「なんですって?」
雨に濡れた髪を拭っていたアストレアが、驚きと共に「USOでしょ?」と手に持っていたタオルを床に落としてしまった。喫茶店から本拠へと戻ったアストレアはまるでこの世の終わりが来たかのような顔をした眷族達から「ベルが都市外に」なんて聞かされたのだ。神に嘘は通じないとはいえそんなことを口にしてしまうのは無理のないことだった。
「ベル、外」
「アリーゼ、ショック」
「倒れた」
「【剣姫】も、外」
「ラキアに、して、やられた」
「ヘスティア様、誘拐」
「「「じゃが丸君、販売終了のお報せ」」」
全員が本拠に戻っているわけではない。少なくとも外はまだ、ヘスティアが連れ去られただのラキアから密入国がどうだのと騒がしくしている。つまるところ、【アストレア・ファミリア】が引っ込むわけにはいかないのだ。それでも本拠に戻ってきている眷族達は項垂れ、膝を抱え、ぽたぽたと髪から雫を滴らせ、壊れた人形のように天井を見つめては焦点の合わない瞳を揺らしている。相当ショックなのだろうことは容易に見て取れる。アストレアは口元を引き攣らせた。
「貴方達、片言になっているわよ……ベルのことは心配だけれど、貴方達はまず濡れている体を拭きなさい。女の子が身体を冷やすものではなくってよ」
眷族達にそれぞれタオルを渡してやる。
ノインにイスカ、マリューとセルティ、そしてリャーナ。
頭からぼふっとふわっふわのタオルを被り、無言のままにわしゃわしゃと水分を拭き取る眷族達を見てアストレアは吐息を一つ零す。
(アリーゼは部屋で眠っているとして、外にいるのはアスタとネーゼ、ライラ、リューに輝夜ね)
恩恵は一つとして減っていないことから、ベルが生存していることはわかった。次に外で活動しているだろう眷族達の名を頭の中で浮かべて、はて、これからどうしたものかと思考する。
(
都市内なら最悪人手を使えば探し出すことはできる。けれど、都市外ともなれば事情は異なる。ラキアの軍団がいようとも眷族達が負けることはないと確信を持てるが、地の利はこちらにはなく、まして『下界』は広いのだ。探し出すなど容易ではない。
「輝夜はどうしたの? ベルと一緒にいたはずでしょう?」
「「「っ!」」」
アストレアの問いに、ノイン、マリュー、リャーナが肩を揺らす。ベルと一緒に廃教会で生活していることは【ファミリア】内で情報を共有しているとはいえ、ここ数日顔を一切合わせていないわけではない。ベルが都市外に出たとなれば、寄り添っていた輝夜のことを案じてしまうのは、彼女達も共通するところ。故に、彼女達は輝夜に会い、女神に報告しづらいがために肩を揺らしたのだ。
「……マリュー?」
「え、えっとぉ……」
名指しされたことで、マリューが言いにくそうに俯いたままなんとか言葉を紡ごうとする。結論からして、アストレアは再び冒頭と同じ言葉を口にすることとなった。
「都市門の外側で、その、
「……………なんですって?」
× × ×
? ? ?
ぱちぱち、と火が弾ける音が響いている。
部屋の中を橙色に染め、室内を温める暖炉の炎。冷えた身体を癒す優しい温もりに瞼が何度も落ちかける度、アイズは顔を大きく左右に振って眠気に抗った。目の前にある
「女神様達のご容態は、いかがですか?」
「え、と……村長さん……大丈夫みたいです、今は二人とも寝ています」
ノックの音と共に入って来た男性の老人―カームという名らしい。村長という立場だ―にアイズは立ち上がる。高齢のヒューマンは少女に付き添われており、皺だらけの顔で「良かった」と安堵の笑みを浮かべた。
ラキア軍―正確には軍神アレス―に誘拐されたヘスティアを救出するべく追いかけていたアイズ達は紆余曲折を経て、『エダスの村』に足を運んでいた。
『エダスの村』はベオル山地の奥深く、周囲を険しい絶壁で閉じられた山間部にある小さな人里だ。まるで隠れ里のようにひっそりと山間の中に存在する村に、偶然にもずぶ濡れとなって途方に暮れているアイズ達を見つけた村人によって案内された時は二人は驚いた。こんな場所に村があるなんて、と。用があって都市の外に出たヘスティアを待ち伏せしていただろうアレスに連れ去られ、追いついたと思えば足を踏み外したヘスティアが崖下の川に落ち、それをベルが追いかけてーーーとまあ彼女なりに事情を説明するアイズを、川の様子を見に来た若者の村人達も二つ返事で迎え入れてくれた。現在は村長のカームの家で女神と少年を休ませてもらっている。濡れた服は麻の服に着替えさせてもらっている。アイズは彼等の厚意に何度も頭をぺこぺこさせ、言葉足らずなりに精一杯の感謝の言葉を述べ、何度目かというほど今もカーム達に頭を下げた。
「本当に、ありがとう……ございます。ヘスティア様と、ベルを助けてくれて……」
「顔を上げてください、アイズさん。この程度のことで―――」
と、言葉の途中で、ごほっごほっ、とカームが咳き込む。折り曲がるその身体を付き添いの少女が両手で支えた。娘であるらしいヒューマンの少女―リナというらしい―は、早く部屋に戻ろう、と心配そうに声をかける。緩慢な動きで彼女に手を上げるカームは、ゆっくりと上体を起こす。
「あ、あの、無理をされないほう、が……!」
「いえ、大丈夫です……アイズさん、この家をどうか好きに使ってください。困ったことがあれば
アイズもおろおろと慌てる中、身体が弱っているカームは、
「村長さん、病気……なのかな……」
まだ出会ったばかりだけど、運び込まれた一柱と一人―特に女神―に驚いて、すぐに献身的過ぎるまでに取り計らってくれたカームにアイズは感謝の念で一杯だった。アイズ1人ではきっと、どうしたらいいのかと右往左往してしまっていたことだろうからだ。それだけに終始良くなかったあの老人の顔色に、心配が募った。
再び、アイズはベルとヘスティアの看病に戻る。二人のベッドの間にアイズは椅子を置いて座り、交互に二人の顔を見ては
「君は……戦えなくなっちゃったんだね」
それはアレスの手からヘスティアを助け、崖から落ち、川に流され、渓谷の底を走った。そもそもベルが都市門を越えたこと自体が驚きだ。何せ、事情説明を聞いてヘスティアを救出しにいくと言ったのはアイズではあるが、その場にはベルはいなかった。彼女の後ろから追い抜くようにして、彼は外に出たのだ。まるで癇癪の言いなりになるように。
『――ィアアアアアアアアアアアッ!!』
「!?」
谷間を駆け抜ける二人に、甲高い怪物の吠声が届いた。前方から、そして頭上から無数の影が翼の羽ばたき音とともに迫ってくる。
「『
地上に進出した
「ベルはそのまま走って」
