日差しがまぶしい土曜日。草野は執拗に歯を磨き、いつも以上に身だしなみを整えつつ、気合一発とばかりにブラックコーヒーをひと缶キめ、奢る分はあるだろうなと財布の中身を確認して、いざ自室のドアを堂々と開ける。
「いってきます」
男草野は、トレーナー寮の廊下を淡々と歩く。足音がいつも以上に大きく響いているのは気のせいか、ビビっているだけなのか。
思えばアヤベとお出かけをしたのは、いったい何日ぶりのことだろうか。数週間レベルだったかもしれない。
何を緊張している、相手は担当ウマ娘だぞ。
いつもの調子でやればいい。布団乾燥機を買って、気晴らしに何か遊んで、あとは――母の言葉がフラッシュバック、ちがうそういう展開は望んでいない。
そうだ。気分を晴らした後は、そのままトレセン学園へ帰ればいい。それでいつもの日常に戻って、アヤベとともにターフを突っ切るんだ。
意を決した草野は、外へ通ずる扉を開けて、
「あ、おはよう、トレーナーさん」
息がもれた。
日光に淡く照らされた白のブラウスと青のフレアスカート、雫のように地へ流れゆく栗色のロングストレートを前にして、まず、「きれい」と思った。
次に「だれだろう」とぼんやり思考して、とあるウマ娘の姿がぼんやりと重なっていく。
「あ、アヤベ……?」
「う、うん」
白い手さげ鞄を両手で摘みながら、アヤベが口元をぎゅっとつむぎはじめる。雰囲気に照れてしまっているのか、アヤベの視線は地に向けていて――ちらりと、目が合う。
どこか遠くで、バイクの走る音が反響する。
もやがかっていた草野の意識が、ほんの少しだけ晴れはじめて、半ば本能的に、
「とても、いい」
「! そ、そう」
草野の言葉に、アヤベがまた視線を逸らしてしまう。
そのしぐさだけで草野のすべてに熱が入りはじめる。いちトレーナーとして、何としてでもこらえなければならない。
「……そ、その」
アヤベが、髪を指でいじりながら、
「友人が、すすめてくれた」
「! そうなのか、いい服を選んだんだね」
「そう、そうね」
ほんとうに、いい友人を持てたんだなと感激する。服装を選んでいる時は、さぞ楽しかったことだろう。
「それに比べて俺は……まあ、自分なりに選んでみたつもりだけれど」
「ううん、すっきりしていいと思う」
「そうかい?」
「うん」
アヤベからのお墨付きをいただいた、これは自信を持っても良いだろう。
「それじゃあ、そろそろ街へ行きましょう。いい布団乾燥機を見つけてみせるわ」
「ああ、頼りにしている。それじゃあ行こうか」
アヤベがこくりとうなずく。
草野とアヤベは横並びに歩みはじめ、トレセン学園の校門を潜り抜けていった。
□
「あ、あのっ。アドマイヤベガさん、ですよね?」
「? ええ」
量販店へ向かう途中、二人組の女の子から声をかけられた。小学生くらいの背たけで、ウマ耳は生えていない。
二人が、互いに視線を向けあい、
「すごいお姉ちゃん、髪型ちがうのによくわかったね」
「ガチファンだからね」
「まあ、ありがとう」
アヤベが微笑んだ瞬間、姉妹がびくりと沈黙する。
口元は完全に閉ざされ、姉妹そろって気を付けのポーズを決めたままぴくりとも動かない。察するに、アドマイヤベガという有名人を前に緊張してしまっているのかも。
何か助け船を出そうと、草野が口を開けようと、
「何か用があったのかな? わたしでよければ言ってみて」
アヤベが腰を下ろし、姉妹と視線が重なる。なにもこわくなんてない、そう伝えようとアヤベは静かに微笑んでいた。
二人組の女の子が目配りをする。
それから、ほんの少しだけ時間が経って、
「あ、あのっ、いつも応援してますっ、ファンなんですっ」
「まあ、ありがとう」
「そ、その、がんばってください!」
