ハイネセンの眠り姫   作:伊藤 薫

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 ミンツの勤務は喫茶店の前にある花壇の水やりから始まる。店主の夫人が植えた草花に水をやり、雑草を抜き、落ちた葉を集めてゴミ袋に入れる。ゴミ袋を集積所に置いた時、背中に声をかけられる。

「ミンツ大尉じゃないのか」

「キャゼルヌ中佐」

 アレックス・キャゼルヌが道端に佇んでいた。以前はミンツも着ていた同盟軍将官の軍服姿。白い五稜星のマークがついた黒いベレーを被っている。襟元は黒いネクタイに同色のジャンパーを着て、足元は黒い短靴を履いている。

 キャゼルヌはミンツが同盟軍で最後に勤務していた統合作戦本部で、直属の上司に当たる人物だった。年齢は27歳。相手は年下だが、階級は上だったために思わず軍に所属していた頃の名残から一礼した。かつての上官は口元に苦笑を浮かべる。

「軍を辞めた後、こんなところで働いてるとはな」

「次の勤め先が見つかるまでの辛抱ですよ」

「お子さんは元気か?まだ小さかっただろう」

「まあ何とか。外は寒いですし、お店に入りましょうか?」

 キャゼルヌは独り言のように話した。

「いや、ちょっと冷やかしに来ただけだ。おれの知り合いが面倒を起こしたっていうから、どんな場所か気になっただけだ。なに、貴官には関係ことさ。じゃあ」

 キャゼルヌは街の雑踏に消えていった。ミンツは道具を片付けてから店に戻った。休憩時間は「フリープラネッツ・ヒストリカル・レビュー」を読む。今月号の「指揮官たちのダゴン星域会戦」はウォード提督に関する記事だった。

 その日も彼女はいつも通り、17時ごろに店に来た。時間が経って客数が少なくなり、店にミンツと彼女しかいなかった。

 短い悲鳴とカチャンという冷たい音を同時に耳にする。

 ミンツは反射的にカウンターから顔を上げた。彼女が水の入ったグラスをテーブルに倒していた。またうとうとしていたのだろうか。ミンツはすぐに未使用の台拭きを持って駆けつけた。

「大丈夫ですか?お客様」ミンツは言った。

 彼女は左手でグラスを持っている。右手で辺りにあった物をどけていた。どうやらグラスそのものは割れなかったようだ。

「あの、ごめんなさい。メニュー、濡らしちゃって」

「それは構いません。お洋服とか、ご本にはかかりませんでしたか」

「ええ、私は・・・あ、ちょっと本が」

「失礼いたします」

 ミンツはまずテーブルの水だまりに台拭きにかぶせた。これで被害が広がるのは防げるだろう。本はレジで掛ける紙カバーが濡れていた。ミンツは紙カバーを剥がした。PP加工を施した本体カバーは無事だった。「PP」とはポリプロピレンの略で濡れや汚れに強い表面加工のことである。

「中のページは大丈夫でしたか?」

 ミンツは本を差し出した。彼女は本を両手で受け取る。ミンツはその時初めて、本のタイトルを意識して読んだ。

「老将は語らず」。著者はアルフレッド・ローザス。著者は43年前に第2次ティアマト会戦で同盟軍を完勝に導き、自ら戦死したブルース・アッシュビー大将が宇宙艦隊総司令官を務めていた頃に総参謀長の重責を担った人物である。退役後にローザスが記した回顧録は優れたノンフィクションに贈られる賞を受賞している。

 若い女性が老提督の回顧録を読むとは。ミンツには少し意外な組み合わせに思える。彼女は表紙やページをパラパラとめくった後、小さくうなづいた。

「中身は大丈夫です。それにもう、大体読んでしまったし」

「同じ本を以前に読んだことがありますが、内容が小難しくて」

「まあ自分にとっては読むのが、仕事みたいなものですから。それに・・・」

 その時、彼女は笑みを浮かべる。本を読んでいる時の顔とも、もちろん居眠りをしている時の顔とも異なる。芯の強さというか、揺るぎない意志の強さのようなものをちらりと垣間見せた。ミンツは思わずそんなことを感じた。

「ここだと、すごく集中して読めるんです。いつも長居しちゃってごめんなさいね。ご迷惑かなと思ってるんですが」

 ミンツは首を横に振った。

「そんなことありません。どうぞ・・・ごゆっくりなさってください」

 実際、ミンツは迷惑だと思っていなかった。喫茶店に長く過ごしている客でたった1杯のコーヒーで粘る人も多いが、彼女は3杯から4杯、ちゃんと紅茶を注文する。

「じゃあ、お言葉に甘えて、もうちょっとだけ・・・あと、紅茶をもう1杯」

「はい、かしこまりました」

 その日はそれが5杯目だった。

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