私が倒すから。そう言って猛禽のごとき黄眼をギラギラと光らせ襲い掛かってくる『ハーピィ』の大群に、アイズは一陣の風となって疾走。抜剣音とともに迎え撃ったのだ。金の長髪が翻り、前方から迫るハーピィがまとめて斬断される。
「――――ぁ」
絶叫と血飛沫、そしてベルとモンスター達の驚愕を生み出したアイズは、眦を鋭くし銀の剣を閃かせた。
『――――――――――アァァッ!?』
降りしきる雨の中を数え切れない黒い羽毛が舞い散る。
岸を駆け、跳躍し、岸壁を蹴りつけ、渓谷の中を高速移動する金髪金眼の女剣士。四方八方から迫る禽獣達が斬られては金切り声を上げて絶命する。指示通りに女神を抱えながら駆ける少年の周りを金の輝きと銀の斬閃が縦横無尽に、それこそ
「ベル、大丈夫だった…………ベルっ!?」
ここ最近のベルの様子をアイズは知らない。派閥が違うのだからそれは仕方のないことだし、グランドデイの出来事の後に「ありがとう」と言ったあとに半狂乱に泣かれてしまって以降は会うこともなかったから余計にだ。駆けていたはずの足はとっくに止まっていて、蹲り、何度も「ごめんなさい」と言うベルの顔色は青白かった。翼ごと体を断たれた何匹ものハーピィが激流に落下し、呑み込まれ、岸の岩場にも数え切れない怪物の死骸が転がって鮮血に染まる渓谷を、雨が洗い流す。そんな光景を他所にアイズはベルの背を摩り、動揺する。
(どうしよう……どうしたら……)
ヘスティアは意識を失っているし、身体が冷えている。声をかけても返事はない。早く何処かで休ませなければいけない。だというのにベルは
『おぉーい! 誰かいるのかー!?』
氾濫しかけている川が進む先から、響いてきた人の声に心の中の
「ベル……もう少しだけ、走って」
「………っ」
ベルから半ば強引にヘスティアを奪うようにして抱えるとアイズはベルの手を引いて声の下へと駆け寄り、そして現在は『エダスの村』に至る。
回想から意識を浮上させたアイズは、うわ言のように「ごめんなさい」と言うベルの前髪を分けるように頭を撫でる。今にも目尻から涙を零しそうな彼の頬を、優しく撫でる。
「……何があったの?」
返事はない。
ただ、こんなになってしまっているベルをアイズは見たことがなかった。アルフィアの時もこうだっただろうかとも考えてみたが、どうも違うような気がしてならない。
「オラリオとは連絡ができないし……助けも、うん、期待できない……少なくともヘスティア様が元気になるまでは、この村から出ない方がいいと……思う」
ベルのことも気になるけれど、恩恵持ちである以上まだヘスティアよりもマシだと考えてヘスティアの容態を優先する。オラリオに帰った時に
『都市外に出た? 許可もなく?』
「……っっ」
絶対零度の眼差しをこちらを見つめてくる仁王立ちのアミッドが脳裏に浮かび、アイズは思わずぶるり、と身震いした。あ、ダメかもしれない。急に都市に出たベルを何とか見失わないように「手伝って」とかなんとか言って二人を連れて帰れば一石二鳥☆とかアイズにしてはキレッキレの冴えに冴えた作戦だったが、よくよく考えれば現在のアイズ達は『行方不明者』になるのではないだろうか? そう思うと、余計にアイズは
「ど、どどどど、どうしよう…………!?」
右に左にとヘスティアとベルの顔色を窺いながら、独り言を零すその絵面は笑えてしまうのかもしれない。けれど、アイズ自身も見たこともないベルのこんな様子に動揺してしまっていて心細くなっている上に恐ろしい想像を働かせてしまったのだから、どうしようもない。
「わ、わわ、私も……寝よう……ッ」
アイズはもぞもぞと、白いもふもふに救いを求めるようにベルのベッドへと潜り込んでしまっていた。その日、草原の中で白兎にバチグソ抱き着いてもふもふを堪能する幼女……の、夢をアイズは見た。
「…………はわわわ」
そんな眠りについている少年少女の光景を、
「こ、これが冒険者様……っ!」
何が冒険者なのか、とツッコミを入れねばならない言動だがここにツッコミを入れてくれる者はいなかった。ヘスティアの無様な「店長~じゃが丸君、てんぷらスイカ味は良くないよぉ~」という意味の分からない寝言が聞こえた気がしたが、リナはアイズとベルの健やかな寝顔と苦し気な寝顔を交互に見た後、そっと扉を閉めた。男女が一つのベッドで眠っているのだ、邪魔をしてはいけない。
× × ×
エダスの村
ベルが家出を初めてから4日目。
村に入った翌日にベルとヘスティアは目を覚ました。まず最初にアイズに抱き枕にされていたベルが声にならない声で悲鳴を上げて目を覚ました。その次にアイズが目を覚まし、逃げ出そうとしてベッドから転がり落ちたベルを見て割とガチでショックを受けて涙目になっていたところで、ヘスティアが目を覚ます。
「うぎぃ……」
「大丈夫かい、ベル君」
苦悶の音をあげるベルに、ぼんやりと気だるげなヘスティアが声をかける。とりあえず目を覚ました二人にアイズは安堵して胸を撫でおろしたが、朝食の用意ができたとわざわざ声をかけに来てくれたリナがヘスティアの体温を計った後、まだ安静にしておいたほうがいいと言われ
「若いお二人だけにしておいたほうがいいかと思いまして」
「?」
「さ、流石に、女神様の御前で……その、よくないと思いまして」
「??」
「だ、大丈夫です! 何も見てませんから!?」
「???」
そして、ベルが家出をしてから6日目の朝。
「ごめんよ二人とも」
「気にしないでください、ヘスティア様」
「まさか『じゃが丸君』の素材をとるために売り子の子供達と外に出たらこんなことになってしまうなんてね……」
「その、大変でした……ね」
「そうなんだ、僕には眷族は一人だっていやしないし、かと言っておばちゃんが困ってるのを放っておけないし……ガネーシャが『じゃが丸君』のためなら仕方ないって、まあ僕を信用してくれたから面倒な手続きを省いて出させてくれたんだろうけど」
ぜぇーったいガネーシャ、絞られてるだろうなあ。と頬をぽりぽりとヘスティアは掻いた。実際、ガネーシャは絞られた。めっちゃ怒鳴られた。
「俺がガネーシャです……」
「声がちっさいわ! いつものはどうした!?」
「お、俺があああああああ、ガネーシャだぁああああああああ!!」
「うっさいわ、ボケェ!! 余計な仕事増やすなやぁ!!」
「ほげぇええええええええ!?」
なんてキレたロキにドロップキックを喰らわせられていただなんてヘスティアは思いもしないだろう。まあロキがキレる理由なんて、よりにもよって
「ヘスティアに借りなんぞ作っても、何の得にもならへんねんぞ!? あいつ、眷族おらんねんぞ!? 何の旨味もないねん!! ラキアに攫われた? 知らんがな! 眷族もおらん神攫って何の得があんねん! これが仮にもフレイヤやアストレアならまだわかるわ! いや、暴力でラキアが滅ぼされる未来しか見えへんねんけど、まだわかる! ……
