アーネンエルベの兎   作:二ベル

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アーネンエルベ②

 

 

 

 

 天候は快晴、轟くは雷鳴、そして鳴り響くは勝者を称える歓声。

しかし歓声は、歓喜は、すぐさま悲鳴に塗り替えられた。

 

 

一瞬。

一瞬の出来事だった。

破壊、破砕、粉砕。

笑みを浮かべ、女神の元へと戻ろうとしたベルは、ソレの進路上にいた。女神を愕然とさせ、『正義』の眷族の介入の時を奪い、民衆の驚倒をさらいながら、美神が用意した舞台に笑いながらジョーカーを叩きつけ台無しにする。住民達が悲鳴を上げる暇さえない瞬間の狭間。赤髪を揺らす『冒険者』の避難を促す声など委細構わず、体中に無数の傷を刻んだ暴力の塊は猛進をもって、ベルを、ベルだけを狙って。

 

「―――ッッ!?」

 

『ヴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』

 

血塗れの威容、何者かに痛めつけられた体皮。

瞳が映す戦慄の塊を前にベルは本能にしたがって、急迫するソレから繰り出される死の一撃から逃れんと、腕を交差させ後方へ跳んだ。そのベルの動きに合わせるように、視界に一瞬、稲光が映るとベルを庇うようにして()()()()()()()()()()()が現れる。

 

『ンヴゥッ』

 

「―――」

 

風を無理矢理に引き裂くような音が鳴り、アーチを描く岩のような拳は、ベルの腹に吸い込まれるようにして収まった。青白く稲妻を発する老人などお構いなしに切り裂き、ベルの華奢な体さえもその拳で握りしめている禍々しい大剣が傷付けた瞬間。

衝撃が爆ぜた。

 

「がっっ!?」

 

視界の振動。

体の中の空気が引きずり出され、そのまま後方へ吹っ飛ばされる。

咄嗟に後ろへ跳んだことで、大剣による斬撃の威力が半減しベルの腹を掠めるに終わった。勿論衝撃の全ては殺しきれない。あのまま凍り付いたままでいれば間違いなく上半身と下半身がお別れをしていた。

ベルは決河の勢いで吹き飛んで、まっすぐ人家の壁を突き破り侵入した。

 

「~~~~~~っ!? ・・・・ぁ、つ!?」

 

防具など着けていなかった体が猛烈で、けれど声にもならない悲鳴を上げる。壁の一部が音を立てて崩れ、ベルに石片や木片、ガラス片が雨あられと降り注ぐ。

刃が掠めた腹に手が触れると、ぬちゃりと夥しい量の血液が手を赤く染め上げた。同時に傷口から感じるのは焼けるような熱さ。

 

『フゥウウウウウウッ・・・・!』

 

「・・・・・!」

 

ようやく認識できたソレを見てベルはある御伽噺を思い出した。

【不相応な望みを持ち、幾多の思惑に翻弄され、それでも愚者を貫いた、一人の道化の物語】。

そこに現れる、二本の角を持つ敵。

その名を、『ミノタウロス』。

 

 

「・・・なんで」

 

なんで、こんなところにいるんだ。

どうして、僕なんだ。

そんな動揺と本能的な死を直感して体を震わせるベルを見据え、生々しい傷を体中に刻んだミノタウロスは天を仰いで喉を震わせる。

 

『ヴヴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!』

 

 

ミノタウロスは吼え声を都市中に轟かせる。

見つけた獲物に歓喜するように。

赤い髪の女に刻み込まれた恐怖心を叫ぶことで忘れるように。

どこかで見ているだろう黒い髪に金の瞳の神に教えられた『白』に怒りをぶつけるように。

 

 

 

×   ×   ×

東メインストリート付近、高台屋上。

 

 

「レヴィス・・・・仕事をしすぎだろう」

 

 

エレボスは風に髪を揺らしながら、くつくつと笑った。

まだ『冒険者』達が見つけることができていない()()()()にいる胸の中に極彩色の魔石を埋め込んだ怪人の顔を思い出して地上で出来上がった破壊の爪痕を見つめて回想する。

 

――おいレヴィス、暇だろ? 抱いてやるから牛を一匹育ててくれ。

 

――死にたいのならそう言え。

 

――おいおい俺は真面目だ。それにお前、中身はアレだが容姿は抜群だろ。抱き心地の良さそうな体をしやがって。そんな体になっても抱いてくれる男がいたら女としてはどうなんだ?

