アイリス・マードック(アイルランドの作家、哲学者、詩人)
「勝者はお前だ、フェニックス!お前だ!お前の願いを聞く!だからもういい、やめろ!やめてくれ!これ以上は、娘が、パーサヴィアが……!!」
闘技場に響き渡る懇願の叫びは悲痛を極めた。闘技場の観覧席を埋める人々は、凄惨たるその光景を前にして呆然と言葉を失っていた。
倒れ伏し、全身を裂傷に刻まれて恐怖に震える少女を、閲覧席から飛び出した国王が必死の形相で背に庇っている。彼自身の腕からも夥しい血が迸っているが、それを顔面に浴びたフェニックスは、眼球に染みる血液すらいとわずに極限まで見開いた双眼でパーサヴィアだけを射抜いていた。落ち窪んだ眼窩から放たれる鬼気迫る視線は、到底、恋慕のそれではなかった。まるで眼力だけで首を絞めて殺そうとでもいうかのように、嫌いで、疎ましくて、殺したくて、憎くて憎くてたまらない相手に突き刺す超極大の殺意が籠もったものだった。とても想い人に向ける剣筋ではなく、とても10代の少年が人を見る眼ではなかった。
そこにいるのは大衆が喜ぶ物語の主人公などでは断じてなかった。愁傷の果てに精神が飽和し、今まさに狂気の淵へと滑り落ちる寸前の
「俺の───願い───だと?」
地獄に続く洞窟の向こうから響く残響のような声だった。その掠れた声も、質の悪い羊皮紙のように灰色の肌も、およそ健全な少年のそれではなかった。大衆の脳裏に、
彼の半身を濡らして大地を染めるおびただしい血液は、しかし大半が彼自身のものだった。左腕の肘から先が真っ赤に染まっている。岩のように太い上腕二頭筋には深々とした刀傷が刻まれ、白い骨の断面が覗いていた。皮一枚で繋がっているようなもので、左の手のひらは力なく開き、風を失った旗のようにだらりとぶら下がっている。筋肉も神経も骨ももはや使い物にならず、回復魔法でももはや修復できない欠損であることは誰の目にも明らかだった。それくらい深い傷だった。
「フェニックス……う、腕……ごめんなさい、わ、私、私、そんなつもりじゃ……そんな……」
血が通わなくなり、ゴム細工のように陳腐な作り物めいて千切れかけている腕を見て、パーサヴィアが声を震わせる。上の歯と下の歯がガチガチとかち合い、辿々しい言葉しか出ていかない。それはパーサヴィアによってなされた傷だった。もちろん、彼女の本意ではない。まさか、彼女の一撃を止めるために己の腕を文字通り犠牲にするとは思ってもいなかったのだ。彼女には想い人の腕を奪うつもりなど毛頭なかった。その一撃は、フェニックスが防御の剣を繰り出すことを予想してのそれであり、フェニックスへの信頼があってこその一撃だった。
だからこそ、彼が腕の一本を差し出す覚悟で繰り出してきた左腕の防御に度肝を抜かれ、想い人の腕にズブリと食い込む己の剣を見て呆然自失したのだ。力強く抱いてほしいと焦がれていた愛しい男の腕を、他ならぬ自分が二度と使い物にならなくした事実を間近で目撃して、パーサヴィアの戦意は瞬く間に消失した。まさか御前
だが、それでもフェニックスの追撃は止まなかった。パーサヴィアの手から力任せに剣を弾き飛ばすと、それで勝敗が決したことは明らかであるのに、残った片腕の力をこれでもかと振り絞ってパーサヴィアに肉薄した。これを先途とするかのような全身全霊の攻撃は、放心するパーサヴィアをしかと捉えた。さしもの才能の塊の少女もこうなっては何もできなかった。傷を負うも辛うじて致命傷を回避した彼女にフェニックスの追撃が迫りくる。その容赦のない刃先に灼熱の殺意がこめられていること───
それは、『努力が才能を上回った』などという爽やかな逆転劇とはまったく次元の異なる、人間性をも飽和させる恐るべき憤怒と執念によって達成された勝利だった。
「フェニックス……」
「あんなの、昔のフェニックスじゃないよ……」
初戦と次戦でフェニックスと戦ったパスファーとオデッセイが決勝戦の結果を目にして恐れ慄きながら呟いた。彼らもまた、フェニックスの尋常でない戦いぶりに気圧されて驚きのうちに敗北したのだ。
天賦の才能に彩られる剣技と魔法に対し、己の死すらも問わぬ悪鬼の気迫で圧倒し、血みどろになりながら勝利を収める。そこにかつての友情は微塵も介在することはなかった。生まれて初めて面と向かって突きつけられる本物の殺意───それもよりによって幼馴染みから──を前に、御前試合で優勝してパーサヴィアに求婚しようとしていた2代目勇者たちの熱意と抱負はことごとく打ち砕かれた。
そして恐怖の中で理解した。フェニックスの目的がパーサヴィアへの求婚などではないことを。昏いその眼が自他を滅ぼす憎しみに燃えていたことを。自分たちがフェニックスについて途方も無い思い違いをしていたことを。
「俺の───願いは───」
恐怖する者、驚愕する者、身震いする者。感情は異なれど、誰も彼も黙して何も言えないことだけは共通していた。コロシアムに息も許さぬ静寂が張り詰めるなか、出血の止まらぬフェニックスが紫色の唇を笑みの形に歪めて、言った。