ボロッくそに言うロキにドン引くガネーシャの眷族とギルド職員達がいたなんてアイズ達の知る由もない。
「ロキのやつに借りができちゃったなあ……うーん……僕、何も返せないしなあ……ヘファイストスに……なんて考えても、断られるのわかってるし……」
うーんうーん、と頭を悩ませるヘスティア。部屋の窓の外で、ヒューマンや
「あの、ヘスティア様」
「ん? なんだい、ヴァレンシュタイン君」
「『じゃが丸君』てんぷらスイカ味って何ですか? 寝言が、その、聞こえたんですけど」
「おいおいそれは新作づくりに根をつめ過ぎた
「………ごくり」
「いや、迷信だぜ? 普通に美味しくなかった」
「ヘスティア様が美味しくない……っていうなんて……」
それはつまり、誰が食べても口に合わないのかもしれない。アイズはまだ出会ったことのない『未知』のじゃが丸君への想いを馳せかけて、ガクリと項垂れた。ベルはすごく、そんな二人の会話を微妙そうな顔で眺めていた。
少し遅めの朝食をとった後。
「二人とも、僕のことはいいから……お祭りの準備を手伝ってきてくれないかい?
そんなヘスティアの言もあって、今は二人して外で行動を共にしている。アイズはリナに着せ替え人形にでもさせられたか、普段の
「………変、かな?」
素朴な可愛らしさを引き立たせるアイズは、自らの服を見下ろしてベルに問うた。
「似合ってると、思います」
麻の服を貸してもらっているベルは、アイズをじっと見つめて、視線を逸らして、素直に褒めた。アイズは短く「そっか」とだけ零して、頬を淡く染めて困ったように照れてた。
「君が【ファミリア】のお姉さん達の着せ替え人形にさせられていた時の気持ち、わかった気がする」
「?」
「この村、広いんですね」
「ん……元はエルフの集落だったんだって。だからだと、思う」
地面の水溜まりが青空を映し出す中、ベルとアイズは周囲を行き交う村人たちに声をかけ、祭の準備を手伝い始めた。『エダスの村』は存外に広く、四方を森に囲まれている。背の高い木々、そしてベオル山地の絶壁によって隠れる山間部の村は確かに発見しづらく隠れ里という表現は正しいのだろう。既に二人の情報は広まっているのだろう、
いくつもの民家が並ぶ村の中央、広場には卓や焚火の準備がなされ、既に設営が始まっている。普段は猟師をやっているらしいたくましい男達に指示を聞き、ベルはアイズと共に村中を回っていた。
「アイズさん」
「ん?」
他種族の村民達が子供も総出で準備に精を出し、あっという間に時間が経て、夕刻。木材や飾り付けを運び回っていたベルは、村の中でとあるものを何度も見かけて、足を止めていた。どこか不気味で、漆黒の光沢を放つ、まるで黒曜石のような物体。大きさはベルの胴体ほどもあり、村の外縁、森の境目に沿って石碑のように置かれている。まるで村を守るように設置された黒塊についてベルはつい尋ねると、近くにいたらしい獣人の女性が答えた。
「それは……黒竜
「――えっ?」
耳を疑うように、声が漏れた。
空が血の滲んだ夕暮れの色に染まる中、女性は続ける。
「もうずっと昔、英雄様にオラリオから追い払われて、北に飛び去っていった時、この集落に欠けた鱗が落ちてきたんだってさ」
それは長命なエルフの里の民から受け継がれているという村の伝承だった。
「この鱗にね、モンスターは怯えて近付かないらしくって。私達は黒竜様のおかげで怪物の住処に囲まれるこの村で、無事に生活を送れるんだ」
鱗から発散される竜の王の気配、あるいは力の波動。
隔絶した怪物の存在を本能で感じ取ってしまうモンスター達は恐怖し、寄り付かず、そのおかげでこの『エダスの村』は平穏を保たれているのだろう。二人を他所に、女性は両手を合わせて瞑目し漆黒の鱗を拝む。
「……モンスターを祀るなんて、おかしいってことはわかっているんだけどねぇ。でも私達を生かしてくれているのは冒険者でもなければ、神様でもない……この鱗なんだ」
そして何より、恐れているのだ。
いつか暴虐の怪物が沈黙を破り、世界に破滅をもたらす日を。
彼の存在の恩恵を、
つまるところ、この村は災害に等しい怪物を祀って鎮めることで、今日の平和が明日も続くように願う……竜の信仰が根付く村だったのだ。
「まぁ、いつか黒竜様がいなくなれば、私達もこんな真似をしなくなるんだけどねぇ……っと、なんだかしんみりしちゃったね。さ、準備を早く終わらせようじゃないか」
顔を上げて笑う女性に、ベルは頷き返し運ぶ途中だった木材を抱え移動した。作業があらかた終わり民家の間を歩いて、二人は石小屋の前で佇んでいた。中には例の鱗の破片が飾られている。その前に食べ物など供物が捧げられているところを見れば、これが祭壇であることがわかる。村を守る存在に祈りを捧げる場所なのだろう。ベルとアイズが無言で視線を注いでいて、そんな二人の背中を夕日が赤く染め上げる。
「……ベルは、黒竜のこと、知ってる?」
長いような短いような沈黙の後、アイズがベルの袖をくいっと引っ張って言った。ベルは瞼を閉じて思い出の中をひっくり返すように思考を巡らせてから首を左右に振った。
「ただ―――」
「ただ?」
「手も足も出ず、無様に逃げ出した……って、そんな話を昔、アストレア様にお義母さんが話しているのを、聞いたことがあります」
「そっか」
「はい」
それはきっと、まだベルが小さかった時の話だ。
偶然聞いてしまった、そんな話だ。
「…………盗み聞きは駄目、だよ?」
沈黙を挟んで、ようやく出た言葉がこれだった。
「アイズさんは……?」
また沈黙が生まれて、今度はベルがアイズに問う。
アイズはうーんと唸ってから、先程の獣人の女性の言葉を思い出し、まるで神のように崇めているのを思い出し口ずさむ。
「少なくとも」
ふつふつと湧いてくるのは黒い感情だ。
低く、凍てついた平定の言葉。
「あれは神様なんかじゃ、ない」
永遠にも感じられた僅かな時間の後、アイズはベルの手を取って「戻ろう」と言ってから小屋の前から歩み出す。ベルは半歩ほどアイズの後ろを歩くようにしながら、ふと小屋へと振り返る。
「
「…………君はたまに、変なことを考えるんだね」
二人肩を並べて、村の奥にある複数ある木造りの民家の中でも一段と大きい村長の家に戻り、ヘスティアの様子を見に部屋へと向かう。ノックの後に扉を開けると、そこにはカームの姿があった。女神は寝ていて、すぅすぅと寝息を立てている。そんな女神をカームは
「ご安心を。女神様には何もしていません」
「……?」
(ベル、何もしてないってどういうことかわかる?)
