私の彼が歌ってばかりいる件について。   作:厠坂

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第7話「お前なんか」

 

 

「ごめんね。こんな朝早くに」

 

「ううん。激励してくれるって言うから。ありがとうね、新川くん」

 

 なんとか笑ってみせるけど、新川くんは心配そうな顔をする。それがまるで鏡のように、私の目の周りが赤いことと、疲れたような表情をしていることを私に伝えている。

 陽射しがあろうと体の底から冷やしていく寒さを受けながら、私はブランコに座り、ほんの少しだけ揺れていた。新川くんは私の前、ブランコを囲む手すりに腰掛けて、冷えた手に息を吐きかけている。

 

「本戦への意気込みはどうですか?」

 

「なに、その聞き方」

 

 彼の戯けた話し方に破顔しながら、んー、と考える。深刻さは見せたくないけれど、きっと、今から言うのはすべてが嘘だ。本心ではない。

 私は諦めている。せっかく手に入れたBoB本戦への出場権。昨日、予選でヘカートを撃ち放っていた私なら、今もギラギラと鈍く光る闘争心を露わにして「優勝してみせる」とでも言えたのだろう。

 

「負けたくない、かな」

 

 それが、私の限界。勝つなんてとてもじゃないけど言えなかった。こんな弱い自分を認めているのに、どうやってそんな言葉が吐けるのか。負けたくないも虚言で、勝てるわけがないとすら思っている。

 なんとか新川くんとの会話を途切れさせないための言葉をにじり出しながら、時折吹き抜ける冬の風に肩をすくめる。

 

 彼が嬉しそうに「朝田さんなら、シノンなら勝てるよ」と、そう言ってくれる。私はそれに「ありがとう」なんて面白くもない返事をして、また激励をくれる彼の顔を眺める。

 そうしている間にも、私の脳はずっとある1人を思い浮かべる。気まずくて、今日は朝ごはんを作っていない。冷凍しておいたお米と、昨日の残りのサラダ。お味噌汁も一応。それから、綺麗な巻き方を動画サイトで調べた卵焼き。本当は今日、作ろうと思っていた。

 私が台所を使っていると、伊織はきっと、横からちょこちょこと手元を覗き込んでくる。私が卵を割ったり、フライパンに油を引いているところを、何も言わずに覗いてくる。

 

「ねえ、やりにくいんだけど……」

 

「ごめん。見たくて」

 

「座ってなさいよ」

 

「卵焼き巻けるのか」

 

「最近、練習したからね」

 

「俺のために?」

 

「だ、だったらなに」

 

「いや、嬉しいなって」

 

 ————そんな会話が、多分あったと思う。

 でも、多分、もうできない。

 

「朝田さん、大丈夫?」

 

 少しだけ涙ぐむ私に、新川くんが慌てたように尋ねる。コートの袖を目尻に添えて、流れ出ようとする涙を迎える。擦ると痛いから、抑えることしかできなかった。

 

「ごめんね、なんか、乾燥しちゃって」

 

「……僕なら、そんな顔はさせないよ」

 

 少しだけ低くなった声が、耳の奥にぞくりと刺さった。驚いた私が顔を上げるよりも先に、新川くんは私の足元に膝をつき、今さっきまで涙を拭っていた私の手を自分の両手で深く握り込んだ。

 じんわりと温い熱が右手を包むと、彼の、いつもより僅かに吊り上がった目が見えた。

 

 確かに、そうだと思う。新川くんの隣にいたら、私はきっと泣かない。銃とゲームを通じて知り合った私たちの間には常に気心の知れた雰囲気があって、軽口も言い合える。今日、ゲーム内でこんなことがあったとか、そういうことをずっと話せる関係だと思う。

 そうだ。私をこんなに強く揺さぶれるのは、きっと伊織だけなんだ。

 

 そう気付いてしまったから、私はまた涙を流す。新川くんが背中を撫でてくれているのに、私はずっと、彼のことを思っていた。

 

 

 

 

 

 

 それが、数時間前の出来事。新川くんに心配されながら家に帰った私は、ほんの少しだけ食事をして、隣の部屋とこことを隔てる壁をじっと見てから、ベッドに寝転がった。目を閉じて、このまま夜まで眠ってしまおうと思っていた。

 

