1946年から1956年、その間の若きトム・リドル・マールヴォロの記録は残ってはいない。闇の魔法を求めて放浪していた彼はとある村である一人の女と出会い闇の魔法の話を聞くこととなる。
互恵関係でしかなかった彼らの、友情と言うには短すぎ、他人と言うには関わりすぎた、年の瀬のたった七日間の物語。(1話完結)

※クロスオーバーのクラバートは別文化の魔法として出てくるだけなので知らなくとも問題ありません。
オトフリート・プロイスラ―『クラバート』を元に、ソルブ人の民話の「クラバート伝説」にある闇の魔法学校がイギリスのとある地域にも広がっていたら…そこにグリンデルバルドの子供が逃げ込んでいて放浪中のトム・リドルに出会ったという話になります。独自設定はグリンデルバルドに子どもがいるということになります。
少しダークな雰囲気のシリアス系の話です。



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黒い湿地帯の記憶

 

それは、降誕際の翌日から元日にかけてのことであった。

1900年前以上も前に救いの御子が生まれたという伝説は、この季節に閉鎖的な集落にさえわずかな寛容をもたらす。

 

ろくに上手くもない讃美歌の浮浪者の門付けに対しても、慈悲深い伝統に背を押された人々は自分が良き人間であることを何かに示すかのように施しをあたえる。同様に、見知らぬ来訪者にも胡散臭げな顔を向けつつであったとしても、二、三言適当な理由を付けてやれば許された。特に、それが若く見目麗しく、感じの良い青年が『自分が幼いころに死んだ母の女親にあたる人の故郷だと聞いて訪ねてみたのです』と傷心そうに言うのであればなおさらだ。

 

二十を少し超えた青年であるトム・リドル・マールヴォロはあらゆる魔法の知識を得るために各地を旅していた。このイングランドの末端を訪ねた理由ももちろんそのためだ。そこは独自の文化を形成しており、以前より特有の魔法があるという噂だった。

 

そして、後の世に闇の帝王と呼ばれた彼がその女と出会ったのはそんな僻地の小さなパブである。

 

 

 

”派手な女”

 

それが最初の印象だ。しかし、それが間違いだと気付いたのはいつだったであろうか。情報と食事を兼ねて入った田舎のパブで、注文を取りに来たのが彼女だった。一目で相当な美人だとわかった金髪女は不愛想で、それでいて胡散臭そうな目つきでこちらを見ていた。

 

見知らぬ場所で魔法の情報を得るための簡単な工夫は、食事処で何気なく杖をテーブルに置いておけばいい。そうすれば魔法使いは同胞に気付いて近づき、他にも魔法使いと関わったことがあるマグルが声をかけてきた時もあった。しかし、その相手がウェイトレスであったのはそれが初めてのことである。

 

「片付けておいた方がいいわ」

 

高慢そうな冷たい表情に見えたが、声色は穏やかで、澄んだ声質によくあったものだった。こちらが顔をあげると彼女は意味ありげに杖へ視線を向けてから目配せしてくる。明らかにそれに対しての助言をしたのだと強調する仕草であった。彼女は何事もなかったかのようにメニューボードをテーブルに置き、自身はメモ帳とペンを取り出してウェイトレスとしての仕事に戻る。

 

「サンドイッチやハンバーガーならすぐに作れます。時間がかかってもよろしければ魚料理やパイもありますが」

 

「パイが特徴的な地域だと聞いたけど」

 

「では、パイで。エールは?」

 

さらに数回のやり取りの後に注文を終える。始終そっけない様子だった女は、おもむろにエプロンをめくり裏側を見せた。そこに縫い付けられたポケットから見えているものは魔法使いの杖である。

 

「宿泊先はお決まりですか?うちは二階が宿になっていて、今は全部空いています」

 

声につられたように見上げたその女は改めて見ても美しかった。豊かなプラチナブロンドに、深い海のような青い目。陶器のように青みのかかった滑らかな肌は人形のようだ。しかし、彼女は自分の優れた武器を理解していないかのように表情は冷ややかである。

 

「それでは、是非」

 

トム・リドルは、これまで何度も人々を魅了してきたな笑みを浮かべて応える。彼女はただ一言、「そう」と呟くと厨房の方へと去って行ったのだった。

 

 

 

 

「驚いた。まさかこんなところに同胞がいたなんて。しかも、君みたいに若い子がマグルの店でウェイトレスをやっているとは思わなかった。魔法使いがほとんどいない村なんだね?」

 

宿屋として使われている二階に通されたのは食事が終わってからだった。やたら種類の多い具材の入ったパイを食べた後に彼女は食事の料金と一緒に宿泊の料金を伝え、一度にすべて支払うことを求めた。

 

部屋は食堂の奥からの階段を上った先の突き当りで、窓からは表の道がよく見えた。客人を案内すると女はシーツを取りに行き、今はそれを広げてベッドメイキングをしている。

 

「貴方と同じ魔法使いは私だけよ。いえ、同族と言うのなら私の弟もかしら」

 

「親や親せきは?弟も魔力持ちならきっと遺伝的なものだろう?」

 

「いないわ」

 

女がシーツの皺を伸ばしてマットレスにはさみこんでいる様子を座って眺めていた。それまでは親し気に話しかけていたが、彼女の答えに気の毒そうに言葉を止め、表情を曇らせる。