「どうか、したんですか?」
(アイズさんにはまだ早いです)
「!?」
(!?)
カームは緩慢な動きで、自分の身体をベル達に向き直らせた。二人のやり取りがカームに見えたかどうかはわからないが、ベルに何を言われたか狼狽えるアイズの姿につい老人は笑みを浮かべる。仲の良い姉弟なのだろうなと。
「ベルさん」
カームはベルを見つめる。
ベルとアイズは首を傾げる。
「少し、この老いぼれに、時間を頂けませんか」
通されたのは、家の奥、カームの自室だった。
村長の部屋らしく書類らしき羊皮紙の束や羽根ペンがあるが、動かした形跡が見られず、どうやら最近は使われていないようだった。
「ごほっ……!」
「あ……っ」
不意に、カームが咳き込んだ。
慌てたベルが駆け寄ろうとすると、彼に手で制される。
「どうか、お気になさらないでください。自分のことは、自分がよくわかっております」
痩せ気味の身体は中背で、ベルと同じか少し高い。くすんだ色の白髪を揺らすカームに微笑を向けられ、心配しないでくれと告げられる。窓の外が茜色に染まって更に暗く、夜の色に変わっていく中、カームはややあって棚から取り出した何かを机の上に置く。年季を感じさせ、掠れているせいでうっすらとしか見えない『火』の
「ベルさんは、これが何かわかりますか?」
「……【ファミリア】の、エンブレムです、か?」
ベルの回答に、その通りですと微笑を浮かべながら頷く老人は続けて自身の過去を打ち明け始めた。
「私は昔、とある女神様の眷族でした。私はあの方を慕い、そしてあの方も私を愛してくださった。私達は、愛を誓いあいました」
「…………っ」
女神と、愛を誓い合った。
きっとそれはおかしな話ではない。神々が降臨する前にまで遡れば、それこそ『精霊』とヒューマン、
「ですが、私はあの方を守れませんでした。唯一の眷族として、お守りすることを誓ったにもかかわらず、モンスターの爪が彼女の身体を切り裂き……逆に私は助けられ、あの方は天界へと送還されてしまった」
もう50年以上も前になる、とカームは当時の記憶を振り返っているのか、視線を虚空に飛ばしながら語った。旅の途中で凶悪なモンスターの群れに襲われ、カームは女神を失ったのだと。女神に崖を突き飛ばされることで彼は一命をとりとめ、そして失意の底に落ちた。生きる希望を失ったカームは、一度は命を捨てようと、この『ベオル山地』に赴いたらしいけれど、結果からして彼はこの村に辿り着いて、そして女神に救われた命を捨てることができなかった。図らずも似た境遇の者達と出会い、温かく迎えられ、涙を流した彼はここに骨を埋めることを決めたのだと言う。女神が送還されたことで封印された
「ベルさん、貴方が望むなら、この村に残っても構いません」
「…………え?」
「貴方は、かつての私にどこか似ている……そんな気がするのです」
目を見ればわかるとでも言いたげに、彼はベルを見つめる。ベルは俯き、視線を泳がせ続ける。
「なんで、そんな……」
「この村は、もとを辿れば
神々の降臨を機に外界に興味を持ったエルフの若者は村をどんどんと出て行き、代わりに他種族の世捨て人が入ってくるようになったのだと老人は続ける。現実に絶望した者、危険から逃れてきた者、叶わぬ恋を貫くため相手と駆け落ちした者。それこそ
「だからこそこの村はベルさんのような余所者にも親身に接してくれる者が大勢います。ここは、行き場を失った漂流者のための隠れ里なのですから」
そんな隠れ里の長だから、この村にやってきたベルを見て勘づいたのだろう。似ている、と。碌に会話すらしていなかったのに、カームは女神を優先して心配していたのに、それでも感じるものがあったのだろう。再びごほっ、と口を押えるその姿にベルが口から音を漏らして心配すると、彼は優しい笑みを浮かべた。
「僕、は……」
締め付けてくるような胸の痛みに藻掻くように握り締めて、ぽつぽつと懺悔を漏らす。老人は何も言わずベルの言葉を噛み締めるように聞き入れる。
「一緒に旅をした、はずなのに……
きっとそんな風に見えてしまったのは、人類に近しい姿をしたモンスターだったからだ。アイズが斬り殺すたびに、女神の遺体が川に落ちていくよう見えて、光を失ったその瞳が「どうしてちゃんとしてくれないの?」と訴えてくるように思えて苦しんだ。
「僕のせいで、
アルテミスから逃げて、アストレアからも逃げて。
挙句の果てには、寄り添ってくれていた姉からも逃げ出して、自分を知らない外の世界に逃げ込んだ。こんな卑怯な自分に正義などありはしないのだとベルは瞳に映る視界を歪めて吐露する。喉を震わせて、まだ出会ったばかりの老人にこんなことを言って何になるんだと最後には押し黙っていると、ベルの小さな手をしわくちゃな手が包み込んだ。はっと顔を上げると老人はやはり優しく微笑んでいた。
「貴方は優しい方だ」
「違う、僕は……卑怯者でっ」
「こんなにも苦しんでいる方が、優しくないはずがない」
「……っ」
「貴方はまだ若い。選択肢は沢山あるのです。この村に残るも良し、女神様達と帰るも良し……できることなら、帰ることをお勧めします。だって貴方にはまだ、帰りを待つ大切なお方がいるのでしょう?」
「どんな顔をして……帰れば」
「それは勿論、存分に貴方の想いを吐き出して、涙を流し、最後には笑い合えるのが一番でしょう。『ただいま』と言えるのが一番でしょう」
