように談笑を続けるクラスメイト。誰にも挨拶されない朝を迎えると今日も一日始まったと言わんばかりに時計の針がカチッカチッと、(まわ)る音が聞こえた気がした。

 

渡り廊下に設置されているロッカーに教科書を取りに行くとき、ふと一組の教室を覗き込む。

すると、昨夜の神秘的な風貌(ふうぼう)をしていた彼女とは別人と思えるほど地味で、黒縁眼鏡を掛けたお下げ姿の月島さんが目に映った。

 

確かに、一度見かけた時もこんな感じだったような気がする。だが、まるで化狐のように頭から足先まで別人に変幻(へんげん)したのではないかと疑うほど衝撃的だった。

そんな彼女を一瞥(いちべつ)した時、ちらりと視線を交えた気がした。もしかしたら、此方(こちら)の存在にも気付いたのかもしれない。

 

声を掛けられるかも、と言う(あわ)い期待にも(むな)しく再び教室に戻るまで呼び止められることはなかった。

 

僕の願いは時間と共に通り過ぎた。

 

 

 

 

 

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放課後、何の変化もないまま訪れた夕焼けが迫る時刻。

僕は最早お決まりとなりつつある図書室での読書をしに行く。昨日はあんなことがあったというのに、この決まり切ったいつも通りに絶望で一杯になりながらも誰にも気付かれぬよう早足で向かう。

 

がらがらと窓を震わせながら戸を開ける。

今日はまだ誰も来ていないようで僕はこれ幸いにと、隅っこの陽が当たらない座席を陣取(じんど)った。

 

読書はどちらかと言えば好きぐらいの程度。

騒がしい場所では本来読書は向いていない。けど、教室ですることがないため暇潰しに惰性に読んでいると言う点もあるから。

僕の場合は人目を気にして内容に集中出来なかったりするが、寝たふりよりは有意義なので仏頂面(ぶっちょうづら)で文字の羅列(られつ)と向かい合って過ごす。

 

それが僕の日常。

退屈で窮屈(きゅうくつ)()()無い思いを抱えて過ごす耐え難い日々。

友達が出来たらきっと楽しくなるんだろう。

 

「最初からそれが出来たら、こんなことには」

「──こんなことって、何?」

 

刹那(せつな)、背筋が凍り付いた気がした。

恐る恐る振り返ると、にこにこと不気味な笑みを浮かべる月島さんのような人がそこに立っていた。いや、ようなではない。月島恵その人だった。

 

「こんにちは灯施くん。今朝、目が合ったよね?」

「こ、ここ、こんにちは……つ、月島……さん?」

「もしかして、緊張してる? 安心して。何かする訳でもないから

 

冷や汗が首筋から背中へ伝う。

家族以外の他人と話したのは実に久しぶりだった。

(ども)りながらも上擦(うわず)る声を何とか(しぼ)り出して挨拶すると、月島さんは気にしない素振りを見せて此方をじっと見つめてくる。

 

恐らく、月島さんは昨日のことについて話をしに来たのだと瞬時に理解した。此処(ここ)に居るのも、僕の後を()けて来たからだと結論を出し、下手に何も言わぬよう当然の出来事に困惑している頭の回転を全力で稼働(かどう)しながら相手の話へ耳を傾けた。

 

「立ち話もなんだし、座ろっか。今は人が居ないみたいだし、多少お喋りしても大丈夫だよね?」

「う、うん。大丈夫だと、思うよ」

 

出会いは当然とは言え、その覚悟が出来ていなかった。

 

 

 

 

 

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僕らは対面で座してお互いの顔を見つめ合った。

今まで気づかなかったが、月島さんはそれなりに整った顔立ちをしている。

二重でぱっちりした吊り目気味の目に歯並びが良く(うるお)った桜色の唇。鼻筋は高く鼻先には蝶が止まりそうなくらいすらっとしていた。

前髪を上げれば男子から人気は出るだろうに、それを理解してか分からないが、眉毛が見えない程に前髪を下ろし眼鏡というのも相まって僕と同じで雰囲気が暗く感じる。

 

「君は何も聞かないの?」

「え、何が?」

「だから、昨日のこと」

「きのう? あ、えっーと、そうだったね……」

 

つい相手の顔を意識し過ぎて完全に忘れていた。

これでは相手に対して失礼極まりない。他人にまじまじと見られるのは気分が良くないだろうから。

 

一先(ひとま)ず、何を訊いたら良いのだろうか。

というより、彼女の様子を見る限り何処どなく訊いて欲しそうな気がする。

 

「そう言えば、自己紹介がまだだったね。授業で一緒だったりするけど、こうして一対一で話すのは初めてだし」

「そう、だね。昨日のは数に入れないとしたら」

「ふふ、勿論入れないで、だよ。初めまして、月島恵(つきしまめぐみ)です。趣味は夜の学校に忍び込んで夜空を眺めること。特技は絵を描くこと、かな?」

「あ、えっーと、灯施陽太と言います。趣味や特技は特にない……です」

 

当たり(さわ)りのない自己紹介をした後、事の真相を聞くため僕は尋問に近い問い掛けをした。

 

「えっと、まず訊きたいことは月島さんのその……趣味について何だけど」

「うん。でもその前に一つ聞きたいことがあるんだけど。いいかな?」

 

彼女は僕の質問を無視して逆に質問をしてきた。

肘を机に立てて手を組んで顎の下へ持って来ると、首を傾げてこう言った。

 

「私の趣味について初めて聞いた時、どう思った?」

「え? どうって、それは……──」

 

夜の学校で夜空を眺めること。

年頃の女の子が一人、不審者が現れる危険性を(はら)む夜の校舎へ侵入する。(ただ)月光を浴びて夜空を眺めるためだけに、だ。

普通なら有り得ない行動。常識を持った人間がするような、()してや優等生と思われる彼女がそれをしているだなんて。

 

 

ただ、そうだなぁ。

それって、なんだか、とっても──

 

 

 

 

 

 

 

 

「────浪漫(ろまん)ちっく、だと思ったよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……やっぱり。君なら言うと思ったよ」

 

そう言うと、彼女はにっこりと笑って嬉しそうに僕をまじまじと見返してきた。

そして、彼女は話を続ける気はないのか、席を立って帰ろうとした。

僕はそれを見て慌てて制止の声を掛けた。

 

「ちょ、ちょっと月島さん! 話の続きは──」

「また後でね。場所も時間も昨日と一緒」

「そ、それって……うん。分かった」

「ね? 私たちにお似合いの場所でしょ?」

 

僕が分かったと返事をすると、後ろを振り向いて図書室から去っていった。

 

昨夜と同じく僕だけが取り残される。

静寂(せいじゃく)が支配するこの空間は、いつもとは違う衝動が僕の心を強く、強く打ちつける。

 

──人々はそれを、興奮と言うのだった。

 

 

 

 

 

*************

 

砂のついた貝殻を、綺麗に洗い流してあげた。

家に帰って持ち帰ってみると、それはそれはこの世にまたとない輝きを放っていた。

私の目にしか映らない、心が突き動かされる程の(まばゆ)い輝き。

やっぱり、偽物なんかじゃなかったんだって。

強く、強く、貝殻を抱きしめて手放さなかった……。

 

*************

 

 

 

 

 

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「まさか二日連続で訪れることになるとは……」

 

都会の喧騒(けんそう)とはかけ離れた程静かで、自然の空気が美味しい。

そこが唯一の利点とも言えるだろう僕の通う高校は(とばり)が降りた今現在不気味な雰囲気を(かも)し出している。

 

学校とは不思議な場所だ。

昼間は少年少女たちが勉学に励み、部活動にも(いそ)しみ、若い頃にしか体験できない青春というものを求めて活気溢れているというのに、薄ら見える月が照らす真夜中ではそんな場所だとは想像出来ない程に負の気配が満ち溢れている。

まるで山奥の廃病院と言わんばかりに不吉な予感が(ただよ)って来る。

 

そんな所に今から侵入しようとしている僕は、一体何を求めてやって来てのだろう。在り来りな自問自答。答えは漠然(ばくぜん)と浮かんでいる。

比較的冷静な今、昨日の僕は相当勇気を出したなと陽気に考えていた。一度侵入してしまったから、二度目はもう怖くなんてない。

 

……という訳でもない。

僕という人間は元々小心者で臆病な腰抜け野郎だ。

他人に対して積極的になれない。その所為(せい)で誰とも親しくなれないし、誰からも敬遠(けいえん)される。だから結果として、誰にも嫌われない選択肢を選んだ。

 

でも、それを今、自らが変えようとしている。

 

初めてだった。

あんなにも他人の事を知りたいと思ったのは。

今までの十六年間、これほどまでに惹かれる人間は見たことなかった。

昨夜の邂逅(かいこう)で僕の心は月島恵という人間に囚われた。そう、一瞬だったからこそ余計に興味が湧いてしまった。

 

