『幸せになってね』   作:まなぶおじさん

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前編

『ゴッドメタラーさん、そして金山トレーナーさん、ご婚約おめでとうございますッ!』

 

 爽やかな5月の朝。朝食ついでにテレビを点けてみたところ、インタビュアーの騒がしい声が眼前からかっ飛んできた。

 記者会見の場で、ゴッドメタラーというウマ娘と金山トレーナーが、カメラのフラッシュに焚かれまくりながら照れに照れている。

 

『ありがとうございます! やー、ありがとうございます!』

『どうもどうも』

 

 右上には「ドリームカップトロフィーで活躍中のゴッドメタラーさん、トレーナーと婚約!!!!!!」のテロップ。

 同じくトレーナーである草野勇(くさのいさみ)は、「先輩やるじゃん」と思考しながらでちゃぶ台の上にある朝飯をかっ食らっている。

 

『お二人はどのように出会い、どのように結ばれたのでしょうか?』

『えへへ。それはですね、トレーナーと音楽のシュミが合っていたからなんですよ!』

『そうそう! ゴッドメタラーったらヘッドホンでヘドバンしてて……すぐに気づきましたね。こいつとは、同じニオイがするって』

『ほお~! 音楽性がベストマッチしてたんですね!』

『そうそう! 時々、仲間と集まって演奏したり歌ったりしてるんですよ!』

 

 ゴッドメタラーが張り切って、どこか自慢げに語る。金山は照れくさそうに、けれども上機嫌そうにくつくつと笑いだす。

 

『まあ、そういうことが重なって、いつかこいつと幸せになりたい、暮らしたいって思うようになったんです』

『ええ、まあ』

『ベストカップルだと思います! これからもドリームカップで活躍しつつ、メタルを極めてください!』

『はいッ!』

『はいッ!』

 

 同じタイミングで、ゴッドメタラーと金山が返事をする。そして金山は、ゴッドメタラーの肩を不意に抱き寄せてみせた。

 カメラのフラッシュが焚かれまくる。

 ゴッドメタラーは驚きながらも、しょうがないなあとばかりに金山に寄り添い始める。

 後先なんて考えてなくて、金属色の未来しか見据えてなくて、互いを幸せにしようとする決意がテレビ越しから伝わってきて――

 

「――この経験を、アヤベのトレーニングに繋げられないかな?」

 

 心の中で先輩トレーナーを祝福しつつ、草野は今日もアドマイヤベガ(担当ウマ娘)のことを考えながら、トレセン学園へ出勤する準備を整え始めた。

 

――

 

 トレーナー寮を出て、すっかり見慣れた石畳に沿って歩んでみれば、おのずと噴水の音が聞こえてくる。それからもう少し歩いていくと、トレセン学園と通学中のウマ娘たちの姿が目に入るはずだ。

 そして草野は、半ば本能的にアヤベの姿を探してい、

 いた、一人か。

 草野は「アヤベー」と声をかけながら、特に遠慮することなくアヤベへ近寄っていく。

 普通なら不審がられる光景であるが、ここはトレセン学園。トレーナーが担当ウマ娘を気にかけるのはごく当然の傾向であり、周りのウマ娘たちも特に気にしたそぶりは見せていない。

 声をかけられたアヤベことアドマイヤベガも、とくに表情を変えないまま、

 

「おはよう」

「や、おはよう。どう? 体調とかは」

「大丈夫、普通よ」

「それはよかった」

 

 無表情でうなづかれる。そんなアヤベを見て、いつも通りだなあと安心感を覚えた。

 ――アヤベを追って、出会って、もう三年半ほどが経つ。最初は「妹」にすべてを捧げていたアヤベだが、善き学友たちとの出会いもあって、徐々に「遊び」が生じてきた。

 やがて自分と「妹」のために走るようになったアヤベは、もはや快進撃としかいいようがない戦歴を重ねていって、URA長距離コースすら優勝をもぎ取り、もっと走りたいからとドリームカップトロフィー道を歩み始めた。

 草野は今日も昔も、アヤベのトレーナーを続けている。

 

「それはよかった。……それで、今日のトレーニングなんだけど」

「うん」

「今回はスタミナトレーニングを中心に行おうと思う。ここ最近は、パワートレーニング中心だったから」

「わかった」

 

 アヤベが素直に返事をする。

 出会ったばかりの頃は、こうして会話をするにも若干の緊張感がまとわりついていた。アヤベに対する接し方がヘタだったせいだ。

 それでも、トレーニングそのものは真面目に行ってくれた。それこそ、若干の無理を押し通そうとするほど。

 

「かなり負担がかかるかもしれないが、いけそうか?」

「うん。体は休めておいたから」

「よし。じゃあ、頼むぞ」

 

 アヤベが、こくりと首を縦に振った。

 ここ最近のアヤベは、幸いにも怪我などには見舞われていない。アヤベが、己が身を大切にしてくれているおかげだ。

 最初は危うさを伴っていたアヤベだけれど、今は体調管理を優先にしてくれたり、賑やかな学友に苦笑をこぼすこともあったりと、とても楽しそうに生きてくれている。

 そんなふうになってくれて、ほんとうに良かった。心から、そう思う。

 

「――ねーねー、見た? ゴッドメタラーさんのアレ」

「あー見た見た、アレでしょアレ。いいよねーうらやましいよねーアレ、どう暮らせばアレができるんだろう」

 

 通りがかりの雑談が、なんとなしに耳に入ってくる。

 

「あたしも音楽を聴けばトレーナーさんと出会えるのかなぁ」

「リーフリーフ、あんたは趣味の日光浴を続けたほうがいいんじゃないかなあ」

「えー? それで出会えますかね」

「ありがちだと思うけどねえ、横になってたら声をかけられるってやつ」

「! 24時間横になる!」

 