「
『自由』。それがフェニックスの願いだった。ただそれだけが彼の正気を支えていた。狂いそうになる己を繋ぎ止めるただ一つの希望だった。ほとんど手に触れて感じられるほどに迫る狂気の崖から精神を遠ざけるたった一筋の光明だった。『自由』。なんと甘美な響き。生まれてこの方、一度も手にしたことのない、概念しか知らぬ“幸福”。誰も自分を見ない、誰も自分に期待しない、誰も自分を苦しめない。
これまで、逃げようとしたことは何度もあった。逃亡を企てた決心も準備した経験も数え切れない。だが、必ず見つけられて連れ戻されることは容易に想像できた。それほどに両親の影響力は大きかった。自殺を考えたことも幾度もあったが、皮肉にも彼の遺伝的形質がそれを許さなかった。彼の全身に流れる勇者の血は、誰にも束縛されない自由を手にするためには自らの力に頼る他ないと決心させた。それ故の御前試合での優勝だった。勇者の血筋は、彼に逃避や諦観ではなく戦うことを強いた。その意思の頑強さ、愚直さという一点でのみ、彼は確かに勇者の
それから、彼はさらに修練に励んだ。才能のないフェニックスにとっては不可能と言っても過言ではない到達点だ。だというのに、なんの嫌がらせのつもりなのか、同じ二代目勇者たちが全員参加するという。才能に恵まれた果報者たちが、か細い希望に手を伸ばそうとするフェニックスの前に意地悪く立ち塞がろうという。
「殺してやる」
四肢五感を麻痺させるほどの憤怒が彼の内側で燃え上がった。暗黒の憎悪に突き動かされ、フェニックスは悪鬼羅刹の如く自らを鍛えた。一見するとがむしゃらに剣を振るっているように見えたろう。無闇やたらに、ひたすらに、健気に努力を重ねて汗を流す青々しい少年と見えただろう。だが、その剣の先にはしかと
別に、フェニックスには周囲を欺くつもりなど毛頭なかった。ただ周囲が勝手に見誤っただけだった。周囲が彼に何も教えなかっただけだった。ただ一言、彼に寄り添う慰撫の手があれば。ただ一言、少女の想いを伝える素直な真実があれば。物語の行く末は決定的に違っていたはずだった。
彼が王国を去ることには、ならなかったはずだった。
「みんな、わざわざ見送りなんていいのに」
屈託のない笑顔は、信じられないが、フェニックスのものだった。まるで別人のような、憑き物が取れた柔らかな表情だった。事実、彼は振り払ったのだ。故郷、家族、友人という名の彼にとって
フェニックスは自由を得た。未来永劫、何者も自分に干渉することを許さないという自由を得た。王にそれを約束させた。誰からの助けも借りず、彼の力のみで、王国最強の
その日───御前試合を終えたまさにその当日───フェニックスは故郷を去ろうとしていた。「思い直せ」「悪かった」とすがりつき、必死に謝罪する両親になど目もくれず、彼は城門の外に広がる未知の世界に一点の曇りもない無垢な目を向けていた。夕焼けに染まりゆく世界を飽きることなく食い入るように見つめていた。彼は新たなる人生への旅立ちを心から楽しみにしていた。着の身着のまま、持ち物など何もないのに、彼は目の前に広がる己の可能性を存分に楽しみにしていた。「たとえ野垂れ死ぬことになろうと構わない。どんな結果になっても
「腕、本当にいいの……?」
「うん?ああ、これでいいんだよ、パーサ」
その左腕は分厚い包帯の鞘に収まり、奇妙に短い。包帯にはまだ血が滲んでいる。彼は左腕の上腕部を失ったままだった。せめて治癒魔法を受けるようにというパスファーとオデッセイの懇願をきっぱりと固辞し、逆に胸を張った。彼にとっては自由を勝ち得た代償であり、まさしく誇りの証明だった。「これがいいんだ」と微笑む様子を見てパーサヴィアの胸を刺すような痛みが走る。皮肉にも、それこそパーサヴィアが恋焦がれた彼本来の笑みだったからだ。
「それじゃあ、さようなら」
それだけだった。「みんな元気で」も、「今までありがとう」も無い。「また会おう」といった未練を想起させる常套句の一切は付け加えられなかった。そこには肉親の愛も友情も存在していなかった。ただただ、過去との繋がりを断ち切ることが心から嬉しいという微笑みは、『二度と俺に関わるな』という意思表示でもあった。
「すまない、フェニックス。すまない」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
彼の両親は絶句して膝をついた。一人息子が抱えていた苦悩と彼が選択した解決方法を悟り、それが現実として結実したことを突きつけられて絶望した。
「ねえ、フェニックス」
「なんだい、パーサ?」
まるで昔のフェニックスに戻ったような穏やかで親しげな声音に胸苦しさを覚えながら、彼女は問うた。
「どうして?」
明確な主語を欠いた問いかけは、パーサヴィアの心の底から迸った質問だった。
なぜ、故郷を捨てるのか?