内側に(ほとばし)る変化と興奮に恐怖という感情は自然と麻痺していた。あるのは唯、彼女に会いに行くという目的だけ。

 

僕は二度目なのにも関わらず、妙に小慣れた手つきで門の蝶番(ちょうつがい)を外し、武者(むしゃ)震いする身体に鞭打(むちう)つように拳を握りしめ、暗闇に馴染(なじ)んだ目で教室への道を辿った。

 

 

 

 

 

 

「おかえり、待ってたよ」

「……た、ただいま」

 

教室に入ると、お下げ姿の月島さんが出迎えてくれた。

教壇の上に座り、脚をぶらぶら下げている彼女は幽霊のように真っ白に(かす)んで見えた。僕は実物かどうかを知りたくて、輪郭(りんかく)が見える程近づくと虚像ではないことがはっきり分かる。

そのことに安堵(あんど)した僕は改めて彼女の方へ向かい合う。

 

「どう? 夜の学校は」

「消防設備の明かりを頼りに来た。懐中電灯を持って来ればよかったと後悔してるよ」

「でも、お化け屋敷みたいで胸が弾んだでしょ?」

「君とは違って幽霊は苦手だから、心臓が痛かったよ」

 

僕がぶっきらぼうにそう言うと、月島さんは鈴の音のような美声でくすくすと微笑んだ。

そんな彼女を見て思わずどきっとしてしまう。

 

異性に対する耐性が低いためか、距離が近かったからかなんて分からないが、恐怖とはまた違う胸の高鳴りに心は自然と(おど)り出していた。

 

此処(ここ)で話すのもありだけど、折角だし校舎でも歩きながら話そっか。大丈夫。監視の目はちゃんと避けるよ」

「いや、それもそうだけど、僕はあんまり暗い所は好きじゃ──」

「二人なら怖くないでしょ? それとも、手でも繋ぐ?」

 

口角を上げて僕の顔を覗き込む加虐心に満ちた彼女。

僕はそんな彼女にそっぽを向いて廊下へ歩き出すと連れないなぁ、と文句を云いながらも隣へ並んで歩き出した。

 

 

途中彼女の言う方向へ歩く向きを変えつつ、二人だけの学校を浮き立つ足取りで散策する。

 

「そういえば、月島さんは何で制服を着ているの?」

「学校と言えば制服、みたいな所があるからかな?

君も次からは制服を着て来てよ。其方(そっち)の方が雰囲気出るでしょ?」

「……まあ、月島さんが言うならそうするよ」

「…………」

 

急に黙り込んだ彼女に不自然さを感じた僕はその綺麗な横顔を一瞥(いちべつ)した。

すると、彼女は頬を膨らまして不服そうな表情で僕をジトっと見つめていた。何か不機嫌になるような事を言ってしまったか? と発言を振り返っていると、彼女はその不満顔を崩さないまま無愛想(ぶあいそう)に言った。

 

「私と君の間に距離を感じるんだけど」

「え? ……そ、それはまだ会ってばかりだし。何よりお互いをよく知ってるわけでもない……じゃないですか?」

「……ふーん。ま、それもそっか」

 

納得した様子を見せる彼女を見て心の中で安堵した。

束の間、彼女は僕にとんでもない事を口走った。

 

「じゃあさ、下の名前で呼び合おっか」

「……え、ええっ!?」

「そんなに驚く? 別に大したことないじゃん」

「い、いやいや!! 僕、友達とか居ないしほぼ初対面の況してや異性の人を下の名前で呼ぶだなんてそんな──」

 

唐突過ぎる提案に、僕は挙動不審になってしまった。

早口で(まく)し立てる僕を見るなり彼女は腹を抱えて大笑いした。鈴を転がすような声は夜の校舎に響き渡り、耳障りの良い美声に恥ずかしさのあまり僕は赤面する。

耳が熱くなっていくのが分かると、自然と顔を(うつむ)けてしまった。

 

「あー久しぶりに笑ったかも!! 面白過ぎてお腹が……くふふ、ふふふ!」

「…………」

「じょ、冗談だって。気にしないで……ふふ」

 

あまりの羞恥に身体が熱を帯びていく。

こんなに恥ずかしい思いをしたのは初めてだったので、もう二度と挙動不審にならないと雲に見え隠れした今宵の月に固く誓った。

 

「それはそうと、下の名前で呼び合うこと。分かったかな、陽太くん?」

「っ!? えっと……分かったよ。め、めぐみぃ……」

「声が小さくて聞こえないなー」

「わ、分かったよ! 恵! ……これで良い?」

 

恵は満面の笑みで縦に首を振ると、止まった足を再び前へ動かした。

僕は両親以外に初めて下の名前で呼んでくれた相手に対して、さっき迄の事もあり内心忸怩(じくじ)たる思いでそれを悟られないように置いてかれないよう後ろ姿を駆け足で追いかけた。

 

 

一騒ぎした後の(むな)しさが僕を襲う。

恵も僕も、何方(どちら)が切り出すのではなく何も言わないまま沈黙が(しばら)く続いた。けど、不思議と気不味いとは思わなかった。

 

「ねえ」

 

今にも崩れ落ちそうな程か細い声色で、でもどこか楽しそうな表情をしながら恵は言った。

 

「どうして私がこんなことをしてると思う?」

「どうして、か」

「私、初めて会った時に(わか)ったんだ。君は私と同じだってことに」

「僕と、同じ……」

 

僕と同じ。

 

 

 

それはつまり──そういうことなんだろう。

 

 

 

 

「退屈だったから。刺激が欲しかったんだ。だから夜の学校に忍び込んで、こんな事をしている」

「そう、正解。なんでなんだろうね。こんなにも非日常を追い求めてるのは」

「平凡に慣れてしまったから。僕らはきっと、絶望してしまったんだ。平和を(うた)窮屈(きゅうくつ)な世界に」

「愚かにも、ね。やっぱり陽太は私だよ」

 

嬉しさを(あら)わに微笑む恵に、僕はつい見惚れてしまった。

僕と同じと言ってくれた。

僕を一人の人間として視てくれている。

 

例えそれが自分を重ねているだけだとしても、僕はこれ以上にない(よろこ)びを、この刹那に感じている。

空っぽだった心が少し満たされたような気がした。

 

それは承認欲求が得られただけかもしれない。

もしかしたら、恵は僕を何とも思っていないのかもしれない。ただ、それでも良かった。

偽りだったとしても、生を実感できたのだから。

 

僕はこの世界に初めて、心からの感謝を送った。

「ありがとう世界。僕の十六年間は無駄じゃなかったよ」

 

 

7/24

 

 

 

 

翌日、僕は何事もなかったかのように登校した。

 

先生からは何も言われず、夜の密会は誰にも知られないまま闇の中に置き去りになっている。

そして、今夜もまた会おうと約束した。

 

梅雨明けの季節。皆んなの鬱な気分が(ほが)らかになる頃、僕の心は澄み渡る雲一つない空のように人一倍晴れていた。

 

一人だけど孤独じゃない。

それを知った僕は教室で誰とも話せなかったとしても、寂しくなんてなかった。今まではなかった感情、誰かと一緒という安心感。

 

集団心理とはまた少し違う、一人だけを特別に想う気持ち。

恋に似ているのかもしれない。けど、今抱いている感情はそれとは別の何かに思えた。

 

「恋なんて、したことないけど」

 

他人に聴こえないよう小さな声でぼそりと呟く。

悲しいと思うことはない。勿論、それが嬉しいと思うこともない。

今はそんなことを考えているくらいの余裕なんてなかった。

 

僕は恵のことがもっと、もっと知りたくて仕方がなかった。

僕の中は恵のことで九割を占めている。

恵はこれを知ったら気色悪いと軽蔑するだろうか。でも何故だろう、僕はそれでも構わないとさえ思っていた。

 

初めて会った日の夜の光景が脳裏に焼き付いて頭から離れない。授業中に何度も呼び起こされる記憶に、僕はずっと考えさせられていた。

 

あの問いの真意が分かる日がきっと訪れるだろう。

だからその日までは──目を逸らさないでいよう。

恵が消えてしまわぬように……。

 

 

 

 

8/24

 

夜が恋しいと思える日が来た。

何故かお帰りと言ってくれる。

それが何だか嬉しくて……。

 

 

9/24

 

学校ですれ違うといつもそわそわしてしまう。

そんな自分が何だか馬鹿らしく思えて。

でも、この感情を知れたことが何より幸福だった。

10/24

 

 

 

 

 

「もうすぐ夏休みだね。如何(どうせ)暇でしょ?」

「今のところ、予定とかは特にないけど……」

「だったら、美術室においでよ。私しか結局来ないし」

 

あれから一週間経過した。

二人の関係は奇妙な距離感を保ったまま、誰にも邪魔されない真夜中を過ごしていた。

 

