ミンツは「フリープラネッツ・ヒストリカル・レビュー」を閉じた。休憩時間にヤン・ウェンリーによる「指揮官たちのダゴン星域会戦」を読み進めていたのである。今回の記事はオレウィンスキー提督に関する記事だった。ひとつ息を吐いた後、ミンツは仕事に取りかかった。
夜の営業もミンツ独りで店を任されることが増えてきた。カウンターの中から店内を見回した。奥のテーブルでは、相変わらず彼女が真剣な眼差しで行を追っている。時刻は午後8時近い。今は店内に他に客はいない。店員もミンツ独りだった。
彼女は普段、亡羊とした表情を浮かべている。ミンツには分かりにくかったが、同僚の女子大生いわく顔の造作は美しいという。くっきりとした二重瞼。綺麗な眼をしている。背丈は標準だが、猫背なので低く見える。本を読んでいるうちに表情が変わる。たいてい無表情だったりするが、時おり苦笑いを浮かべる。そもそも喫茶店に入って本を読む女性客は少ない。ある意味、かなり目立つ客だった。
「あれが、ソフィ君が言ってた人?」
店主が低い声で囁いた。ソフィとは一緒に働いているバイトの女子大生である。
「ええ」
「たしかに珍しいな。何を熱心に読んでるのやら」
「何だか難しそうな本でしたよ」
「チェックしたの?」
「たまたま見えちゃったんですが」
「ふうん、まあ何となく、頭は良さそうに見えるが」
彼女は長ければ3、4時間はぶっ通しで本を読み続けた。端から見ても、凄まじい集中力だった。あまり忙しくはない部署に配属されているのか、毎日定時を少し過ぎた頃には必ず店に来て熱心に本を読む。しばらく彼女の様子を観察していると、抜けたところも見えてきた。
その日も彼女は念力を発しそうな眼で買い込んだ本を読んでいた。カウンターの後ろにある棚にカップをしまうため、ミンツはほんの数秒、彼女から眼を離した。店内を振り返った瞬間、ミンツは思わず「おや」と声を出した。彼女が眠っていたのである。
大胆にも大きな楕円テーブルの端に突っ伏して寝ている。左手の親指は今まで読んでいたページにはさまったままだ。閉じかけた本のすぐ隣にカップがある。眼が覚めた時に彼女が本ごとカップを払いのける場面が脳裏に浮かんだ。
カップを割られるのも嫌だ。それに、本や彼女の服が汚れるのはもっと嫌だ。
ミンツは店内を見回してそっとカウンターから出た。幸い他に客はいなかった。店員は自分しかいない。ミンツは出来るだけ静かに歩み寄る。テーブルの左横に立ち、まずカップを取り上げる。20センチくらい先、ほとんど向かいの席くらいまで離して置いた。
とりあえずこれで起き抜けの事故は無くなったと思っていい。
《さて・・・次はどうしようか》
ミンツは考え込んでしまった。店内で寝てしまった客の対応は教わってない。拙い経験を踏まえ、精一杯に機転を利かせて対処するとしたら「お客様、お加減でも悪くされましたか」などと声をかけて、自然に起こすのが良いだろう。だが、ミンツはあえてそうしなかった。
なぜか。
彼女はふうと息を吐いた。右腕を枕にしている。顔に服の皺が跡になりそうだが、気持ち良さそうに眼を閉じている。いささか無防備に思える。こちらを向いた時の彼女の寝顔があまりにもテレーズに似ていたから。1人息子のユリアンを遺して亡くなった妻に。
急に騎士道精神に目覚めたような感じだった。守ってあげたい。そんな気持ちになってしまった。そうは言っても、ミンツに出来ることは限られている。余計な音は立てない。他の客が入ってこないか見張る。せいぜいそんなものだ。そもそも他に客がいる喫茶店でうたた寝なんて彼女もしたくはないだろう。店としてもあまり歓迎できるものではない。
《もう少しだけ・・・テレーズ、俺のわがままを許してくれないか》
ミンツは胸奥で亡き妻に詫びた。きっと勉強で疲れているだろう。あと少し、彼女に安らぎの時間を与えたかった。いや、そうではなかったかもしれない。自分自身が、ただ彼女を身近で眺めていたかっただけなのかもしれない。以前に店に来た時よりだいぶ長くなった黒髪。相も変わらず艶やかな黒髪を独り占めしていたい。ミンツはそんなことをじくじくと考え続けていた。