 いいなあ、出会いがほちい、婚約いいなー恋愛したいなーうえーん。

 朝らしからぬ盛り上がりが、そこかしこから聞こえてくる。それに対して草野は、まあしょうがないよなあと思う。

 ウマ娘とは、ひたすら速さを追い求めるアスリートのような存在だ。トレセン学園に通うウマ娘は、特に。

 しかしてウマ娘は、普通の女の子でもある。甘いものを好んだり、野球観戦に熱中したり、時には恋に恋焦がれることもある。

 ウマ娘もヒトも、内心はだいたい同じだ。

 

「……なんだか、盛り上がってるわね」

「まあ、スターウマ娘が婚約だしな」

「そうね、それもそうね」

「結婚、だからなあ」

 

 結婚か。そういえば、今の今までそういうのを意識したことがなかった気がする。

 頭の中にあるのは、アヤベのことばかりだったから。

 

「ねえ」

 

 呼ばれる。顔を向けると、無表情のアヤベと目が合った。

 

「あなたは、結婚とかに興味はあるの?」

「いやあ、あんまりないかなぁ」

 

 頭を軽く掻きながら、即答する。

 

「いまは君と一緒に歩みたいからね」

「……そう」

 

 アヤベが、ふっと笑った。

 うまくやっていけているんだな、草野はそう実感する。

 ――そのとき、ポケットから携帯の振動が重く鳴り響いた。

 アヤベが「いいよ」と言い、草野は軽く頭を下げつつメッセージを見た。

 

 母:あとで電話をかけてもいいかな?

 

 なんだろう。草野は「昼にかけ直す」と入力して、すぐに携帯をしまう。

 

「終わった?」

「ああ、悪い」

「別にいいわ。あなたも大変ね」

「そうでもないさ」

 

 腕時計を見てみれば、あと数分ほどで授業が始まる頃合いだ。

 小走りで学園に向かう生徒の姿もちらほら見える。だから草野は、話を切り上げる事にした。

 

「じゃあ、この辺で。時間をとらせて悪いね」

「いいわ、別に」

「ありがとう。じゃあ、また後でな」

 

 アヤベの後ろ姿が、学生たちの中に混ざって消えていく。はたして今日は、どんな一日を送るのだろう。

 トレーニングも大事だが、学生らしい青春を送って欲しいものだ。

 なんて、オヤジ臭いことを考えつつ――草野は、仕事のためにトレーナー室へと向かっていく。母親のことを、久しぶりに思い出しながら。

 

 □

 

 今日は屋上でぼーっとしてみようかな。

 マルゼンスキーは漠然とそう思いながら、屋上に通ずる階段まで足を歩めていって、

 

 ――見て、マルゼンスキー先輩よ! わあ、足長い……

 ――わたしもあんなふうになりたいなあ

 ――ドリカプでもダントツで速いよね、どんなトレ積んでるんだろ

 ――モテそう

 

 ウマ娘とすれ違うたびに、ひそひそとコメントされる。

 まあ悪口じゃないだけありがたいが、どうせなら気軽に一声ほどかけてほしいものだ。これでも寂しがり屋なのだし。

 しかして、自分はURAファイナルズマイル部門優勝者で、ドリームカップウマ娘だ。おいそれと話しかけられないのはよく分かる。競い合う仲ならば、特にそうだ。

 心を許せる友人はいるが、もう少し青春に彩りが欲しい。そう思考しながら、マルゼンスキーは階段前までやってきて、

 

「あ」

「あ」

 

 二つの声が漏れた。

 階段の前で、見覚えのあるウマ娘――真顔のアドマイヤベガと対峙したから。

 頭を軽く下げつつ、マルゼンスキーは階段を登っていく。

 するとアドマイヤベガも、後ろからおそるおそるついてきた。

 接したことがないウマ娘が相手だからか、少々ながら緊張感を帯びる。どうして付いてきているのだろうと少し考えてみて――アドマイヤベガも、屋上で気分転換がしたいのかも。

 もしかしたらこれは、アドマイヤベガと交流できるチャンスかもしれない。

 おなじドリームカップウマ娘どうし、あれこれと話がしてみたい。あわよくば、流行りのスイーツや趣味について語り合ってみたい。もっともっと贅沢をいうなら、友達になってほしい。

 マルゼンスキーは王者で、寂しがり屋なのだ。

 ――そうなったらいいなあと思いながら、マルゼンスキーは屋上へ繋がるドアノブに手をかけ、

 

『か、彼女なんていないよ。何言ってんの』

 

 瞬間、マルゼンスキーの手がびくりと止まった。

 後ろからの足音も、途絶えた。

 

『それよりも今は、アヤベ……アドマイヤベガと共に道を歩きたい』

 

 マルゼンスキーは振り向いた、本能的に。

 アドマイヤベガは、口をあんぐりと開けたままで固まってしまっている。

 

『あ、アヤベとお付き合い!? 何言ってんだよ! 彼女は生徒だぞ、生徒』

 

 アドマイヤベガが、ドアに耳をぴったりと当てていた。

 あまりにも速すぎて、一瞬ながら気づけなかった。

 

『いやいや……たしかにアヤベは綺麗だし、まじめだし、やさしい子だよ。まちがいなく俺の自慢の担当ウマ娘さ。彼女がいてくれたから、俺もトレーナーを続けられてる』

 

 どうしよう。

 話す内容に関心はある。けれど、盗み聞きなんてよくはない。

 

『だからこそ、年が近い人と出会って、心の底から幸せになって欲しいんだ。……歳の差って、やっぱりこう、意識しちゃうんだよ。オッサンだからさ』

 

 マルゼンスキーは悩んだ。コースでどう位置を取るかよりも、数倍考えた。

 こうして頭を抱えている間にも、扉の向こう側から話が聞こえてくる。しかも恋バナ。

 これを耳にして、抗える女子高生はいるだろうか。けれども自分は、ドリームカップトロフィーを駆け抜ける責任あるウマ娘で――

 トレンディドラマが好きな、ふつうの女の子なのだ。

 マルゼンスキーは小さく咳をついたあと、ドアに耳を当てることにした。

 

 □

 

 アヤベとマルゼンスキーが扉の前に立つ、数分前。

 