恵が夏休みの予定について聞いてきたが、未だ友人の一人も居ない僕は嘘を言っても仕方がないので正直に答えた。

それに対して美術室へおいでと嬉しいお誘いを受けたが、僕の頭には疑問符が浮かび上がった。

 

「美術室? ってことはもしかして、恵は美術部に入部してるの?」

「あれ、言ってなかったっけ? これでも部長なんだよ私。まあ殆どが幽霊部員なんだけど、それでも少人数だしどうせ誰も来ないからさ。こうして話すのも良いけど、時間も場所も安定して確保できるし其方の方がいいかなーって。それに、陽太の親御さんも心配してるんじゃない?」

「そ、それは……」

 

今まで誤魔化してきた部分を突かれて閉口する。

僕はこの時間のこの場所で話すのが好きだった。だから、別に変える必要も無かったし恵も同じ意見だと思っていた。

 

家から出る時は母親に何も詮索されぬよう(ただ)の散歩とだけ言って何か言われる前にそそくさと出門していた。

彼女の言うことは一理ある。だからこそ僕は否定出来なかった。

 

「じゃあ決まり!! はい、これが予定表ね。昼の一時から夕方の五時まで活動時間取っておいたから。場所は分かる? 南館二階の男子トイレの隣」

「あ、うん。それは分かるけど、ほんとに大丈夫なの?」

「大丈夫だって。偶に先生が来るかもしれないけど、それ以外は基本私たちだけだと思うから」

 

僕はその言葉に少し心を躍らせた。

 

これから始まる、二人っきりの夏休みに。

 

 

 

 

 

11/24

 

夏休みはまだ始まらない。

もう少し、もう少しだけ我慢すればいい。

 

 

12/24

 

駄目だ。もう……待ちきれない。

僕は何に期待している?

 

 

13/24

 

 

ああ、ずっと待っていた。この日の始まり。

 

「ようこそ美術室へ……って、来たことあるっけ?」

「まあ一応、選択科目は美術だったから一年の時に此処で授業を受けていたよ」

「なら初めてじゃないね。久しぶりって感じ?」

 

僕はそれに頷くと彼女はくすくすと微笑んで適当な所に鞄を置いた。恵は冷房をつけると同時に扉の鍵を閉め、黄白色の窓帷(カーテン)(とざ)して外界からの情報を遮断すると、完全に二人きりの空間が出来上がってしまった。

 

待ちに待った夏休み。

長いようで短かった、三時間のようにも三十日のようにも感じた一週間。

七月半ばの今日この頃、僕たちは美術室で密会をする。

 

「これで良し! さて、どうしよっか?」

「どうしよって……決めてなかったの?」

「まあね。此処が落ち着くってだけだったからさ」

 

僕はてっきり恵が何をするかを考えて用意してくれているものだと思っていた。如何やら美術室にしたのは彼女の都合らしい。

それはそれで嬉しかった。だって、恵が拠所(よりどころ)としている場所に僕を導いてくれたから。

 

「恵は絵を描くのが好きなの?」

「うん。小さい頃から絵を描くことしかしてこなかったから。逆に言えばそれしかないの。私の個性。私の特技」

「そんな事を言ったら僕は何も無いよ。唯の一つも、趣味も特技もない無個性の人間。機械のように無機質で感情が希薄な世界に量産された有象無象の一人。そんな僕からしたら、君は立派な個性を持っているよ。僕なんかより、ずっと」

 

何も持てない人間は、それだけで何かを持つ人間に憧れを抱くのだ。理解から最も遠い感情と誰かが言っていた気もするが、無が有を理解することはそもそも不可能に近い。だって、何も得られないから無なのであって、それに意味なんてものも無いのだから。

 

────じゃあ、僕がしようとしていることは?

 

分からない。

分からない。

 

でも、知りたい。理解()りたくて仕方がない。

この抑えられない欲望、恵に対する野心にも似た獣の(ごと)下衆(げす)に塗れた感情が僕を支配する。

僕は今、無から有へ──変わろうとしている。

 

消え入りそうな程弱々しく卑下(ひげ)する僕を見て、恵は憐れみではなく何処か哀しげな表情を浮かべる。

そして、目を逸らすことなく僕をしっかり捉えた恵ははっきりとした口調で答えた。

 

「そんなことないよ」

 

如何してそんなことが言える。

何故か怒りが湧いた。そんな無責任な言葉を放った恵に僕は苛立ちを隠さず顔を歪ませながら突き放すように言った。

 

「何を根拠にそんなことを」

「君自身がそう言っている。私と居ることが陽太の中で変化を(もたら)している。……そうでしょ?」

 

僕は頷くことも出来なかった。

退屈に満ちた心は次第に形を変えている。その心の変化に僕は戸惑っている。

 

ある日突然訪れた出会い。

それによって変化していく自分自身。

 

ここ最近、時間の流れがとても短く感じていた。

朝の支度をしている時。自転車で登校する時。授業を受けている時。家族と晩御飯と食べる時。

そんな流れ作業のような当たり前の日々が、いつの間にか一瞬で通り過ぎて行くように感じていた。

 

僕の中で確かに変わった時の流れ。

普遍的な日々の狭間にあった必然とも言える出会いが、流れに拍車を掛けてしまった。いや、くれたんだ。

 

そのことに今気付かせてくれた。

僕が楽しいと思っていることを。

 

──退屈じゃないって、思っていることを。

 

「折角だし、私が今の陽太を描いてあげる。私の目に映る陽太を」

「君から見た僕?」

「そ。だからそこに座って、じっとしてて」

 

僕は指示通り椅子に座して恵が描き終わるまで待つことにした。自分が描写モデルになるのは初めてのことでそわそわしながら恵が用意する様子を(うかが)っていた。

 

恵は僕と一定間隔の距離を取ると、画架(がか)を持ってきて椅子の前に置く。真っ白のキャンバスを立て掛けると油絵具を用意して座る。肘を伸ばして筆を目線の先まで持ってくると重ねた親指を真上に向けて物の位置を測る。

調色板に必要な絵具を用意すると準備が出来たのか、華奢で肌白い手で筆を取り優雅(ゆうが)に手を動かし地塗(じぬ)りを始めた。

 

美術室特有の換気されていない乾いた空気に絵具の匂いが混じり合い嗅覚が刺激される。外から聞こえる運動部員の声とキャンバスに触れる筆の音、冷房のひんやりした静かな風の音、壁に掛けられた時計の針の音がやけに鮮明に聴こえてくる。

 

時々交わす視線に心が揺さぶられ心の臓が掴まれたような気がして、見られているということをつい意識してしまい終始落ち着かなかった。

 

 

描き終わったのは夕暮れ時。

恵が筆を置くと出来たよと、たった一言だけ呟いた。それを聞いた瞬間、僕の鼓動は速さを増した。

 

 

 

渡された油彩を手に取る。

そこに描かれていたのは──。

 

 

 

 

 

 

「狼……男?」

「そう。でも、今は不完全だから半分だけしか変身できてないの。それが私の目に映っている陽太」

「これが、僕なの?」

「うん」

 

色素の薄い真っ黒な背景の中心に描かれた僕は、身体の左半分が灰褐色の獣毛に覆われていて、その覆われた方の眼光は赫くぎらぎらと輝いていた。

 

臆病者の僕とはまるで正反対。

なのに、何故僕はこんなにもすんなりと納得しているのだろう。脳が拒絶していても、心は既に受け止めていた。

 

「如何? 気に入った?」

「……気に入った。凄く、凄く気に入った」

「そう。良かった」

 

僕が示した反応に素っ気なく返事をした恵は窓帷の隙間から差し込む夕陽に照らされて、儚げに微笑んでみせた。

 

僕があまりの尊さに気を取られた。

その一瞬の間に僕の真正面に近付いた恵は両肩を掴むと何を血迷ったか僕の首筋を吸血鬼の如く噛み付いてきた。

 

 

 

刹那、首筋に鋭い痛みが走る。

 

 

 

「い、痛っ!? 恵っ!? 何を、して、る──」

 

 

 

「────血、飲ませて」

 

 

痛みと衝撃で錯乱した状態の僕は咄嗟(とっさ)に恵を強く突き飛ばしてしまった。

前に飛ばした衝撃で僕は後ろへ倒れ込むと、見上げた形で口の端に血を垂らした恵の姿が目に映った。その姿は吸血鬼そのもの。でも、やっぱり何処か哀しげな表情をしていた。

 

「……如何したの? いつにも増して変だよ」

「御免。急に噛み付いちゃったりして」

「いいよ、別に。少し痛かったけど、このぐらいなら全然平気」

 

僕はそう言うと、鞄からポケットティッシュを取り出し首筋から流れた血を拭き取る。次いでに呆然として突っ立っている恵の口元も震える手で拭いてあげた。

 