姉妹から元気なエールを送られて、アヤベの表情が笑顔いっぱいになる。
「その、よかったら、よかったら」
「うん」
「さ、サインくださいっ」
「うん、いいよ」
アヤベは快く微笑み、鞄からマジックペンを取り出す。いつ声をかけられても良いように、G1ウマ娘はいつだってマジックペンを忍ばせているものだ。
「どこに描く?」
「じゃあ、靴でお願いします!」
「私も!」
「わかった」
女の子がひょいと足を挙げて、アヤベは応えるように靴の側面へサインをする。
「妹の分もお願いします」
「もちろん」
妹。その単語を耳にして、アヤベが柔らかく笑う。
そうか。アヤベは、そういう関係を大切にできる娘なんだな。
「――はい、できた」
「ありがとうございました!」
「その、応援してます! アドマイヤベガさんっ!」
「ありがとう。これからも頑張るからね」
満足したらしい姉妹は、さようならと手を振りながら横断歩道を渡っていく。姿が見えなくなるまで、アヤベもずっと手のひらを左右に揺らしていた。
街中のはずなのに、ふと静かになったと思う。
「やっぱり優しいな、アヤベは」
「当然のことをしただけ」
そう言うアヤベの顔は、どこか赤かった。
□
家電量販店「シン電気」に足を踏み入れた瞬間、アヤベの顔つきがアスリートのものと化した。
あまりのシリアスぶりに、草野が「どうした?」とおそるおそる声をかける中、アヤベは「三階よ」と指示し、その足は何の迷いもなくエスカレーターへ。草野は若干引け腰になりながら、アヤベの背中を追うしかない。
人が多いエスカレーターを登るまでの間、アヤベと草野は一言も言葉を交わさない。アヤベの背中は軍人のような威厳すら感じられ、下手なことは言えない空気が仕上がってしまっている。事情を知らない健やかなファミリーが「何を買おうか?」「パーシングのプラモ!」と賑わっていた。
間もなく三階まで辿り着き、アヤベが「こっちよ」誘導する。草野は従うようにアヤベの後ろからついていって、マッサージチェアを堪能しているおじさんを横切り、30パーセントオフの文字が輝く掃除機コーナーに目をやって、
「ついたわ」
ようやく、アヤベが振り向く。草野の目の前には、所せましと並ぶ布団乾燥機群。
「おお、ここが……」
「そう。いつもお世話にさせてもらっている場所」
「へえ……もしかして、布団乾燥機が好きなのか?」
「うん」
堂々とうなずく。
アヤベにそういう趣味があったんだなあと、草野は心の底から感心した。
「じゃあアヤベに任せれば問題ないな。いい布団乾燥機をすすめてほしい」
「任せなさい」
アヤベが不敵に口元を曲げ、そのまま布団乾燥機のコーナーへ突き進んでいく。一歩歩むごとに、栗色の長髪が音を立てずに揺れる。
偉大な先駆者の背中を、草野は距離感を保っていく。いまのアヤベは、気軽に触れてはならない。
――それから数分が経って、
「だいたい絞れたわ」
コーナーを一通り見て回ったアヤベが、草野に視線を向ける。その顔は真剣そのものだ。
「一つはゲッコウ社の布団乾燥機。値段はそこそこ、性能もいい」
「ほう」
「もう一つはギンガ社の布団乾燥機。値段は高いけれど性能は抜群、何よりダニを退治できるのが強みね」
「わかった」
そして草野は、何の躊躇もなく、
「アヤベからみれば、どっちがいい?」
「え? そうね……やっぱりギンガ社の方かしら」
「じゃあ、それで」
アヤベの耳が、ぴくりと震える。
「ほんとうにいいの? 高いけれど」
「問題ない。アヤベがもたらしてくれた実績のお陰で、十分にお金は持てているから」
アヤベに向けて、にこりと笑ってみせる。
「十分な睡眠をとれるなら、俺は高い方を選ぶよ。アヤベのトレーナーとして、これからも働きたいからさ」