「…………」
ベッドの淵、隣り合い腰を下ろして老人に手を包み込まれながら喉を震わせ目尻から涙を零しながら、カームに『もしも』の自分を浮かべ、そして老人もまたベルに『もしも』の自分を浮かべてそうあってほしいと年長として言葉をかけ、慰める。
片や女神を手にかけてしまった、旅の道程を忘れてしまった少年。
片や女神に命を救われ、愛しを誓い合った日々を忘れはしなかった老人。
老人は優しく、皺だらけの顔を歪めて微笑んで「大丈夫です」と繰り返す。
「大丈夫です、ベルさん。例え貴方の言うように逃げたことが『原因』であったとしても、貴方が『元凶』ではないのです。出会ったばかりの私も、貴方を知る良き方々も、そこは絶対に否定しません。だから、この村を出る気になったのなら、貴方の大切な方々の下にお帰りください。私のように……後悔してはいけない」
× × ×
男の子の嗚咽が聞こえた。
ベルが中々部屋に戻ってこず、気にしすぎだとヘスティアに言われつつも幼馴染の男の子が心配で、廊下をうろうろしていたアイズの耳によく知る少年の、気にかけていた彼の泣きじゃくる声が聞こえて村長部屋の前で扉を開けようかどうしようか迷っていた。ドアノブに手をかけて、扉越しに聞こえた僅かな会話から、カームが決してベルに責め苦を与えているわけではないのだと疑っていたわけではないが、理解し、どうしようかと頭を唸らせた。
「…………ベルは、オラリオに帰るのかな」
ふと、そんなことを口に零してぶんぶんと顔を左右に振る。金の長髪が揺れ乱れる。オラリオから彼がいなくなるなんて考えたこともない。いなくなったら、きっと寂しい。それは間違いない。何より、アイズはまだベルと仲良くなりたいという願いを成就させていない。ロキにだって教えられた、アルフィアを亡くしたばかりのベルを傷付けてしまったあの日に。
「幼馴染っちゅーのは、そうそう出会えるようなジャンルやないんやから、大切にせなあかんで?」
ジャンル云々は
「ちょっとだけ……」
ドアノブを捻り、そっと隙間から中の様子を窺った。
そこには老人に胸を借りて泣きじゃくる男の子がやはりいて、それこそ『祖父』に甘える『孫』のようなそれで、きっとカームはアイズですら聞かせてもらえなかったベルの気持ちを聞いて、長く生きていたからこその言葉をかけたのだろう。それが少しばかり、羨ましいようにも思えて、胸がもやもやとして、扉をそっと閉じた。
「――――アイズさん?」
「!?」
と、そこに
「ベルさん、あまり喋らなかったので何かあったのかなって思ってたんです」
「……!」
「この村って、父も含めて色々あった人達の集まりみたいなものですから。雰囲気といいますか、わかっちゃうんです」
苦笑するリナに、アイズは瞠目する。
きっと、カームと同じく、村にやって来た3人の中で特にベルの様子がおかしいことに気が付いていて、そっと様子を見守っていたのだろう。
「父が女神様に献身的にしているのは、きっとかつての自分を重ねていたんだと思います」
若かりし頃の自分達を重ね合わせ、失わせまいとしてくれた。そしてもう女神は大丈夫だと判断して、今度はベルに手を差し伸べたのだ。
「私、は……いつもあの子を傷付けてしまって、本当は、仲良くしたいのに」
「仲、悪いんですか? 良さそうに見えますけど」
「その、口を利いてくれないわけじゃなくて、時々怯えられちゃって……」
「じゃあ、えっと、お祭りで踊ってみては?」
「!」
「ほら、外を見てください」
いつの間にか日が完全に没し、茜色の光は消え失せ、窓の外は宵闇に包まれていた。祭りの設営がされた広場では村人たちが集まり既に賑わっていた。広場の中央には太い丸太が組まれ、今にも焚火が始まろうとしている。
「今日は豊穣を祈るお祭りで、まあその、仕来りというわけではないんですけどゴニョゴニョ……」
「?」
結婚していない男性からの誘いがどうのだとか、女性が受ければ晴れて恋人だとかなんとかリナは言っていたが、頬を染め、桶の中の水をちゃぷちゃぷ揺らしながら恋に焦がれる乙女のように右に左に体を揺らしていたが、アイズにはイマイチ聞こえていなかった。
「この格好で、大丈夫ですか?」
「大丈夫です! アイズさん、綺麗ですし!」
フンス!と鼻を鳴らす彼女はやがて、テテテッとヘスティアのいる部屋へと向って行った。一人廊下に取り残されたアイズは、窓に映る自分の顔を見て、着ている衣装を見下ろして変なところはないかと普段はしないような素振りをした。もしここにロキやティオナ達がいたなら「アイズが可愛いしてる」「野生の可愛いだ」とか言っていたかもしれない。
× × ×
迷宮都市―星屑の庭―
「アリーゼ、大丈夫?」
「ア、アストレア様!? ちょ、待ってください、今着替えている最中なので!?」
ノックをしてから、扉を開けようとしてアリーゼの素っ頓狂な声が響く。しかし時すでに遅し、アストレアが顔を覗かせてみればアリーゼは髪色に負けないくらいの真っ赤な下着を身に付けただけの姿を晒していた。
「ごめんなさい、どこかへ出かけるの?」
「ベルを探しに行こうかと!?」
「もう外、真っ暗よ?」
「寝なければいけます!」
「成程……なる、ほど?」
その理屈はおかしいのではと思う所をアリーゼは自信満々に薄い胸を張って言ってのけたせいでアストレアは納得しかけた。いやいやもう時間も時間だし都市外の地理など知る由もないのだからすっかり日の落ちた地上を走り回らせるようなこと、させられるわけもない。