 

「そう、それは悪かったね。……分かるよ、私も両親がいないんだ」

 

彼女はちらりと振り返り、ベッドの半分に寄せていたベッドカバーのセットに取り掛かる。羽毛性のガサガサとする音が少し耳ざわりだった。

 

「両親は死んでいる。私は孤児院育ちで、そう聞いたんだ。母は私を孤児院に連れて行き、私を名付けるとすぐに亡くなってしまったらしい」

 

寂しげな表情とどこか悲しみを含む声色を作ることなどたやすいことだった。こういった話をすれば相手は自分が心を許し、信用しているのだと勘違いする。そして、目の前の女が親のいないとわかった上で似たような境遇の人間と伝えれば心を揺るがす可能性がある。ダメ押しのように、「それで」とどこか仲間意識を持った希望を含む声をかけた。

 

「君のご両親は魔法使い?どんな家族だった?」

 

この質問の答えが直接的に自分の目的に関わるとは限らない。だが、それ以上の情報を得るためには効果が見込めた。目の前の人間が何を話そうとさほど興味はないが、相手に深く同情した態度と優しい声を掛けるだけでいい。現に、女はベッドカバーのセットを終わらせると客人を振り返って静かに口を開いた。

 

「父も母も魔法使いだったわ。けれど、どちらも忙しかったから、私は父の部下に育てられた。それなりに私に良い顔をしようとしていたけれど、顔を合わせたのは数える程度しかなかったかしら。弟も生まれてから同じ育ての親に預けられたけど…母親は違うんじゃないかしら」

 

「もしかして君はこの村の生まれじゃないのかな?君のご家族の話や君自身の品のある振る舞いは田舎娘らしくないけど」

 

「先の魔法戦争の戦いで私たちは両親と育ての親を失ったの。それで、知り合いの紹介で大陸から渡ってこっちに来た」

 

「そうか、あの戦いの…グリンデルバルドの影響を受ける地域にいたんだね……」

 

女はじっとこちらを見ていた。気難しく警戒心の強い、身寄りのない女がこちらを見定めようとしているのだと視線を穏やかに受け止めてやる。女はつかつかと歩いてくると、座ったままの客人をその美しい顔で見下ろした。

 

「貴方の質問に私は答えたわ。何か報酬はいただけるのかしら?」

 

「報酬?」

 

「貴方は求めた。私はそれに応えた。相応の対価を払うべきではなくて?」

 

「それは少々…そんなことを突然言われても…困るな」

 

女は青い目で睨みつけてくる。それに対して戸惑った様子を返しながら内心舌打ちをした。

 

どうやら面倒な人間だったらしい。プライドが高そうだとは感じていたが、気が強い。いろいろと詮索されるような質問に腹を立て、ただの仕返しをしようとしているか、これを機に利益を得ようとしているのか。いずれにしても、女が自分のことを話したのはこちらを責め立てる口実だったということは分かった。そして、それには気づかないふりをした方が賢明だ。

 

「無神経なことを聞いてしまったのかもしれない。ただ不思議に思っただけで、不快にさせる気はなかったんだよ」

 

「貴方はここに、闇の魔法を求めてきた。私と同じでしょう?」

 

声を抑え、彼女は静かに問いかけた。小首を傾げる動作に細いシルクのような金髪が流れるように肩から落ちる。どこか小動物を思わせる愛らしい動作であるが、彼女の青い目は獲物を捉えるように油断がない。

 

「杖魔法の魔法使いがこの村に来る理由なんてそれ以外にないわ。しかも、相当闇の魔術の研究にのめりこんでいる」

 

その言葉には非難する響きはないようだ。けれども目の前の人間がどういった立場であるかを測るにはまだ情報が少なすぎた。

 

「君は闇の魔法に興味があるのかな?」

 

「その返事に対する対価も払っていただけるのかしら?」

 

問いに対しての問いの返しだ。正直、煩わしい。それでも強情な相手を丸め込もうとするのは面倒だとわかっているために、降参だというように手をあげた。ひとまずは、のことであるが。

 

「わかった。闇の魔術のことはさておいて、私が君の個人的なことを聞き出してしまったことは事実だ。その無礼にはいったいどういう代償を払えばいいのかな?」

 

「いきなり言ったのだもの。無理なことは求めないわ。そうね、今の魔法界の様子を教えてくれるかしら?先の大戦から離れて久しいの」

 

彼女は身を起こし、肩に落ちていた長い髪を後ろへはらった。

 

「そんなことでいいのなら、喜んで」

 

ニコリと愛想のいい笑みを浮かべる。彼女は「そう」と短い答えを返す。一度背を向けたと思うと、部屋の端にあった椅子を持ってきて、客人と向かい合うように置いてからそれに座った。

 

 

 

女の求めた最初の報酬は彼女自身が言ったとおりに取るに足らないことであった。グリンデルバルドが敗れてからの情勢、残党の扱いや、戦後処理の政策などである。マグル界の大戦も同時期に終わったことでそれの影響も受けてまだ数年は慌ただしいであろうという話を、彼女は本当に興味があったかもわからないような態度で聞いていた。

 

「大体のところ、こんな感じだろう。もっと聞きたいことはある?」

 

「いいえ。もう十分だわ。ありがとう」

 