痛みで冴えた頭を回してなるべく相手を刺激しないよう柔らかい口調を意識して尋ねた。

 

「如何してこんな事をしたの?」

「それは……言えない、かな。いつか言える日が来る……と思う。私もびっくりしてるんだ。こんな衝動、初めてだったから……」

「──そっか。なら、僕は待つよ。恵が言ってくれるその日まで。あの日のことについても、全部」

「……ありがとう。……ねえ、陽太は私の傍に居てくれる?」

 

捨てられた仔犬のような潤んだ瞳で胸の辺りを掴みながら上目遣いで訊いてきた。

僕はそれに対し、さも当然であるかのように自然と言葉が口から溢れた。

 

「当たり前じゃないか。君が見放さない限り、僕はずっと一緒に居たい」

「……ふふふ。何でだろう。そう言うと思ってたよ」

 

恵は顔を上げてその端整な顔を僕の耳元まで寄せると、砂糖のような甘い甘い声で囁いた。

 

「陽太は私のもの。だから──」

 

 

 

 

 

 

──絶対に手放さない。

 

 

 

 

 

 

 

 

僕はこの時、恵に全てを捧げると誓った。

迷いはなかった。何故かそうするべきだと魂が訴えてる気がしたから。例え出会って数週間の仲だとしても。

首筋の傷痕が契約の証となって、ただ純粋な献身に包まれた契が僕らの間で刻まれた。

 

 

家に帰った後もあの甘美な声で囁かれたことが頭から離れず、思い出す度に脳が震える。

誰でもない僕を欲した誰かの囁き声が聞こえてくる。

 

 

 

胸の高鳴りは──止まらない。

 

 

 

 

 

14/24

 

 

 

 

 

あれから二日後、僕らは夏休み中二度目の美術室へ訪れた。お互い顔を合わせても言い淀むことなく会話は続き、心の距離がより一層近付いたことを実感する。

 

「うーん。それだと立体感はあまり出ないから、影を作ってあげるといいかな?」

「成る程。こういう感じ?」

「そうそう。そんな感じ!」

 

そんな僕はというと、折角なので美術部の部長である恵に絵の描き方を教授して貰っていた。

家で暇を持て余してする事が何も無く、丁度いい機会なので絵を上達させようという魂胆である。

 

幼少期から不器用な僕は苦戦しながらも着着と技術を身に付けて、一時間程で模写の基本を抑えることが出来た。遅い方かもしれないが、時間だけあるのでこれからも此処で練習すればいい。

 

「ここの輪郭の線をはっきり描くと更に良くなるかも」

 

背後から見守る恵は写生帳に描かれた絵を猫を撫でるように優しい手つきでなぞる。真剣な顔付きで耳元で助言する恵からは柔軟剤の良い匂いと洗髪剤の花の香りが同時に漂って来て意図せず鼻腔(びこう)(くすぐ)られる。

旋毛(つむじ)に当たる微かな鼻息が穢れた欲を煽てるように黒髪の先端部分を揺らす。春風に靡く蒲公英(たんぽぽ)のようにゆらゆらと揺れる様に気が向いて集中力が乱れ、意識を逸らさずにはいられなかった。

 

気付く様子を見せる素振りもなく、淡々と解説する。耳元で囁かれるというこそばゆい感覚に(もだ)えながらも、それを必死に抑えて平静を装ったまま、身体が硬直しながらもしかし手は止めなかった。

 

「上手上手! この様子だと一人でいけそうな気がする。このまま慎重に描いていけば問題ないよ。さて、そろそろ私も文化祭用の展示絵を描かなきゃ。こういうのって、結構面倒臭いよね」

「あ、あはは。そう、だね……」

 

 

やっと解放された。

……でも、何故か惜しいと思っている自分がいる。

 

 

恵は美術準備室に行くと美術用具を持って来て、早速油彩に取り掛かっていた。洗練された手つきに思わず見惚れてじっと見ていると此方を見返してきたのでつい目を逸らす。

気恥ずかしい思いをしながらも、僕は自分の作品に集中するために頬を叩いて鉛筆を握った。

 

恵が僕に話を振り、逆に僕が質問をして恵が答える。

そんな、取り留めもない雑談を続けていた。

 

 

「陽太は夏休みの宿題やってる?」

「今年は何だか、やる気が出なくて。まだ一つも手を付けてないかな」

「私も。この時期は皆んなそうだよね」

 

 

「恵は友達とは出掛けないの?」

「うーん、今の所ないかな。誘われたとしても断っちゃうかも。陽太は家族で旅行に行ったりしないの?」

「旅行というか、お盆休みに祖母の家に行く位かな? 僕の両親は共働きでさ。家に居ない時の方が多いんだ」

 

 

恵に出会う前の僕なら、きっとこの程度じゃ満足出来なかっただろう。もっと非日常的な出来事を、洋画でよくあるような前人未到の地への冒険(たん)を求めていただろう。

 

でも、今は違う。

恵に出会ったことで、この何でもない当たり前の毎日を過ごしたいと思うようになっていた。

自分を理解してくれる誰かが居て、そんな誰かと共に過ごす蝉の(わずら)わしささえ好ましいと思える一夏の思い出。

 

きっと、忘れないだろう。

夏がやって来る度にこの事を思い出すのだろう。

 

 

 

──暑さで融けた退屈を置き去って。

 

 

 

 

 

15/24

 

 

 

 

 

八月初旬、蝉時雨に見舞われ紫外線を浴びる日々にうんざりし出した頃。

 

恵が居る美術室へ向かう(はず)が支度に手間取っていつもの時間通りに登校出来なかった。

早く恵に会いたいと言う気持ちもあったが、折角なので普段より速度を落として自転車を漕いだ。

 

道端に寝そべる猫も、雲一つない快晴の青空も、相変わらず空き缶で溢れ返っている塵箱も、昔は何とも思わなかった光景も今では不思議と愛おしいとさえ感じていた。

 

汗と蒸れでへばり付いた下着と共に、白地の制服の背中側が汗で(にじ)み出して行く。蒸し暑さとべたつく肌に不快感を抱きながらやっぱり自転車の速度を上げて学校へ急いだ。

 

 

首筋を汗拭きで擦り付けながら美術室へ辿り着く。

少し遅れた僕は多少の申し訳なささと楽しみにして待ってくれているかもしれない恵の反応に期待を寄せながら、静かに扉を開けた。

 

目に入ったのは恵が机に突っ伏して寝ている姿だった。 

陽が当たらない窓際の椅子に座りながら肩を一定間隔で上下に動かしながらすやすやと眠っている。

直ぐに起こそうかと思ったが、気持ち良さそうに寝ていたので暫く観察する事にした。

 

冷房の効いた美術室で涼しげに眠っている。

それでも矢張(やは)り汗を掻くのか、(うなじ)から汗が伝っているのが分かった。

 

雛人形の様に白く麗しい肌の頸から流れる汗が妙にいやらしい。その行き先にある第一牡丹が外された制服の襟元の奥は

見えそうで見えない。それが酷く(もど)かしくて逆に(そそ)られる。

 

扇情(せんじょう)的なまでの首元にとても(かじ)り付きたい気分になる。

 

まるで獅子(しし)が獲物を前にして空腹感を覚えたかのような錯覚に(おちい)る。僕に噛み付いた時、恵はこんな気持ちになったのだろうか。

だとしたら、僕だって仕返しとしてやってもいいのでは。

 

そんな僕は、膨れ上がった下半身に視線を向けた。

この密室では年頃の男女が一人。何も思う筈もなく、ずっと刺激され続け、その度に抑えて来た性的興奮が沸々と湧いてくる。

薄地のセーラー服から透けて見える下着に反応し、脈打つ陰茎は僕に苛立ちを感じさせた。してはいけないと理解していて、それでも犯してしまうのが人の性。

 

僕は眠っている恵に手を伸ばそうとした。

 

 

 

……寸前、(うな)り声を上げて身動ぎし出したので咄嗟に手を引っ込めた。

急激に失われる緊張感に脱力し、冷静になった頭で先程までの自分を強く恥じた。

 

欲に漬け込んで魔が差してきた。

心の中で悪魔に舌打ちし、(よこしま)な考えを晴らすために写生帳を広げ、寝ている恵を対象に絵を描き始めた。

 

 

 

 

 

16/24

 

 

 

 

 

「ぅん…………あれ、来てたんだ」

「お、おはよう」

「もう十六時じゃん。後一時間しかないし、何で起こしてくれなかったのー?」

「いや、気持ち良さそうに寝てたから。それに、最近の君は何処か疲れているように見えた」

「そっか。ありがとう、気遣ってくれて」

 

絵を描いている僕の後ろで目覚めた恵に対して、しようとしたことを悟られないように自然な会話を装う。

目を擦りながら眼鏡を掛けた少女は僕の知っている仮面を被った恵だ。

 