アヤベの目と口が丸く見開き、そのまま動かない。
――クサいことを言いすぎたのかもしれない。動揺してしまっているのかも。
「……わかった」
アヤベがうつむきながら、ぽつりと言う。
「じゃあ、それにしましょう。……これから街中を歩くつもりなら、配達してもらったほうがいいかも」
「そうしよう。いや助かったよ、これからの睡眠が楽しくなるな」
「もう」
草野に向けて、アヤベは苦笑いをこぼしてくれた。
□
昼になってアヤベの手作り弁当を堪能し終えたあと(おいしかった)、アヤベからの提案でプラネタリウムを見ることにした。チケットはもう取っておいてあるらしい。
「さすがアヤベ」
「それほどでも」
歩いて数分。ドーム状の建物を前にして、草野は「あ」と思い出す。
三年ほど前に、トレーニング漬けだったアヤベをリフレッシュさせようとプラネタリウムへ連れていったんだっけ。
それから今になって、アヤベから星の癒しを施されるとは。アヤベはもう、立派な大人になりつつあるのだと実感する。
それから施設内に入って、薄暗いメインホールに足を踏み入れる。まるで別世界に足を踏み入れたようで、大人ながらも多少の高揚感を抱けてしまう。
転ばないように前へ進んでいって、仰向けになれる青いシート群が目に入って――
「ええと、隣同士、だよな?」
「そう。隣、どうし」
円形のシートは、一つにつき四人まで横になることが出来る。家族連れはもちろん、カップルに特化した優れものだ。
アヤベと草野が、ほぼ同時に互いを見やる。
やましいことなんかない。以前だってアヤベと一緒に横になって、星々を眺めたじゃないか。
この前と何が違う、何が――アヤベが白いブラウスをぎゅっと握りながら、困ったような顔をしてうつむいている。
どきりとした。
担当ウマ娘のことは「好き」だが、そういう好きじゃないはずなのに。
「え、えと、早く行きましょう?」
「あ、ああ、わかった」
アヤベの言葉をきっかけに、草野とアヤベはシートの上で仰向けになる。そして、半ば本能的にアヤベの方を見て――近い、顔が。
たまらず、首を天井へ逃がす。それからおそるおそるアヤベに視線を向けていって、アヤベと目が合う。気のせいか、アヤベの呼吸すら聞こえてくるような。
「いやっ、その、なんかゴメン」
「い、いえっ、あやまることなんて、ないから」
だめだ堪えろ自分はトレーナーで大人なんだぞ。
アヤベからすこし離れようと、草野は移動を、
「え?」
「えっ」
「どうして、離れるの?」
「いや、その……なんというか、デリカシー的な?」
草野の物言いに対し、アヤベは曇ったような表情になる。
あれ、
何か、間違ったことを言ってしまったのだろうか。
そうやって草野がうだうだしているさなか、アヤベは小さくため息をついて、こう言った。
「離れなくても、いい」
そう言われてしまって、草野の心は、ただの男になってしまっていた。
そういうのはだめだ。そう思うたび、トレーナーと婚約したゴッドメタラーの顔がちらつき始める。トレーナーと担当ウマ娘が結ばれるのはよくある事。まるで自己弁護でもするかのように、事実のみが脳裏をぐるぐる回っていく。その速度、円弧のマエストロ乗せ。
アヤベをちらりと見る。アヤベの横顔はすぐそこにあって、無表情で天井にあるスクリーンをじいっと見つめている。
そうだ。自分もプラネタリウムの世界に没頭しよう。ショーが始まるまであと数分。
照明がふっと落とされ、間もなく星空が目いっぱいに広がりはじめる。女性のナレーションが挨拶を交わし、本日のタイトルを告げた。
――織姫と彦星について。
□