 かんたんな昼食をとったあと、草野はプライベートな電話をかける為に人気の無い場所――屋上へと移動し始める。誰かが居たら、裏庭にでも移動すればいい。

 賑やかな校内を背に、草野は屋上に通ずる階段を登っていく。まるで嘘みたいに足音だけが響いた。

 すこし重みが感じられる鉄の扉をそうっと開け、眼前に青空が広がり始める。

 屋上なんて、はじめて来たなあ。

 空気を思いきり吸ってみて、背筋を意味なく伸ばして、すこしだけ青空を眺めて、後ろ手で扉をそうっと閉めてから母へ電話をかけはじめる。

 3コールほど流れて、

 

『はい』

「ああ、母さん? 勇だけど、何か用事でもあった?」

『うん。えーっと、今年のゴールデンウィークはどう? 帰れそう?』

「あー……いや、むつかしいかなあ」

 

 塔屋に背を預ける。

 

『あら……ううん、忙しいのはわかってるわ』

「ごめん、本当に。来年はなんとか休みを作るから」

『いいのよ。あなたは立派なトレーナーになってくれた、家族の誇りよ。お父さんも喜んでる』

「そっか……」

 

 なんだか、あっという間だった気がする。

 ――小さい頃の自分は、これといった趣味などもたない寝てばかりの子供だった。それを見かねたのか、父からレース場に行ってみないかと誘われたのだ。

 だのに自分ときたら面倒くさそうな顔をして、仕方がないなあと父の車に乗り、人で賑わうレース場にすこし怯んでしまいながらも客席に腰を下ろし、ウマ娘たちがスタート地点に並び始め、どうなるんだろうねえと緩慢に思考し、

 ウマ娘のスピードを前に、自分のすべてが目を覚ました。

 

 あのときの一目惚れは、今でもはっきり覚えている。

 尻尾をたなびかせ、顔も心も闘争心に溢れたウマ娘はとてもカッコ良かった。好き勝手に飛び交う観客の声が、すごく楽しかった。歌とダンスのウイニングライブは、美しかった。

 ――自分も、ウマ娘と走りたい。草野の子供心が、そう訴えてくる。

 そして帰り際に、父に向かって「どうすればウマ娘と走れるかなあ」と聞いてみて、ハンドルを握った父はすこし唸りながら「トレーナーになるのはどうだろう。ウマ娘を上手く走れるようにする大事な職業だよ」

 

 アヤベと父と母がいてくれたから、今の自分がいる。

 だから、帰省できそうにないのが心苦しい。

 

『私たちのことは気にしないで』

 

 母の言葉に、意識を傾ける。

 

『あなたは、ほら、ドリームカップトロフィーだっけ? すごいレースに関わってるんでしょ? それだけでもう十分。お母さん、応援してるから』

「うん」

 

 うなずく。

 そう言ってくれる親のことが、ほんとうに愛おしい。

 

「俺は元気で、順調だからさ。その、何も心配しなくていいから」

『ええ、ええ、わかってるわ』

 

 朗らかな声で返事をされる。母の元気を確認できて、心の底からほっとする。

 

『これからも頑張ってね、応援してるから。もし困ったことがあったら、遠慮なく電話をかけてちょうだいね』

「うん、わかってる」

 

 そうっと、顔を見上げる。

 青い空だけが、草野の目に映ってい、

 

『あ、そうだ』

「え?」

 

 そして母は、なんでもないような声で、

 

『あなた、彼女はできた?』

「――は、はあ?」

 

 思わず、両手で携帯を構える。

 

『ほら、朝のニュース……あったでしょ? ドリームカップトロフィーで活躍してるウマ娘と、トレーナーさんが婚約したっていうの』

「あ、ああ、見たけど」

『勇は、そういうのに興味はないの? 付き合ってる彼女さんとかは、いないの?』

「か、彼女なんていないよ。それよりも今は、アヤベ……アドマイヤベガと共に道を歩きたい。今はそれでいい」

『そう? じゃあ、』

 

 そして母は、夕飯を伝えるようなノリで、

 

『アドマイヤベガさんとお付き合いするつもりは、ないの?』

 

 頭の中が凍り付いたと思う。

 

「あ、アヤベとお付き合い!? 何言ってんだよ! 彼女は生徒だぞ、生徒!」

『あら、あなた朝のニュース見てないの? 担当ウマ娘とトレーナーさん、堂々と婚約宣言してたじゃない。みんな歓迎してたし』

 

 ぐうの音も出ない。

 担当ウマ娘とトレーナーが交際し始めるケースについては、別に珍しいものでもない。同じ目標に向かって二人三脚で歩み続け、時に寄り添いあいもすれば、いつしか恋心が芽生えることもあるだろう。

 世間も、そういったシチュエーションに対してはやんややんやと歓迎する。トレーナー相手なら仕方がない、幸せになってくれ、そんなノリで。

 学園側は、「学園内ではあまり羽目を外しすぎないように」で済ませている。どうもこの流れは、もはや誰にも止められないものであるらしかった。

 ――だから、母の言うことはしごく正しい。

 

『どう? アドマイヤベガさん。綺麗な子だし、真面目な雰囲気もするし、あんたと相性がいいんじゃない?』

「いやいや」

 

 けれども草野は、あくまでクソ真面目なトレーナーにすぎなかったのだ。

 

「たしかにアヤベは綺麗だし、まじめだし、やさしい子だよ。まちがいなく俺の自慢の担当ウマ娘さ。彼女がいてくれたから、俺もトレーナーを続けられてる」

『あら、いいじゃない』

「だからこそ、年が近い人と出会って、心の底から幸せになって欲しいんだ。……歳の差って、やっぱりこう、意識しちゃうんだよ。オッサンだからさ」

 

 アドマイヤベガは担当ウマ娘で、自分に自信をつけさせてくれた唯一無二の存在だ。

 それ以上でもそれ以下でもない。

 恋心を抱いているだなんて、あるはずがなかった。

 

『……そう。じゃあお母さんは、それ以上は何も言わないわ』

「ああ」

『でもね、あんたとアドマイヤベガさんがお付き合いすることになったら、私は歓迎するわ。もちろんお父さんもね』

 

