「はあ……、いつになったら担当になってくれる子が見つかるのやら」
最近何度も何度も考えていることがつい口から漏れる。今年になってやっと独り立ちすることが許されてどんなウマ娘を担当できるか、もしかしたらいきなりG1レースを勝っちゃったりして。なんて根拠のない夢物語を考えていた過去の自分に説教してやりたい。
「そうしょげるな。いつもだったらもう少しマシなんだが今年はちょっと異常だ。俺もやっと一人契約できたところだ」
そう言って慰めてくれるのは私がサブトレーナーとして師事していた先輩だ。毎年この時期には複数人の新人と契約している先輩でも今年は苦戦しているらしい。
「やっぱり、あれのせいですかね……?」
「彼女のせいと言うのはいささか無責任かもしれないが影響はあるだろうな」
そう言いながら先輩が指差す方を見ればそこには威風堂々と模擬レースを見る一人のウマ娘がいた。今この学園で知らぬ者のいない彼女の名は……
「シンボリルドルフ、無敗の三冠ウマ娘なんてものを見せられれば誰だってそれに続くためにトレーナーを見る目も高くなる。そうなってしまえばお前みたいな新人はどうしてもな?」
現役でレースを走る学生であるはずのシンボリルドルフが自分よりも年上に見えてどうしても心の端の方で腐ってしまう。どうしてよりにもよって今なのか。先輩の言う通り彼女に当てられたのか今年はトレーナー契約がうまくいかないとはトレーナー間の会話でよく聞く話だ。
「まあ、焦るなよ。お互いに妥協で出来たコンビはどうしたって一歩劣るもんだ。最悪今年一年俺のチームで面倒見てもいいし、焦ってお前の、何よりウマ娘の時間を棒にふるようなことはするなよ」
そう言いながら人混みの中に消えていく先輩に小さく頭を下げる。ガサツで男女の違い以上に私には合わないような先輩だけど、それでもウマ娘に関しては誰よりも真摯で情熱的だ。師事しているときも何一つ隠すことなく先輩の持つ知識と技術を伝授してくれた。
「だからこそ、早く一人前になった姿を見せたいんだけどな」
そうは言ってもそれはあくまで私個人の都合だ。先輩の言う通りそのせいで判断を誤ったらそれこそ先輩に合わす顔がない。最悪もう一年は面倒を見てくれるらしいし、ゆっくりと見ていきますか。
次のレースまで時間もあることだし、ふらふらしているとどう見ても調子がよくなさそうなウマ娘がいた。人混みに酔ったのか青い顔をしている。
「ねえ、大丈夫?」
「……ああ、大丈夫です。いつものことですので」
「いつものことならもっと大丈夫じゃないでしょ。肩貸して上げるから少し離れましょうか」
情けない決断をして、模擬レースを齧りついて見る気もなかったし、それより目の前のこの子を放っておくわけにいかないので半ば無理やり支えながらその場を離れる。人混みから離れた木陰に座らせて近くの自販機で買ってきた水を渡す。受け取ることを固辞してきたけど、無理やり押し付けて飲むまで目を離さずにいればとうとう根負けしてお礼を言いながら口を付けた。少し顔色がマシになってきた頃お礼と自己紹介をされる。
「改めてこの度はありがとうございました。私はメジロアルダンと申します。このお返しは後日必ずさせていただきます」
「初めまして、見ればわかると思うけどトレーナーよ。別にこの程度のことでお返しはいいわよ」
「いえ、それでは私の気が済みません。見ず知らずの私にここまでしていただいて何も返さないなんて……」
「うーん、見た目の割には頑固な子ね。あ、そうだ。なら私今担当いないんだけどスカウトされてみる?」
冗談のつもりで口にした言葉だった。今のトレセン学園は恐らく今までにないぐらいトレーナーを選ぶ目が厳しい。こんな事で決めれる訳もないだろうと思ったんだけど、目の前にいるメジロアルダンは思い詰めたような顔になってしまった。