 どうして、私はフィールドを歩いているんだろう。

 進む爪先に揺れる草原には、親近感を覚えざるをえない。きっと、地面に生えた彼らは、自分たちが揺れている理由など分からない。

 次のサテライトスキャンまでは10分ある。前回のスキャンでは、注意すべき距離の敵プレイヤーは存在しなかった。もう少し、思考に耽る時間はありそうだ。

 

 5分前のスキャンで、つい探してしまった名前が頭の中で反射する。

 彼は生き残っていた。そう簡単に敗北するような、並のプレイヤーではないことは分かっている。けれど、本当に、本当に最低な言葉が頭を過ぎることを、私は止められなかった。

 

「……負けちゃえ、なんて。ほんと、私って……」

 

 自分が弱いことを自覚した今、それは言い訳となって、私は彼に対する羨望を晒す。

 いいえ、羨望なんて生易しいものじゃない。これは嫉妬。妬み嫉みを、私はついに包み隠せなくなってしまった。

 

 彼は、傷ついているだろうか。

 私が部屋に逃げ帰った昨日、彼は何度かメッセージを送ってくれていた。私は見ないふりをして、布団に包まった。

 

『ごめんな』

 

 朝起きて腫れた目を擦りながら、携帯電話の画面に表示された通知を見た。もっと長く文面は続いていたけど、見たくなかった。

 彼の優しい顔と、声。暖かい脈動。それらすべてを否定した。吐くような後悔が襲ってきたけれど、同時に、そんな権利がないことも理解できていたから、私はせっかく止まったはずの涙をもう一度流すことしかできなかった。

 

 それなのに、私はBoB決勝バトルロワイヤルの舞台に立っている。自分が自分でないみたいで、気持ち悪い。

 右肩に掛けたヘカートがいつもより重い気がする。きっと、私は朝田詩乃なんだ。昨日の夜についに気がついた現実が、この仮想世界を侵食している。

 私は弱者で、伊織は強者で、その間には深く広い溝がある。飛び越えられず、橋をかけることもできない。決して埋まらない、そんな溝が。

 

 タララっ。

 

 と、そんな音がした。無意識下で方角とおおよその距離、銃種を弾き出した頭が低くなる。腰を屈めて体勢を低くし、背後と左右をおおまかに確認しながら銃声の方へ進む。

 フルオートを短く刻んで射出したサブマシンガンの音だ。つまり牽制。おそらく、銃撃が始まる前にお互いを認識してしまったプレイヤー同士が、物陰に潜みながら相手の動向を伺っている。

 スニーキングのスキルは必要十分に上げている。草の上を歩いているとは思えないほど静急に、私は戦場に身を投じようとしていた。

 

————いた。

 

 森の中にある廃遺跡。石柱に背を付けて浅く呼吸する姿が遠くに見える。見失わないようにしながら、私に都合のいいポイントを探す。高い場所だからと言って、木の上に登る方法をおすすめはしない。確かに視界はある程度開けるかもしれないが、安定した狙撃体制が作れないのと、見つかり易さ、見つかった際に逃げ場が無いこと。どれをとっても『ダメ』だ。

 結局、プレイヤーを発見した地点から来た道を戻るように折り返して、より茂みの濃い場所からスコープで眺めることにした。さっきのサテライトスキャンから考えると、別のプレイヤーが私の背後から現れるとは考えにくい。うつ伏せになり、ヘカートの脚を立てる。

 

「あ……」

 

 そういえば、ヘカートの重さが、意識の中から消えていた。私自身の重さに吸収されていた相棒は、今か今かと自分の活躍を待ち望んでいるような気がする。

 

「……待っててね」

 

 低く、冷たい声が出る。

 本当に自分が分からない。私は誰なんだろう。昨日、認めたはずなのに。私は朝田詩乃であると。昨日、捨てたはずなのに。涙と一緒に青い髪を捨てたはずなのに。

 諦めきれない、とでも言うのか。彼にあんな言葉を吐いておいて、そんな都合のいい寝言を言うつもりなのか。

 私はいまだに、強さに夢を見ているのか。

 

 

 

***

 

 

 

 伊織は、奴の名前を「知らない」と言った。ラフィン・コフィンに所属していたプレイヤーなら、SAO時代にイオリが収集した情報の中に名前もあると思っていたが、どうやらそう簡単にはいかないらしい。菊岡に話しもしたが、昨日の一連の出来事を伝えて得られたのは伊織の連絡先だけだった。

 伊織にすべてを話すことは躊躇われたが、隠すことはできないと思った。菊岡も同席する高価なカフェで、伊織は驚くほど落ち着いて話を聞いていた。

 