 あんたの味方になるからね。母は、そう言ってくれているのだろう。

 親の気遣いを前に、苦笑いがこぼれ落ちる。

 

「わかった。まあ、その時になったらよろしくな」

『ええ。それじゃあ、お仕事がんばってね』

「わかった。じゃあ、元気でね」

 

 電話を切る。

 なんとなく、意味もなく青空を眺めはじめる。それから母の言葉を頭の中で反芻して、両肩で息をついた。

 ――いつか、実家に帰らないとなあ

 さて、

 そろそろ屋上から出ようと、草野はドアノブを握りしめ――扉ごしから、何か走り去るような音が軽やかに響く。びくりと、ドアノブを握った手が止まった。

 なんだろう、今のは。誰かそこに居たのだろうか。急にドアノブが動いて、驚いて思わず逃げ出してしまったのかも。

 しまったなあ、悪いことをした。

 頭を軽く掻きながら、草野は屋上を後にする。

 

 今日も、学園は平和だった。

 

 □

 

 ドアノブが捻り込まれた瞬間、マルゼンスキーとアドマイヤベガは全速力かつコケないように階段を下った。二階から意味もなく一階へ、学園のメインホールまで逃げ切っては何事も無かったかのように――

 

「はーっ、はーっ……」

「ぜーっ、ひゅーっ……」

 

 疲れ切っていた、もちろん生徒達からは注目を浴びまくっていた。それほど走った覚えはないのだが、これまでにない焦りと、ヒミツを聞いてしまった背徳感のせいで、精神がクタクタになってしまっていたのだ。

 恋にまつわる話を聞いたからか、マルゼンスキーの胸の内が音を立てている。ちらりと横を見てみれば、無表情のアドマイヤベガと目が合った。

 ――話を、聞いちゃったからね

 マルゼンスキーは姿勢を正し、小さく咳を漏らす。

 

「アドマイヤベガさん」

「あ、はい……」

「……え、えと、盗み聞きして、ごめんなさい」

「い、いえ、しかたがないことです。タイミングが悪かったから……」

 

 気まずい。何か言わないと心がもたない。

 

「……その、いいトレーナーさんね」

「……そうですね」

「とても献身的で、情熱的で……バッチグーな関係みたいね」

「そうですね、ほんとうにそう……」

 

 アドマイヤベガが、はじめて微笑んだ。

 いい子だなあ、と思う。真面目なんだなあ、と思う。

 なるほど。アドマイヤベガがドリームカップトロフィーにまで登り詰められたのは、やはり相性グンパツのトレーナーがいてこそか。

 ――それにしても、

 

「ねえ、アドマイヤベガさん」

「はい」

「……顔、赤いわ。だいじょうぶ?」

「あ、いえ、その、平気です……」

「そう。まあ、恋バナを聞いちゃったもんね、しょうがないわよね」

 

 アドマイヤベガが、小さくうなずく。

 まだ、顔は赤い。

 このまま放っておけるはずが、なかった。

 

「ねえ」

「はい」

「あなたは、トレーナーさんのこと、どう思ってるの?」

「えっ……」

 

 アドマイヤベガは顔をうつむかせ、顎に手を当て始める。それから、ぽつりぽつりと独り言が聞こえてきた。

 様子を見るに、この瞬間から恋というものを意識し始めたのだろう。トレーナーのことが「好き」なのか、そうじゃないのか、アドマイヤベガは全速力で思考している。

 ――長い時が経ったように思う。アドマイヤベガは、うつむいたままで結論を出した。

 

「……今までは、よくわかりませんでした」

「そう」

「でも、その……」

 

 アドマイヤベガが、胸にそうっと手を当てて、

 

「トレーナーさんのことを考えると、なんだかどきどきします。……あそこまで、私の事を考えてくれていたから」

 

 マルゼンスキーの口元が、思わず緩んだ。

 

「ねえ」

「はい」

「これからも、あのトレーナーさんと一緒に走りたい?」

 

 昼休みのホールは生徒で活気づいていて、雑談がひっきりなしに聞こえてくる。朝にニュースについて熱っぽく語り合うグループが、マルゼンスキーのすぐ近くを通り抜けていく。

 そんな中で、アドマイヤベガは、ひっそりとうなずいた。

 それを見届けたマルゼンスキーは、すこしばかり気を強張らせる。「よけいなお節介」を、口にするために。

 深呼吸。

 よし。

 

「ひとつ、聞いてもいい?」

「なんですか?」

「……恋、した?」

「…………わかりません」

 

 否定は、しなかった。

 

「アドマイヤベガさん」

「はい」

「トレーナーさんに対して、あなたは本当はどう思っているのか、知りたい?」

 

 ――うなずかれた。

 意思表示を確認したマルゼンスキーは、「わかった」と言い、

 

「あなたとトレーナーさんの関係を盗み聞きしてしまった責任として、私がフォローに回るわ。後ろ盾があれば、あなたも少しは動きやすくなるはず」

「え……いえっ、そんな、いいんですよ」

「いいえ、対人関係というのはおもしろ半分に暴いてはいけないことなの。責任は必ず取るわ」

 

 マルゼンスキーは真剣な面持ちで言った。

 先ほどは、言い訳の利かない好奇心でトレーナーの話を耳にしてしまったのだ。そのせいで、罪悪感が胸いっぱいに溢れてきている。

 こればかりは、自分でけじめをつけなければならない。アドマイヤベガがどれだけ許してくれようとも。

 ――胸に手を置いたままのアドマイヤベガが、すこし沈黙を貫く。どこか遠くから、ゴッドメタラーの婚約を羨む声が聞こえてきた。

 

「……わかりました。じゃあ、すこしの間だけ、よろしくお願いします」

「そう言ってくれて助かるわ。困ったことがあったら、いつでも連絡してね」

「はい」

 

 マルゼンスキーとアドマイヤベガが、力強く握手を交わす。

 珍しい構図だったからか、通りがかりの生徒から少し注目されてしまった。

 

「じゃあ、一つ提案があるのだけれど」

「はい」

「あなた、料理は作れる?」

「サンドイッチぐらいなら、少々」

「パーペキ!」

 

