顔が良くて思慮深い女作家が、通い妻と化した喫茶店の看板娘に胃も身も心も手込めにされるのが性癖

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泥濘に溺れる

 

 並み居る字書きがきまって珈琲を好むのは何故か、小さなライトだけ灯った仄暗い六畳一間に寝転がって考えたことがあった。

 タレーランを気取るほど気障ではなかったので、エスプレッソはビターチョコレートよりも陰湿で、日々を笑って過ごす人間の腹の底よりも黒い。ゲーテの語るそれよりも熱く、時には冷え性の手足の先よりも冷たい。そのくせ底なし沼のように身体を沈めようとするくせに、少なくともこのご時世に字書きなんぞしている私の性根よりも甘いなどと捻くれた思考を巡らせながらも、かといってバルザックが言うほど字書きは馬車馬のように頭を忙しなく働かせるわけでもないわ、などとも考えていた。

 

 泥濘に溺れるような思惟に沈むときはきまって自分が淹れた不味い泥を飲み込んだときである。珈琲は思案の象徴である。だとすれば、字書きが珈琲を好むのは、この泥沼に溺死する自傷行為を繰り返すのが、字書きの性だからだろう、と結論付けた。

 

 

 間延びするほどの晴天だというのに、六畳一間で黙々とラップトップに文字を打ち込んでいた。装飾をこらした表現。適切な言葉。文字の上で踊り出すキャラクター。そんなものばかりが氾濫する中で、私は今日も一人きりだった。キーボードの打鍵と時計の針の動く乾いた音だけが私の鼓膜を揺らしている。目も向けずにお気に入りのマグカップの珈琲が喉を濡らす。不味かった。文章を書く才能も無ければ美味い珈琲を淹れる才能も無いらしい。いっそ字書きとしては上等であろう。そんなことを考えながら時計を見ると早朝を指していた針は正午を示していた。

 部屋には私しかおらず、当然のことだが部屋の外にも人の気配はない。いつものことである。そもそも仕事場として借りているマンションの一室なのだから当たり前だ。ただでさえ狭いワンルームの部屋の中で、人のぬくもりなど求めるほうが筋違いだろう。

 それでも孤独を感じてしまうのは私が人恋しい人間なのではなくて、単純に部屋の中に一人でいる時間が長いせいだろうと推測していた。小説を書いていれば独り言が多くなるというけれど、それはきっと嘘っぱちに違いない。

 何しろ私は今書いている原稿だって、誰かに見せるために書いてるわけではないのだ。誰に見てもらうために書くのかと言えば、それはもちろん読者のためであるが、しかし同時に自分自身のために書いているといっても過言ではない。

 つまりは自己満足のための執筆であり、だからこそ孤独なのかもしれない。あるいは寂しさを感じる暇もないくらい没頭してしまえばいいのだが、そう上手くいかないのが現実というもので、こうしてパソコンに向かっていてもふとした瞬間に虚しくなって手が止まってしまうことがある。

 

 そういえば、朝からなにも食べていなかったな。

 

 そのことに気付いたのは、胃が不味い珈琲ばかり流し込むのを抗議しているからかもしれない。こういう時自立した人間というのは自炊するものなのだと思う。けれど二十七にもなって字書きなどをしている程度には社会適合性が皆無なため、大体はそこらの出来合いのものばかりで済ませている。冷蔵庫を開けるとそこには水の入ったペットボトルしかなかった。それもそうだ。昨日買ってきたばかりのものである。空っぽなのは仕方がないにしても、これはこれでどうなのかと思う。

 自分の生活水準の低さを再認識しつつ、とはいえ改善する気にもなれないから、今日もおとなしくコンビニで買ってくるか。そうして出かけようと立ち上がったところでインターホンが鳴る。来客があるとは珍しいと思いつつ玄関に向かい扉を開く。するとそこに立っていた人物を見て思わず目を丸くしてしまった。

 可憐な少女だった。髪は後ろで結んでポニーテールにして、瞳は大きく澄んだ琥珀色をしている。顔立ちは整っていて、身長はそれほど高くはなく、百五十センチあるかないかというところだろうか。私が男だったら惚れていたとも思しき少女は畢竟、知人だった。町はずれ、閑静な住宅地にひっそりと立つ、クリーム色の壁の喫茶店。そこのアルバイトでありながら、看板娘として近所では評判の娘だった。

 

 