「……申し訳ありません。私は足が弱く未だにレースに出る許可がおりていないのです。ですので貴女の望みを叶えることは……」
「ああもう、そんな真剣に考えないで。ごめんなさい、今のは軽い冗談のつもり。最近ちょっとスカウト振られ続けててね。嫌な思いさせてしまってごめんなさい」
トレーナー一人とウマ娘一人互いに謝り続ける不思議な光景が数分の間続いた。
それから改めての自己紹介と雑談をしていると模擬レース、今日の最終組の準備が出来た放送が有った。タイミングもいいしここでお別れといきましょうか。そう言おうと思ったらふらつきながらコースに向かおうとしているメジロアルダンがいた。
「落ち着きなさい。今の体調であの人混みに入っていくのはいくらなんでも見過ごせないわよ。今日はあくまで模擬レースなんだし大人しくしておきなさい」
「いえ……、私には見に行かなくては行けないのです。このレースを、あの人を……!」
重く強いを秘めたその目はさっき以上に固くどう有っても意見を曲げるようには見えない。私が肩を貸してもいいんだけど、それでもあの人混みの中で彼女を守りきれる自信はない。色々考えて助けを求めて電話をかける。
近くに居たみたいですぐに来てくれた先輩に事情を話すと壁になってくれると快諾してくれた。メジロアルダンと一緒にお礼を言ったら私の肩を叩きながら
「チームの部室の掃除よろしく」
なんて悪い笑顔で押し付けれれてしまった。仕方ない。担当が見つからない以上暇を持て余しているし肉体労働に勤しみましょう。
それから先輩を壁にしてなんとかメジロアルダンと一緒に最前列にたどり着くことが出来た。ついたかと思えば高身長の先輩は後ろのためにと小さくなっている。
「ねえ、そこまでして見たいレースだったの?」
「ええ、私の追うべき人が走ります」
それは誰かと聞こうと思ったけどそれより早くゲートが開く音がした。
流石に始まってしまってはレースに集中してもらいたいし私も集中したい。もしかしたら未来の担当がいるかもと、目を皿にしてレースを見る。展開としては逃げも出遅れもない集団でのレースだ。まあまだトレーナーのついていない子達のレースだしこうなるのが殆どだ。時たま天性のレース勘で驚かせる子もいるが今回は居ないようだ。それでも磨けば光る子はいるかもしれないとじっくり見ていたらいつの間にか私の視線は一人に釘付けになっていた。特別早いわけでもない。特別体が出来ているわけでもない。むしろ少し足が悪いのかフォームが崩れているように見える。
それでも私は彼女から、その走りから目を離すことが出来なかった。今まで見てきた数多のウマ娘と同じはずなのに何かが違う。そのその美しき黒い流線形に私は魅せられていた。
「おい、いい加減にしろ」
ごつん、と頭に拳骨を落とされ我に返ればすでにレースが終わるどころか、観客もほとんどが帰っていた。
「いつまで呆けてるんだ、メジロアルダンもとっくに行ったぞ」
どうやら先輩の言う通りレース中からずっと魂が抜けたように立ち尽くして居たようだ。ああ、そんなことはどうでもいい。それよりもあの子を、彼女のことをもっと知りたい。
「はっ、何を見つけたようだな。いいさ好きにすればいい」
そう言われて背中を押された。ああそうだ。やらなければ。もう私には止まっていることなんてできない。
「ああもう! データが少なすぎる!」
あのレースの後部屋に飛び帰った私はひたすらに資料を探した。気がつけば朝がくるほどに時間を使ったがこれといった情報が見つからずに頭を抱えるしかない。レースでは彼女の姿に見とれてしまってゼッケンだったりを確認できてなくてあのウマ娘の名前すらわからないような状態だ。それでも諦められるわけもなくパソコンに向かおうとするけど壁のホワイトボードにもう1時間もしないうちに会議に出ないといけないことを思い出す。そこで少し冷静になれば今の自分の姿が社会人として人前に出ていいものではないと理解が追いつき泣く泣く彼女を調べることを中断する。