 マルゼンスキーが指をぱちんと鳴らす。それに驚いたのか、アドマイヤベガの体と尻尾がびくりと震えた。

 マルゼンスキーはあたふたと両手をばたつかせつつ、

 

「ああ、ごめんなさいね。……えと、明日の昼休みにね、トレーナーさんへサンドイッチを持っていってみるのはどう?」

「え……!?」

「そうすれば自然と二人きりの空間が生まれるし、トレーナーさんへの愛情も表現できる。どうかしら?」

 

 アドマイヤベガが、目と口を丸くしたままで微動だにしない。

 自信満々に言ったつもりのマルゼンスキーだったが、アドマイヤベガの様子を見て「あ、まずった?」と不安げにな、

 

「……すごい」

「え?」

「いい案だと思います! さすがですマルゼンスキーさん!」

「そ、そお?」

 

 アドマイヤベガの瞳が、まるで星のように輝きだす。

 ――なんて綺麗な目をしているんだろう。

 マルゼンスキーは、不意にそう思ってしまった。

 

「それじゃあ、さっそく実行してみます。ありがとうございました」

「どういたしまして」

 

 お礼を言われて、マルゼンスキーは快く一礼する。きっかけはともあれ、誰かと手を取り合う事は何よりも喜ばしい。

 

「あの、マルゼンスキーさん」

「なにかしら?」

「その……そういう知識って、どこから仕入れてくるんですか?」

「ああ、それはね」

 

 マルゼンスキーは、自信たっぷりに口を曲げ、

 

「トレンディドラマを見ればいいわ!」

「なるほど……!」

 

 トレセン学園に来て数年が経つが、今になって新しいウマ娘と出会えるとは思いもしなかった。

 たとえ恋の問題が解決したとしても、巡り合えたこの縁を放すつもりなんてない。だから私は、アドマイヤベガの手をとった。

 

 トレーニングを告げるチャイムが響く。マルゼンスキーは、名残惜しそうにアドマイヤベガと別れていった。

 

―――

 

 翌日。

 晴れ空がまぶしい昼休みが訪れるなか、トレーナー室にこもりっきりだった草野は椅子の上でうんと背筋を伸ばす。

 目の前にあるノートパソコンには、もちろんアヤベのデータが画面いっぱいに表示されている。走りの傾向、レースやインタビューのスケジュール、改善点のまとめ等等、とにかく処理しなければいけないことが多い。

 ましてや対象は、感受性豊かな年ごろの女の子なのだ。草野トレーナーのあずかり知らぬところでモチベーションが上がったり、その逆もあったりする。そうした変化も視野に入れながら、トレーナーはスケジュールを組み立てなければならない。

 トレーナーとは、四六時中ウマ娘のことを意識しなければやっていけない人種といえる。休日なんてほぼ無いに等しいが、それよりも担当ウマ娘の成長や勝利に貢献することが何よりの喜びであり、誇りと思っているから何の苦にもなっていない。これはほぼ全てのトレーナーに浸透している思想といっても過言ではないだろう。

 ――しかし、トレーナーとて腹は減る。

 何か食いに行かないとなあ。トレーナーはノートパソコンを閉じて、コンビニにでも寄ろうかと椅子から立ち上がろうと、

 

「すみません。トレーナーさん、いますか?」

 

 ノック音が軽やかに響く。声の主は間違いなくアヤベのものだ。

 

「どうぞ」

「失礼します」

 

 ドアがそっと開けられる。

 

「トレーナーさんは、これから何か食べたりする?」

「ああ、何か買いに行こうかなって思ってる」

「そう、じゃあ」

 

 アヤベが一歩ずつ、けれどもいつもより遅い調子で近づいてくる。

 その些細な違和感を前に、草野は頭の中で思考を回す。怪我を負っているのか、何か言いづらいことを口にするつもりなのかも。何か自分から声をかけた方が良いのか。

 慣れないシチュエーションだったから、草野の判断に鈍りが生じる。アヤベはそうっと、ゆっくりと草野に歩み寄ってきて、そして――

 

「よかったら、これ、食べない?」

 

 弁当箱サイズの、青くて四角い風呂敷が眼前に差し出される。アヤベの視線は、横に逸れていた。

 瞬時に判断する。アヤベが自分のために弁当を作ってくれた。すこし照れくさいから、思わず視線を泳がせてしまったのだろう。

 

「いいのかい?」

「う、うん」

「おお、ありがとう! すごくありがたいよ!」

「こ、声が大きいっ……」

「ご、ゴメン……」

 

 すまんアヤベ。だってアヤベ(担当ウマ娘)が手作り弁当を作ってくれたんだぜ。

 風呂敷を受け取り、壊さないようにそうっと机の上に置く。おそるおそる風呂敷の結び目を解いてみれば、二段重ねされた青い弁当箱が視界に入り込んだ。

 先ずは上側の弁当箱を手にとり、蓋を開けてみれば、たまごふりかけがかけられた白米が目いっぱいに飛び込んでくる。仕切り越しには、ミートボールとミニトマトとグラタンがバランスよく配置されていた。

 あんまりに嬉しくて大声を出しそうになる。

 堪えながらも、下段の弁当箱を開けてみれば――出た、アヤベの得意料理であるサンドイッチだ。腹の虫が大きく鳴いた。

 体力勝負上等のトレーナーにとって、このボリュームはほんとうにありがたい。アヤベのトレーナーになれて、ほんとうによかったと思う。

 

「ありがとう、アヤベ。じっくり味わうよ」

「うん。ゆっくり、食べて」

 

 そう言って、アヤベはトレーナー室の中央に設けられたテーブルのそばに座り込み、アヤベの分らしい弁当箱をそっと置いた。

 

「あれ、今日はここで食べるのか?」

「ええ」

「そうか……なんだか久々だな、一緒に昼食なんて」

「そういえば、そうね」

 