「もう、先生、ちゃんと食べてるんですかっ? いつも以上に顔色も良くないじゃないですかっ」

 

 開口一番にそんなことを言う知人は、町はずれ、閑静な住宅地にひっそりと立つ、クリーム色の壁の喫茶店。そこのアルバイトでありながら、看板娘として近所では評判の娘だ。文字を生成することしか能のない私を、どういうわけか先生と呼び慕ってくれる少女だった。つまるところ私の数少ない読者の一人であった。

 

「えっと……ああ、うん。まあ、それなりに?」

 

 曖昧に答えた。

 実際問題、食事なんて二日に一度摂ればいいほうだし、睡眠に至っては三日ほど取っていない。そんなことを言えば目の前の少女に怒られそうな気がしたので、適当に誤魔化すことにした。

 私の返答に納得がいかなかったらしく彼女は頬を膨らませたまま、ずかずかと部屋に上がり込んでくる。そのまま台所まで行くと、そのまま荷物に入っていたらしき食材を引っ張り出した。そして手際よく料理を始める。鼻歌交じりに包丁を扱う姿に感心しながらも、困惑する私は彼女の背中に問いかけた。

 

「……その、なんで来たの?」

 

 その問いに、少女は振り返ると、呆れた顔を浮かべた。

 

「そんなの決まってるじゃないですか」

 

 そう言って、彼女は言った。

 

「ご飯を作りに来たんですよ。どうせ、先生何も食べていないんでしょう?」

 

 そんな言葉と共に、フライパンが火にかけられて、私は途方に暮れてしまったのである。

 結局、私は押し切られる形で彼女と昼食を共にすることになった。

 テーブルの上にはオムライスとサラダが置かれている。向かい合って座った私達は、いただきますと声を揃えて食べ始めた。一口食べただけで分かる。美味しい。おそらく市販のケチャップを使っているはずなのに、この味は一体どこから来ているのか不思議だった。

 ちらと視線を上げると彼女も美味しそうに口に運んでいる。見目の良い娘とこうして食卓を囲むのはこれはこれで役得なのかもしれないと、女ながらに思った。そうしてあっという間に完食してしまうと、私は彼女に礼を言う。

 美味しかったわ。ありがとう。そう言うと、彼女は照れくさそうに笑みを零した。

 

「そういってもらえるなら、作った甲斐がありますね。……でも先生もちゃんとご飯食べてくださいよ? あたし、先生が倒れちゃわないか心配なんですから」

 

 耳の痛いことを言うなぁ、と思う。私の数少ない読者の純粋な慮りなのだし、聞いてやりたいとは思う。けれども字書きの性か、それともこの性格なのか、私は素直になれなかった。

 

「ごめんね。気をつけるようにするから」

 

 そう言いつつも、また同じ生活に戻るだろうことは想像がついた。

 きっと、私はこのまま変わらないだろう。いつだって孤独で、一人きりで原稿用紙に向かうのだ。

 だが私の返答に満足いかなかったらしい。彼女はぷくぅ、と頬を膨らませた。

 

「それも何度も聞いてますっ。もう、どうしたらちゃんとした生活してくれるんですかっ?」

 

 そう言われても困る。どうすればいいと言うんだろう。そもそも生活水準が低すぎるからといって、それを改善できるような人間ではないからこそ、こうなっているわけで。

 でも、まあ、強いて言えば。そう考えて、つい、口に出た。

 

「まあ、その。毎日美味しい珈琲が飲めたら、多少はマシになるかも、しれないかな」

 

 きょとんと顔を浮かべる彼女を尻目に、とある一文が浮かんだ。

 良い珈琲とは、悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして恋のように甘い。近世フランスの外交官タレーランの言葉だ。

 字書きとしての私にとって珈琲は欠かせないものだ。私人としての私にとっても珈琲は好きだ。けれども文字を書き連ねる才能はもとより、好きなものもろくに淹れられない人間であるから、とりあえず思考を働かせるためだけに珈琲の形を被った泥水を啜ってばかりいる。悪魔のように黒いけれど、温くて、不純で、不味い。それが私が家で淹れたときの珈琲だった。

 美味しい珈琲を飲むだけなら、それこそ彼女が働く喫茶店に赴けばいい。しかしそうすると字書きの私が部屋でないと書けないと駄々を捏ねる。

 だからまあ、これは我儘だ。要するに家で彼女の珈琲が飲めたらいいな、という。我欲に満ちあふれた発言である。そんなことを考えていると、少女はにこりと微笑んだ。

 