彼女は話が始まった時と同じようにそっけなく断る。「そう」とその女にこれまで二度言われた言葉を返してから、まだ何か考えている様子の彼女に今度はこちらから繰り出してみることにした。

 

「君が満足したならよかった。けれども、私の話は君に最後にした質問の答えを聞くために足りるかな?」

 

「なんの話だったかしら」

 

「君が闇の魔術に興味があるのかなって話だよ」

 

女は振り返る。これまでずっとそうしているようにこちらを品定めするような目つきだ。スッと目を細めると彼女は呟くように言った。

 

「貴方の目、時々赤く見えるのね。光の反射かしら」

 

「たまに言われるよ。どうやら生まれつきらしい」

 

「そう。面白い特徴ね……。質問の答えだけど、私は闇の魔法を研究しているわけではないわ。……そうね、役に立つ魔法であれば何でもいい」

 

「君はあまり闇の魔術にも偏見が無いのかな?」

 

女はその言葉に何か思うことがあるようだった。こちらを見ているはずの目がわずかに視線から外れる。しかしそれも勘違いと思われるぐらい短い間のことで、すぐに会話を続けた。

 

「そうかもしれないわね。この村の環境と魔法が私にとって都合が良さそうだったから私はここに来ることを決めて、その魔法について調べた。闇の魔法の中でもさらに汚らわしく、罪深いと言われる大陸由来の古い魔法。正直、”だから何?”って思っていた」

 

「君は私がその魔法に興味があることを知っていてそんな話をしているのかい?」

 

「そうでなければこんな言葉、日記にでも書いて暖炉に捨てているわ」

 

「じゃあ、合理的な君が私にこうやって話す理由をそろそろ教えてもらえる?君はさっきから私の質問に答えているように見せて、私がどれだけそれに興味があるか確めようとしているように見える」

 

「そうかしら?」

 

「そうだよ。………もしかして、私との交渉で何か”対価”としてもらえそうか見定めようとしているんじゃないか?」

 

「だとしたら?」

 

「だとすれば、君は随分と意地の悪いことをしてくれるじゃないか。それにとてもまだるっこしい。そろそろ本題に入ってくれてもいいんじゃないかな」

 

お互い座っているというのに女の目つきはまるで見下すかのようだ。整った顔つきがまた様になっている。彼女は足を組み、それにもたれ掛かるようにして腕を組んだ。ウェイトレスには似合わない不遜な態度だ。

 

「最初に言っておくけれど、私はあなたがどんな理由でこの村の魔法を調べに来たかということに興味はない。強大な闇の魔法を手に入れるためでも、ただ純粋な研究対象として隠された魔法を明らかにしたいとしても同じだもの。この村に魔法使いはいる。私はその魔法の秘密を得るために三年かかった。それに貴方はとてもいい時期に来た。この魔法は巧妙に隠されているのだけど、大晦日と元旦にかけての短い間に必ずとあることを起こす。噂が漏れるのはそのためよ。そして、魔法のことを詳しくは知らない村のマグルたちもその異常に関わることを恐れている」

 

「こんなことを話してくれるということは、君はそれを私に教えてくれる気があるということだ?」

 

「そう。もちろん、貴方が相応の報酬を私に払ってくれるならば、だけど」

 

女は長いまつ毛の間から冷たい視線を投げかけた。彼女の言うことには興味はある。しかし、女が何を要求しようとしているのかわからない以上、迂闊な返事はできない。

 

「その報酬を何にするか、君は決めているのかな?」

 

「ええ。……それもきっと、あなたにとって大したものではないわ」

 

 

 

 

結局、その村に一つしかないパブ兼宿屋には一週間…つまり、元旦の朝まで泊まることになった。

 

情報の交換は決まって昼前に行われた。朝食の提供が終わり、食堂に昼の客が集まる前に彼女は宿泊客の部屋で仕事をする。それはほんの三十分から一時間程度である。シーツを取り換え、暖炉の灰を清め掃除をし、新しい薪を持ってくると、女は決まって最初の日と同じ椅子に座った。

 

女はいつも似通った服装をしていた。背が高くスラリとしていて、長い金髪に青い目はどうにも派手に見える。しかし、実際の装いは随分と質素なものだ。アクセサリーは一つもつけず、服装も白い襟付きのシャツにロングスカート、手作りに見えるエプロン。どれもが機能性を優先したデザインで、色も地味だった。

 

彼女の装いが質素であるように、情報に求める彼女の対価ももったいぶった割には些細なものだった。それは、魔法使いであれば簡単に手に入る、呪文学の教科書であった。しかも、彼女は初級のものをより好み、とっくに魔法を納めている自分にとってはガラクタ当然の、女の言った通り”大したものではない”。

 

けれども彼女はそのガラクタに等しいものを一つ得るたびに、いつもは仮面のような表情に、心なしか暖かで優しい微笑み浮かべているようだった。

 

毎日、毎日、女の話は少しずつ語られた。

 

一日目の話は、その魔法の特色についてであった。

それらは噂通りに杖を使わず、とりわけ担い手たちは動物に変身することを得意とした。杖魔法と異なり人間が自分で自由自在に何種類もの動物や植物、時には物にさえ変身が可能だという。天候を操り、人を欺いて騙し、夢を乗っ取り、心を壊し、秘密を暴く魔法など、目新しいものや文献にしか残っていないものも含まれていた。

