ハイネセンの眠り姫   作:伊藤 薫

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 ヤン・ルイタン(楊瑞丹)は10時過ぎに眼が覚めた。今日は非番だった。昨夜に降っていた雨の音はもうしない。ベランダから何か聞こえてきた。隣の部屋から4人で住んでいる移民の若い女たちが姦しく何か話し込んでいる。この曇天の下、洗濯物を外に出すか出さないかで揉めているらしい。

 ベッドから起き上がってブラインドを上げる。狭いベランダに面した窓を開けた。白い靄がハイネセンポリスの街を低く覆っていた。隣に建つ雑居ビルの「個室サウナ姫百合」の大きな看板の下半分がぼやけて見えるほどだ。3階のこの部屋まで靄は届いていない。湿気と排気ガスの臭いがいつもより濃く昇ってきていた。

 ヤンは2か月前まで勤め先の独身寮に住んでいたが、そこを追い出されてしまった後、ハイネセンポリスの南―サウスエンドと呼ばれる地域の古いアパートに引っ越した。

 サウスエンドは日雇い労働者や移民が多く住んでいる貧民街であり、治安はあまり良くない。同僚や先輩らは「21歳の若い女が独りで棲むような町じゃない」と注意してきたが、当の本人が家賃の安さだけで部屋を決めたことに呆れていた。

「モーニーン!ルイちゃん」

 いきなり隣から声をかけられる。部屋の仕切りから、女が無理やり顔を突き出して手を振ってくる。髪をひっつめて結び、浅黒い美しい顔に丸い眼がおどけている。シンシアという名前の娘だった。ヤンも手を振って答える。シンシアは外で逢っても、まるで子犬のようなじゃれ方をする可愛い子だった。

「ゲンキ?」

「元気よ」

 ヤンはシンシアに手を振ってベランダから離れる。TV電話(ヴィジホン)の留守電を確認しようと思った。寝室を出てリビングの電話が置かれた小卓に歩み寄ったが、床に積んだ蔵書の山を足の小指で蹴飛ばして崩してしまった。

 痛みで眼尻に涙が浮かぶ。いい加減、新しい本棚を買わなければならない。ヤンはため息を吐いてから本を積み直した。新しい本棚を買ったところで床に所狭しと置かれた本を全部入れるだけで、すぐに埋まるだろう。

 留守番電話が1件入っている。ヤンは再生ボタンを押した。

《ヤン・ウェンリー(楊文里)様、こちら「フリープラネッツ・ヒストリカル・レビュー」編集部のフラナガンです。まだ来月分の原稿が届いていないようですが、原稿の締め切りは・・・》

「フリープラネッツ・ヒストリカル・レビュー」は自由惑星同盟の歴史や軍事をテーマにした月刊誌であり、楊文里はヤンがその雑誌に記事を寄稿する際に使用しているペンネームだった。ペンネームは実在の人物からあやかっている。ヤンの父方の家系に連なる遠い親戚に当たる本物の楊文里は何冊か歴史を題材にした本を著したが、父親のタイロン曰くその本は大して売れなかったそうである。

 朝からうんざりする話を聞いたな。ヤンはそう思った。

 子どもの頃から歴史が好きだった彼女は学問として専攻し、あわよくばそれで生業とすることを夢に見ていた時期もあった。だが父親の死で人生が変わり、今は食べるために歴史と関係ない仕事を本業とし、副業で雑誌に投稿するフリーライターという身分である。

 記事の題材は懇意にしている編集長の計らいで、ヤンの自由裁量で決められるが、締め切りは当然やって来る。「指揮官たちのダゴン星域会戦」は先月号のエルステッド提督に関する記事で終了した。

 陽気な気分になりたかった。ヤンはFMをつける。ラジオからジャズ・フュージョンが流れてくる。勝手に節をつけて歌いながら着ていたTシャツとショーツを脱ぎ、タオルと一緒に洗濯機に放り込んだ。シャワーを浴びた。屈託を思いっきり身体から洗い流してしまいたい。

 髪を洗い、丁寧にリンスをする。シャワーから出る。お気に入りのバスタオルで身体を拭いた。水滴を拭きとる。ジェルバウムを全身に塗り、髪にはムースをつける。身体に馴染んだTシャツを頭から被り、ジーンズを履いた。ようやく気持ちが落ち着いてくる。

 喫茶店で原稿を書こう。最近の行きつけはハイネセンポリスの中心部―エルム街にある「ハウス・カフェ・ブエナビスタ」だった。そうだ。そこで原稿をやろう。善は急げ。執筆に必要に参考資料を数冊、ノートPCをバックパックに入れて部屋を出て行った。

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