「なんだ、それくらいお安いご用ですよ」

 

 えっ、と思わず聞き返してしまった。自分でもだいぶ大胆なことを言ったと思うけれど。戸惑う私を余所に、彼女は戸棚から瓶詰めの珈琲豆の容器――何故場所を知っているのかは考えないことにした――を取り出すと、手際よくミルで挽き始める。珈琲豆が笹の葉を撫でる風のような音ばかりが響く一室で、私はおそるおそる尋ねた。

 

「その……いいの?」

「何がです?」

 

 何のことか見当もつかない風に首を傾げながら、彼女はことり、とカップを私の前においた。そうして出来上がったエスプレッソを注いでくれた。

 湯気が立つそれは、ふわり、と香ばしい香りが鼻腔を刺激する。先ほどまで飲んでいた泥水とはまるで違っていた。促されるままに口に運ぶ。舌の上に広がる苦みと酸味、芳しさは筆舌に尽くし難いものだった。そして、なにより。

 悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして恋のように甘い。

 

 思わず、ため息が出る。

 美味しい。美味しかった。タレーランの言葉は健在だった。こんなにも素晴らしいものを私は知らない。

 そんな私の様子を見て、彼女は得意げに胸を張った。

 

「ふふ、お気に召したようでなによりです」

 

 そう言って、彼女は自分の分の珈琲に口をつけた。大した物も置いていない、字を書くだけの、冷たい部屋は、いつの間にか暖かい穏やかな空間と化していた。

 そうした雰囲気に、知らず知らずのうちに呑まれたからだろう。稼働し続けていた意識にだんだんと眠気が混じる。流石にカフェインも効かなくなってきたかもしれない。そう思いながら、彼女に目を向ける。

 

「ごめんね、ちょっと眠くなってきたから……。少し横になるわ。……退屈だったら、もう帰っていいから、ね……」

 

 一方的に言い連ねて、私は眠気に身を任せる。まどろみの中で、彼女が何か言っていたが、私の耳には届かなかった。

 

「はい。おやすみなさい、先生……」

 

 

 目が覚めるともう夕方になっていた。窓からかろうじて差し込まれる日はすでに落ちかけており、雲もバラ色のぼかし模様になって、空を染め上げていた。そして次第に意識が浮上してくると、ここがベッドであることと、しかし普段の枕とも違う柔らかな感触が頭を支えているに気がついた。ぼんやりと天井に目をやろうとすると、看板娘が私を覗き込むように見つめていた。

 

「……あ、おはようございます、先生」

 

 もう帰ったかと思ったのに、律儀に私が起きるのを待っていたらしい。おまけに膝枕などというものを行いながら、挙げ句私をベッドまで運んできたらしい。

 

「そのまま帰ってもよかったのに……。ごめんなさい、ここまで運ぶの重かったでしょう」

「お気になさらず、先生普段あまり食べてないからすごく軽かったです。あと、寝顔も可愛かったですよ?」

 

 眼福でした、と言って蠱惑げにくすくす笑う彼女に、少しどきりとする。たまに喫茶店に訪れるときは店員と客、そうでないときはただの知人にすぎないのだから、彼女に対して知らない部分があることは言うまでもないことだけれど、その仕草がどうも、昼間の親切な姿とのギャップを誘っていた。

 それにしても、女らしさというものの欠片もないと自覚していながらも、寝顔を見られるというのはさしもの私も恥ずかしく感じて、そんな彼女から目を逸らしながら言った。

 

「……。……まあ、貴女のおかげで今日はゆっくり休めたわ。後で何かお礼くらいはしなくちゃね」

 

 本心だった。彼女のおかげでだいぶ疲れが取れたような気がする。どこか美味しいお店にでも連れて行ってあげようか。そう考えていると、お礼……、と私の言葉をオウム返しする彼女がいた。

 

「ええ。貴女に助けられてばかりだもの。それぐらいしないと気が済まないわ。私にできることぐらいならなんでもしてあげる」

「なんでも、……」

「なんでも」

 

 オウム返しにつばめ返しと言わんばかりに返すと、彼女は考え込んだのを見て、少し失敗したか? と反省する。

 突然このようなことを宣ったものだから、少し困らせてしまったかもしれない。夕日は沈み切り、窓の外は夜闇に包まれている。灯りをつけていないせいで、部屋が薄暗くなっていた。しばらく沈黙が続いた後に、彼女は言った。