 

二日目はその魔法の継承形態についてであった。

それは特定の集団に対してのみ、金曜日の夜だけ秘密裏に教えられるという。弟子の数は必ず12名、教師は1名。13人だけの小さな集団で、特定の魔法書が読み上げられる。メモを取ることもできず、弟子たちは教えられた魔法の性質とその手法、呪文をその夜のうちに必ず記憶しなければならない。ただし、魔法の習得は自由とされており、統一の試験なども存在しない。

 

三日目は魔法を学ぶ条件についてであった。

その集団は毎年一名が入れ替わる。生徒はすべて孤児だった。新しく入る子供は十代半ばと決まっているが、去る者に年齢の決まりはない。ある年は30代近くであったり、まだ20にもならない青年のこともあった。また、それは職人の階級や魔法の熟練度も関係ない。

 

四日目になりようやくその場所の情報となった。

学び舎はこの地域のダークウェットランドと呼ばれる湿地帯の水車場にあり、村人は近づくことが許されない。その水車小屋は鍛冶職人たちの工房となっているが、彼らが近くの村まで商品を卸しに来たことはない。また、新月の日は決まって来訪者が現れ、夜にも関わらず水車が回り職人たちが働いている音が響くが、その様子を見に行ったものは、みな生きて帰っては来ないという。

 

各日の話はこれだけだ。女との要件は午前で事足り、午後は初日の村人への説明の通りに近くの教会や人里離れた墓地に足を運び、可能であれば魔法の情報を仕入れようとも試みた。けれども、先の魔法使いの彼女が三年間も情報を得られなかったということもあり、毎日の話以外に有益なものは何一つ得られなかった。

 

結局は年が明けるまでの数日、空いた時間は魔法の研究の時間に当てるか、村から離れた位置で姿くらましで去り、姿あらわしで戻ることで遠くに出かけることが日課となっていた。

 

 

村に来て六日目、つまり五日目の情報はこれまでのものよりも少なかった。

 

『その水車小屋は女人禁制で、特に若い女性は姿を見せてはならないとされている』

 

そしてこの大晦日、最後の滞在となる日に彼女はウェイトレスの仕事をすべて終えた夜に訪ねたのだった。

 

 

 

「ついに、この日が来たわ」

 

雪の降る夜だった。外に出ていたのか、女のショールと髪には雪が軽くかかっていた。

 

いつもの時間に彼女が語った情報は、その魔法学校が女人禁制というものだけだ。時間にしても約一分。前日までの話に比べるとその情報の量も少なく、価値も低すぎたために約束の”対価”を与えるには至っていない。そして、女の方もこればかりで受け取る気は皆無のようだった。

 

毎日部屋に訪れる彼女のための椅子は二日目からそのままにしていた。女はそれに座り、これまで二人はこの数日間続けてきたように向かい合う。

 

これが、最後の情報交換だ。彼女の話では大晦日から元旦にかけて、件の水車小屋の魔法使い達の魔法はその存在を垣間見せる。それに合わせて、女は自分が知り得たことをこの夜にすべて話すと言っていた。

 

机には、ホグワーツの呪文学の教科書が二冊置かれている。これまでのフクロウ試験までの内容は手放してもなんの痛手もなく、忌憚なく渡した。けれども、上級生用の教科書ともなれば話にそれなりの価値が無ければ報酬としてふさわしくない。果たして、この最後の機会に彼女はそれを手に入れられるのか。自分としてはこの対話が彼女の挑戦を受けるような気分であった。

 

作り慣れた柔和な笑みを浮かべる。それは自らの立場を貶めるものではなく、むしろ優位であることを示すものだ。女は溶けかけた雪のついたショールをはずし、自らの膝の上に置く。そして、魔法の学び舎の秘密を静かに語り始めた。

 

 

 

ダークウェットランドの水車小屋の魔法学校は、大陸由来のものである。その教育方針や授業内容はこれまでの説明のように杖魔法の文化とは大きく異なっていた。その文化ではそもそも、『魔力』という存在はない。あるのは魔法そのものの術のみなのだ。

 

ゆえに、その魔法に関係するものはすべて非魔法族のマグルである。マグルが魔法を扱える状況とは、それ自体が魔力を持つ何らかのものを使用するときである。つまり、その魔法学校で教えられる魔法は、それ自体が魔法道具と同じく、使用者の魔力に依存しない何らかの力であるのだ。

 

「あの水車場の魔法は悪魔契約によるものよ」

 

女はいつもの冷静な物言いで、声色一つ変えずに淡々と言った。

 

「”新月の夜に現れる来訪者”は人ならざるもの。あの水車小屋の主は闇の魔法そのものと契約して魔法を手に入れ、毎年、孤児たちを招いて学ばせている。水車小屋の職人になるということはその孤児たちも契約を間接的に結ぶということ。だから、あそこで働く者たちは悪魔のために働き、生贄として飼われ、見返りに魔法の力を得る。悪魔契約はこれ以上にないほどに穢れた危険な闇の魔法だわ。それに、もともと魔力を持て生まれる私たち魔法族には得られる力の差分よりデメリットの方が大きすぎる。同族には望んで学ぶものもいないでしょう」

 

「君は元々それを知っていたのか?」

 