「……えっちなことしてないよね?」

「し、してないよ!?」

「ほんと? 如何にも怪しい反応をするね」

「ほ、本当にしてないから! 信じて、ほしい」

 

女の勘と言うやつなのか。

こんな時に限って鋭い彼女には心底焦らされる。実際、未遂に終わったので手を出していないのは事実だが、何故か冷や汗が止まらない。

 

 

 

 

「…………見たい?」

 

 

「えっ」

 

 

 

 

僕はその言葉に反応し首を百八十度回転させると、セーラー服のファスナーを下ろし、赤色のスカーフを片方に垂らしたまま近づいて来る恵が居た。

 

「え、ちょっ、何やって──!?」

「────触っても、いいんだよ?」

 

そう言うと、僕を椅子から押し倒す。

倒された画架と鉛筆の転がる音が室内に響き、僕は頭が打ち付けられないよう受け身を取ると、その上に恵がのしかかって馬乗りの態勢になった。

 

見上げた姿勢で夕陽を背景に傍観(ぼうかん)する彼女の瞳は真剣そのもので、僕はその瞳に蛇女のような睨みを効かされた気分になり身体が硬直する。

そんな突如として止まった時の中で、動けるのは彼女しか居なかった。

 

(おもむろ)に眼鏡を外し、お下げを解いてあの日の夜の彼女に変貌すると床に手を着き僕をじっと見詰め返してきた。

蠱惑(こわく)的な瞳で見下ろす彼女は凛として美しく、身体がより密着している事実に理性が崩壊しかける。

 

受け身の姿勢のまま床に張り付けた僕の手を取ると、真っ白な下着で包まれた発展途上の胸部へ自ら触れさせ押し付けた。

 

「どう? 初めて触った胸の感想は」

「ぅぁ……ぇっと……や、柔らかい、です……」

「でしょ? もっと……触りたいでしょ?」

 

そうやってグッと腕を引き寄せて強引に掴ませる彼女は淫らに笑ってみせた。

下着越しに伝わる心音から興奮していることに気付くと、僕の興奮度は更に増していく。

 

淫靡(いんび)な吐息を漏らしながら、誘惑する彼女はこう言った。

 

「それとも、こっちの方が見たい?」

 

紺色のスカートの折り目のついた部分を捲り上げ、純絹(じゅんけん)の少し皺寄せた白地のパンツを恥ずかしい顔をしながら見せてきた。

そして、未だに掴まれた腕を今度は下腹部へ運ぼうとしていることに気付き、僕は条件反射で抵抗した。

 

 

 

「どうして? 興味、あるでしょ?」

 

 

 

興味はある。

 

 

 

 

「いいんだよ。陽太の好きにして」

 

 

 

 

思うがままに貪りたい。

 

 

 

 

 

「ほら、触って?」

 

 

 

 

 

 

 

 

でも、そんなものは──虚しいだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

「──君の心は、きっと紛いものだ」

 

 

 

「…………………………えっ」

 

 

 

 

 

──だって、泣きそうな顔しているじゃないか。

 

 

 

 

「心が嫌がってるのに、身体が勝手に動いている。今の君は随分とチグハグだよ。こんなことを、君は求めていたの?」

 

 

「違うっ!! 私は、わたしは、わたし……じゃない」

 

 

 

 

大声で返事をすると、恵は遂に泣き出した。

自我が崩れて自分が何なのかさえ分からなくなったのだろう。普通は自分を危険に晒すような真似はしない。なのに、今彼女がしていることは、何の為にもならない自己犠牲なのだから。

 

 

 

何が苦しいのかも分からない。

何が彼女を煩わせてるのかも分からない。

唯、今だけは優しく慰めてあげよう。

 

 

 

恵の存在が涙と共に零れないよう、僕はそっと抱きしめた。

 

 

 

 

 

17/24

 

 

 

 

 

「ごめんね、陽太」

 

只管(ひたすら)に泣いた後、恵が申し訳なさそうに呟いた。

 

「人生、泣きたくなる日もあるよ」

「……なんか、恥ずかしいじゃん」

 

何時(いつ)ぞやの夜のように頬を膨らませ、赤らめた顔で外方を向いた。自転車を()いて歩く黄昏時、僕らはいつも通りに戻っていた。

 

「次はお盆明けの登校日前日、だっけ?」

「うん。それが最後の部活。日は跨ぐけど私に会えなくて泣かないでね?」

「君みたいには泣かないよ」

「ふーん、私を揶揄(からか)うなんて良い度胸じゃん」

 

そう言って肘を抓ってくる恵に御免なさいをして、互いに顔を見合わせて笑った。

 

「陽太は宿題終わった?」

「全然。時間があれば絵を描いてたから全く手をつけてないかな」

「私も。それなら、最終日に一緒にやろう!」

「ええっ!? 最終日に宿題って……まあいいけど」

「よし決まり! 分からないところがあれば、私が教えてあげる。自分で言うのも何だけど、私優等生だから」

 

泣き腫らした後の元気な恵に、僕は自然と笑顔になる。

 

僕らの夏休みに、とうとう終わりが迫って来た。

 

 

 

 

 

*************

 

お母さんが褒めてくれた。

お父さんが羨ましいって言ってくれた。

でも、同級生の子に貝殻を見せびらかしても、誰も興味を示さなかった。

だから私は箪笥(たんす)の奥に閉じ込めた。

誰かが魅力に気付いても、誰にも取られないように。

 

*************

 

 

 

 

 

18/24

 

 

 

 

 

お盆明けの登校日前日、つまり夏休み最終日。

 

僕は学校に行きたくなかった。

恵と会ってしまえば夏休みは終わる。もし、会わなかったら永遠に続くのではないかと、願望に近い妄想をしていた。

 

美術室で過ごす最後の夏休み。

来年は大学受験で忙しくなるだろうし、それまでこの関係が続くのかも分からない。

 

今までで一番楽しかった、退屈ではない非日常的でもない楽しいだけの時間。ちょっと普通ではないことがあったかもしれない。けど、僕らにとってはそれが普通なのかもしれない。

 

制服の袖に腕を通し、姿見で切り揃えた髪が跳ねていないかを確認して鏡の前で笑顔を作る。ちょっと前まで無愛想だったのに、今の僕は毎日が楽しいという顔をしていた。

鞄に夏期課題を入れて、支度が出来たら昼食を食べに一階に降りる。食べ終わると一度歯を磨いてから玄関で靴を履き、いってきますと言って扉を開けた。

 

真昼間の燦々と煌めく日光が、僕を出迎えてくれた。

 

 

 

 

 

19/24

 

 

 

 

 

学校に着くと、いつも通り自転車を置いて靴を履き替えてから美術室に向かう。

すると其処には、体育座りをして僕を待っている恵の姿があった。

 

「あっ。おはよう、陽太」

「おはよう、恵。入口に座って如何したの?」

 

彼女は心底ばつが悪そうな顔をしながら、眉を寄せてこう言った。

 

「実は今日、先生が来れないらしくて。一応部活は顧問の先生が居ないと出来ない決まりだから……」

「ええっ!? ってことは、部活は……?」

「出来ない……かな? まあ、元々宿題やる予定だったし、仕方ないよね」

「そ、そんな……」

 

最終日に限って、何と運の悪いことか。

それとも、これは必然だったというのか。

 

「というか、来ないかも知れないってことは前々から知ってたの。今日だって無理して取って貰ってたから」

「そう……なんだ。態態無理してお願いしてくれたんだね」

 

ならば仕方なし。

勉強出来る場所は他にないし、図書室も閉まってるし諦めて帰ろう。そう考えていた時だった。

 

 

「だからさ! その、陽太が嫌じゃなければだけどさ──家、来ない?」

 

 

 

 

 

20/24

 

 

 

 

 

「お、お邪魔します!!」

「どうぞどうぞ。狭い所だけどごめんね?」

 

学校から歩いて十分の処にあるアパートに僕は来ていた。

初めて入る女の子の部屋に僕は緊張しながらも、何処と無しか感動している部分もあった。

整理整頓がきちんと施された部屋は正に彼女の性格を表しているような気がして、壁に飾られた数枚の絵が絵描き好きであることを物語っている。

 

「ほら、部屋を物色するのは後だよ。先に宿題終わらせないと」

「あ、うん。そうだね」

 

僕らは中心に置かれた真っ白の丸い机に宿題を広げ、机よりも真っ白な宿題に向かって筆記用具を滑らせた。

 

 

 

 

 

21/24

 

 

 

 

 

筆記用具の書く音と時計の針が動く音。

時々大きく息を吸って気合を入れるも中々進捗せず、周りの物に目移りして集中できない。何故か良い匂いのする部屋は美術室で過ごした日々を彷彿(ほうふつ)とさせる。

 

 

課題をやり始めて小一時間経過したが、終わりが見えないことに絶望を覚える。恵も頭を悩ませてあまり順調に進んでいる様子ではなかった。

 