「あの子なら大丈夫よ、きっと帰って来るわ」
「それは、そうかもしれませんけど……でも、でもぉ」
もとはと言えば『遠征』云々の話を聞かれてしまったことが原因ではあるが、もっと言えばベルがアリーゼの話をちゃんと聞かなかったことにも原因はある。というか、偶然聞いて勝手にネガティブに思い込んで飛び出したことが原因でしかない。アリーゼに非はないのだ。
「帰ってこなかったら、どうしよう……」
「あの子はもう14歳よ、過保護になりすぎては駄目」
「そうは言いますけどアストレア様……」
じゃあ、その、と言いにくそうに下着姿のままのアリーゼがアストレアのことをまじまじと見つめる。どうしたの、と首を傾げる女神に眷族は言う。
「アストレア様、寝間着……前と後ろ、逆になってませんか?」
「!?」
思わず飛び跳ねるように身に付けている
「ち、違うのよ、これは、その、違うの」
「アストレア様、紅茶をお持ちしました……ってなんでアリーゼは下着姿? いや、めっちゃ真っ赤だし」
勝負下着かよ……と若干引いた顔をするネーゼに、アストレアはトレイの上の紅茶を受け取り、トポトポと砂糖をぶち込んでいく。それを見て、二人の眷族が唖然と固まる。
「「アストレア様、やっぱり滅茶苦茶動揺してるじゃないですかぁ!?」」
どんだけ入れるんですか!? お体に悪いですよ!? と正義の戦乙女達は慌てふためいた。主神ともども白兎がいないだけでポンコツと化していたのだ。
× × ×
エダスの村
「…………!」
「へぇ、いいじゃないか!」
「……綺麗」
既に火がつけられている大きな焚火の光に、ベル、ヘスティア、アイズはそれぞれ反応を示す。焚火の周囲では料理が振舞われ、村人達は飲み物を片手に賑わっていた。楽し気で温かな祭の光景に女神もアイズも、泣き腫らしたように目元を赤くするベルも目を細めてしまう。
「あ、女神様!」
「お体はもう大丈夫なんですか!?」
そこへ、ベル達に気付いた村人達が集まってくる。
数日を
「本当に、大丈夫なんですか?」
「ああ、大丈夫さベル君。いや、ぶっちゃけると寝すぎてしんどいくらいで身体を動かしたいくらいなんだ」
というか、君の方が大丈夫かい?とヘスティアがベルの顔を覗き込むようにずずいっと迫ってくる。それを顔を逸らすことで逃げるベル。まさか村長のことを「お爺ちゃん」なんて言って、昔そうしていたように泣きついていたなんて流石のベルも言えなかったのだ。というか、知られたくなかった。蓋をしていたものを吐き出したせいか、わずかにスッキリしたような感じもあったが、知られたら恥ずかしさの余り穴を掘ってしまう気がしてならなかった。
顔を逸らすベルに、顔を覗き込むヘスティア。それをキョトンとした顔をして眺めているアイズという不思議な絵面に村人達もけらけらと笑い声をあげる。
「村長さんは?」
「咳き込んじゃって、眠ってます」
「……そっか」
アイズが話題を変えたことで、ヘスティアも諦めたのか料理を取りにツインテールを揺らして村人達の下へと駆けて行った。二人取り残され、無言の時を少しばかり。
「ん……?」
そこへ、歌が聞こえてきた。
村人達の陽気な歌声と手拍子。目を向けると、焚火の周りではいくつもの男女が二人組となって踊りを始めていた。
「!」
アイズはこれがリナの言っていたベルと仲良くなるチャンスなのだと理解。アイズは歓喜した! 必ず臆病白兎と仲良くなればならぬと決意した! アイズには踊りがわからぬ。アイズは、善良な剣士である。風を纏い、モンスターをバチグソに殲滅して暮らしていた。けれども幼馴染の機微には、人一倍に敏感であった。
「………」
「………」
アイズの隣で、何を思うでもなく膝を抱えて焚火を眺める白髪の男の子。自分も同じくして、けれどどこか期待してそわそわしながら膝を抱えて焚火を眺めてはチラッチラッと男の子のことを見るアイズ。アイズは知っていた、こういうのは男の子の方から誘ってくるものだということを。
(リヴェリアだって言ってた。男の子から誘って、女の子が受ける……これが王道だって)
今踊っているのは若い青年や少女達で、ヒューマンやエルフ、ドワーフに獣人と種族の組み合わせはばらばらだ。共通しているのは、皆、嬉しくも照れたような表情を浮かべているということ。料理を手に取って村人達と会話しているヘスティアは何も知らなかったのか、側にいた年配の
「ベル」
「?」
「豊穣を祈るんだって」
「そう、ですか」
「うん」
少し離れたところから、「もしよければ女神様も踊っていってください!」とか「どうか豊作の恵みを!」なんて豊穣を司っていないことなど関係ないのか、女神の祝福を願う村人達にヘスティアは困ったような笑い声を上げていた。やがて、小さな子供達に引かれるようにして若者達と交じって踊り始めた。全ての孤児の保護者とでもいう彼女のその在り方がそうしているのか、ヘスティアと踊っている小さな子供達はそれはもう満面の笑みを浮かべていた。
しかし、まるで空間を切り取ったかのようにアイズとベルの場所だけは沈黙が続いていた。
「ベル」
「?」
「…………」
「…………」
1分、2分、と遅々として先に進まない。
アイズは「あるぇ?」と「おっかしーぞぉー?」と心の中の
(誘ってくれない……? どうして……?)