質問に対し、女は「いいえ」と短く答えた。

 

「知っていれば私はここへ来ることもなかった。私は魔法学校の話を聞いてここを目指した。純粋に魔法を学べる環境が欲しかった。けれども、悪魔契約はその力と知識を得るために大きな代償を支払わなければならない。きっと、寿命や魂に関わるものなのでしょうね。あの魔法学校は新年を迎える前に一人が去り、新たな者が加わる。あの水車小屋の弟子の一人が必ず命を落とす。時には近くの村の娘までも変死を遂げるらしいわ。今年もきっと、そんな年ね」

 

女はふと視線をあげて窓の外を見た。昼間は曇っていた空は早くに夜の帳が降り、その中でチラチラと白い雪が下へと流れていた。

 

「私はきっと、もう、新年を迎えることはできない」

 

彼女のため息が部屋の中へ静かに消えた。

 

女の続けた話によると、徒弟たちは水車小屋の呪縛から逃れる方法が一つあるらしい。もし徒弟に特別な感情を持つ女がいれば、その女は大晦日の夜に水車小屋の主に自分が思う徒弟を自由にすることを頼むことができる。そして、水車小屋の主の出す条件を満たすことが出来れば呪いは解けるというものだった。

 

ただ、女は彼らの魔法のテリトリーで試される。先人に課せられたのは、徒弟が変身した12匹のカラスから…それもすべてが同じように止まり木に並び、嘴を片翼に突っ込んでうずくまる中から目的の人間を一度で当てなければならないというものだった。そして、その時の娘は選択を誤った。

 

「その徒弟も娘も、新年を迎えることはできなかった。私は今、同じ運命にある。問いも違うものになっているはずよ」

 

「君はその水車小屋の一人と恋仲にあったのかい?」

 

女は質問に小さく肩をすくめた。

 

「…どうかしら。ただ、その子を弟のように思っている。自由にできるならそうしてあげたい。彼は私に特別な感情を抱いているようだけれど」

 

そう言って静かに続けた。

 

「あなたに話した水車小屋の秘密は、すべて彼から聞いたものなの。私は彼からこの試験を自分のために受けて欲しいと頼まれた。この五日間、少しずつ貴方にあの場所のことを話したのは、私がまだ、すべてを知っていなかったから。彼は他の連中から目を盗んでは私にあの水車小屋のことを教えた。そして、私は毎日それをあなたに話した」

 

言葉が途切れると、シンッと深い沈黙が包んだ。パチパチと暖炉の火が燃える音もどこか遠くに聞こえ、それ以外の音を雪が吸い込んでしまったかのようだ。

 

「職人の一人が伝言を持って来たの。今日、あの小屋を訪ねるようにと。あの子は今、自分の墓穴を掘る最後の仕事をしている」

 

女は再び窓の外の雪を見ていた。先ほど視線を向けたのも、この雪の中で穴を掘るその弟子のことを思っていたのだろうか。

 

「あの子は、私がこの村に来て間もないころに、水車小屋に訪れた子だった。”ダークウェットランドの水車小屋はどこ”と聞かれて、私は近くに一軒だけあった水車場のことを教えた。そこがどんな所かも知らないままにね。そしてあの子は職人たちの一員になった。お互いによそ者同士、顔を覚えていたからほんの数回話すだけで私たちは親しくなっていったわ。そしてあの子は…私がこの村の魔法を知りたがっていたから調べてくれた。彼が今年の生贄に選ばれたのはきっとそのせいね」

 

そう言って、彼女は少し黙った。そして、

 

「あの水車小屋では一年の間に三年が流れるらしいの。初めて見た時は14歳だったあの子は、もうほとんど私と同じ年齢に見える。とっくに人の理からはずれてしまっている」

 

呟くように零し、窓から目をそらせた。

 

再び客人に視線を向ける仕草は、変わりなく静かで落ち着いていて、洗練されている。その姿は最初からそうであったように、彼女の田舎娘らしい服装を忘れさせるものだ。

 

「私が知ったこの村の魔法の秘密はこれで全てよ。新たな魔法を調べるために来た魔法族のあなたには、この魔法は役には立たないでしょう。けれども、見分を広げるには面白い事例だったのではないかしら」

 

女が机にある二冊の教科書に視線を向ける。その意味を理解し、またそれに気づいたことを示すために教科書を手に取った。けれどもそれらをまだ差し出すようなことはせず、女も浅はかには手を伸ばさない。

 

「君は水車小屋の魔法を求めたが、学ぶことを諦めた。それに私が持っている杖魔法の知識を求めて、今なお手に入れようとしている。君自身はあと数時間のうちに死ぬつもりであるのに…。君はこれを自分のために得ようとしているわけではないのだろう。ともにこの村に訪れたという弟のためかな?」

 

「ええ、そうよ」

 

躊躇うことなく答え、女は続けた。

 

「弟は10歳。もうすぐ魔法を学ぶべき年齢になる。それまでに魔法を学ぶ環境が欲しかった。結果として水車小屋に弟を弟子として入れるわけにはいかないけれど…それが分かったことは上々。それに、貴方から必要最低限の呪文の知識をこうやって得られた」

 

女の青い目が呪文学の教科書へと向けられる。その視線を、ゆっくりと目の前の人間へと移した。

 

