クリスチアン・オレウィンスキーは典型的な叩き上げで、艦隊司令官にまで登りつめた人物である。戦闘指揮は猪突猛進そのもの。戦いぶりは献身的であり、短期決戦の破壊力なら他のどの提督よりも勝った。だが粗野な下士官型の前線軍人の例に漏れず、苦境では精神論をよく唱え、部下に対しては鉄拳制裁も辞さない姿勢は性格が正反対だったトパロウルの不興を買った。2人の反目はダゴン星域会戦の緒戦時に早くも表面化した。
7月16日、帝国軍の縦深陣に誘い込まれて挟撃されたオレウィンスキー率いる第5艦隊は早々に兵力の3割を喪失した。この時にリン・パオがオレウィンスキーの失策を一言もとがめなかったのは有名な話だが、その裏でトパロウルはハイネセンの国防委員会にオレウィンスキーの更迭を要請する通信文を出そうとしていた。
結局、オレウィンスキーは更迭されなかった。幕僚のオルトリッチが総参謀長を宥めて思いとどまらせたと言われている。オルトリッチ自身もオレウィンスキーに対しては良い感情を持っていなかったが、指揮官更迭による第5艦隊の動揺を恐れた末の行動だったと回想録に記している。だが、この時の行動が果たして最良の選択だったのかとオルトリッチは生涯悩むことになる。
7月19日、同盟軍は「爆発的攻勢」に転じる。その攻勢に最も乗じたのは無論、オレウィンスキーだった。同盟軍は勝利を収めたが、第5艦隊は最も大きな損害を出して、会戦後も艦隊の再建に最も時間がかかってしまった。
・・・オレウィンスキーは会戦に参加した指揮官の中で唯一、戦功による昇格はなく、艦隊司令官からも降ろされてしまう。それでも彼は軍を辞めなかった。いくつかの閑職に回された後、再び艦隊司令官に返り咲くまでに10年近い歳月を要した。
艦隊司令官に再び就任した後のオレウィンスキーに関しては、軍内で不名誉な噂が常につきまとった。民間人や捕虜殺害の嫌疑が一度ならずかけられている。特にオレウィンスキーを悪名高く印象づけた事件は宇宙歴649年、惑星ビルケナウで現地人殺害の指揮を執ったというものである。
惑星ビルケナウはイゼルローン回廊近くにあり、旧帝国領だった。オレウィンスキーは第10艦隊を率いて周辺の星系から帝国軍を放逐し、ビルケナウに駐留基地を建設するべく惑星に降下した。彼は第10艦隊司令部を母体にした占領軍政府を設立し、元帝国臣民に対する宥和政策を積極的に取った。だが現地の反同盟運動は熾烈をきわめ、衝突は避けられなかった。現地人と占領軍兵士の双方に死者が出るほどだった。
衝撃的なニュースはフェザーンからもたらされた。ビルケナウで駐屯基地に使用する土地の接収に反対した村―リディツェで住民数万人が虐殺されたという報道だった。ビルケナウの人権オンブスマンによる告発で判明した。なお、この告発には占領軍司令部で作戦参謀を務めていたコクラン中佐が関係していた。良心の呵責に駆られたコクランは軍を辞め、上官の告発に至ったとマスコミに話している。
本件に関して幾度かの簡易軍法会議が開かれた。だが、いずれも証拠不十分またはその事実なしとして無罪判決が下されている。批判は噴出した。一般市民から政府寄りとみなされているマスコミも、身内に甘い軍が戦争犯罪人を庇っていると紙面に書き立てた。
652年、オレウィンスキーは「サラキア星域会戦」において戦死する。享年41歳である。この戦いにおけるオレウィンスキーの指揮は精彩を欠き、一方的に帝国軍に翻弄されて完敗を喫した。戦死後も階級は中将のままだった。殉職による二階級特進の措置は取られなかったのである。
・・・オレウィンスキーは私人の立場では、好人物で篤志家だった。後に残された妻や3人の娘たちには優しい父親に過ぎなかったとされる。自分の給与から少額を毎月、児童保護施設に寄付していたことも判明した。遺産も総額の半分を福祉事業に贈与することが遺書に定められており、彼の人物像は現在でも毀誉褒貶が相半ばしている。