知らないのも無理はなかった。
ベルは祭のことは聞いていたが、踊り云々については聞いていないのだから。ましてや、誘うという発想自体が今、浮かびもしていないのだから。
「アイズさん」
「!」
きた! とアイズはぐわっとベルへと顔を向けた。心の中の
「ヘスティア様は元気になったから、帰るんですか?」
「…………え?」
思ってたのと違った。
誘いですらなかった。
アイズショック。
ベルはアイズのことを見ず、焚火を眺めながら、そして時折空にある丸くない月に目を細めながら続ける。
「僕は、どうしたらいいんでしょう……」
白髪を揺らして、俯くベル。
アイズはおろおろしながら、必死に、なんとか、言葉を紡いだ。
「ベル、は、どうしたい……の?」
「…………帰りたい、んだと思います」
でも、とベルは言う。
失敗してしまった自分が、逃げた自分が帰ったところであの正義の女神様はどんな顔で迎えてくれるのかと。つまるところ、怖いのだ。そんなベルに、アイズは何と言ってやればいいのかわからない。ベルの身に何があったのかわからないからだ。
「アストレア様は、ベルを突き放すようなことしないよ」
それだけは、わかる。
あの強く気高いお姉さん達が、ベルをどれだけ可愛がっているかなんてアイズにだってわかる。アストレアも含めて、そんな彼女達がベルを「どうしてできないの?」と斬り捨てるとは思えない。というか、あり得ない。
「でも……お義母さんにはきっと、失望される」
それだけのことを、僕はしたんだとベルは言う。膝に顔を埋めて、もごもごと言うベルはすっかり弱虫だった。そんな彼の頭をせめて撫でようとして、手が止まってゆっくりと自分の膝を抱きかかえる。
「何があったのか、聞いてもいい?」
「…………」
「きっと、グラン・デイの時に何か、あったんだよね?」
再会して、「ありがとう」と言ったあとベルが泣いてしまった。その時のことはしっかりと瞼の裏に焼き付いて離れずにいる。何かがあった、ベルの心に消えない傷となる、【ファミリア】からも逃げ出すほどの決定的な何かが。少しの間を置いて、ベルは意を決したように顔を上げてアイズに顔を近づけて口を開く。踊っていたヘスティアは焚火の周りを何度目かぐるりと回ったようで、へとへとしながら子供達と座り込み始めていた。
「ぼ、僕、僕は……ッ」
自らをさらけ出すような、或いは罪人の告白を行おうとするベルの言葉を村の奥から高い声が遮る。
「―――女神様!」
一人の女性の影が女神の下へと走って行く。カームの娘―リナ―だった。何かただならない様子にベルは肩を揺らして口を閉ざす。
「…………え?」
アイズも聞き逃し、思わず言葉を漏らして立ち上がる。
リナはヘスティアの前で息を切らしながら足を止める。不意に、彼方から木霊してくるモンスターの遠吠えが耳朶を震わせてくる。まるで凶兆を告げるかのような怪物の叫びと、今にも泣き出しそうな目の前の少女の表情に、誰もが胸をざわつかせた。やがて涙ぐむリナは胸を押さえ、声を絞り出すかのように、喉を震わせる。
「父の、天への旅立ちを……見届けて頂けませんか?」
ベルとアイズ、ヘスティアが部屋に駆け込むと、そこには義理の息子達に囲まれながら、
「…………」
「ベル?」
ベルは無意識に、隣に立つアイズの小指を摘まんでいた。瞳を泳がせ、身体を震わせる。
「……父が、最期にお会いしたいと」
息子の一人が告げた言葉に、いよいよベルは声を失う。
そんな、だって、祭が始まる前まで普通に話をしていたのに――と。
「……あぁ、女神様。来て頂いて、ありがとうございます……」
「……水臭いな、カーム君。あれだけ世話になったんだ、呼ばれれば飛んでくるさ」
カームの瞳が女神を見つけ出し、笑みを浮かべる。
ヘスティアもまた淡い笑みを浮かべながら、
後のことは、言うまでもなく。
守れなかったかつての主神へと必死に押さえ込んでいた嗚咽を漏らして、涙を零した。
彼はヘスティアと息子、娘達に看取られて、天へと旅立ったのだ。
「ありがとう、カーム。私を愛してくれて」
「ブリギッド様、私もっ……俺もっ、愛しています」
そう言って、安らかな顔を浮かべて旅立ったのだ。
× × ×
森の中
月の光が差し込んでいる。
獣の声も怪物の雄叫びも途絶え、静寂が満ちる森の中。
ぽっかりと開けた木々の一角で、ベルは一本の樹木を背にしながら、座り込んでいた。
「こんなところにいたのかい、ベル君」
膝を抱えてうつむいているベルのもとに、葉擦れの音を立てて、ヘスティアが現れる。村から北に進んだ森の奥。カームが天に旅立った後、ベルは一人、この場所へやって来た。村長の
「……ごめんよ、君とはあんまり話をしてやれてなかった気がしてさ」
「……」
女神がベルの隣に腰を下ろす。
蒼然とした夜の闇に見下ろされながら無言を交わす中、僕は俯いたまま口を開いた。
「ヘスティア様……」
「なんだい?」
「僕は……」
一度後ろに視線を向けて、空に浮かぶ月を見つめながら、ベルはとうとう己の罪状を打ち上げた。
「僕は………アルテミス様を殺しました」
耳朶を震わせるのは風に揺れる葉の擦れる音。
流れるのは、沈黙の時。
ベル達に背を向けて、木に背中をくっつけて話を聞いていたアイズは目を見開いて言葉を失った。そして、どうしてベルが泣いてしまったのかを理解した。なるほど、あの時の私の言葉は「女神様を殺してくれてありがとう」と、そう、言ったのと同義だったのだろうとようやく理解したのだ。
「そうか、君が……」
目を細めるヘスティアは、空に浮かぶ月を見つめる。
ベルと同じように。
「何も」
「ん?」
「何も、覚えていないんです」
「………」
「アルテミス様を殺したってことだけを覚えてて、あの最後だけを僕は覚えてて、それまでの数日が、思い出せないんです」
それは、誰にも言えなかったことだ。
側にいてくれた輝夜にだって、言えなかった。いや、忘れていることに気付いた時には言い出せなかったのだ。怖くて怖くて、言い出せなかった。逃げたという自分の行いを覚えていて、結果だけを突き付けられて、アルテミスとの旅の思い出を綺麗さっぱり消し去られている。【
「カームさんは僕のことを、どこか似たものを感じるって言ってくれた……でも、僕は、そんなんじゃない、最低なヒューマンなんです」
やがて「ごめんなさい」とか細い声で言うベルに沈黙を貫いていたヘスティアは溜息を零してから、ベルを抱きしめた。肩を跳ねさせるベルを逃がすまいと頭をわしゃわしゃと撫でてから、ヘスティアは言葉をようやく紡いだ。
「許すよ」
「っ」
「アルテミスは僕の神友なんだ、だから、許す」
「でも、僕は、許されないことを……!」
「知らないよ、そんなの。だって僕は見てないんだから。アルテミスは僕に何も言わずにいなくなった、そして君は何も覚えてない。そんなの、あんまりじゃないか」
何も覚えていないということは、『思い出』がないということ。