 

「……何でも、というと、本当に何でもいいんですか?」

 

 私は、もちろんよと返した。

 彼女は、そうですか、と呟くと、不意にポニーテールにしていた髪を解いた。意図が読めず、思わず怪訝な目を向ける。結っていた髪を下ろすと、彼女の髪は、背中にまで届く程度には長いことがよく分かった。

 そして彼女が再び私をのぞき込むと、それにつられて彼女の髪が自然とカーテンのように私の顔の周りを遮って、強制的に私が彼女の顔しか見えないような状態になっていた。ここで私はようやく彼女の様子が普段と違うことに気付いた。……いや、正確には私が今まで知らなかった彼女の一面を知った、と言ってもいい。彼女の表情は何処か艶を帯びていて、そして、瞳の奥に妖しい光が宿っているように見えた。

 そんな視線に見据えられて、私は思わず息を飲む。

そうしている間にも、ゆっくりと近づいてくる彼女の顔に気圧される。実際の距離はそう長いものではなかったのかもしれない。けれども、まるで月が空から降ってくるかのような、そんな緊張に戸惑う中、彼女は唐突に言った。

 

「先生…………。あたし、先生をあたしのモノにしたいです」

「──────へ?」

 

 彼女の口から発せられた言葉の意味を、咀嚼する暇もなく、唇に柔らかな感触。それが何か理解するする間もなく、何かが口の中に侵入した。

 

「ん……っ!? ぅふぁむ……んむ……っ」

 

 舌を絡め取られて、唾液が混ざり合う。ほのかに感じる苦みと、甘み。混ざり合った唾液からは珈琲の味がした。舌と舌が擦れ合い、ざらついた感触に犯される。その感覚に溺れていると、今度は私の口腔内を蹂躙するように舐め回された。歯茎をなぞられ、頬の裏を撫でられる。そして、また、舌を絡ませてくる。何度も、何度も。

 

「んんっ……あ……ん……むっ」

 

 頭がぼうっとしてくる。思考が鈍くなる。身体が熱を帯びるのが分かる。いつの間にか、自分の手も彼女の背に伸びていた。

 どれくらいの時間が経っただろうか。依然として彼女の濡羽色の髪に遮られて、正確な時間はわからなかった。そしていつしか、ぷはっ、と唐突に唇と唇が離れた。

 ゆるんで少し開いた唇と、エロチックな視線とが、射るように圧迫する。

 口の中を荒らされた混乱と、身体の底からじんわりと感じる興奮で呆然としていると、彼女は唇から引いた糸をぺろりと舐め取りながら言った。

 

「あたし、先生のことスキなんです。先生の小説も先生のだらしないところも、先生の顔も、先生の身体も。全部全部、スキなんです。スキで、スキで、全部あたしのモノにしたいんです」

 

 それは、愛の告白というよりも、狂気に近い何かだった。

 好きという言葉では収まらない。愛の言葉などでは言い表せない。もっと、何か別の、鉛のように重い感情だった。

 彼女はそのまま私に覆い被さると、首筋にキスをした。ちゅ、と音を立てて吸い付くと、そこに赤い痕が残るのが見えた。そして耳元に口を近づけて囁くように言う。

 

「先生は、あたしのこと、スキ、ですか……?」

 

 その声は、先ほどまでと違ってどこか震えていて、弱々しいものだった。

 

 ああ、これは泥だ、と思った。悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、恋のように甘い、泥だ。

 私はそれに囚われた。逃れられない。逃げようとすら思えない。ただひたすらに甘く蕩けるような快感に身を任せてしまう。

 並み居る字書きがきまって珈琲を好むのは何故か、小さなライトだけ灯った仄暗い六畳一間に寝転がって考えたことがあった。

 泥濘に溺れるような思惟に沈むときはきまって自分が淹れた不味い泥を飲み込んだときである。

 けれど。まあ。別にいいか。

 

「──────」

 

 彼女の弱々しくも、情欲を孕んだ懇願への返答は、この黒く、熱く、純粋で、甘い泥濘に溺れたことで示した。

 字書きが珈琲を好むのは、この泥沼に溺死する自傷行為を繰り返すのが、字書きの性だからだろう、と結論付けた。

 ならば、私人の私が珈琲を好むのは、この泥濘に溺れることを自慰行為のように、感じていたからかもしれない。


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