 

 

集中力が切れた僕に察したのか、恵は筆記用具を置くと伸びをして深く息を吸って吐いた。

 

「ちょっと休憩しよっか」

「そうだね。僕も少し疲れたかな」

「というか、途中から全然手が動いてなかったじゃん。二、三ページしか終わってないし」

「ああいやぁ、何というか、正直言うと女の子の部屋に来たのが初めてで緊張してるというか」

 

どうせ見透かされているのだからと、僕は本心を包み隠さず内情を晒した。それを聞いて呆れた顔をした彼女は課題を折り畳むと冷蔵庫から冷たい麦茶を入れて持って来てくれた。

 

「はい、どうぞ」

「ありがとう。丁度喉が渇いてたところだったから」

「私も飲みたかったし、一緒だね。……見たいんでしょ? いいよ。見て回っても」

「本当にいいの?」

 

恵が頷いたので、僕は麦茶を半分残して席を立つと、彼女の部屋を探索した。物を傷つけないよう配慮を心掛け、勝手に箪笥を開けたりしないよう注意する。

本来ならこういうことはしない方がいいだろうけど、本人の了承と何より知的好奇心のあまり欲には勝てず未開の地を探検する冒険家の気分になりながら部屋を見て回った。

 

 

勉強机には数々の参考書と郵便受けに入っていたであろうチラシが乱雑に置かれ、空所を埋めるための小物類と大事に飾られた一つの写真立てがあった。

 

「薄々気付いていたと思うけど、私両親居ないんだ。小学生の頃に事故で亡くなっちゃってさ。暫くは祖母の家でお世話になったけど、介護施設に入るってことになって、高校受験の年には一人暮らしを始めたの。そういう子は周り結構居ると思うし、今時珍しくないでしょ?」

 

そう語るも僕は彼女が平気そうには見えなかった。

 

笑顔で映る微笑ましい家族の写真。真ん中で麦藁帽子を被る少女の姿がこの頃の幸せを物語っている。

僕は美術室で泣き腫らした時の彼女を思い出し、胸がきゅっと締め付けられ苦しくなった。

 

「ほんとはね、家に誘ったのは元々そのつもりだったから。いつかは話さなきゃって思ってた。私の本心。あの夜のことも、部活での出来事も、私が何を思って君と一緒に居るのかを」

「無理しなくていい。聞きたい気持ちは確かにあるけど、今じゃなくてもいいんだよ」

「ううん。いつかは絶対話さなくちゃいけないんだって誰かが言ってる気がするの。だから、私は今がその時なんだって思うんだ」

 

僕は元の位置に戻ると、恵と真摯(しんし)に向かい合う。

もう覚悟は出来ているのか、恵は一度深呼吸を入れると眼鏡を外してお淑やかな声でゆっくり語った。

 

 

 

 

 

「両親と死別して一人ぼっちになった時、初めて孤独を知った。一人暮らしを始めて、家に帰ると誰も居なくて、ただいまって言っても私の声だけが響く。

それが寂しくて寂しくて堪らなかった。だから、学校では友達と一緒にお話して偶には遊びに行ってみたり、今まで通り普通に過ごしていたんだけど。ある日突然気付いたの。私が私じゃなくなってた、てことに。

友達と一緒に居ることが私の中では自然じゃなくなってきて、いつの間にか寂しさを紛らわすための手段にすり替わっていた。

本当の私は、両親を亡くしたあの日から消えて亡くなっていた。死んだ私はもう二度と戻らない。けど、偽者だけが今もずっと生きている」

 

 

 

孤独。初めから孤独だった僕にとってそれは慣れっこだった。けど、年頃の少女が両親を亡くし、幸せな日常を奪われ孤独感に襲われたとなればきっと心を閉ざしてしまうだろう。

人は孤独を知った時、初めて自分の内側を見る。他人との境界線に気付いてしまう。それを両親との死別、環境の変化や将来への不安等様々なことが入り混じった状況で知ってしまえば、自分という人間が分からなくなってしまうだろう。

 

僕はそれをずっと体験してきたから分かる。唯、僕の場合は孤独以外を知らなかったから自分を見失うことも他人を知ることもなかった。それが僕と彼女との違い。たったそれだけの違い。

 

「狼男に憧れていたのは、本当の私を知る切っ掛けが欲しかったから。

狼男の正体は、満月を見て獣へと成り果てる者。その本性は紛れもない人を襲う狼なの。

だから私も、狼男のように自分の本性が知りたかった。何かを切っ掛けに私という人間の正体が分かるんじゃないかって思ってた。

でも、そんな日はずっと訪れなくて。自分が何者かも分からないまま過ごす日々は苦痛で耐え難くて、全てが虚しく思えて、退屈で……退屈で……退屈で」

 

 

 

 

 

──そういう……ことだったのか。

 

 

 

 

 

全てが腑に落ちたような気がした。

何もかもがぐちゃぐちゃになって、挙げ句の果てに危険を冒してまで夜の校舎に忍び込んだ。虚無から自分を救うために、普段は絶対しないことをして、退屈ではない日常を得ようとしてたんだ。

 

「私の心は伽藍(がらん)の堂。今までしてきたことでは何も満たされない。痛みも……娯楽も……快楽も。

それでも、絵だけはずっと描いてきた。あの時の情景を思い出させてくれるから。私の絵を見せると必ず褒めてくれる誰かが居たことを。だから好きだった。その瞬間が一番嬉しかったから。

ある日、危険を顧みず夜の校舎に忍び込もうと思ったの。灯の届かない真っ暗な所から見上げる夜空がとても綺麗で。それが案外楽しいと思って。浪漫ちっくで素敵だなって思って。

でも、それにも何だか飽きてきちゃって。結局一人だし、何も変わらないなって。そんな時、君が訪れて来た。私はそれを運命だと思った。こんな所に来る人なんて、きっと私と同じ人間に決まっている。そう強く思い込んだんだ」

 

 

あの日の問いの返事は「ある」と答えるのが恵にとって正解だったのだろう。僕が答えずとも彼女は分かっていたのか、あの後直ぐに去ってしまったが。

 

 

 

 

 

 

 

「────けど、違った」

 

 

 

 

「…………え?」

 

 

 

 

 

 

 

 

僕は彼女の発言につい裏声で驚嘆の声をあげてしまった。

確かに、僕と恵では環境が違う。でも、それ以外は大して変わらない筈だ。こんなにも似た物同士なのに、如何してだろう。

その疑問に答えるべくもなく、恵は矢継(やつ)(ばや)にこう言った。

 

 

 

「陽太は私なんかと同じじゃなかった。私と一緒に居ることで、陽太は楽しそうに笑っていることが増えた。陽太は気付いてないかもしれないけど、あの日の根暗な君と今の君とではまるで別人みたい。私の瞳に映る陽太は何故か眩しくて、そんな風に変わっていく君がどうしようもなく羨ましかった。

あの時、陽太に噛み付いたのは…………私は陽太と一つになりたかったから。君の一部でも取り込んだら、君みたいに変われるのかなって思ったの。そうして混ざり合って、絡み合って、一つになれたらいいなぁ、って」

 

 

 

 

──ああ、僕らはどこまでも似た者同士なんだ。

 

 

 

 

 

いつか抱いた感情はお互いに共鳴していたんだ。

その人の一部が欲しい。

その人の全てが欲しい。

その人と一つになりたい。

 

だけど、僕らの願いは決して叶うことはない。どこまでも似ていて、どうしようもなく違うから。

 

退()()()()()()()()()()退()()()()()()()()()()()

 

想いはずっと共鳴し、そしてその度にすれ違って行く。

表裏一体な僕らは決して、一つになることは出来ない。

 

「君は変わった。でも、私はずっと変わらない。何時迄も、退屈なままの……私」

「……恵は──退屈なんかじゃない」

「そっか。ありがとう」

 

僕は彼女に何と言えばいいのか分からず、中途半端な励ましの言葉を投げてしまった。口では感謝を伝える彼女はきっと納得していないだろう。

 

あの日の真相も、首筋の傷痕も、その訳が全て判明した今僕は何をしたらいいのかが如何しても分からなかった。

僕がしてあげられること。でも、それは結局彼女を苦しめることになるだろうから何も出来ないことを悟り、己の無力さを痛感し下唇を強く噛んだ。

 

暫くの間、僕らの間隙(かんげき)を沈黙が突き刺さして哀しみに暮れる恵の姿を直視できず視線を上にずらした。

 

 

その先にあったのは綺麗な額縁に飾られた一枚の水彩画、海岸に幾枚と流れ着いている貝殻が一つ描かれていた。

表面がさらさらとした漆喰(しっくい)のような白い殻を持った二枚貝は小さな掌の上で海水と一緒に持ち上げられていて、丁寧に描かれた絵画は僕を惹き付けるのに充分なほど輝いて見えた。