「君は、SAOの中でラフィン・コフィンたちの情報を集めていただろう。本当に名前に心当たりは無いのかい」

 

「俺が動き出して、ラフコフは情報を絞りました。特に、幹部についてはほとんど分かってないんです」

 

 紅茶が注がれたカップを音も立てずに受け皿に置くと、伊織は「すみません」と続けた。菊岡はそれに対して首を振る。

 これでは事件に関しての進展は何も無い。SAOサバイバーであり、当時のプレイヤーネームが割れていれば、そこから現実世界の人間を調べ出すことが可能だった。しかし、笑う棺桶に最も接近していたに違いない伊織にすら分からないという。

 一番もどかしいのは、伊織自身だろう。ゲームで人を殺す死銃という存在がいて、それがSAOでの宿敵であるラフィン・コフィンであることが分かっている。しかし、名前だけが分からない。

 例えば、もし本当は俺たちが名前を知っていて、それを何らかの影響で忘却してしまっているだけだとしたら。ドラマチックな展開であれば、良いタイミングで敵の名前を思い出すようなこともあったかもしれない。

 今日の夕方には、BoBの決勝戦が開始してしまう。それまでに何らかの形で死銃の正体が判明する可能性はゼロに等しい。奴の方も、自分が俺や伊織に名前を知られていないと確信していたから姿を現し、挑発してきた。

 

「君が責任を感じることはない。そもそも、死銃が本当に人を殺していると確定はしていないし、君たちがGGOの中で出会ったプレイヤーはラフィン・コフィンとは無関係かもしれない」

 

 菊岡は高そうな眼鏡を中指で押し上げて、光が反射したレンズ越しに俺たちを見る。気休めであることは明白だった。死銃のことを俺に持ちかけてきたのは菊岡自身だし、俺たちはあの髑髏マスクが残党であると確信を持って言える。

 多分、菊岡にも呑み込む準備ができていなくて、ついそんなことを口走ってしまったのだろう。

 

 冷静に座る夕原伊織という少年は、SAOの中で笑う棺桶と戦争をして、殺害したプレイヤーである。それを受け入れ、共に歩んでいくという決断をしたたった1人の、ただの少年。彼はもはや、常人ではない。

 

夕原(せきはら)くん」

 

 自らの発言が最早手遅れであることを認識した菊岡は、聞こえるか聞こえないかの小さく短いため息を吐いた後、伊織を呼ぶ。俺もついさっき知った名字だ。

 

「こうなれば、君も協力者だ。報酬は支払うし、安全を期して、ダイブ場所の提供もさせてもらう。もし君が、このままバレット・オブ・バレッツの決勝戦に参加すると言うならね」

 

「助かります」

 

 参加しないという選択肢は存在しない。それを一言で表明してみせた伊織は、自分の財布から一万円札を取り出してテーブルに置こうとした。菊岡が制止して、テーブルの隅に置かれていたはずの革製のバインダーを、いつの間にやら顔の横に掲げている。伊織は少しだけ迷って、感謝の言葉を漏らした。

 

「一度、家に戻って準備します」

 

「こちらも準備を急ごう」

 

 俺がGGOにダイブしている病室には、そのために集められた機器が並べられていた。いくら菊岡と言えど伊織という人間の出現を予想できたはずがないため、おそらく手配に奔走しているのだろうことは予想できた。その上で俺たち二人と直接に顔を合わせ、ポケットマネーでお高いケーキと紅茶代まで出してくれると言うのだから、頭が下がる。伊織のことを話したいと連絡した俺に、待ち合わせ場所をこの店と指定してきたのは、他でもない菊岡自身ではあるが。

 しかし、人間性はともかく、SAO事件が終結してすぐに、様々な対応に忙殺されながら俺の前に誰よりも早く現れたこの男の手腕を、俺は信頼している。おそらく、俺と伊織が病室を訪ねると、当然のように2台目のベッドが顔を見せてくれるだろう。

 

 

 菊岡と別れた後、バイクを細部まで眺めようとする伊織に無理やりヘルメットを被せ、俺たちは伊織の家に向かった。意外に病院から程近い場所に彼は住んでいたようで、シンプルな造りのアパートが見えてきた。ガソリンバイクの、お世辞には静かとは言えないマフラー音で近隣住民にご迷惑をお掛けするわけにもいかないので、まだ距離がある中でバイクを止め、押して歩くことにした。