「私と弟はあの水車小屋の主の、兄家族の世話になっているの。常識外れの作品を作り、さらに魔法の力を手に入れた弟のことを養父は良く思っていない。その対抗として魔法力を持つ私たちを大事にしてくれるわ。自分の娘と私の弟を将来結婚させたいと考えている」

 

表情を何一つ変えないままに彼女は語った。それは続けられる内容に対しても同様だった。

 

「もう一つ、貴方が興味を持つかもしれないことを伝えるわ。私は、グリンデルバルドの娘なの」

 

「グリンデルバルド?あの、グリンデルバルドだというのか?」

 

「そう聞いて育てられた。大人たちに囲まれて隠されるように育てられて、友人もいなかった。グリンデルバルドが敗れると、その世界から追い出されるようにここに逃げてこなければならなかった」

 

彼女はいつもの淡々とした物言いだ。表情もまた、いつもと同様だった。しかし異なっているのは、彼女が今日は特別に長く語らうように言葉をつづけたことだ。

 

「トム、貴方は私が初めて会った年齢の近い魔法使いだったわ。私が魔法使いであることも、出自も、そしてこれからなぜ私が死ぬか、真実をすべて知っているたった一人の人間。貴方がここにやってきて、あの水車小屋の秘密を聞いてくれたから私は前に進める。呪文書をくれたから、私はそれを自分の杖と共に弟に残していくことができる」

 

「杖を残していく?」

 

女の言ったことに、思わず問い返していた。

 

「自分の身を護る術を置いていく気か?」

 

「私が杖を持って死ねば、弟は魔法を使う術を失うことになる。それだけは避けなくてはならない。弟を思う一人の姉として」

 

女はただ静かに頷き、その目を細めて客人を見た。

 

「この一週間、ずっと見てきた貴方の表情と目つき。お父様と同じでとっても胡散臭い。皮一枚だけの優しい顔と、心のこもっていないうわべだけの心遣い。無為な感情や欲情に支配される周囲を愚かだと見下し、理性的なふるまいと綺麗な言葉で付け込んで利用する。利益だけを求める顔だわ」

 

その時、女の口元がわずかに綻んだ。それは微笑みと呼べるものかもわからない。しかし、細められた青い目も優しげに見えた気がした。

 

「それでも私は…私の人生を唯一共有した貴方を、今はかけがえのない存在のように思っている。選択に対して”不正解”をあえて選ぶ私が理解できないと言葉を続ける姿を見られるのも、嬉しく思ってしまう」

 

「君はまだ逃げ出せるはずだ。なぜそうしない。死ぬのが恐ろしくないのか?」

 

「恐ろしいわ。でも、恐れを避けるだけの人生なんて何になるというの?」

 

「君は魔法使いだ。もっとうまくやることもできるはずだ」

 

「そうね。これから私が水車小屋に向かうのは、愚かな行為でしょう。あの場に行かなければ、私は見逃されるかもしれないし、村を離れさえすれば殺そうとしてもずっと時間がかかるはず。逃げ切れるかはわからないけれど」

 

「ならば、なぜ、そんな馬鹿な選択をあえて選ぶ?」

 

「それは……、私が、それまで知らなかったことを知ってしまったから」

 

女は青い目を、その一途な目をまっすぐに向けた。「閉じ込められ、隠された世界で私が見てきたのは大人たちの狂気と欺瞞ばかりだった。あんなにまっすぐで、純粋な目をした人間がいるのだと、あの子を見て初めて知った。心を交わす会話がどんなに楽しく、温かいものであるかを知ったわ」その目にはもはや興味はなく、慈愛と歓びに満ちているように見えた。

 

「あの子が私に与えてくれたものを、私が外の世界に出てようやく得たものを…感謝を、この心の温かさを…貴方との奇跡のような出会いで得た高揚を…どれも手放すつもりはないわ」

 

はっきりとした物言いの口元もまた、どこか笑っているようである。

 

「この世は汚れていて、悲しみと苦しみに満ちている、誰もがそう言う。私が知っている大人たちはそれにつけ込み利用するか、つけ込まれて目を逸らすものばかりだった。けれど、人の心に光があるこの世界は、本当はきっと何よりも美しい。だから私は後悔と妥協で自らを汚し、この世を見る目を濁らせるぐらいなら、自分が美しいと信じた道を選んで目を閉じたい」

 

女の言ったことは理解のできないことだった。彼女もまた、理解されるとは思っていないかのようだった。

 

「そんなものに固執して何になる?命を捨ててまで無為な感情や感傷を優先するなぞ狂っている」

 

「そうね」

 

彼女は青い目でまっすぐに前を見る。目を細め、美しい笑顔で肯定した。

 

「でも…その方がずっと、“生きている”という気がしないかしら?」

 

 

 

 

元旦の朝。一部の人々によってダークウェットランドと呼ばれるその村は、日が昇るとにわかに騒がしくなった。

 

パブで働いていた一人の若い女が死んでいたのだ。髪に水藻を絡ませ、肌がすっかり青白くなった金髪の美女は勤め先の前に仰向けに横たえられていた。

 

顔に霜がおりた彼女を取り囲む村人たちは一人、また一人と増えていったが、誰一人として彼女に触れるまで近づこうとする者はいなかった。まるで彼女の周りに壁があるかのように人々は立ちすくみ、誰の足跡もない新雪の空間を汚すことができずにいた。