星の物語に終わりが訪れて、照明が淡く点いていく。周囲がそれぞれ感想をつぶやきあう中、草野とアヤベはじっと天井を見つめたきり動かない。
余韻に浸っていた。
スクリーンが織りなす星々の光に心を掴まれ、織姫と彦星という恋にまつわる話に意識を持っていかれてしまえば、こうもなる。
ぼうっとシートに身を預けていたが、立ち去っていく客を見て、ようやく常識的な判断を取り戻していく。そろそろ出ていかないと。
緩慢に立ち上がろうとして、
「ねえ」
「え?」
未だ仰向けになったままのアヤベが、ぽつりとつぶやく。
「あなたは、その……」
そして、こう言った。
「いなくなったり、しない?」
その言葉に、曖昧だった意識が正気を取り戻す。
変わらない無表情、けれども声は震えている。そんなアヤベに対して、草野ははっきりと答えた。
「ああ。俺は、アヤベのトレーナーなんだから」
手を差し出す。
それを、アヤベは掴み取ってくれた。安心したように、顔を綻ばせながら。
□
それからというもの、アヤベとはカラオケで持ち歌を披露したり、デュエットを組んで妙に盛り上がったりもした。続いてバブリーランドなるアミューズメント施設を薦められたのだが、最初こそはイケイケのノリに着いていける自信がなかった。ところが常連から扇子を手渡され、最初こそ戸惑うしかなかったが、バブリーダンスフロアの熱気にアテられまくった結果、草野もアヤベもいつの間にかフゥーフゥーと踊りまくっていた。祝おう、草野とアヤベがバブリー化した瞬間である。
そのあとはナタデココやティラミスといった懐かしのスイーツをサンキューベリマッチしたり、浮輪でプールに流されたりと(泳げない)、それはもう一生分遊びつくしたと思う。やたらに騒げる場所というのも悪くはない。
アヤベの方もノリノリフィーバーな感じだったから、ここに寄ったのは正解だったのだろう。
――バブリーランドを出てみれば、空色は赤暗く滲んでいた。
時が経つのが早すぎる。どれだけ、楽しい瞬間を過ごしていたのだろうか。
気づけば、体もいい感じに疲れ切っている。力なくあくびも漏れてしまった。そんな草野の姿を見て、アヤベがくすりと笑う。
「そろそろ、帰りましょう」
「そうだな」
夕暮れに染まった街中、人が行き交う歩道に、草野とアヤベの足音がそっと響く。
「今日は楽しかった、アヤベのおかげだな」
「ありがとう」
「いやホント、今日は一生分遊んだ気がするな。こういうのも大事だよな、やっぱり」
「そうよ。あなたは、ただでさえ頑張りすぎているんだから」
「悪い悪い。でもまあ今日から布団乾燥機のお世話になるし、これからは健康状態が改善されるさ」
「ええ、それは保証するわ」
自信満々に、アヤベが言う。
今日は、本当に色々な事があった気がする。歌って、踊って、食べて、恋の話を聞いて、今日はほんとうに色々な感情を覚えた気がする。
栗色の髪をなびかせ、夕日に照らされる白いブラウスとフレアスカートが、草野の心を嘘みたいに掴み取る。草野の視線に気づいたアヤベがこちらを見て、
「なに?」
「あ、いや、その」
後ろめたい気持ちになってしまったけれど、なんだか嘘をつきたくなかったから、
「綺麗だと……思って」
「……そう」
そんな草野の言葉を、アヤベは笑って受け入れてくれた。
「アヤベ」
「なに?」
トレセン学園に着くまで、ほんの数分。
だから草野は、勢いのままに言う。
「今日はほんとうにありがとう。アヤベのお陰で、色々と楽しく過ごせたよ」
「いいのよ」
アヤベは微笑んだまま、こう言った。
「私は、あなたの担当ウマ娘なんだから」
そして、アヤベは顔いっぱいの笑顔をつくってくれたんだ。
――どう? アドマイヤベガさん。綺麗な子だし、真面目な雰囲気もするし、あんたと相性がいいんじゃない?