 この場所なら、俺の家からもそこまで時間はかからない。落ち着いたら、2人で飯でも食いに行きたいなと思った。

 SAO時代の顔馴染みに会わせるのは、少し複雑だった。俺は伊織とここで再会して、奇跡のように蟠りなく話すことができているが、それは当然ではない。あいつらからすれば、イオリは笑顔で手を取り合えるような相手ではないだろう。特に、アスナは血盟騎士団の副団長であり、攻略の際は全体指揮に立つ場面も多かった。そんな彼女が、イオリを攻略組から追放するとした決定の場にいなかったはずもあるまい。

 

「ごめん、和人。ちょっと待っとい……」

 

 意味もなくバイクのシートに手を添えながら思案を巡らせている中で話しかけられ、返事をしようとするも、それより前に彼は言葉を途切れさせた。

 視線を追うと、伊織が住んでいるアパートの前に、グリーンイエローの上着を纏った少年が、今から歩き出すところだったという具合で佇んでいた。温和な雰囲気で、俺たちと年もそう変わらないだろう。伊織の隣人だろうか。

 そう考えたが、俺たちのことを見つけたその少年は、何やら既視感のある眼差しで伊織を見始めた。

 

「夕原くん。BoB決勝進出おめでとう」

 

「ありがとう、恭二」

 

 なるほど、と思い至る。彼は多分、BoBの予選が始まる前にシノンたちに話しかけていたシュピーゲルだ。ゲームの中のアバターとは身長やら髪型やらは当然違うが、雰囲気はどことなく共通するものを感じる。

 

「さっきまで朝田さんに会っててさ。家まで送ってたんだ」

 

「そうか」

 

 伊織はそれに相変わらず淡白に返事をして、シュピーゲルもとい恭二は何が癪に障ったのか、伊織から視線をずらした。そのまま俺と目が合った恭二は、見覚えのない俺という来訪者に会釈をする。

 

「和人、友達の恭二。恭二、こいつは」

 

「友達だなんて。BoBへのエントリーすら諦めた僕と、決勝進出者の夕原くんとでは、とても釣り合わないよ」

 

 俺のことを紹介しようとした伊織を遮って、鼻笑を含んだ声で恭二は言う。

 何やら雰囲気が良くない。ゲーム内でもそうだったが、やはり恭二の方から伊織に苦手意識があることは間違いなさそうだった。

 

「お前——」

 

 その次の言葉は、必要なものではなかったかもしれない。恭二の口ぶりは、2人の関係を深くは知らない俺でも目に余るものがあった。しかし、伊織がそういうものを涼しい顔で受け流せるだけの度量を持っていることも事実だった。ましてや、恭二とリアルでは初めて会う俺が同じ場にいるのだから、雰囲気を悪くするようなことはしないだろう。

 普段は冷静な伊織なら、そうする。けれど、気が立っていたのだろうか。

 

「——俺の何が気に入らない」

 

 それがスイッチだったようで、恭二は目尻を吊り上げた。俺よりも近い距離で表情の変化を目の当たりにした伊織がそれに気付かないはずも無かったが、怯むことはなかった。

 見るからに激情している恭二は、それでも声を荒げたりはせず、ただ固く拳を握り込んで体の横に垂れ下げている。

 

「強い君には、弱い僕のことなんか分からないよ」

 

 その言葉に、今度は伊織の肩が揺れ、それから我慢ならないといった具合で話し出す。

 

「親父の病院継ぐって、模試でも上位取り続けてるんだろ。お前が弱いなんて」

 

「朝田さんから、聞いたのか」

 

 誰に聞かせるでもない、強いて言うなら、自分の内側に投げつけたような呟きをして、恭二は歯を食いしばった。温和だった顔つきが、眉間に寄った皺によって印象を変えていく。

 その顔に、俺はかつて自分が手にかけた男とのデュエルを思い出した。それは嫉妬と悔しさが混ざったような表情だった。俺だって、鈍感ではない。あのとき、彼がどんな心持ちだったのか想像することはできる。

 

「お前は、急に現れて……僕と朝田さんはずっと一緒だったのに、シノンは威織と組んで……」

 

 先ほどから恭二が口にしていた朝田という名前が、シノンのリアルであるとそこで分かった。俺ばかりが向こう側の仮想現実と現実を知っている現状に気まずさはあるものの、伊織と恭二の間に漂う雰囲気の方が何倍も異様だ。

 