「面白くもない会議出てる暇ないんだけどなぁ……」
ああ悲しきは社会人。ボロボロと愚痴を垂れ流しながら身支度を整えていく。
「いやー、我ながら頭回ってなさすぎね」
渋々会議に出席して頭も冷えたのか、よく考えればレースに出走していた以上、学園に確認を取れば名前がわかることに思い至り会議終了後ダッシュで名簿を受け取りに行った。残念ながら名前だけでこの中の誰が彼女かはわからないけど名前までわかれば後は簡単だ。学園の名簿でも見れば顔写真も一緒にあるはずだからすぐに分かる。そうなれば後は簡単簡単。
「て思ってたんだけどな……」
いざ出走して全員の顔写真を並べてみてもいまいちピンとこない。確かにレース中だったし、顔が見えるタイミングでは彼女だけを見ていたわけではなかった。だとしても
「なんかこう、しっくりこないんだよね」
恐らく彼女だろうというウマ娘は見つかった。だけども何故かそれが私の見た彼女と一致しない。
「記憶の中で美化しまくってんのかしらね。いい大人が何やってんだか」
答えは見つかったが自信がない。そんな何とも言えない気持ちのまま気分転換に学園の中を歩き回る。散歩も兼ねてもしかしたら彼女を見つけることができるかもしれない。期待せずにふらふらしていると彼女ではないけど知り合いとばったり。
「メジロアルダン、調子は大丈夫?」
「ああ、昨日はお世話になりました。レースの後大丈夫でしたか?」
逆に心配されてしまった。確かにいい大人がボケーっとしてたら心配にもなるか。しかしとあるウマ娘に見せられて意識飛んでましたとは中々恥ずかしくて言いづらい。どうしたもんかと考えているとどうやらメジロアルダンは誰かと話していたみたいで、ベンチに座っているウマ娘が居た。
「ねえアルダン、それ誰?」
親しげにメジロアルダンに声をかける彼女はこの学園ではほとんど居ない制服を着崩した姿で座っている。
「姉さま、この方は昨日の模擬レースで体調を崩した私を介抱してくださった方です」
それからメジロアルダンの橋渡しでお互いに自己紹介する。彼女の名前を聞いたときなにか引っかかる物があり、何だったかと思い返せばさっきまで穴が空くほど読み返していた昨日の出走者のリストが脳裏に浮かんだ。
「あ、昨日走ってた……」
そこから堰を切ったように昨日の光景が紐付けられる。私の理性が彼女こそ私が探していたウマ娘だと言っている。けれども感情の部分が断言できずにいる。確かに彼女は私が見惚れたウマ娘と同じ見た目をしている。だけどなぜか記憶と眼の前の彼女が一致しない。
「おい、人のことをジロジロ見ながら黙り込んでなんのつもりだ?」
「ああごめんなさい。昨日走っている貴女を見て興味を持ったんだけど、自分の記憶に自身が持てなくてね」
頭が回りきっていない私はつい考えていることをそのまま口にする。そうすると彼女のもともと切れ長のツリ目が一層険しくなっていく。顔以外にも態度で不満があると露骨にアピールしている。
「はっ! あのレースを見てだ? 私は掲示板にも乗らないような順位だったんだぞ。そんな私はスカウトしたいだなんてそんなにメジロの名前が欲しいのかよ。残念だったな私は足が悪くてなあんたが思うような……っておい、何だその顔は?」
彼女本人に言われて気づかされた。私は彼女を見つけてどうしたかったんだろう。スカウトするつもりだったのか、確かに私は担当を見つけられていないし、模擬レースで興味を持ったと言うのならスカウトの話だと言うのが当然の流れだろう。だけど言われるまで私の中にスカウトという文字は見当たらなかった。