 

 

 

「私が小学生の頃、両親と一緒に海に行ったの。丁度九年前のよく晴れた真夏日で、貝殻を拾った時の情景を思い浮かべながら描いた淡い夏の一枚絵。その貝殻は今でも箪笥の奥に閉まってる。私にとって特別な、世界にたった一つの貝殻」

 

 

 

僕は彼女に視線を戻すと、遠い日の出来事を思い出し虚空を見詰める彼女の顔は幼気な少女みたいな純粋な笑みを浮かべてゆっくりと消え入るように目を閉じた。

 

打ち寄せる漣の音と麦藁帽子を被り、裸足で砂浜を駆ける白いワンピースを着た少女の姿が思い浮かぶ。少女はきっと其処で見つけたのだろう。

砂浜に流れ着いた幾つもの貝殻から、たった一つの小さな宝石を。自分だけの、大切な宝物を。

 

 

 

「この季節になると必ず思い出すの。私はその度に涙を流しては思いを馳せる。何処からか漂ってくる潮の香りと穏やかな波の音を頭で再生しながら、あの日の出来事をずっと……ずっと……」

 

 

 

幼い日の記憶が今の恵を生かしている。

取り残された心は今もふらふらと彷徨(さまよ)い続け、いつかは夜空へ旅立って行くだろう。

僕はその貝殻の水彩画に近付くと、恵の心を忘れぬようにこの胸にしっかりと焼き付けた。せめて誰かが憶えておいてあげないと、本当に一人ぼっちになってしまうから。

 

 

 

ふと下に視線を逸らしてみると、一枚のチラシが目に映った。

 

「花、火……大会?」

「……あーそれ? 今日の夜八時から九時くらいまで上がるんだって。毎年川向こうの坂道になっている山の神社で祭りがやってるの。もしかして知らなかった?」

「あ、うん。普段外に出ないし、あんまり縁がなかったから」

「なら、今日行ってみよっか」

 

そう提案する彼女は、思いの外嬉しそうに僕に向かって微笑んでみせた。

 

「宿題は? まだ全然終わってないけど」

「夏休み最後なんだし、もういいじゃん。今は午後三時半時くらいだから、夜の七時になったら行ってみよっか」

「晩御飯は如何するの? 屋台に行くなら今日財布持ってきてないんだけど」

「此処で食って行きなよ。それに私たち制服だし、他の人に見られるのは嫌だから花火だけでもひっそり見よう。丁度いい場所知ってるからさ」

 

 

 

夏の花火が終わる頃、僕らの夏休みは幕を下ろす。

 

 

 

 

 

22/24

 

 

 

 

 

日が沈み視界がぼやけだした夏の夜、神社の坂道付近まで二人乗りで自転車に跨り、背中に温もりを感じながら人気を避けて漕いでいた。

 

浴衣を着た年頃の少女たちが視界に収まると、止まってと言われたので、それ以降は自転車を停めて恵の指示に従って草木の茂る道無き道を掻き分けて坂を登った。

 

この先に花火が見えそうな場所があるのかと疑いつつ、蚊に刺されぬよう手を払い恵の後を追うと、少し開けた空間に木製の長椅子がぽつりとあるだけの場所へ辿り着いた。

 

「着いたよ。此処なら周りの人の目にも映らないだろうし、花火だけなら充分見れる」

「本当に花火だけ見るんだ……」

「何? 屋台に行ってみたかったの? なら()()また一緒に来ればいいじゃん」

「来年……。うん、そうだね。来年にまた来ればいっか」

 

彼女の何気ない言葉が僕を嬉しい気持ちにさせた。

あまり意識して言っていないかもしれないけど、僕と来年まで一緒に居てもいいと無意識のうちにそう思っていることが何より嬉しかった。

 

 

 

砂埃を払い長椅子に二人して腰掛けると、花火が上がる瞬間までの三十分の間雑談でもして待つことにした。

 

「陽太の両親は優しい?」

「うん。時々小さなことで揉めちゃったりはするけど、友達が居ないことを気遣ってくれて、偶に外へ連れて行ってくれる。でも、実はそれがちょっぴり嫌なんだ」

「そうなの?」

「僕が一人になることを選んだからさ、親に心配されたくなかったんだ。でも、今はこうして君と居ることを選んでいる。それは僕がそうしたかったからって言うのもあるし、僕の両親の願いでもあるから」

 

あの日、父親と言い合いになったことを思い出す。

小さい頃からずっと言われてきた、友達を作りなさい、でないと社会じゃ生きていけないと。

 

僕だって欲しかった。でも、誰かに話しかけようとする度に及び腰になって足が(すく)んで何も出来なかった。

僕はそんな自分が嫌いだった。もしかしたら、僕も恵と同じで今の自分からそうじゃない自分へ変わりたかったのかもしれない。きっとそうなんだろう。

 

「そっか。君が羨ましいと思っちゃったけど、これもきっと紛いものなんだろうね」

「そう、かもしれない。君が本当に思いたいことは他人を羨むことなんかじゃないんだ。きっと、もっと優しい感情だと僕は思うよ」

「……難しいね。こんなものに煩わされて私たちは生きているんだから。でも、それが人として生きるってことなんだろうね」

 

 

 

ああ、きっとそうに違いない。

 

 

 

喜びや哀しみ変換されて、色々なものに移り変わって行く心に振り回されながら、人は泣いたり笑ったりして其々の人生を歩むんだ。

当たり前のことに如何して今まで気付かなかったのだろう。退屈に邪魔されて見えなかったからだ。でも、それとは今日でお別れだ。何故か不思議とそう思えた。

 

 

 

「あ、もうすぐ花火が上がる時間だ」

 

僕は腕時計を確認すると、短針が八時の方向を向き、長針と秒針が十二時を指したところで重ね合わせになっていた。

 

誰しもが魅了される満天の星空には赤い花がぴかっと咲いて、遅れて響く轟音(ごうおん)と共に花びらが空に虚しく散ってった。

山間にこだまする花火の音は僕の耳奥で鳴り響き、身体全身が脈打つように強く響いて奮い立たせた。

 

「たーまやー!!」

 

彼女は大声でそう叫ぶ。

次々と咲き誇る花火は夜空に輝く星よりも綺麗に見えた。百花繚乱の夏の夜空。僕は花火ように一瞬で虜にされた。

 

あまりの美しさに口を開けて見上げる僕は、恵が叫んでいたところを見て、普段は出さない大声で狼が月に向かって吠えるように、轟音にも負けない勢いで叫んでみた。

 

「すぅー……たーまやー!!」

「……ぷっ、あっははは!! 陽太が叫ぶって、なんか珍しい!」

「…………うん。なんだか今日は叫びたくなったんだ。初めて叫んだかもしれない。とっても清々しい気分になった」

 

嫌なことが全部吹き飛んだ気がした。

普段の僕ならこんな事は絶対にしないだろうに。

 

僕は変わったんだ。そう確信してならなかった。

 

「…………恵」

「如何したの?」

「学校へ行こう。今の僕なら、きっと出来る」

「何、言って──!?」

 

衝動が駆け巡り頭が破裂しそうなほど痛かった。

何故か動悸(どうき)が止まらない。心が何かを訴えている気がする。

 

僕はそれに応えるために、恵の手を引っ張りながら坂道を降る。下に降りると自転車に乗って全速力で学校へ向かう。

 

 

 

──遠くで花火の音がした。

 

 

 

 

 

*************

 

両親が事故で亡くなったと知らせが来た。

私は突然、全てを失った気がした。

訳も分からずただ泣いた夜を過ごした。

背中を摩ってくれる人が居ない。

頭を撫でてくれる人が居ない。

月の光が私を照らして慰めた。

孤独が私を──支配した。

 

*************

 

 

 

 

 

23/24

 

 

 

 

 

何度来ても慣れない夜の校舎。

正門付近に駐輪すると、籠に置いていた鞄を背負って、門を飛び越えていつもの場所へ向かった。

 

「ねえ、待って! 陽太!!」

「如何したの、恵?」

「如何した、じゃないよ!! こんな強引なことをするなんて、君らしくない!!」

「らしくない、か……。でもね、恵。これもまた僕なんだと思う。きっとそうだ。僕は僕でずっと変わらないんだ」

 

自分でも何を言っているのかよく分からない。

でも、心では自分のことを何よりも理解出来ていた。

 

昨日までの自分が嘘のように感じられる。臆病者ではない僕、大胆さを兼ね備えた勇気ある僕、恵の為になら何でもするという覚悟を持った僕。

 

例え姿が変わっても、心が退屈に染まっても、灯施陽太ということには変わりない。だったら何も不思議ではない。恐れる事など何もない。

 

 

 

「自分は冷めた人間だと思ってる人も心の底では笑って生きていきたいと思っている。他人に冷たく接する人だって、本当は優しく手を握って解り合いたいと思っている。そのことに気付かせてくれたのは紛れもない君のおかげなんだ。

だから今度は僕の番。

 

 

 

 

僕の本性───────見せてあげるよ」

 

 

 

 

 

 

茂みに落ちていた大きな石を持ち上げると、僕は大きく振りかぶって窓硝子に投げつけた。

 

 

 

──ガシャーンッ!!