「高AGIは、覇権だったじゃないか……僕は強かったのに……威織は、シノンは強いのに……僕は……」

 

 彼を危うく思う。きっと、恭二はほんの少し前の伊織と同じような状況に立たされている。

 ゲームと現実がリンクしてしまっている。誰よりも情熱を持って好きなことに打ち込んできたが故の、弊害とも言える現象だった。

 

「……どいてくれ」

 

 伊織の脇を抜けて、俺には一瞥もくれず、恭二は足早に通り過ぎた。俺は離れていくイエローの背中と、友人の後ろ姿の間で視線を往復させたが、当人の感情は読み取れない。

 

「強さ……か」

 

 短く声を震わせた伊織は、俺に再度、僅かばかりの時間だけ待つように言ってから、自室へと向かった。

 残された俺は、いつの間にか止まっていた呼吸を再開させた。他の人間よりは死線を潜ってきたつもりだったが、やはり俺も単なる学生だったようだ。頭蓋の内側に反射する先程の恭二の姿が、今も昔見た顔と重なって気を散らす。

 

 そして、俺は自分の額に拳を当てた。殴打と言うには弱々しいもので、けれど、それは確かに俺の意識の部分をぶん殴るための拳だった。

 

 手早く準備を済ませた伊織が階段を降りてくるまでの2分ほどで、俺は俺のやるべきことを再確認した。

 

「待たせた。行こう」

 

「伊織」

 

 ヘルメットを被ろうとする伊織を声で静止すると、不思議そうな顔をする。いや、それは無表情に変わりはないが、不思議だと思っていることは分かる。それが思い込みなのか、はたまた俺のモヤのかかった思考が晴れたが故の認識なのかは判別できないが、とにかく俺は今、伊織の顔をまっすぐに見ることができているのだ。

 

「昔、カレーの話をしたの、覚えてるか?」

 

「カレー?」

 

「俺が辛口に唐辛子パウダー入れるってやつ。お前、それ聞いたら珍しく嫌な顔してたよな」

 

「あー……した気がする。俺は甘口しか食えないからって」

 

「そうそう、中辛も無理だって」

 

 少しずつ会話の不自然さも減っていきながら、それでも伊織はきっと、急に何の話をしているんだと思っているだろう。

 

 俺だって、これで本当にいいのか疑問に思ってる。よく一緒に話す男友達といえば、クラインだろうか。学校でも数人、カズと呼んでくれる奴らもいる。前者は自分からよく喋ってくれるし、後者は同じ趣味や嗜好を持っていて、話題に事欠かない。蟠りが無くなったとしても、伊織との会話のペースは、未だに掴み損ねている気がする。

 

 恭二と伊織の間に何があったのかを詳しくは知らないし、伊織が自分から話さないのだから俺から聞き立てるつもりもない。

 それでも、俺は伊織と話をしなければならない。俺は威織と向き合ったあの森で、こいつの強さに甘えることを辞めたのだ。

 

「お前なんかさ、俺に比べたらまだまだだよ」

 

「……何を」

 

「歳もさ、確か早生まれだっただろ。じゃあ俺のほうが兄貴だ」

 

「学年は一緒だろ」

 

「辛口と甘口の間には、学年なんかじゃ量れない差があるのだよ。伊織くん」

 

「なんだこいつ」

 

 ほんの、ほんの僅かに伊織が破顔したところで、俺は少しだけ気恥ずかしくなってヘルメットを被った。

 こんなのはほんの気休めだろうし、カレーや年齢の話だって、本当に言いたいことじゃない。本当に言いたかったことは、たった一言、決意した直後だが、面と向かって言うのは憚られて、俺は情けなく、バイクに跨りながら口にした。

 

「何でも頼れよ。俺だってそこそこ強いぜ」

 

 目を逸らしながら声にして、何の反応も無かったので、鬼のように滑ったと思った。

 しかし、赤面をなんとか抑えながら伊織の方を向くと、予想とは裏腹に、そいつはヘルメットを抱き抱えるようにして腰を曲げていた。笑い声すら出せないほど、伊織は笑っていた。

 予想以上にウケると、それはそれで恥ずかしいもので、頬を掻きながら伊織が落ち着くのを待った。

 結局、身支度と同じくらいの時間をかけて顔を上げた伊織は、今度こそしっかりと笑った顔で、目尻に涙を浮かべている。

 

「ありがとうよ、和人お兄ちゃん」

 

「舐め腐った弟だな、こいつ」

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