「うーん、どうしたかったんだろう。確かに言われてみればスカウトの申し出の流れにしか見えないんだけど、そんなつもりじゃなかったし……」
いきなり意味の分からないことを言い出した私にメジロアルダンも彼女もバカを見る目でこちらを見ている。考えなしの徹夜で変な方向に思考が飛んじゃってたのかしら
「なんだよ、黙ったり意味の分からない事言いだしたり。ほんとにあなたトレーナー?」
「うーん、一応このバッチを付けれる程度にはトレーナーなんだけどな。ああそうだ。足が悪いのなら次のレースまでトレーニング見てあげましょうか? もちろんそれで担当になれなんて言わないし」
「……ほんとにどうかしてるわよ? それあなたになんの得もないじゃない」
「私まだ担当見つかってなくて時間はあるし、足が悪いって言うなら自主トレも大変でしょ? それか新人トレーナーの練習台だと思えば私にも得がある話だと思わない?」
「……あっそ。まあいいわ、精々本物のトレーナーが見つかるまでこき使ってあげる」
「なんというか、独特な方ですね……」
あ、メジロアルダンのこと放置しちゃってた。それからまずは走りを見せてもらって私のトレーナーとしての腕も確認してもらおうと着替えてもらってコースに出る。
それからアップして基礎的なメニューをこなしていく。彼女は本格化がまだなようで体が完成していない。それ以上に足が弱いようでどうしてもフォームが崩れる場面がある。それをできる限り無理しない程度に矯正しながら走りを見ていく。確かに今のところ平凡だけど光るものもあるように思える。だけど私が見惚れたあの姿とはどこか重ならないように思える。
そんな生活が続いた頃彼女が次の選抜レースに出ると言ってきた。
「うまく行ったらあなたとの関係も終わりになるわね」
「そうね、でももっといいトレーナーが付くのならいいことだしその時はお祝いさせてもらうわ」
どこか他人行儀な距離感は近づくこともなかった。具体的なレースも決まったということで今日は併走を行う予定だ。私には併走を頼める伝手はないし先輩に頼もうかと思ってたけど、彼女が自分で連れてくるというからコースで一人待ちぼうけだ。すでに予定の時刻は過ぎている。短い間だけど意味もなく遅刻するような子じゃないと思うんだけど何か有ったのかな
「ちゃんと待ってたわね。じゃあアップしてくるわ」
やっと彼女がやってきた。遅刻に関して少しは注意しようと思って振り返れば
「すまない、私のせいで遅れてしまった。彼女を責めないであげて欲しい」
「シ、シンボリルドルフ……?」
「ああ、今日は彼女の併走相手としてよろしくお願いする」
え? 三冠ウマ娘なんで? いくらなんでも選抜レースのための併走相手としては破格すぎる。挨拶もそこそこにアップの方の移っていったシンボリルドルフを視線で追いながら彼女に声をかける。
「ねえ、なんでシンボリルドルフなんて大物呼んできたの? いくらなんでも差がありすぎるわよ」
言い難いが彼女の現時点では、そして恐らくこのままの成長曲線ではピークであってもシンボリルドルフの相手になることはないだろう。恐らくそれは彼女もわかっているはずだ。なのになぜなのか。あまりにもわからなくて本人に聞くことしかできない。
「あれは無敗の三冠ウマ娘。私はトリプルティアラを目指して走るつもりなの。だったら相手に取って不足はないはずよ」
初めて聞いたその夢を語る彼女の目はいつも以上に静かに燃えていた。もしかすると初めて真剣な彼女を見たかもしれない。その熱に気圧された私はそれ以上何も言えずにただ準備を進めるしかできなかった。そして全部の準備が終わり。
「それではいきます。位置について、よーい……」