 

 

 

粉々に砕け散った窓硝子の枠を越えて校内へと侵入した。僕の理性は地面に散らばる硝子のように崩壊し、本能に従う意思が身体中を駆け巡る。

全ての快感を得たような、まるで新世界を体験しているような今までに感じたことのない心の動悸は僕の行為に拍車を掛けた。

 

 

あの夜出会った、最早いつも通りとなった場所へ辿り着く。

息を吸うことさえ忘れていた僕は此処で(ようや)く深呼吸すると、後ろで膝に手を着いて肩を上下に揺らす恵の方へ振り返る。

あの時とは逆の立場で、僕は彼女を見詰めていた。

 

 

 

「此処が僕らの原風景。運命に導かれた思い出の場所」

「はあ……はあ……それが、如何したって言うの?」

「此処じゃなきゃ駄目だと思った。此処で伝えるべきだと思った。僕の思っていたことを。君は気付いていない、君自身のことを」

 

 

 

私はずっと変わらないと、そう言っていた。

あの時は中途半端な事を言ってしまったけど、今ならきっと言える筈だ。本当に言ってやりたかったことを。

 

僕は恵を見た。その瞳に映る僕はあの夜の恵にそっくりで、でも、それは確かに違っていた。問いに対する答えを持って、僕は恵と向かい合っていた。

 

 

 

「僕は狼男になんて憧れたことはない。けど、僕は君にずっと憧れていた。出会ったあの日から、ずっと」

「……………………」

 

 

 

彼女は何も答えない。続けざまに僕は言った。

 

 

 

 

 

「恵は僕にとっての月なんだ。

退屈という何処までも続く暗闇から進むべき道を照らしてくれた、かけがえのない存在。僕はそんな誰かの為になれる恵に憧れたんだ。月の欠片になりたかった。月の光が僕だけに向くようずっと留まっていて欲しかった。僕は月になりたかった。誰でもない僕だから、誰かの君になりたかったんだ」

 

 

 

 

 

紛れも無い本心。嘘一つもない純粋な気持ち。

どれだけ気持ち悪いと思われても、僕は伝えるべきだと思った。先に恵が言ってくれたから。僕はそれに応えるべきだと思った。

 

「そっか。そう思ってたんだね」

「うん」

 

そう思っていた。でも……。

 

 

 

 

 

「────でも、それは間違った願いだった」

 

 

 

「……………え?」

 

 

 

 

 

「僕は君になりたいと思っていたけど、本当は君の傍に居たかっただけ。あの時誓った通り、何時迄も君の傍に……。夜の校舎に忍び込んだり、僕の首筋に噛み付いてきたり、そんな可哀想な孤独な狼の傍に。

君は既に狼に変わっていたんだ。唯の人間にこんな事出来る筈がない。それが君の本性、君が知りたかった君自身だ」

 

 

 

彼女は目を見開いて僕をじっと見詰めている。まるで幽霊が見えているかのような信じられないという顔で。

 

 

 

「君は僕という退屈を貪ってくれた。そのお陰で僕は色々なことに気付いた。そして、そんな君の傍に居たいと思った。でも、当の君は何も気付いていない。だから僕が気付かせてあげるべきだと思った」

「私は……私は何も持っていない」

「いいや、持っているよ。君の心の衝動は本物だ。生物としての本能が今も生きている。偽者なんかじゃない。君が貪るべきは本能だ」

 

 

 

閉ざした此処の奥にある本当の願望。亡くしたと思っていた本当の自分。実は認めたくなかっただけの、ありのままの自分。

原石が形を変えただけで、本質は変わらない。人って生き物は形を変えて生きていく者だから。例えそれが獣になったとしても。

 

 

 

「……私はもう変わっていたんだ。私の本性なのに、私が気付いてなかっただけ」

「うん」

「……私はどう生きればいいの?」

「それは君が一番よく知っている。唯、敢えて言うとすれば、君は君の衝動のままに駆け巡るのがお似合いだ」

 

 

 

そう……と彼女は呟くと、近くにあった学習机を持ち上げて、教室のど真ん中に放り投げた。

次に、椅子を窓硝子に叩きつけ、机を蹴飛ばし教室内をぐちゃぐちゃに荒らした。

 

 

 

「アハ、アハハハハハハハハハハハ!! ああ!! 楽しい!! 楽しい!!」

 

 

 

 

そう言って満面の笑みを浮かべる彼女は、遊具で遊ぶ幼稚園児のように天真爛漫で今この瞬間を全身で楽しんでいた。

 

「陽太も、ほら! 一緒にぶっ壊そう!!」

 

そう言いながら投げたり蹴ったり破茶滅茶な事をする恵を見て、僕はそれに便乗した。

教壇を二人で持ち上げ、中に入っていた印刷物や文房具も全てぶち撒けて教室に投げ捨ててやった。僕は自分のした事に対して一切の罪悪感は無く、寧ろ爽快感で一杯で満ち溢れていた。

 

 

 

今までの退屈を取り戻すかのように、僕らは教室内を蹂躙(じゅうりん)し、ありとあらゆる物を荒らして回った。

 

 

 

「退屈な日常なんてぶっ壊れちゃえ!! 僕らを止めてみろ世界!! 本性を顕した僕らを!! 僕はもう一人じゃないぞっ!!」

 

 

「私は私!! 陽太は陽太!! ずっとずっと変わらない!! お父さん、お母さん! ありがとう!! ずっとずっーと言えなかった!!」

 

 

 

僕らは硝子の破片が地に落ちて月光を浴びてきらきら輝く廊下を走りながら、夏休みの宿題をびりびりに破って頭上に振り撒いた。

 

 

刺激を貪る二匹の狼が夜の校舎をけたけたと笑いながらぐしゃぐしゃと音を鳴らして駆けていた。まるで幻想的とも言える風景は僕の目に焼き付いて離れないだろう。

 

世界からしたらちっぽけなことで、でも僕らにとってはとても大きな意味のあること。

周りの大人たちは僕らを叱り咎めるだろう。してはいけない事をしたと騒ぐだろう。けど、これは僕らにとって大きな意味があった。あの日、僕が夜の校舎へ侵入した時と同じように。

 

 

 

運動場を走る僕らはずっと笑顔で声を出して笑っていた。

中心まで走ってくると、僕らは汚れなど気にせず大の字に寝そべって、乱れた呼吸を整えるために(せわ)しく呼吸をした。

 

どれくらい経っただろう。

十秒にも十分にも感じるほど長くて短い時を過ごし、僕らは互いに笑い合った。

 

遠くで聞こえる花火の音が次第に小さくなっていく。そして遂には聞こえなくなり、僕らの呼吸の音だけが夜空の下で小さく響いた。

 

僕は恵の傍にいることを夜空の星に(こいねが)う。

 

 

「夏休み、もう終わっちゃうんだ」

 

 

 

恵がぼそりと呟いた。

 

 

 

「私たち、怒られるかな?」

「うん。だって僕らは共犯者なんだから」

「そっか。でも不思議、ちっとも怖くない」

「僕も、恵が一緒なら何にも怖くない」

 

 

 

怒られる事なんて僕らの頭には入ってなかった。

そんな事よりも、明日から過ごす退屈じゃない日常に僕らは待ち遠しく思っていた。

 

これからが本番なんだ。あの日、恵と出会った時から僕は狼に成り変わっていったんだ。其処から一日が始まって、今日で漸く変身を遂げたんだ。

完全に狼に変わった僕らが過ごす一日は、次の何者かに変わるまでずっと終わらない。僕らは何者にも拘らず、煩わず、精々今を生きることだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──ああ、それはなんて、楽しそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

24/24

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「恵が僕を変えたんだ」

「うん」

「恵は僕の本性を顕にする満月。恵が居ないと僕は本当の自分に為れない」

「うん」

「だから……だから、僕のために……いつか退屈が恋しくなるその日まで、ずっと傍に居てほしい」

「…………陽太はね。私にとって太陽なの。本当の自分に変わっていく陽太を見て、いつの間にか憧れてた。遠いようで近い太陽の輝き、手が届くのに触れれない私の焦がれた私。それが陽太なんだって」

「うん」

「でもね、私諦め切れないの。折角近くに居るんだもん。そう簡単に手放さないよ」

「それ……って」

「陽太はずっと私のもの。私だけの、太陽なんだから」

 

 

 

 

 

 

 

「私を愛して。陽太」

「僕を受け止めて。恵」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──はい……喜んで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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