「こんなところで何をしてる?」
ノートPCから顔を上げたヤンは見覚えがある相手の顔を一瞥する。
「貴方こそ」
ヤンは不機嫌な声を出した。お気に入りの喫茶店でいま一番会いたくない相手に会ってしまった。士官学校の先輩キャゼルヌが向かいの椅子に座った。テーブルの上にあるフィッシュ・アンド・チップスは半分近く残っている。3杯目のミルクティーはすでに空になっている。キャゼルヌは後輩の貧弱なランチを見て呆れたように言った。
「食欲が無さそうなのはいつものことか」
「あまり太りたくないんです」ヤンは言った。「先輩も非番ですか?」
キャゼルヌはうなづいた。チノパンに涼しげな色合いのワイシャツを着ている。
「お相手はどうしたんです?」
花の独身エリート士官アレックス・キャゼルヌ中佐はただいま恋愛中で、相手は上官の娘だという。バイトで働いている女子大生のウェイターが注文を取りに来た。ヤンは4杯目のミルクティー、キャゼルヌはブラックコーヒーを注文する。ウェイターがテーブルを離れた後、キャゼルヌは口を開いた。
「オルタンスとは今日、デートの約束をしてない。お前さんに用がある」
ヤンは苛立った声を出した。
「今は原稿の締め切りに追われてるんで、忙しいんですが」
「原稿って何だ?ああ、雑誌に送り付けてる怪文書か」
「怪文書じゃありません。雑誌に寄稿する記事と言ってください」
「俺にとっては、どっちもあまり違いはないがね」
ヤンは相手を睨みつける。キャゼルヌはテーブルに置かれた数冊の本を見ながら言った。
「今度は何の題材について書くんだ?」
「第2次ティアマト会戦です」
キャゼルヌは少し虚を衝かれたような表情を顔に浮かべた。
「アッシュビー提督か。それはちょうど良かったな」
ヤンは訝しげな視線を相手に送る。何がちょうど良いのか。キャゼルヌはヤンの疑問に構わずに言葉を続けた。
「お前さん、やってくれたそうだな」
「急に何ですか?」
「国立自治大学の学長は知ってるか?名前はエンリケ・・・」
キャゼルヌは携帯端末を取り出した。数秒の間に何か調べた後で話を続ける。
「エンリケ・マルチノ・ボルジェス・デ・アランテス・エ・オリベイラだ」
ヤンは首を横に振った。
「そんな舌をかみ切りそうな名前の人物は知りません」
「お前さん、その学長に喧嘩を売ったそうだな。この店で紅茶のことでいっぱしに講釈を垂れたそうじゃないか」
「ああ、あのお爺ちゃんですか。そんなこともありましたね」
ヤンは老人の顔を思い出した。国立自治大学といえば、以前に左派系のメディアから「政府の官僚を育成するための施設」と揶揄されていた。老人の雰囲気もその学長である点からうなづける。指先まで自信と優越意識が充満しているような人間で、ひたすら不快だったことだけが印象に残っている。キャゼルヌはため息を吐いた。
「教授に説教した女はこの店の常連。その常連がお前さんだと知った時の俺の気持ちは分かるか」
「後を尾けてたんですか?それじゃストーカーですよ、先輩」
「茶化すな」
今度はキャゼルヌがヤンを睨みつける番だった。険悪な雰囲気は犬も食わない夫婦喧嘩そのものだった。不意にその雰囲気が変わる。2人は男性のウェイターに声を掛けられて顔を向ける。
「お待たせしました。コーヒーとミルクティーになります」
「ミンツ大尉か」キャゼルヌは言った。
ミンツは苦笑を浮かべる。
「大尉はやめてください。もう軍は辞めたんですから」
「知り合いだったんですか?」ヤンは言った。
「彼は俺の部下だったからな。軍に入る前は会計士だったよな」
ミンツはうなづいた。キャゼルヌの言う通りだった。軍ではその経歴を人事にかわれたのか、一貫して補給や通信など後方勤務に配属されていた。今はこの喫茶店でバイトに近い身分だが、いつかは会計事務所で働くつもりである。そのことは明かさなかった。
「良いですねえ」ヤンは言った。「自分も早く辞めて優雅な暮らしを送りたいですよ」
「いま辞めても勤続年数が短いから、年金は貰えんぞ」
「分かってますよ」
ミンツが口を挟む。
「常連さんがキャゼルヌ中佐のお知り合いだとは・・・」
「ああ、大尉に紹介しよう。名前はヤン・・・」
「ヤン・ウェンリーです」
ミンツは驚いた表情を浮かべる。
「ヤン・ウェンリー?『フリープラネッツ・ヒストリカル・レビュー』で記事を書いてるライターの方ですか?」
「ええ、そうですけど・・・」
「いやあ、嬉しいな。自分は貴方の記事が大好きでよく読んでるんです。そうだ、雑誌を持ってきてるので、サインをお願いしてもいいですか」
ヤンはうなづいた。ミンツは慌ててカウンターの奥に走って行った。キャゼルヌはその様子を見ながら言った。
「お前さんの怪文書にファンがついてるとは思わなかったな」
「怪文書じゃありません。記事と言ってください」
「俺にとっては、どっちもあまり違いはないがね」
宇宙歴788年。ヤン、キャゼルヌ、ミンツの3名が織りなす人間模様は後世の歴史から見れば、ある意味で1人の少年の運命を決定づけたと言えるだろう。無論、3名にそうした事実は知る由も無かったのである。