それは死んでいるのと同じじゃないか、とヘスティアは胸の内でベルの身に起きたことをおおよそ想像して、毒づいた。事実、あの時、ベルからオリオンへと変わったほんの一瞬、アストレアはベルの恩恵を感じ取れなかった。すなわち、ほんの一瞬とはいえ、ベル・クラネルという存在は世界から消えたのだ。死んだのと、同じなのだ。
「それに……僕一人くらいは君のことを許してもいいはずだ」
泣きじゃくるベルの背中をヘスティアはあやすように摩る。気づけば、ベルは蓋していた激情をぶちまけていた。
「役立たずでごめんなさい!」
槍の使い手として選ばれたのに、その役目さえ全うできなかった。
月女神へと懺悔する。
「期待外れでごめんなさい!」
【ゼウス】と【ヘラ】の最後、置き土産。なんてベルの出自を知る誰もがそう言う。けれど、何もできなかったと今はどこにいるのかもわからない祖父に懺悔する。知らない内に背負ったモノの大きさに耐え切れなくなって、引き返せなくて、絶望してしまっていた。
「僕なんかが、貴方の息子で、眷族で――――ごめんなさい!」
もう世界のどこを探してもいない義母と、きっと帰りを待ち続けているあの優しい女神に懺悔する。自分の中に『正義』なんてものがないことに気が付いて、申し訳なくて謝るしかなくって、やるせなくて、合わせる顔がない。
「君は………」
ヘスティアは、正直なところベル・クラネルという少年のことを良く知らない。新参の神だから、というのがもっともな理由ではある。ただ、オラリオにやってきて、ヘファイストスやデメテル、ミアハにロキ、ガネーシャ、その他諸々、ベルのことを知らない神はいないというくらいには、知られている、或いは好ましく思われているという事実は新参のヘスティアからしても「珍しい」と思ってしまうほどだ。神だけにあらず子供達にだって、知られている。怪物祭でシルバーバックとミノタウロスを連続討伐したという話は彼への期待へと拍車をかけるのには十分すぎるものだったのだろう。そして極めつけは、【静寂】のアルフィアの息子にしてかつての最強の二派閥の置き土産というのを聞いた時には、「アルフィアって誰だい?」とは思いつつも、ゼウスやヘラが出てくるとなればヘスティアだって、「おお、なんかすごそうな子だな」と思いもした。
でも、実際にそこにいたのは、【ゼウス・ファミリア】のベル・クラネルでもなければ【ヘラ・ファミリア】のベル・クラネルでもない。【アストレア・ファミリア】のベル・クラネルであり、ただ優しいだけの男の子だったのだ。
「君はもっと、アストレア達に自分の気持ちを正直に打ち明けるべきだったんだ……こんな、ボロボロになって、困った子だなあ」
幼子のように泣き喚く少年を、ヘスティアは聖母のようにあやす。きっとここまでベルが気持ちを吐き出したのは、女神との再会を願って旅立った、守れなかったことを悔いて最後の最期に涙を零したカームのおかげなのだろう。
「なあ、ベル君聞いていいかい?」
泣きじゃくるベルの背中を摩って、しばらく、ようやく落ち着き始めたベルを見て後ろで待機していたアイズへと手招きしたヘスティアはベルに聞いた。ずっと気になっていたことを、聞いた。
「ヘファイストスやアストレア達から聞いたことがあるんだ。君はよく、「英雄にならなきゃいけない」って言ってたのを」
それはアイズも知っていた。
でも、その真意は知らない。てっきり、フィンの『一族の復興』という野望に似たような、言うなれば『【ゼウス】と【ヘラ】の復活』的なものだと思っていたくらいだ。
「アストレアはきっと、君自身が気付かないといけない問題だからってあえて掘り返すようなことをしなかったんだろうけど、この際だ、教えてくれよ」
「………」
「『英雄になりたい』はわかるんだ。でも、君のは違うだろう? 『なりたい』と『ならなきゃいけない』は違う。君は……どうして、そんなことを、思ったんだい?」
いったいそれはいつからなんだい?
ヘスティアの問いに、ベルは押し黙って、だけど次第にぽつりぽつりと吐き出し始めた。ベル自身、自分の気持ちを探り出すように。
「夢を」
夢を、見たんです。
ベルは言う。
もうずいぶんと小さい頃のことで、内容は思い出せないけれど。確かに見た夢で、アルフィアに夢のことを聞いてみれば、それは母親の胎の中にいたころの記憶か、産まれた頃の記憶だろう、と言われた話。
「もう思い出せないけど、確かに何かを願われて……でも、きっと、僕がそうならなきゃって強く思うようになったのは……」
「なったのは?」
「体調を悪くしていたお義母さん達を見た時なのかも、しれない」
【ゼウス】と【ヘラ】は黒竜にあっけなく負けた。
潰され、貫かれ、餌にされ、辱められ、無様に逃げた。
その後に産まれたのが、ベルだった。
英雄達の末席に、産まれた赤子。
「……英雄になればお義母さん達を救えると思って……だけど、僕にはそんな時間すら与えられなかったんだ」
アルフィアはベルが大きくなるまで、命が保たなかった。
ベルのその望みを叶えるとすれば、それこそ齢が一桁の時に彼等の倒せなかった『黒竜』を討てという話になる。そんなこと、無理に決まっていた。
「いつだったか、お義母さん達が僕のことを心配して話し合っていることがあった……」
アルフィアもザルドも、ベルが大人になるまで生きていられる保証がないことは本人達が一番よくわかっていた。だから、気まぐれで出会ってしまったにせよ、一人の愛息子がたった一人世界に放り出されることに思い悩んだ。
「たくさんの意見を出し合っていて……そんなことは珍しいから、二人はすごく悩んでいたんです……」
きっとそこが分岐点。
「だったら、僕が二人を、【
誰よりも救われて欲しい英雄がいた。
誰よりも報われるべきだと思う英雄がいた。
だから、ベルは小さい身体で、
「そうだ……僕は、例え顔すら知らなくたって、好きだったんだ……
流し終わった筈の涙に、月の光が反射する。
見上げた月は遠くて、手を伸ばしたって届きやしない。
それは流れる星々も同じで、もうずっと遠い。
「あの人達ができなかったことをやり遂げたら、見られると思ったんだ。お義母さん達の、幸せそうな、心からの笑顔を……」
褒めて欲しかったわけじゃない。
認めて欲しかったわけでもない。
ただ、もう大丈夫だと安心させたかった。
「僕一人、残ったって……仕方ないじゃないですか……」
ベルは焦った。
命の終わりが近付きつつあるアルフィア達を見て、早くしないとと焦って、焦って、焦った。でも、なんの力もなくて、ザルド達は別にベルにそんなこと望んでるわけでもなく、だけどそれに気付けなくて戦いを教えて欲しいと何度もせがんだ。教えてもらうことは叶わず、ザルドはどこかへと旅立ち、アルフィアは天へと還った。それがきっと、ベルにとって最初の絶望だったのだ。「英雄にならなきゃいけない」と口にすることも減ってきたとはいえ、それでも、時折口にしてしまうのはきっとその名残だ。
ベル・クラネルに、英雄願望なんてものはなかったのだ。
ヘスティアは「そうか」と月を見上げて零して、アイズは唇を噛み締めてベルの手に己の手を添えていた。しばらく、少年と少女が静かに涙を流すのを女神は何も言わず寄り添った。