「ずいぶん長いこと電車に揺られていたな。あとは、東口から出れば目的地まですぐか。」
「東口は駄目だ。遠回りになるが西口から出て回りこもう。」
「どうしてだい?」
「そっち側には大きな時計のモニュメントがあるらしい。」
「ああ、そうか。じゃあちょっと迂回して行こう。」
私の友人は、時計恐怖症を患っている。
読んで字の如く、彼は時計に怯えながら日々を過ごしている。とは言っても時計全てがダメな訳ではない。アナログ時計だけがダメなのだそうで、デジタル時計などの他の時計には特段何も感じないらしい。
「じゃあ地図アプリを開いて…。ナビは使えないけど、多分こっちかな」
「よし、それじゃ歩こうか。」
彼は自分の時計嫌いを、次のように語る。
「──まず、時計というのは1つの円、12個の数字、3本の線。これだけの要素で人間を支配している。円・線というのは謂わばこの世の理を束ねるものであり、普遍的に存在しており、それだけでは特段気にするものでもない。しかしながら、そこに人から生み出された文字である数字が組み合わさり、逆に人を縛り付けるというのが辛抱ならないのだ。
秒針の音や、時間という概念そのものには怖じけていない。私が恐れるのはその造形、とりわけそこに刻まれる意味性のある文字なのだ。意味性のある文字が気持ち悪いというのは、『�怜喧縺代r縺輔○狗ぜ縺�せ育畑縺�嶌』などの文字化けが恐れられる事を考えてもらえれば理解出来ると思う。何も表示されず沈黙していたり、ただ『──────────────────』など線が走るだけであるよりタチが悪いのは分かるだろう?
そういう訳で、私が今付けているバーインデックスの腕時計は大丈夫なのである。この時計の数字は線に置き換えられているが、これは意味性・象徴性が低く、シンプルで良い。デジタル時計だって、1つの数字は7本の線の集合だ。ローマ数字の時計も、馴染みのない我々にとっては文字というよりは記号である。いずれにも、意味性のある文字は存在しないのだ。」
「また、時計からは私への威圧や害意も感じる。漫画で異能力者が「車両進入禁止」を突き立てて相手の動きを止めたり、「その他の危険」の先が危険な異界への入口を示していたり、そうやって交通標識が我々にその意味を誇示するような感覚だ。時計も交通標識も単純な形であり、我々に指図するという共通点ゆえに、お互いに結び付けられてしまうのかもしれない。といっても別に交通標識に苦手意識を抱くことは無いのだが……」
「他にも挙げればキリがない。まず1番上に12があるのが気持ち悪い、1番上に置くべきは0か1だろう。時間という概念を表した滑らかな円周を、どうして12等分して断絶させるのか。時間という概念は我々が日常生活で身に付ける感覚であるのに、なぜ時計は読み方をワザワザ学校で学ばなければならないのか。」
「私が時計を嫌うのは、そういう理由である。」
「ええと、この道を行って…。ああ、ここは通り抜けできないじゃないか。」
「仕方ない、別の道を探すか…。手間をかけさせてすまないね。」
彼の時計恐怖症は生来のもので、聞いたところによると小学校に通っていた頃から悩まされているらしい。私の前でも、時折その癖ゆえの行動を見せることが有った。
私達が中学生の時、地元に某ショッピングモールが新しくオープンした。その5階にゲームショップがあると聞きつけ、親しい友人幾人かでそこへ向かったのである。しかしながら、そのモール内の配置が彼にとっての不運であった。そのゲームショップは5階に有ったのだが、4階から5階に上がるエスカレーターの先に時計屋が有ったのだ。その時計屋を見るや否や、彼は昇りのエレベーターを駆け下りるという奇行を演じた。衆目を集める羽目となり、これは彼にとってもかなり恥ずかしい経験であったようだ(今でも偶に夢に見るらしい)。それ以来そのゲームショップに行く時は、4階まではエスカレーターを使い、4階から5階に上がる時だけは階段を使う、という徹底ぶりを見せていた。
その時計屋に対し「こんなモノただの暴力だ、そも時計の時間が揃って居ないのはなぜなんだ」と悪態をついていたのも覚えている。人間を支配しておきながら不正確さを孕んでいることも、彼の時計に対する忌避の一因になっているのかもしれない。
「ああ、こっちは通れるみたいだ。」
「駅の逆側から出るだけでこんなに不便だなんて。地下道でも通してくれればいいのに。」
彼はこの気質のために害を被った事がある。
一時期彼は大学食堂でバイトをしていたことがあり、そこでは食券の受け渡しを任されていた。しばらくは特に何事もなく彼はバイトをこなしていたのだが、ある日人手不足から洗い物を頼まれたのだ。それが良くなかった。その食堂の洗い場には時計が備え付けられており(「皿1枚15秒」という目安を計るためらしい)、それで発狂した彼はそれなりの数の食器を使い物にならなくしたらしい。
この件を切っ掛けとして、彼はそのバイトを辞めてしまった。食堂長は気にするなと彼を引き留めたそうだが、それでも迷惑を掛けておきながらのうのうと働き続ける事は堪えられなかったそうで、食器の弁償もしたそうだ。彼はかなりキマジメな人間で(皆が睡眠導入剤にするような教授の話を集中して聞く程度には)、それ故にこの件を今でも気に病んでいる。「たかが時計の為に職場に迷惑をかけて、そのままバイトも辞めてしまった」と、時計の話題になる度に語るのである。自分の気質が気狂いのものであると自覚しているが故に、余計に辛かったようだ。
また、それ以来しばらく彼は外出で消極的な姿勢を見せていた。外食は行きつけのチェーン店にしか行かない、買い物は近場のコンビニだけ、どんなに混んでても同じ道のりで帰宅する。私が新たに見つけた飲み屋に彼を誘った時は、怯えた表情を垣間見せた。
「やっと着いた。」
「時間は…余裕を見ていて良かった。十分間に合いそうだ。」
そういう訳で、私の友人は時計恐怖症を患っている。
身の回りに溢れている物に怯えなければならないなど、私からすればぞっとしない話だ。
彼は今でもこのフォビアとなんとか付き合いながら生きている。いつかはこのフォビアを克服する時が来るのだろうか。