 

――・・・・死ね。

 

――まぁ待て待て、真面目な話だ。Lv.2かLv.3上位に相当するミノタウロスだ。それが欲しい。あとは白髪を狙うように教育しておいてくれ。

 

――何のためにだ。

 

――何・・・・観賞用だ。武器を持たせるも持たせないも、やり方はお前のセンスに任せる。

 

 

センスに任せた結果が、禍々しい大剣という呪道具(カースウェポン)を持たせるに至っていることにエレボスは若干「おっかねぇ」と思うものの起こってしまったことは仕方がないとばかりに嘆息する。あのミノタウロスに出来上がった生々しい傷は、レヴィスによるものなのだろう。いったいどこで何をしていたのか知る由も術もないが、徹底的に恐怖を刻まれたらしい。その証拠に体中の傷からは今もなお少量とはいえ出血を伴っていた。

 

 

「弱った獣ほど厄介な相手はいないぞ・・・・さあ少年、どうする?」

 

 

美の女神が用意した舞台をお構いなしに台無しにしてみせた悪神は笑う。ミノタウロスの姿が土煙で見えない以上、下手に動けば民衆を危険に晒す。主神たるアストレアを守らねば、最悪送還という事態に至り『正義』はオラリオから失われる。そして『恩恵』を失った憐れな眷族達は猛牛に貪り殺される。ならば彼女達の最優先事項はベルの救出ではなく、第一に主神、第二に咆哮(ハウル)で動けなくなってしまった民衆なのだ。ましてやこの場所に【アストレア・ファミリア】二人以外の冒険者はいない。『闘技場』付近で発生したモンスターの脱走に対処しているか、祭に興味がないと本拠で休暇をとっているか、ダンジョンに潜っているか、闘技場でトラブルが起きていることなど知らずに観戦を楽しんでいるか、だ。

 

もしも。

 

 

「もしも・・・・()()()()()()()()()()()、ここで出て行けばお前が何かをしたんじゃないかと怪しまれるぞ? 何せ最初のシルバーバックは明らかにアストレアを狙っていたんだからな」

 

 

フレイヤの背中を瞳に映しながら、エレボスはわざとらしくそんなことを言った。

 

 

×   ×   ×

とある人家の屋根。

 

美の女神フレイヤはギリッと親指の爪を噛んだ。

アストレアの眷族とはいえ、お気に入りの子供が自分が用意した舞台で花を飾ったというのに、一瞬にして台無しにされたどころか塗り替えられた。ましてや突如現れたミノタウロスは全身に生々しい傷があるとはいえ、ベルを圧倒できるほどの力で吹っ飛ばしてみせたのだ。本能的恐怖と、弱った獣だからこその『生存本能』による強化が成されたミノタウロスは、さらに呪道具(カースウェポン)まで持っている。それに加えてベルは武器を損失している。

 

「まったくもって不公平(アンフェア)で勝負にすらならないわ・・・・どこの誰だか知らないけれど、やってくれたわね」

 

不快感を表に出すフレイヤに傍にいたオッタルが声をかける。

 

「・・・止めに入りますか?」

 

「そうね・・・そうしたいところなのだけれど・・・」

 

ここで【フレイヤ・ファミリア】の団長が介入するのはできれば避けたい。そもそも最初に事を起こしたのはフレイヤだ。ベルを溺愛しているアストレアやその眷族達ならば、ここで介入したオッタルから『モンスターの脱走』ということと、『アストレアが狙われた』ということから怪しむのは間違いない。【勇者】ほどでないにしろ、【紅の正花(スカーレットハーネル)】は勘が良いのだ。『ミノタウロス』をけしかけたのも【フレイヤ・ファミリア】だと思われれば余計に面倒なことになりかねない。

 

「やられた・・・と言うべきかしら」

 

「フレイヤ様?」

 