 あまり人が通らないからか、トレーナー室は嘘みたいに静かだった。

 日が射す窓からは、生徒たちの黄色い声がわずかに聞こえてくる。

 草野とアヤベが、ほぼ同時に「いただきます」と告げる。草野は箸を握り、先ずはふりかけつきの白米を口に運び――ほどよく冷たくなった米の味が、口の中を包み込む。食欲がいよいよ増してきた。

 箸が進む。アヤベが用意してくれた味を一刻も早く堪能したくて、けれども焦らないよう平常心を保ちながらで、おかずを何度も噛みしめた。

 

「うまい」

「そう」

 

 アヤベが、ふっと微笑んだ。

 確信する。ほんとうに、真心をこめて作ってくれたのだろう。

 

「ありがとう、本当においしいよ」

「そう言ってくれると、助かるわ」

「いやあ、こりゃあ何かお礼をしないとな」

「いいの。あなたはいつも、私を導いてくれているじゃない」

「アヤベのトレーナーとして、当然のことをしているだけだ」

 

 草野の返答に、アヤベの箸がぴたりと止まる。

 

「……ほんとう、私のことばかり気にしてくれるのね」

 

 ふたたび、アヤベが弁当を口にし始めた。

 つづいて草野も、食べることに集中する――時間をかけて味わっていたはずなのに、気づけば白米もおかずも完食しきってしまっていた。

 箱を取り換えて、ビニールに包まれたサンドイッチを手にとる。ビニールを丁寧に解いていき、サンドイッチの端にかじりついては、ハムとパンの感触に食感がしゃきりと満たされる。それなりに食べたつもりなのに、お腹がアヤベのサンドイッチを求めに求めていた。

 

「ねえ」

「おお、なに?」

「その……トレーナーの仕事って、大変なの?」

「あー、まあ大変といえば大変かな。でも好きだよ、この仕事」

「……そう」

 

 アヤベが、すこし沈黙する。

 

「休みの日は、何をしてるの?」

「え? うーん……仕事、かなあ」

「……休まないと、だめじゃない」

「ああでも、最近は気分転換に星空を見てたりしてるよ。癒されるんだ、これが」

「……そうなんだ」

 

 ふわりと、朗らかな声。

 

「あの、トレーナーさん」

「何?」

「その、私を導くのって……えと、楽しい?」

「ああ」

 

 即答した。

 アヤベの視線が、草野に逸れる。

 

「アヤベは俺のすべてを熱くしてくれた。だから俺は、これからもアヤベを輝かせたい」

 

 手作り弁当が与えてくれた幸福感と、二人きりの空気が、草野の背中を押していく。

 そして草野は、本心からこう言った。

 

「アヤベは、俺の愛バだよ」

 

 窓ごしから、生徒たちの歓声がひそかに響き渡る。

 そしてアヤベは、箸の動きを止め、目を大きく見開いて、ただただ草野のことだけを見つめていた。

 草野の言葉に驚いてしまったのかもしれない。けれども、訂正するつもりはなかった。嘘なんて一つもついていないから。

 ――そして、アヤベの視線が弁当箱に落ちた。

 

「トレーナーさん」

「ああ」

「……その、何か、わたしに直して欲しいところとか、ある?」

「ないよ」

 

 即答。

 

「いまのアヤベは、ちゃんと俺に相談してくれる。それで十分だよ」

 

 嘘なんて、一つもついていない。

 ここ最近のアヤベは、何か困ったことがあったらすぐに報告してくれるようになった。それは体調面であったり、メンタルに関する事柄だったりと、実に様々。

 アヤベのトレーナーとして認められたようで、実に喜ばしい流れといえる。

 

「もし何かあったら、すぐに伝えてくれ。すぐに何とかする」

「……うん、わかった」

 

 それから、何事もなく時間が過ぎていって、

 

「ごちそうさまでした」

「おそまつさまでした」

 

 両手を合わせ、弁当箱を風呂敷に畳み込んでいく。愛情たっぷりの味を堪能したお陰か、疲れなんざお星様になってしまった。

 今日のことは忘れまい。

 明日からはもうちょっと良いものでも食べようかな、おにぎりくらいは作った方が健康にも良いかも。

 

「あの」

「うん?」

「……私のお弁当、どうだった?」

「とても美味しかった」

 

 即答。

 

「……そう」

 

 アヤベが、音もなく微笑する。

 それを見て、なんだかどきりとしてしまった。

 

「じゃあ、明日も作ってくるから」

「あ、ああ、」

 

 え?

 

「い、いやっ、ちょっと待った。明日?」

「ええ」

「いやいや、いいから。時間もかかるだろうし、俺がなんとかするから」

「いいの。私がやりたいだけだから」

「しかし」

「い、い、の」

 

 無表情の圧を受けて、トレーナーはあっさりとうなだれる。降参したのだった。

 ――アヤベが弁当を回収して、トレーナー室から出ようとする。草野は、アヤベの背中に向かって言葉を投げかけた。

 

「じゃあ、またトレーニングで会おう」

 

 アヤベが、横顔を草野に向けて、

 

「ええ」

 

 アヤベが部屋から消え、扉の閉まる音が軽やかに響き渡る。

 椅子の背持たれに身を預け、これまでに起こったことをぼんやりと回想しはじめた。

 ――なんだか、色々あったなあ

 そうした四方山(よもやま)と出会えてしまうのも、トレーナーならではの宿命なのかもしれない。

 

 窓を見てみれば、鷹らしき鳥が青空の中をぐるぐると泳いでいた。珍しいなあと、草野はぼんやりと思う。

 

――

 

 ここ最近のアヤベは、とにかく良く走れている。

 平日の午後になると、大抵はドリームカップトロフィーウマ娘同士の並走が行われる。誰もがトゥインクルシリーズを駆け抜けた上澄み中の上澄みであり、スピードはもちろん誰よりも独走を可能にするスタミナを抱え、誰だろうと前を奪うパワーを装備し、誰かに付け入らせない根性を秘め、誰しもが思いつかない優位性を見出す賢さを当たり前のように習得している。