 

 

そのどよめきを、突如悲鳴のような叫び声が劈く。一人の金髪の少年が人々の間をかき分けて円の中に入り、その空間の中でまるで棺に横たえられているかのような彼女の姿を見つけた。たった一人の家族を失ったその少年は、変わり果てた姉に縋り付いて慟哭の声を響かせたのだった。

 

 

そして、村人たちがよそ者の青年が姿を消していることに気付いたのは、日が昇りきってしまった後のことである。

 

 

 

それはもう、今となっては何十年も前の話である。

ヴォルデモート卿が大頭する以前のことであり、グリンデルバルドが倒れた後の魔法界のつかの間の平穏な時代のことだ。

 

その時代の、とある年の、たった七日間の話であったのだ。

 

 

 

 

 

時は流れ、季節は幾度も廻った。

かつては各地を巡り闇の魔法を収め、多くの魔法を生み出した青年、トム・リドルはその記憶が人々の中から薄れ、一方でヴォルデモート卿と名乗り、人々から名を呼ぶことさえ恐れられた闇の魔法使いとして知れ渡っていた。

 

 

その闇の帝王は、今やただ一人、情けなくも、仰向けに横たわっていた。

 

 

周囲はただただ、白い。白に浮き出るようなドーム型のガラスの天井から光が降り注いでいた。それはかつて子供のころ、ホグワーツへ向かうある日にキングス・クロス駅の中で空を見上げた光景に似ている。

 

自分はなぜここにいる?

 

ハリー・ポッターと杖を交え、その手の中でニワトコの杖が震えて飛び出したことを覚えていた。その後、自分の放った魔法により意識が体からはぎとられたのだ。

 

ついに、『死』というものが頭をよぎった。

 

 

そんなはずがない。

 

このヴォルデモート卿が死ぬはずがない。それも、よりによって自らの魔法で。あのハリー・ポッターの小僧によってなど。

 

俺様はここに存在している。戻る術があるはずだ。誰もが到達できなかった境地に至り、一度は死を回避してその体を取り戻した偉業を成し遂げたのだぞ。

 

 

体をよじって起き上がろうとしたが、四肢は思うように動かない。何とかうつぶせになり、床に着いた手が見えた。

 

まるで赤子のような小さな手はガサガサとした灰色の皮膚に覆われ、赤い傷が無数に走る。取り戻したはずの体がまた、力のない、襤褸のようなものへと戻っていた。ポッター一家を殺そうとして、その赤子に呪いが跳ね返されたときの屈辱の姿だ。

 

湧きあがる憎しみと怒りから叫び声をあげようとするが、それは声にはならなかった。振動すべき喉が何かに響く感覚はなく、ただ強い感情は痛みとなり全身を駆け巡る。

 

 

ニワトコの杖。ただの一本の道具でありながら、使う人間の言うことを聞かぬ生意気な、名だけが有名な古くさいガラクタ。ホグワーツの教育さえ終えていないハリー・ポッターやその取り巻きども。闇の帝王を裏切っていたセブルス・スネイプ。それらの裏ですべてを見透かしたように手を引いていたダンブルドア。闇の帝王の元でその利益を享受しながらも大して役に立たぬ死喰い人ども。

 

何もかにもが腹立たしい。ヴォルデモート卿は奴らよりすべてが優れている。弱者どもが足を引っ張り、前に立ち、その偉業を邪魔するのは許されないはずだ。このような、訳の分らぬ場所に追いやられていいはずがない。

 

 

憤怒の感情はその行き場がなく、それに耐えきれなくなったかのように皮膚が裂け、新たな生傷を作る。傷から血は流れず、生命の証を持ちえないことを教えるようであった。

 

どれだけ、そうやって過ごしたであろうか。

幾度ののしりの言葉を吐こうとし、今や忌々しい姿となった体に傷が走ったであろうか。

 

怒りは決して尽きることはなかった。取り繕う利益もない場所では冷静さを装う価値もない。傷は痛みを生み、その痛みもまた怒りに変わった。自らの頭の中は声にならぬ叫びであまりにもうるさいのに、周囲は残酷なほどに静かだった。

 

枯れた木のような傷だらけの腕をやみくもに振り回す。何度かそれを繰り返したとき、左腕のひと際大きな傷がぱっくりと割れたかと思うと、その先が崩れ落ちて短くなった。その時になって、ようやく激しい怒りは引き潮のように鎮まった。

 

石ころのように転がり落ちた腕は落下の衝撃で欠けて粉々になっている。それが徐々に細かくなり、砂のようになり、風もないのに散り散りになって消えた。

 

目の前の光景が怒りとは異なる感情を生み、心を支配した。その感情は彼がこれまでの生涯で目を背け、怒りに置き換えてきたものであった。しかし、今は怒りこそが自らを滅ぼすことを目の当たりにして、その手段が奪われてしまっているのだ。

 

余りにも無力であった。それを自覚したくがないがために心の声を塞ぐ。欠けた左腕が目に入れば叫び出しそうになるために目も閉ざした。

 

閉ざした目にも光は入り込んでくる。無理やり作り出した心の静寂はただの意味をなさない騒音の嵐だった。その嵐を追い出すがために、果たしてその機能を失っていないかも疑わしい耳を澄ませていた。それにより嵐が少しずつ静まろうとしていた。