「・・・・さっき」

 

「?」

 

「さっき、ベルが吹き飛ばされる寸前、()()()()()()姿()の老人があの子の前に現れたの」

 

恐らく、それがベルの魔法の効果なのだろうとフレイヤはほんの僅かな時間の中で見たものから推測する。雷属性の付与魔法かと思ったが、それはきっと効果の一つでしかないのだと。

 

「なら、あの子の魔法が消えていないことを願うしかないわ」

 

どちらにせよ、私達にできることはないもの。そう言ってフレイヤは銀の瞳を輝かせて一瞬、背後を睨んだ。

 

 

 

 

×   ×   ×

 

 

 

 

お祖父ちゃんの顔を。

叔父さんの顔を。

お義母さんの顔を、見たくなった。

 

両親を知らなかった僕の前に現れた二人の『英雄』。その中の一人は本当に血の繋がった『家族』にして名実ともに育ての母。

 

お祖父ちゃんが『美女美少女を侍らすのは浪漫だよなー』と言えばお義母さんは「福音(ゴスペル)」と呟いてすべてを吹き飛ばし。

 

お祖父ちゃんと僕が『男だったらハーレムだー!』とはしゃいでいたら、読んでいた本をぱたりと閉じて「福音(ゴスペル)」。

 

お義母さんとお風呂に入っている時に『儂も一緒に入る☆』とお祖父ちゃんが飛んできて、一秒後には家から強制排除される。侵入を禁止すべく畑の真ん中に首から下を生き埋めにする徹底ぶり。

 

お義母さんが僕と一緒に寝ようとすると『儂もベルと一緒に寝るゾイ!』とベッドに入り込もうとしてきたが、「福音(ゴスペル)」で全てが終了した。

 

壁と屋根どころか、家が消えて綺麗な星空が見えてガタガタ震えてお義母さんの抱き枕になったのを時々思い出す。何より、家を建て直すのも巻き添えを食らって瓦礫の海に沈むのも叔父さんで、ひょっとしたら叔父さんが一番可哀想なのではないかと幼児だった僕でも同情するほどだったけれど、叔父さんは「気にするな」といつも頭を撫でてくれた。

 

四人だけの家だったけれど、とても楽しかったのを覚えている。

お祖父ちゃんがくれた絵本をお義母さんに読んでもらって、「ぼくも おかあさんたち みたいになりたい!」と言って「私達みたいにはならなくていい」と言われたこともあった。

 

お義母さんに不思議な夢の話をしたことがある。

その時は初めて見るほどに、お義母さんは瞼を開いて驚いたような顔をしていたけれど、僕がじっと見つめていると溜息をついてから、それは僕が本当のお母さんのお腹の中にいるころの記憶と生まれたばかりの頃の記憶なのだと教えてくれた。

 

 

――僕の本当のお母さんは、僕が『英雄』になったら嬉しい?

 

――かもしれないな。

 

――じゃ、じゃあ僕!

 

――だが、メーテリアはお前に『優しい人』になってほしいと願っていた。

 

――でも僕・・・ゼウスとヘラの最後なんでしょ? なら、ならなきゃ・・・

 

――どうして、ならなきゃいけないんだ?

 

――・・・わかんない。 僕が『英雄』になれば、きっと、誇りに思ってくれる気がしたから。

 

――大丈夫だ、お前は十分私達の誇りだよ。こうして元気にいてくれるだけで、私は嬉しい。メーテリアもきっとそう言うはずだ。

 

 

アルフィアお義母さんは、黒いドレスを着ていた。綺麗なお義母さんで、自慢のお義母さん。本当のお母さんは双子の妹で、もしかしたらお義母さんとは逆で真っ白なドレスなんじゃないかと子供みたいに妄想したことだってある。

 

結局、三人でオラリオに来てから四人での生活は終わってしまったけれど。

大切なことをいっぱい教えてもらった。

 

 

『剣も女も、人生さえも、思い立った時こそ至宝』

と叔父さんが教えてくれた。正確には叔父さんはお祖父ちゃんから教わった言葉らしいけれど。

 