 そんなバ群の中で、アヤベは先頭をもぎ取りまくっていた。

 注目株といっても差し支えないぐらい、アヤベはひと際輝いていた。

 一体何ごとかと質問する同僚トレーナーもいたが、自分は「頑張ってくれているんだ、アヤベは」と返すのみ。特別なことなど、何一つしていないつもりだ。

 

 ――青空がまぶしい昼休み。

 

「こんにちは、トレーナーさん」

「こんにちは」

 

 ノックを交わして、アヤベがトレーナー室に入ってくる。弁当箱が入った包みを抱えながら。

 

「はい、お弁当」

「おお、ありがとう。さっそくいただくよ」

「うん」

 

 アヤベから受け取った弁当箱を開ける。冷えた白米とミニトマト、ミートボールが視界いっぱいに映り込む。もう一つの弁当箱には、おそらくはアヤベサンドイッチが入っているのだろう。

 そんなふうに昼を過ごしているからか、ここ最近の健康状態は良好だ。以前より食欲も増した。

 

「なあアヤベ」

「なに?」

「毎日、こんなおいしい弁当を作ってくれてありがとう」

「いいのよ。あなたは私のことを導いてくれている、それで十分」

「いやあ、それが俺のやるべきことだしなあ」

 

 そして草野は、箸を手に取り、

 

「自分の分くらいは、自分で作った方がいい気がする。二人分の料理って時間がかかるだろうし」

「いいの」

 

 こうして提案したのは、かれこれ二度目になる。

 しかしアヤベは、即座に首を横に振るってみせるのだ。

 

「それが、私のやりたいことだから」

 

 ――ここ最近のアヤベは、よく微笑んでくれるようになった。そんな気がする。

 いい顔をするなあ、と思う。優しい子なんだな、そう思う。

 

「それより、今日のトレーニングは何をする?」

「そうだなあ……んー……パワートレーニングを行おう。念には念を、だ」

「わかった」

 

 すこし考えたからか、草野は小さくあくびを漏らす。

 

「ねえ、トレーナーさん。ちゃんと寝てる?」

「え? ああ……まあ……」

「ほんとう? 時々首を鳴らしたり、あくびが漏れているのだけれど」

「う――すいません」

 

 さすが担当ウマ娘だ。よく見ている。

 アヤベは、力なくため息をついて、

 

「せめて、良質な睡眠をとりなさい。それだけでも世界は変わるわ」

「そ、そうだな……」

 

 どうすればいいのかなあ、と思う。

 寝る前に液晶画面を見ない、カフェインを摂取しない、最低七時間は寝る。それぐらいだろうか。

 

「ねえ」

「ん?」

「あなた、布団乾燥機は持ってる?」

 

 瞬間、アヤベが真顔と化した。

 その変化に、草野の血がぞくりと震える。冗談すら許さない目つきに見つめられて、草野は嘘をつかないように「ないです」とつぶやく。

 

「……そう」

 

 そのとき、アヤベが胸元に手を置いて、すうっと息を吸った。

 何かが起こる前兆、草野は何となくそう予感する。

 

「……ねえ」

「ああ」

「もし、その、土曜日になったら……」

 

 なったら。もう一度、その言葉がかすかに聞こえてくる。

 重大なことを告げようとしているのか、アヤベがしばらく沈黙に入る。緊張しているのか顔が赤い。

 急かしてはならない。担当ウマ娘の言葉を待つべきだ。

 草野は、ひと時もアヤベから目を逸らさず、語らない。

 ――そして、

 

「そ、そのっ。土曜日になったら、いっしょに布団乾燥機を買いにいきましょう」

「え」

 

 思わず、言葉がぽろりと出る。

 未だ顔を真っ赤にしているアヤベからは目を逸らされ――もう一度、草野の方に視線を向ける。恐らく、慣れないことを口にしたお陰で弱気になってしまっているのだろう。

 いっぽう草野は、アヤベからの好意に対してめちゃくちゃ喜んでいた。体調面を心配してくれた上に、健やかになれる道筋(ヒント)まで示してくれたのだから。

 

「わかった、行こう」

 

 もちろん、こう答える。

 

「気分転換もたまにはしてみるべきだしな」

「……そうね、その通りよ」

「だな。いやあ、アヤベと一緒におでかけかぁ。何日ぶりかなあ」

 

 布団乾燥機を買って、そのあとはどうしようか。何なら食べ歩きしてみるのも良いかもしれない。

 

「ねえ」

「うん?」

「その……そんなに、嬉しかった?」

「え?」

「あなた、すごく笑ってるから……」

 

 あ。

 両頬をぱちぱち叩き、表情を整える。

 

「もちろん、凄く嬉しいよ。アヤベとお出かけできるんだから」

「……楽しいかどうかは、別よ」

「いや、楽しくなるよ」

「どうして」

「だって、アヤベと一緒に歩けるんだよ? 楽しいに決まってるさ」

「…………ふうん」

 

 嘘は言っていない。

 アヤベはいつだって真剣で、真面目すぎるからこそ、たまにはリラックスをして欲しいと思っている。アヤベが自分の意思で街中に躍り出てくれるのならば、トレーナーとしてはほっこりしてしまうのだ。

 

「じゃあ土曜日の九時、一緒に乾燥機を買いにいきましょう。そのあとのことは……そうね、私に任せてほしい」

「おお、いいぞ」

「信用してくれるのね」

「当然さ」

 

 草野は笑い、アヤベはふっと微笑んだ。

 それから、二人は弁当を口にしていく。口数こそ少なかったが、朗らかな表情はいつまでも絶えない。

 今日は、窓から誰の声も聞こえてはこなかった。

 

 □

 

 雑談と人気が賑やかなホールの中で、マルゼンスキーは一人でぽつんと椅子に座り込みながら「今をときめくイケイケデートスポット特集❤」という雑誌を熱心に読み込んでいた。

 やっぱりスイーツ店は定番だとして、彼女の趣味に添ったスポットに誘うのが一番か。友人(アヤベ)の趣味ってなんだっけ。

 ページをめくる。公園で弁当を食べるのもヨシ、カラオケでラブソングをぶっつけるのもOK、バブリーランドもイケてるスポットとして数えられているらしい。バブリーリピーターとしては、実に嬉しい話だ。