私の合図とともに二人のウマ娘が駆け出していく。どうやらシンボリルドルフには本格化前のウマ娘に手心を加えるぐらいの優しさは有ったようだ。ゴールしたときのバ身はピッタリ2バ身。だけど絶対に縮まることのない2バ身なのは明確だ。ゴールした後ケロッとしているシンボリルドルフと息も絶え絶えで膝に手をついてなんとか体を支えている彼女を見比べるまでもない。
だけど、私の脳裏には、網膜にはそんな光景は残っていない。
「……、ねえもう一本いける? それとシンボリルドルフは本気で走って欲しい」
私の言葉に二人共驚いた顔をする。常識的に考えれば当然だ。今ですら隔絶した力の差があるのにより残酷なレースをしろと言っているのだから。
「その提案は賛成し難いな。彼女はデビュー前で本格化もまだだ。その状態で本気の私と走るというのは……」
「今は、そんな時じゃないの。ねえ、貴女はどうする?」
心は折れているのかと、もう走れないのかと彼女に問う。彼女の目には小さく、けれども確かな輝きが見えた。
「どうするかですって? そんなの走るに決まってるでしょ」
滝のように汗を流し呼吸も整っていない。髪も乱れている。だけども彼女は美しかった。ああ彼女こそ私の求めていた彼女だったんだ!
「そう、なら問題ないわね。無駄に数をこなせばいいわけでもないし、全力で一本、これで終わりにしましょう」
「……納得はいかないが、二人がそう言うのであれば従おう。だが、本気の私は甘くはないぞ……!」
プライドを刺激されたのか、それとも違うなにかのせいか。シンボリルドルフは勝負服を幻視するような迫力でスタート位置へと向かう。だけで今はそんなのはどうでもいい。私は彼女から目が離せない。
「ねえ、貴女を私に見せつけて」
「……生意気ね。いいわ、しっかりと見ておきなさい」
そうして始まった併走はもはや併走と呼べるものではなかった。スタートしてからどんどんと距離が話されていき、はたから見れば併走だとわからないだろう。それでも彼女は必死に走る。その美しい顔を苦悶に歪ませ、汗と土埃でどんどんと汚れていきながら。それでも彼女は全力で走る。
「ああ、なんて美しいんだろう……」
もはや私はトレーナーではなかった。たった一人のウマ娘に、その走りに魅せられた愚かな人間でしかなかった。
それから大差の上が必要になりそうな差を付けてシンボリルドルフがゴールした。無茶なお願いを聞いてくれたお礼をして彼女とは解散になった。最後まで不審な顔をしていたがそれはどうでもいい。今の私にはしないといけないことがある。
「貴女もヘトヘトだし、今日はもう終わりにしましょうか」
「あなたが……、やらせたんでしょうが……。そんな休んでばっかりで選抜レースに間に合うのかしら?」
「大丈夫大丈夫。それと明日話したいことがあるから一旦私の部屋まで来てね」
「……ねえ、あなたすごい顔、いいえ、すごい目をしてるわよ。濁っているような淀んでいるような。ねえ? 何を考えているの?」
「やっと見つけた。やっとわかった。私のやりたいことが。大丈夫きっとうまくいく。じゃあ明日待ってるね」
これ以上ここで時間を使うわけにいかないと話を無理矢理に切り上げ自室へ戻る。
ああ、急がないと時間が足りなすぎる。
翌日、またいつぞやのように気がつけば朝日が差し込んでいた。そんなことはどうでもいい。少しでも書き進めないと。
貫徹のせいか頭痛が鳴り止まない頭を無理やり動かしてペンを進める。いくら書いても書き足りない、彼女を輝かせるためにはこんなものではいけないんだ。
「来てあげたわよ……、ちょっと、この匂いあなた昨日からずっと籠もってたの?」
「ああ、もう時間ね。ごめんなさい、止まれなくなっちゃって」
気がつけば約束の時間になっていたようで彼女が部屋に来ていた。昨日と同じ服で死んだように見えるらしい私を見て苦言を呈するけど今だけは勘弁して欲しい。