ああ、そうだな。ほんとうにそう思うよ。母さん。
トレセン学園に着いて、草野とアヤベは何事もなく別れていく。
今日はきっと、よく眠れなさそうだ。
□
十八時頃。アヤベが寮の前まで帰ってきて、ずっと待っていたマルゼンスキーが「チャオ」と手で挨拶する。
「どうだった?」
アヤベはにこりとしていた。そうかそうかと、マルゼンスキーは納得したように二度うなずく。
「どう? トレーナーさんのこと、やっぱり好き?」
「うん」
迷いなく、アヤベが応えた。
「こんなにも誰かを好きになったのは、久々だと思う」
久々か。その前は誰なんだろうなあと、マルゼンスキーはなんとなく思う。
「……どうする? その想いを、トレーナーさんに伝える?」
「うん。そうしたい、けど」
「怖いのね?」
アヤベが、首を小さく振るう。
そんなアヤベを見て、マルゼンスキーは小さく息を吸って、
「お節介ながら、あなたに伝えたいことがあるわ」
「え?」
マルゼンスキーは、半ば勢い任せで本心を告げる。
「もしも、もしも万が一、告白が失敗に終わったとしても、私は絶対に笑わない。あなたを焚きつけた責任を以て、あなたを最後まで守るわ」
アヤベは目を丸くして、
「そんな、焚きつけたなんて」
「あと、トレーナーと担当ウマ娘が結ばれるなんて、そう珍しいことじゃない。祝福もされる、私もする」
そんな事実は、トレーナーと担当ウマ娘という関係が生まれた瞬間に証明されている。誰にも反論できない、絶対に理論だった。
「ねえ」
「うん」
「今日のトレーナーさん、笑ってくれてた?」
薄暗くなって、そろそろ太陽が姿を消そうとしている。寮の前にはアヤベとマルゼンスキーのみが居て、三女神を讃える噴水が淡く聞こえた。
そして、アヤベは口元をくすりと緩ませる。
「うん」
そして、照れくさそうな顔をしてくれた。
それを目にしたマルゼンスキーは、心の底から安堵する。
「トレーナーさんと最も距離が近いのは、まちがいなくあなた。それを、覚えておいて」
「……うん」
アヤベが胸に手を当てて、星がまたたき始めた空をじいっと見つめる。
似合う。マルゼンスキーは、漠然とそう思考した。
それから少しして、アヤベはマルゼンスキーのことをはっきりと見据え、告げた。
「わたし、あの人に告白するわ」
アヤベの決意に対して、マルゼンスキーはゆっくりと、深くうなずいた。
□
すこしだけ熱気が残る午後八時ごろ。先ほどまで聞こえていた喧騒はどこへ行ったのか、寮内は静まり返っていた。
トレーナーとしての思考は片隅に置きつつ、栄養バランスを整えた夕飯を口にしながらお笑い番組を見て、食器を洗ってさてどうしようかと思い、ふと窓の外を見てみれば、夜空を彩る薄い満月が目に入った。
明日は、新月が訪れるのだろうか。
なんとなくそう思いながら、草野は積んでいた小説「ウマ娘ショートショート」を読みふける。予想せざるを得ないオチ、なんとなく読めていた結末、余韻に浸ってしまえる終わり方を堪能しながら、次は次はとページをめくっていって――読み終えた頃には、時刻は既に九時半を回っていた。
面白かったなあと思いながら、本を棚に差し込む。新しいショートショートは無いものか、こんど検索をかけてみよう。
さて。
ベッドのすぐそばには、絶賛稼動中の布団乾燥機が置かれている。それの電源を切り、布団に差し込まれたホースを抜き取ってみせて、部屋の電気を消した草野は、おそるおそるベッドの中へ入り込んで、
「すげえ」
声が出た。
信じられないくらい、すべてが温かかった。
これが布団乾燥機のパワーなのかと、体ぜんたいで実感する。今までは布団に熱がこもるまで、多少の辛抱が必要だった。それが布団乾燥機のおかげで、こんなにもスムーズに快適世界へ突っ込めるだなんて。
なるほど、これはアヤベが勧めるわけだ。
アヤベにはほんとう、何から何まで感謝しかない。
――アドマイヤベガ、か。
アヤベのことを、自分はどう思っているのだろう。
アスリートとしてとても優れている、最高の追込みウマ娘、優しい、真面目――ごまかすな、アヤベのことが「好き」になったんだろう。
今日のアヤベは、自分にはもったいないぐらいの端麗さがあった。そんなアヤベは、ずっとずっと自分の隣に居てくれたんだ。