『死にそうだったら助けを求めろ』

とお祖父ちゃんが教えてくれた。とにかくやばかったら逃げろ、怒った女の人にはすぐに謝れとも。

 

『人生を楽しめ、それが格好良く生きるということだ』

とアルフィアお義母さんが教えてくれた。

誰かの手を借りなければ生きられなかったからこそ、僕の本当のお母さんは『生きる』ことの尊さを忘れなかった。己を卑下せず、感謝を忘れず、地獄のような苦痛にも屈せず・・・・・笑みを浮かべながら、今を生きることを誰よりも噛みしめていた。そんな自分の妹のことが、きっとあの人は格好いいと思ったんだろう。

 

 

今の僕には、もう三人はいない。

どこかへと旅立ってしまった叔父さん。

幸せそうに永遠の眠りについたお義母さん。

そして、世界のどこかへ行ったお祖父ちゃん。

 

三人の顔が、見たくなった。

 

 

『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』

 

 

お義母さん。

僕は、あなたのいない世界でどうやって歩けばいいんだろう。

 

 

×   ×   ×

人家の中。

 

 

「・・・・ぅ、ぁ」

 

 

 腹の傷を押さえるベルは、呻き声と共にほんの一瞬飛ばしていた意識を覚醒させる。掠めただけなのに、血は一向に止まろうとはしてくれず、黒色のシャツに赤い染みを作り上げていく。遥か視線の先にいるミノタウロスは、破壊によって生まれた土煙のせいで姿こそ見えないが、自分という存在を誇示するかのように大剣を携え、吼え声を上げているのが殺気という圧力からビリビリと感じ取れる。

吹き飛ばされる刹那の時間にベルの瞳に映ったミノタウロスはそれ自体が重鎧のような体躯で、体中に痛めつけられたかのような生々しい傷が幾つも見受けられた。それこそあの赤い体皮はその傷から流れた血によって染まったのではないかと思えるほどに。

ベルの頭に勝てない、という言葉が頭の裏を何度も反響する。

姉達の口から聞いたことがあっても、自分の目で見るも対峙するのも初めて。『咆哮』による強制停止(リストレイト)を受けていないのは直後に吹っ飛ばされたせいなのか、ベル自身が唱えた魔法の効果なのか。それを知覚する余裕すらない。ましてやベルは呪術(カース)の存在すら知らず自分の腹の浅い傷から流れる血が止まらない理由を推測することもできずにいった。

 

 

――力が、入らない。 アストレア様達は・・・巻き込まれて・・・ない、よね?

 

 

なんとか立ち上がった膝が、今にも折れてしまいそうだった。

もくもくと互いの間を遮るようにしていた土煙が徐々に晴れて、光の向こうに立つ巨大な影がベルの瞳に映る。

 

 

『フゥゥ・・・・!』

 

「・・・・っ!?」

 

差し向けられた視線の切っ先が、全身に悪寒を走らせる。

誘発された冷たい電流が、初めて対峙するモンスターに対する恐怖を呼びさまし、その代わりに、こみ上げていた脱力感を一斉に追い払う。ベルの意志とは別に、本能が死から遠ざかろうと藻掻いていた。

 

 

――このまま突っ立っていたら、殺される。 動かなきゃ・・・でも。

 

ベルは左手で腹を押さえて逃げ道を探した。探したけれど。

 

 

『ゥウウウウウウウウウウウウウウウウウッ!』

 

そこは人家の中。

自分の家ですらないのなら、最早そこは密室も同然で、急な場面転換と状況についていききれていない脳が混乱するせいで思わず呼吸が止まる。ベルが激突した壁を背にしていればあの巨体によってあっという間に逃げ道を塞がれてしまうだろう。ベルはもうヤケクソとばかりに自分が吹っ飛んできたことで人家に出来上がった穴。ミノタウロスが立つ場所から外に出るしかないと決断する。ベルの決断と同時にベル目掛けてまっしぐらに進んで接近してくるミノタウロスに向かってベルも全力で走る。

ドゴンッドゴンッドゴンッ、と地面を踏み潰しながら迫りくるミノタウロスは壁のよう。

正面からの急迫。

震える瞳の中で、凶悪な牛面が大きくなり―――。

 