「で、わざわざ呼び出しておいて何のようなの?」
「これ、見て欲しい」
差し出したの紙の束。これから選抜レースに向けての彼女のトレーニングメニューだ。弱い足の改善とそれに伴うフォームの矯正。昨日の併走で見えた彼女の強みを引き出すためのものだ。手前味噌だけど中々のものに仕上がっていると思う。
「……あなたこれいつから用意してたの?」
「用意なんてしてない。昨日の貴女の走りを見て一夜漬けしたのよ」
「この量……」
確かに量はそれなりのものだと思う。だけどそれ量以上に中身も頑張ったつもりだ。ペラペラとめくっていく彼女の表情を見てもおかしなところはなさそうで一安心。
それから一通り目を通してその束を机の上に置いて彼女が問いかけてくる。
「……ねえ、どうしてここまでするの? 私とあなたはトレーナー契約を結んでいない、選抜レースが終われば終わりの関係のはず。それともここまでやったから契約しろって話?」
「あー、そういえばそうだったわね。気にしなくていいよ。昨日の貴女の走りを見て輝かせたくなった。例え選抜レースまでの期間で有っても無駄にさせたくない。職業病ってやつなのかな、ただ貴女の走る姿に魅せられて、少しでも磨きたかった」
後日聞いた話ではこの時の私の目と表情は相当にやばかったらしい。
それはともかく私として打算も何もなく、ただ彼女の走りのためにできることをしただけで見返りを要求するつもりはない。それが惚れた人間の性だ。
「……いいでしょう。ええ、いいでしょう。なら、このメニューもこなして見せて上げましょう。あなたが惚れ込んだのは本物だったと」
差し出された右手を強く握り返してここに歪な関係が完成した。
「あ、それと早くお風呂に入って着替えてきなさい。正直結構やばいわよ」
ほんとに完成したのか……?
時は流れて彼女が走る選抜レース当日だ。朝一から一番いい場所を取って待機している。何本かのレースが終わって次がいよいよ彼女のレースだという時に見知った顔が二人近づいてきた。
「これは、お久しぶりです」
「最前列でとは熱心だな……ってなんで手ぶらなんだ?」
メジロアルダンと先輩だった。前に聞いたがこの二人はいつの間にかトレーナー契約を結んだらしい。先輩なら経験もあるし体が強くないらしいメジロアルダンも安心だろう。
それと手ぶらだとなにかおかしい? そう聞けば
「いやだってスカウトするウマ娘を探すために来てるんだろ。なら出走リストとか資料とかあるだろ」
「あー、あはははは」
笑ってごまかすしかない。だってスカウトするなんて言葉あの日からまるっと頭から抜け落ちていた。今日も早くから最前列にいるのは彼女を見逃さない、そのためだけだ。
言い訳を考えているうちに時間になり、いよいよ彼女のレースが始まる。
ああ早く、速く、疾く!
「来た!」
スタートから先頭に立ち走る彼女はあの日見たそのままだった。美しい? 綺麗? そんな言葉では言い表せない。あれは見たものを取り込んでしまうようなもっと耽美ななにかだ。
「魔性……、ああそうだ、きっと彼女は魔性なんだ」
ゴール板をかけていく彼女を見つめるしかできない。
隣にいるメジロアルダンもどこか私と同じ匂いを持つ視線を彼女に送っている。そして小さく口にする。
「ああ……、あれこそがメジロの最高傑作、私の追いかけるべき背中。虚弱にて絢爛。粗暴あれど優雅なり。嫉妬すら追いつかない。憧れすら届かない。その名は……」
メジロアルダンの小さなつぶやきは大音量の実況によってかき消された
これが私と彼女との第一歩。そのウマ娘が史上初のトリプルティアラウマ娘になることを誰も知らない。魔性の青鹿毛、そのウマ娘の名前は……
『メジロラモーヌ! 堂々の一着でゴール!』