惚れるしか、ないじゃないか。
アヤベから見れば、気分転換のつもりだったのかもしれない。けれども自分は、もはやアヤベと離れたくはなかった。
己が胸に手を置く。心臓が跳ねているのが、いやになるくらい伝わってくる。
まちがいなく、アヤベに惚れてしまったんだろう。
ため息。
決めた。明日になったら、アヤベに想いを伝えよう。怖がらせたりしてしまったら、全力で謝ろうと思う。
フラれても、アヤベがウマ娘として輝ければそれでいい。アヤベのトレーナーとして本望だ。
そうと決まれば、もう眠ろ、
そのとき、充電中の携帯が震えた。
アヤベからの連絡だろうか、いやまさか。焦れる自分に苦笑いしながら、暗い下手の中をおそるおそる進んでいって、液晶が照らされている携帯を手にとり、
アヤベ>明日の昼頃、校舎裏で会える? 伝えたいことがあるの
――
翌日、十二時。
今日は日曜日だから、授業はお休みだ。トレーニングも、集中できなさそうだから一旦取りやめ。
校舎裏のひとかどで、私はまた胸に手を当てる。そんなふうに何度も確認しようが、私の胸はいつまで経っても高鳴るばかり。
やっぱり私は、あの人のことが好きになれたんだなあ。
休日の校舎裏は、まるで冬のように静まりかえっている。
呼吸する音が、よく聞こえてくる。
物陰でマルゼンスキーさんが見守ってくれているお陰で、私はまだ逃げずにいられていた。
――思う。
あの人は今日に至るまで、ずっと私のことばかり気にしてくれた。最初こそつっけんどんな態度をとっていたはずなのに、トレーナーはいつもいつまでも私を支えてくれたんだ。
惚れるしか、ないじゃないか。
あの人からすれば、トレーナーとしての責務を全うしているだけなのかもしれない。けれども私は、もうトレーナーを離したくはなかった。
過去を思い返すたび、気持ちがふかふかしていくのが伝わってくる。
ぜったいに、トレーナーのことが好きだ。
ぜったいに、トレーナーに想いを伝えよう。
意を決して、うつむいていた顔を上げ、
トレーナーが、私のところにまで歩んでいた。
私の決意が、氷漬けになる。
「こんにちは、アヤベ。何か、用でもあるのかな?」
『いいよ』と返事まで貰っていたのに、まるで予想外に直面でもしたかのようにアヤベは固まってしまっていた。
私の様子に気づいたのか、トレーナーが私の名前を小さく呼ぶ。
だめだ、応えないと。
「あ、あの。今日は来てくれて、ありがとう」
「ああ」
トレーナーにも自分の時間があるはずなのに、上機嫌そうな顔をしてくれている。
この人は、私の言葉を拒んだことがない。その上で正しさを示し、ここまで導いてくれた。
だからこそ、私のすべてを言葉にしたい。アスリートとしての時間が過ぎ去っても、この人の隣はぜったいに譲りたくはない。
「あ、あの。わたし、伝えたいことがあって、その、」
言うんだ。
マルゼンスキーさんと、夜まで練習したじゃないか。
だのに、舌が動かない。
結果はまだ決まっていないのに、断られる結果ばかりが頭の中で乱反射する。私は子供、トレーナーは大人、私は担当ウマ娘、この人はトレーナー、この人は倫理観を守るまじめな人――ゴールできる理由が、見いだせない。
「アヤベ?」
声をかけられる。
呼吸が乱れそうになる。
今日のところは、なんでもなかったフリをして、
――私の背中が、誰かにそっと押された、気がした。
トレーナーの顔が、すぐそこにある。
このまま、抱きしめてしまえるぐらい。
「アヤベ」
また、呼ばれた。
「とりあえず、そっと落ちついてみよう。俺は、いつまでも待つから」
やっぱりこの人は、私のトレーナーだ。
この人に対する感情が、とてもすごくて、つよくて、とんでもないくらい高まっていく。つま先にまで落ちていたはずの決意が、私の心臓にまで追込みをかけてくる。
「私、わたしっ、あなたの、あなたのことがっ」
言うんだ。背中を教えてくれた、「あの子」のために。
「私は、草野さんのことが好きですっ!」
風が止まった気がした。
すべての悔いが、消えてしまった気がした。
草野さんは、ほんとうに驚いた顔をして固まってしまっている。いきなりこんなことを言ったけれど、罪悪感なんか抱いてはいない。
ほんとうに、言いたい事だったから。