 

『ヴムゥンッ!』

 

「と・・・・っべぇっっ!?」

 

迫りくるミノタウロスが振り下ろした大剣の一撃を、ベルもまた地を蹴り込んで宙に身を投げる。正面からの攻撃に対し、刃を躱すように体を捻り頭から飛び込む形で跳躍、回転。バチバチ、とベルの体に雷電が迸らせ、ミノタウロスを飛び越えると、間を置かず飛び越えた後ろで爆砕音が鳴り響き、戦慄しながらも地面の上をごろっと前転してすぐ立ち上がり走る。

 

『ヴゥァアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!』

 

「っ!!」

 

人家の中に突撃したミノタウロスは自分の真上を飛び越えたベルへと振り向くと強靭な下腿が床に踏み込んだ瞬間、ベルとの間合いを一気に零にした。瞳を見開くベルの前で、両手に持った呪いの塊がフルスイングされる。

 

 

――誰かッ!?

 

 

泣きそうな顔になりながら、風の悲鳴に促されるままベルは全力で膝をたたんで間一髪、その必殺をやり過ごそうとして・・・・()()()によって後方へ引っ張られながら運ばれていることに気が付く。すると次の瞬間にはベルの上半身があったところを大剣が凄まじい勢いで通過し、衝撃波が再びベルを吹っ飛ばし後方へと転がった。

轟音が鳴り響くが、なおも濁流のような猛攻は終わらない。大力をもって振り回される禍々しい大剣が大気を唸らせ、抉りとる。長いリーチを誇る剣撃はベルをどこまでも追跡し逃さない。時折おり交ぜられる拳打や蹴りが体のすぐ側を舐める度に、ベルは寿命が削り落とされていく思いをした。呼吸は荒く、動悸はうるさい。けれど、そのすべてのミノタウロスからの猛攻は、常にギリギリでの回避を何者かにさせられていた。剣が振り下ろされる、襟を引っ張られて後ろに飛ばされる。拳打がくる、拳とは逆の方向へと引っ張られる。蹴りがくれば、それも同様に。強要される際どい回避の連続、一歩間違えればすかさず死に繋がる状況がベルに、自分の身に何が起きているのか考えることを許してくれない。頭は鼓膜が壊れてしまうのではないかというほどに、警鐘が収まらない。

 

気が付けばベルは擦り傷だらけになっていた。ミノタウロスの攻撃を避け続け、床を転げまわった結果だ。腹の出血よりマシではあるが余裕などなく、満身創痍に一歩踏み込んですらいる。

武器もなく、唯一できる抵抗はただ逃走するだけ。常に一歩間違えれば死ぬという綱渡り。

 

 

『ヴゥンッ!!』

 

「・・・ガッ!?」

 

 

何度も攻撃を避ける白兎に苛立ちでも募らせたか、ミノタウロスは地面へと大剣を叩きつる。轟音が鳴り響き、石畳は破壊され硬質な散弾として逃げるベルの背中を打ち付けた。短い悲鳴と、コヒュッという肺から空気が強制的に吐き出される音が鳴り無様にベルは前へ前へと跳ね転がり、それが一、二、三、四と転がったところで停止する。

 

 

「ぅ・・・ぁ・・・」

 

 

ずるずると這いつくばるように、そして体を起こそうとして座り込むような体勢で、がくりと首を折る。ズシン、ズシンとミノタウロスが近づいてくる音が耳朶を震わせる。

 

「アストレア様・・・・ごめんなさい。お義母さん・・・・ごめ、なさい」

 

――そういえば、シルバーバックと戦った時から僕の体に纏わりついてる(これ)は、結局なんだったんだろう。

 

諦めたように、悲しませるだろう女神に対して心の中で謝罪する。

あまりにも早く、そちらに行くことを申し訳なさそうに心の中で謝罪する。

そして、今もなお体を覆っている雷電に瞳を照らされて関係のないことを思考して。

 

 

『ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』

 

「・・・・・・()()()()()()

 

振り下ろされる大剣が目前に迫り、諦めたように笑みを浮かべて口にする。

瞬間。

 

 

『オオオオオ・・・・オオオ、オオオオ・・・!?』

 