 そこで本を閉じて、マルゼンスキーは大きくため息をつく。

 いいなあ、自分も恋をしてみたいなあ。走ることも大事だけど、同じくらい恋に興味はあるし。

 

「あの」

 

 尻尾がびしっと直立した。

 

「あっ……あ、ああ、アヤベさん! おかえりなさい、どうだった? デート、誘えた?」

 

 いつの間にやら、目の前にはアヤベが立っていた。

 マルゼンスキーは体裁を整えようと、何事も無かったかのように本をテーブルの上に置く。

 

「それなんだけど、ね」

「うんうん」

 

 無表情のアヤベが、前の席に座り込む。

 それから一秒、二秒、三秒が経って、

 

「……やった」

「あら、ほんとう?」

 

 頬を赤らめるアヤベに対して、マルゼンスキーの内心が「っし!」と盛大に歓喜する。

 

「ありがとう。あなたの作戦のお陰で、私は自然とトレーナーさんをデートに誘えたわ」

「どういたしまして。でも、この作戦を成功させたのはあなたの勇気と想いがあってこそよ」

 

 マルゼンスキーは、軽やかにウインクを交わす。

 

 ――今日の朝、マルゼンスキーはアヤベにこう告げたのだ。

 どう? トレーナーのことをどう思っているか、はっきりした? ……そう、そうなんだ。

 じゃあ、次のステップにいきましょう。

 すこし難しいかもしれないけれど、トレーナーをデートに誘ってみて。あなたとトレーナーがほんとうに相性抜群かどうか、その身で確かめてみるの。

 動機は……そうね、トレーナーさん「を」気分転換させてみるのはどうかしら。トレーナーという仕事は疲れるから、自然な動機になると思う。

 それで、トレーナーさんに感謝のプレゼントか何かを送ることができれば、なお良いんだけれど――え? いい案がある? さすがね。

 それじゃあ、デートに誘ってみましょう。困ったことがあったら私を頼ってね、がんばって。

 

「本当におめでとう、アヤベさん」

「うん。でも、勝負はここから」

「そうね」

 

 マルゼンスキーは同意する。

 

「でも、今日は本当にお疲れ様。あなたはやるべきことをやった、パーペキよ」

「うん」

「ぜひとも、心から祝福させてもらうわね」

「そんな」

 

 顔を赤くしてしまいながら、アヤベが目を逸らす。

 なんて可愛らしい子だろう、恋に恵まれるのは半ば必然といえる。

 

「それじゃあ今日の放課後は、喫茶店で一緒にデートプランでも練りましょう」

「いいの?」

「モチのロン」

 

 マルゼンスキーの親指が堂々と立つ。そんな構図がおかしかったのか、アヤベはぷっと笑ってしまう。

 

「ありがとう、マルゼンスキーさん。そういうの詳しくないから、助かる」

「いいのいいの」

 

 マルゼンスキーは、にこりと笑いながら、

 

「私たち、友達でしょう?」

 

 マルゼンスキーの言葉に、アヤベは、「うん」と大きくうなずいてくれた。

 

 それから数分後、授業を知らせる鐘の音が鳴り響く。

 聞くところによると、アドマイヤベガの走りっぷりは、併走していたウマ娘の目を奪ってしまうほどの絶好調ぶりであったらしい。

 そんなニュースを耳にして、驚きはすれど信じられはした。だってウマ娘は、ヒトとの絆が強ければ強くなるほど速くなれる存在だから。

 

 □

 

 どこか暑さの陰りが感じられる午後十時。

 トレーナーとしての仕事はまだ残っているけれど、今日は早く眠る事にした。アヤベに気を遣わせたくはないから。

 空になったブラックコーヒーの缶をゴミ箱に捨てて、あえて何も考えずにデスクトップパソコンの電源を切る。あとは寝巻に着替えて、歯を磨いで、目覚まし時計をセットし終えてから、ベッドの上で横になった。

 ――はあ。

 いつもなら十二時くらいに眠るから、こうして早寝するのはなんだか新鮮だ。眠気は未だやってこないが、目を閉じていればなんとかなるだろう。

 じっとしているからか、時計の針の音が大きく聞こえてくる。僅かに高い室温が、すこし気になってきた。そろそろ扇風機を引っ張り出すべきだろうか。

 

 ――ふと、アヤベのことを考えはじめていた。

 ここ最近のアヤベはすごく強くなって、よく笑ってくれるようになって、柔らかい言葉をかけてくれるようになった。

 そんな女の子のトレーナーになれていると思うと、なんだかこう実感が湧かない。この前までは、実績も何もない新人トレーナーだったはずなのに。

 出会った頃を、思い起こす。

 どこか危うかったアヤベのことがどうしても放っておけなくて、自分は何度もアヤベに声をかけた。最初こそ戸惑いを見せられたものの、やがてアヤベは胸の内を、亡くなってしまった「妹」のことを打ち明けてくれたのだ。

 ほんとうに、出会って間もない頃のアヤベはどこか危うかった。

 けれどもいまは学友に恵まれ、掴んだ勝利に対して喜んでくれるようになった。それだけでも十分だというのに、アヤベは自分の身を気遣って一緒にお出かけをしようと提案までしてくれたのだ。

 そんなふうに変わってくれたアヤベを見て、草野はたいへん幸福に思う。

 

 ――アドマイヤベガさんとお付き合いするつもりは、ないの?

 ふと、母の言葉がフラッシュバックする。

 

 アヤベには、真っ当な「恋」と出会ってほしい。それが幸せにつながるかどうかは分からないけれど、少なくとも自分の父と母は今も昔も仲良く支えあっている。

 目をつむったまま、思わず笑ってしまう。

 もしも、もしも万が一アヤベと交際するようになったら、それはとてもすごく、すごくいいことなのだろう。だってアヤベは強くてやさしい、自慢のお姉ちゃんそのものだから。

 そろそろ、布団が温まってきた。

 気づかないうちに、草野は夢の中に溶け込んでいく。

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