「……アヤベ」
私は、草野さんの言葉を待つ。心の底から、強く祈る。
「ありがとう。そう言ってくれて」
わたしの意識に、光が射した。
すべてが熱くなったままで、私は問う。
「どういう、こと?」
「……俺も、」
――草野さんはとても照れくさそうな顔になって、けれども私の目をはっきり見つめ、言った。
「アヤベのことが、好きだから」
□
そろそろお父さんが帰ってくる頃だ、夕飯の支度をしないと。
私は何を作ろうかなあと、キッチンの前でメニューをぐるぐる考えはじめ――ポケットの中が、震えた。
誰だろう。
携帯を取り出してみると、画面には「アドマイヤベガ」の文字。久しいなあと思いながら、受信ボタンを押す。
「はい」
『あ、お母さん。いま、大丈夫?』
「うん。何かあったの?」
沈黙が生じた。
私の意識が狭くなっていく。ひと声も逃がすまいと、聴覚を集中させる。
『あのね』
「うん」
『――わたし、大人になったら、トレーナーさんと交際することになった』
表せない感情から、声が漏れた。
「ほんとう、なの?」
『うん。ほんとうにね、間違いなく、あの人のことが好き』
「そう、そうなのね。……うん、わかるわ。あのひとは、アヤベちゃんのことをずっと支えてくれた人だから」
あのトレーナーさんは、先ずはアヤベちゃんの走りを整えようと私に話を持ちかけてきた。
アヤベちゃんを走らせたい。そんな信念が電話越しから伝わってきた瞬間、アヤベちゃんはいい出会いを果たせたんだなあと思えたんだ。
『お母さん。これからは私も、あの人のことを、草野さんを支えたい。何ができるかわからないけれど、する』
「大丈夫、いまのあなたならできるわ。でも、もし困ったことがあったりしたら、いつでも声をかけてね」
『うん、わかった』
両目をつむる。
これまでのアヤベの顔が、鮮明に思い浮かぶ。呼吸をするたびに、体が上下に動いてしまう。
『お母さん』
「うん」
『今度の連休、家に帰るね。草野さんも、連れて』
「うん」
『いままで、あんまり連絡をよこさないで、ごめんなさい』
「ううん」
『……お母さん』
扉の開く音がする。お父さんが、帰ってきた。
『私を産んでくれて、ほんとうにありがとう』
――、
「……愛してる」
――
拝啓、あなたへ。
手紙か日記か、いったいどっちなんだろうと思っていましたが、やっぱり日記だと思います。
ここ最近、私に新しい友達が増えました。
とんでもなく速い上に、どこまでも誰かの事を気遣えるウマ娘です。名前をマルゼンスキーさん、といいます。
トップロードさん、ドトウ、カレンさん……オペラオーと、気づけば学友が多くなっていました。そのおかげで、今日も私は元気に暮らせています。
それともう一つ、とても大切なことをお知らせします。……あなたなら、もうわかっていると思いますが。
私はトレーナーに恋をして、そして結ばれました。両想いだったのです。
恋って、わかりませんね。
大人になるその日まで、私は担当ウマ娘としてトレーナーのそばにいます。
すべてを走り終えた時、私はトレーナーさんと、草野勇さんと共に生きるつもりです。
ありがとう、私に勇気を与えてくれて。
私は、あの人のことがようやくわかった気がする。
それでもわたしは、あの人のことを、もっと知りたい。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
アプリ版におけるアヤベのストーリーは再起、絆、解放がメインテーマで、恋愛要素はありませんでした。
そしてグッドエンディングにおける「トレーナーへの結論」を見て、これは! と閃いたのが全てのはじまりでした。
個人的にアヤベさんはとてもすごく好きで、前々から書いてみたいと思っていたウマ娘でした。
だからこそ、自分なりの完結編が書けたことを、とても幸せに思っています。
これで、トレーナーと優しいウマ娘のメタルな恋愛はおしまいです。
次はシチュエーションを変えて、近い年同士の恋愛モノを書いてみようかなあと思っています。或いはガルパン恋愛小説かもしれません。
気長に待っていただければ、幸いです。
特に詰まることなく、文章を読み進められましたか?
-
はい
-
少し詰まった
-
読みづらかった