「?」

 

振り下ろされる寸前だった大剣が止まり、ミノタウロスの困惑の声が上がった。

次いで。

ガシャァン、というガラスの割れる音が鳴った。ベルの背後にあった建造物のものだった。それはまるで高所から雷でも落ちたかのように煙を上げ、無残にも砕け散ったガラス片が地面へと降り注ぎ、跳ねる。それを瞼をぎゅっと閉じて必死に腕で体を庇おうとするもガラス片がベルを傷付けることはなかった。いつまでたっても自分を寸断しない大剣と降り注ぐガラス片の音と痛みの走らない体に困惑し、ゆっくりと瞼を開けると。

 

 

「・・・・・・え?」

 

『フウッ・・・・ヴゥゥッ、ウウウッ!』

 

ベルの瞳には、複数の男女がいた。誰も彼も生者ではないのだと断言できるほどに、青白く、表情はわからず、バチバチと全身が雷でできているかのよう。二人の男女が自分の体と同じく雷でできたかのような旗を槍のようにしてミノタウロスへと穂先を向けていて、後ろから抱きしめるように()()()()()()()()()がベルの腹の傷に触れている。それだけではない。パリン、パリン、と石畳の上に敷かれたガラスの道を踏みしめて()()()()()()が、これまた雷でできたような大剣をミノタウロスへと向ける。まるで、「これ以上近づくな」と言うかのように。

最後に。

見開かれるベルの瞳に映ったのは、ミノタウロスの背後から悠然と歩いてくる人物だった。

 

 

「ぅ・・・・あ・・・っく・・・!」

 

 

本物であるはずがない。

その人物さえも雷が人の形をしているとしかいいようがなかった。けれど、それでも瞳を潤ませ歪ませるには十分だった。何せその人物は、ウェーブのかかった灰色の長髪に、漆黒のドレスを身に纏ったベルの知る大好きな『英雄』にして『母親』だったのだ。彼女はミノタウロスの横を通り過ぎるとベルの横さえも通り過ぎて、涙をぽろぽろと流し出して口を歪めるベルに振り返るように立ち止まる。

 

 

――『頑張ったな』

 

 

そう彼女の横顔が微笑んだように瞳に映る。瞬きをすればそれは当然気のせいで、彼女達の表情は幽霊のようにわからない。思い出の中のアルフィアがそう言っているのだとベルの中で錯覚しているだけだ。だけど、それだけで、瞼が熱くなった。彼女達に憧れていたことを思いだした。ほんの少しだけ悔しいと思って歯を食い縛って笑みを零した。頬を伝う涙を拭って、鼻を啜って、ベルの置かれている状況なんて誰も知らないかのように晴れわたる空を見上げて思い出の中のアルフィアのことを思う。

 

 

――英雄(かのじょ)達はいつだって諦めない・・・・だから・・・!

 

 

「もう少しだけ・・・・頑張ってみるね・・・叔父さん、お義母さん。だから・・・・ちょっとだけ、()()()

 

 

ゆっくりと支えられるようにして立ち上がる。

いつの間にか腹の傷から流れていた血は止まっていて、ベルは自分を支えるようにして寄り添うアルフィアによく似た女性を見て。昔、心の中で描いた本当の母親の姿を見て唇を曲げた。戸惑い、動けないでいるミノタウロスをベルは睨みつけ拳に力を込めて眦を吊り上げる。

 

「そっちの攻撃は終わり?」

 

『!?』

 

「なら、今度はこっちの番・・・」

 

『・・・・ヴォ?』

 

「文句ある?」

 

 

ベルを包む雷電が強く奔り、深紅(ルベライト)の瞳を輝かせ、大地を蹴り、防ごうと動き始めたその大剣が届くよりも速く、小柄な体はまさに稲妻の如き勢いでミノタウロスへと躍りかかり―――。

 

 

「おおおおおおおおおぉぉぁぁあああああああああ!」

 

『フウッ・・・・ヴォオオオオオオオオオオオオオオッ!?』

 

 

 

その威容の怪物の鼻柱に、思い切り飛び膝蹴りを叩き込んだ。

 

 


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