 

 

その時、初めてそれは耳に聞こえた。

 

途切れ途切れの、女の澄んだ声。

規則的な問いかけの言葉は歌っているようだった。

 

目を開くと眩しいほどの白い景色が目に刺さる。こわばる頭を、身体が朽ちることに恐れながらゆっくりとそちらへ向けると、白い霧のような靄の中、細い鉄のベンチと、そこに一人の人間が座っている影のようなものがぼんやりと見えた。

 

それは、この世界の中で唯一見つけることができた、何らかの”手段”であった。

 

 

”貴様は誰だ”

 

そう言ったはずの声は、声とならなかった。

 

”なぜ貴様はここにいる”

 

”手を貸せ”

 

”ここから逃れる方法はあるのか”

 

”手を貸せば、お前の望みをなんとでも聞いてやろう”

 

 

言葉は何一つ形とならず、空間には、ただ女の囁くような歌声だけが静かに流れる。その人影は、見ているうちに徐々に霧が晴れていくように、鮮明に浮かび上がった。

 

 

若い女だった。白い肌は透き通り、薄いピンクの唇は小さく歌を紡ぐ。その中で湖のような青い目はより存在感を放つ。

 

霧が引いた今、ほんのわずかに横を向くだけで、彼女はヴォルデモートの存在に気付くような場所にいる。しかし、彼女はうつむき、指を絡めた手を見ていた。

 

わずかでいい。こちらをちらりとさえ見れば彼女は気づく。そして、自分に手を貸すはずだ。

 

身をよじるが、なにか圧倒的な力に捕らえられたようにそれ以上動くことも、音を発することもできなかった。ただ一言も声がでない。自分の意に反して、その場は静寂に包まれている。

 

女がため息をついた時に、金を叩いて糸にしたような髪は肩から滑り落ち、白い景色の中で光を受けて銀色にきらめいた。

 

 

その瞬間に昔の記憶がよみがえり、己の立場にあらがおうとする動きを止めた。

 

一面の雪景色の中。まるで太陽の光を写すかのような美しい金の髪。宿屋の二階から彼女が去っていくのを何度も見たはずだ。最後に見せた彼女の後姿は、あの大晦日の夜の、闇の雪の中に消えていくものだった。

 

 

なぜそんな顔をする?

 

 

目の前の彼女の表情に憂いの色が見え、そんな問いが浮かんだ。

 

 

お前は自ら望んであの道を選んだ。弟は呪いの道を逃れ、あの水車小屋もあれから数年のうちになくなった。

 

 

彼女は泣いているようにも見える。とどくこともない、欠けた手を伸ばす。その自らの動作には、腕が視界に入っても闇の帝王は気づかなかった。そんなものなどもはや眼中にもなかったのだ。

 

美しい金色の髪。白いショール。白いシャツにブルーのスカート、黒縁のある新緑色のエプロン。すべてがあの時のままだった。最後に宿屋の二階に訪れて、語り、報酬を手に去って行った姿。縁に薄く氷の張った黒い夜の沼の中で、扇のように広がった髪に水藻を絡ませて浮いていた姿。

 

宿の前に横たえたあと、村に去るときに振り返り夜明けの光で遠くに見えた様は、まるで供えられた一輪の花のようだった。春も待たずに雪の上に残され、すぐに萎れることが運命づけられた花だ。

 

 

「マルガレーテ」

 

呟いた言葉は喉からすんなりと零れ落ちた。

 

 

彼女は頭を上げてゆっくりとこちらを振り返る。美しい髪がさらりと揺れる。彼女は、ついに気付いた。

 

椅子から立ち上がり、こちらを見ている。静かな表情で佇む姿は、自分たちを阻む何かが取り除かれるのを待っているかのようだった。生きている時の最後の記憶は、遠い後ろ姿だった。青空のような目が、まっすぐに向けられている。

 

あの一週間の間、情報を出し惜しみする女に自分は様々な手段でその心を意のままにしようと試みた。しかし、どんな取り繕いの言葉も効かぬ彼女は最後の日まですべてを語ることはなかった。

 

そんな女が、ただ一言を待っていた。かつての、ある一夜に、何を言おうとも変わらなかった女は、微笑み、死へと向かう道を歩んだ。そんな彼女がだ。

 

そして、それは彼女がグリンデルバルドの血族だったからだろうか。それとも、最後まで自分の思い通りにならないままに逝ったゆえにだろうか。もしかすれば、理解のできない考えを正論で覆す間もないままに永遠に逃げられたせいかもしれない

 

いずれにせよ、闇の帝王は若いときに出会い、勝手に死んでいった女のことを記憶にとどめていた。再び開かれた青い目を確かめようとしていた。無意識のうちに、声にならぬ声で名を呼んだ。

 

白い花が開くように笑みがこぼれる。

 

「ええ」

 

 

輝く手が差し出され、それに触れる。体は何の障害もなく立ち上がった。いつの間にか姿も昔のように戻り、彼女は自分を見上げていた。

 

彼女は腕を回し、身に着けていた白いショールを肩にかけてきた。

それはまるで陽の光のように暖かかった。

 

 

他には誰もいない、行き先もないその白い世界の中。

ただ、静かに、二つの影が並んで佇んでいた。

 

 


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