なぜ、家族を捨てるのか?
なぜ、友人を捨てるのか?
なぜ───私を捨てるのか?
「君のせいだ」
それは、感情を押し殺した声だった。感情を押し殺すことに慣れてしまった者の声だった。ハッとして顔を上げたパーサヴィアの視界に、西の夕焼けを浴びた影で判然としないフェニックスの暗い顔面が映り込む。のっぺりとした黒い仮面の口があるだろう部分から、一語一語を食い入るような声が滲み出る。
「君は生まれ持った才能でどんどん前に進んでいく。俺は常に君と比較される。君を超えないと自由になれないのに、君は余裕綽々と前に進んでいく。血反吐に塗れる俺のことなんか気にもせず、君は俺を嘲笑うように強くなっていく」
「違うの───私は───」
「そんな君のことを、俺はずっと、」
「私は───貴方のことをずっと───」
「
そして、フェニックスは去った。一度も振り返らなかった。
「……ねえ、私、どうすればよかったのかな?」
震える問いかけに対する答えを持ち合わせている者はそこにいなかった。誰もいなかった。
誰もが簡単に口にする。「そんなつもりはなかった」と。その思い違いの積み重ねが、どんな悲劇に繋がるのかも知らずに。
数カ月後。世界の中央に座する最高神教会からキュリオス王国に使者が駆け込んで来た。城門に到着したところで彼の馬は死に、使者は不眠不休の強行軍による衰弱で肩で息をするほどだった。一日も休まず、一睡もせずに馬を走らせてきたに違いなかった。風雲急を告げる事態だと判断した衛兵たちは急いで教会からやってきた使者を国王の前に運んだ。使者は国王に拝謁する際の礼節も仕来たりも忘れ、息も絶え絶えに彼らの神から授かったお告げを口にした。
「新たな魔王が現れました!これを倒せるのは次代の勇者4人のみとのことです!特にそのうち一人の少年、フェニックスという名の勇者が鍵を握るとのこと!どうか若き勇者たちの派遣をお急ぎくださ───どうされたのです?」
青ざめた国王の号令一下、緊急の捜索が開始された。文字通りの草の根を分けた捜索だった。フェニックスの両親や、パスファーやオデッセイといった友人、そしてパーサヴィアの姿もそこにあった。運命なのか、彼を最初に見つけたのはパーサヴィアだった。この場合、“見つけた”とは“再会”を意味しない。
『モンスターから村を護った隻腕の若き戦士、ここに眠る』
王国からほんの少ししか離れていない村の外れの、名も無い戦士の墓。少し前にモンスターに滅ぼされて打ち捨てられてしまった無人の小村の片隅。墓石代わりに突き立った剣の刀身にはそのように刻まれていた。その場に崩れ落ちたパーサヴィアの瞳には、もう何も映っていなかった。
そうして、人類の世界は滅びた。あまりに呆気ない終わり方で、特筆すべきことすらなかった。
誰かが「お前はお前のままでいい」とフェニックスの肩に優しく手を置いていれば。
誰かが「フェニックスのことを考えて気遣ってやれ」と両親や周囲を叱咤していれば。
誰かが「パーサヴィアはお前を好いている」とフェニックスを肘で突きつつ助言してやれば。
もはや、何を言っても詮の無いことである。
NASAによる歴代火星探査機
『パーサヴィアランス』…成功
『キュリオシティ』 …成功
『パスファインダー』 …成功
『オデッセイ』 …成功
『フェニックス』 …失敗
『クライメイト』 …失敗